2008年9月8日月曜日

野辺送り

老人は嘆いていた。

彼のたった一人の孫が突発的な大波にさらわれ、数日前から行方不明になっていた。仲間が船を出し連日捜索してくれたものの、息子の安否を示す手がかりすらえられなかった。

毎日、浜辺に立ち、仲間の漁船が帰ってくるのを今か今かと待ち続ける老人に、手ぶらで帰ってくる友船の乗組員達は合わす顔がなさそうだった。

「じいさん、すまねえ...。」
若い衆を率いている大柄な男が小さな老人に申し訳なさそうに頭を下げた。

そんなとき、老人の瞳はただ青い海を見つめているだけだった。
彼の灰色の瞳には、彼の孫を飲み込んでも平然とした、穏やかな青い海原が拡がっているだけだった。

これに生かされ、そして殺されるものたちがいる。

老人もかつて漁師だったから、そのことはよく分かっているつもりだった。
彼の息子も、そして娘の婿も、この海に飲まれて死んだ。

しかし、それでも、自分の孫までが、こうしてが生死も判然としない状態になってしまうと、老人はもう気が狂ってしまいそうだった。今はもう亡い、彼の娘に...、すなわち、この孫の母に、彼は誓ったのだ。
先に逝くお前の変わりに、この子を一人前の人間にしてみせる、と。

彼の娘は、その夫が亡くなってそれほど経たないうちに、気をおかしくして海に飛び込んでしまった。
何とか助け出されたものの、溺れて長い時間息ができなかった影響か、もう立つことも話すことも出来なくなってしまい、目を回したような顔のまま、10日と持たずに息絶えた。

幼くして母を亡くした子供は、きっと乱暴者になると、村の老人達は口々に言った。かつてそういう者が出て、村はたいそう迷惑したことがあったという。その言葉に恐れをなして、その子を何処かへ里子に出すように彼に強く迫る者も少なからずいた。しかし、彼は結局、子供を手放さなかった。

この子を、一人前の、漁師にするまでは、私はこの子を育てなくてはいけない。
愛する娘を失った父の、それが生きる支えになっていた。

幸い、彼の孫は周囲の心配を他所に、すくすくと成長した。

そして、まだ随分幼いうちから、祖父について漁を習い、成人する頃には、すでにいっぱしの漁師を名乗れるまでに腕を上げてていた。

彼が港で一番の水揚げを上げたとひとから聞く度に、老人は有頂天になった。
実際、彼の孫は本当に上手に魚を捕ってきた。多くの漁師が、魚をあちこち傷だらけにして、ようやく仕留めるところを、息子はそれを本当に最小限に留めるので、魚の鮮度がほとんど落ちなかった。

街からやってくる仲買達も、彼の孫の捕った魚は特に高く買い取っていった。
おかげで、老人は普通より少し早く引退することが出来た。最近になって、孫の妻となる娘もようやく決まった。彼の孫に対する娘達の評判は悪くはなかったようで、妻となる娘の親ともすぐに話が付いた。


しかし、そんな折、事故は起こった。
孫の船が沈んだ場所は昔から三角波という、極めて大きな波が突然起こる海域で、漁船が転覆する事故がたびたび起こっていた。ただ、それも風向きと天候に左右されるようで、いつもはなだらかな、なんの変哲もない場所だったから、村人も、特にそこを警戒して避けるようなことはしていなかった。何より、その辺りは魚の好む岩礁もいくらかあって、村の漁師達はまずそこで小さな魚を捕まえてから、それを餌にして大魚をねらいに行く場合が多かった。

その日は彼の孫も、おそらくはカジキかマグロあたりを狙って、まずその餌を確保しようとその海域に船を向けたようだった。その様子は、近くで漁をしていた多くの仲間が目撃していた。しかし、少したった後、仲間の一人が彼の捕っていた場所で同じく魚を捕ろうとしたところ、先ほどまでいた彼の船がないことに気がついた。

始めは、いつの間にか立ち去ったのかと思って特に気にしていなかったが、海面に、彼の船名の書かれた板きれが浮かんでいるのに気がつき、あわてて持っていたメガネで海底を覗いた。

揺らめく海底に、途中から真っ二つに折れた一隻の小舟があった。人影までは確認できなかったが、男はあわてて仲間の船を呼びに船を走らせた。


それから、もう数日が過ぎていた。

老人は隠居したと言ってもまだ若く、はつらつとしていて、肌のつやも、目の輝きも未だ衰えを知らぬ印象だったのだが、孫が行方不明になったと聞いた日から、おそらく夜も眠れないのか、眼窩は深くくぼみ、頬はすっかりやせこけていた。心配した彼の姪が、毎日彼の家を訪れて、何かしらのものを食べさせようとしていたが、彼は一向に受け付けなかった。

起きればいつも、なだらかな海ばかりを見て、眠る時は闇の中、閉じられることのない眼を一晩中ぎらぎらと光らせていた。

このまま、彼の帰ってこない日が続けば、この老人もすぐに参ってしまうだろうと、村人は皆心配していた。


そんな折、遺体が浜に打ち上げられた。

知らせを持ち込んだのは、孫の幼なじみの娘だった。

その娘は、彼の孫が行方不明になったと聞いた日から、毎日浜に出て、砂浜の上を歩き回っていた。

昼間の浜には誰もいなかったので、歩き回る彼女の小さな足跡だけが延々とその砂の上に刻みつけられた。そしてそれが潮の満ち干でかき消される頃には、また彼女によって新たな足跡が刻まれた。生存を信じるほどの希望があったわけでもなかった。彼女の父親も、一昨年海の事故で死んだ。海に生きる漁師が海で死ぬのは当然のことだとは彼女もよく分かっていた。せめて、彼の身につけていたものでも流れ着いてくれれば、それだけを幼なじみの形見にしようと彼女は考えていた。
そうして何日目かのある日、視界の向こうに、彼女は、それまで無かった、何か大きなものが流れ着いているのを発見した。

気丈にも、彼女はそれに恐れず近づいた。そして、うつぶせに倒れていたそれをひっくり返し、彼女の幼なじみであることを確認しさえしたのだった。それは、ある種の気の動転のなせる業だった。彼女はその事実を、半ば無意識に、近所に住んでいた村長と、漁師の頭と、そして彼の父である老人に伝えてまわった。

「おじいさん、ヤンが...。」
娘がそう言うのが早いか、老人は家を飛び出してきた。そして娘について、一緒に浜に下った。
老人はそれまで不眠不休で孫の無事を祈っていたとは思えないほどの早足だった。とはいえ、娘の方もすっかり気が急いていたから、そのようなことにも全く気がつかなかった。

老人と娘が浜に付くと、すでに漁師仲間と村長がヤンの亡きがらを取り囲んでいた。
どこからか話を聞きつけたのか、他の多くの村人も浜に続々と降りてきて、そこにはすっかり人だかりが出来ていた。

村人達は、老人が来たのに気がつくと、すぐに道を譲った。
人混みをかき分けるようにして、老人とその幼なじみの娘はようやく、輪の中心にたどり着いた。

そこには、砂の上に眠ったようなヤンの亡きがらがあった。
顔は鑞のように白くなっており、長い間水の中にあったからか、体がふやけて、生前の彼より幾分膨らんでいるように見えた。
亡きがらを前にして、老人に言葉はなかった。
老いさらばえて、すっかり細くなった指を、愛する孫の髪に絡ませた。そしてそのまま、じっと動かなくなった。

その様子に、周りを取り囲んでいた村の女の一人が、さめざめと泣き始めた。鳴き声は静かに、二人を取り囲んだ輪の全体に伝わり、やがて輪全体が、静かな優しい涙に包まれた。

村人はそうして、しばらくみんなで泣いていたが、やがて漁師の頭が、似合わぬ涙声で
「じいさん、そろそろ、家に上げてやろうぜ」
と言った。

輪の中から男達が数人進み出て、ヤンの体を大きな戸板の上に寝かせた。
そして、板の両端を持って、彼を老人の家に向けて静かに運び始めた。

先頭には頭と村長が付き、その後に漁師仲間に囲まれたヤンの亡きがらが続いた。
女達はその後ろについて、老人は幼なじみの娘と彼女の母に支えられて最後尾を歩いた。

他の女達はまだ泣きやまず、そうして歩いている最中にも悲しげな鳴き声がしくしくと聞こえ続けていたが、老人を支える娘の顔には涙はなかった。彼女は、老人が悲しみの余り倒れてしまったりしないように、終始気を遣っていた。

娘の母は、始終泣いていた。
娘は、そんな母に、
「かあさん、ヤンのお父さんには私が付いているから、先に行って休んでいて。」
と気遣いを見せた。
彼女の母はその言葉に頷いて
「じゃあ、後はお願いね、スー」と言い残して、しずしずと進む隊列を抜けて、早足で老人の家に向かった。

老人は浜に駆けつけるために体力を使い果たしたのか、歩き続けるのさえ、ままならなかった。
時々立ち止まったり、左右にふらふらと力なく振れたりしながら、何とか前に進んでいた。
娘と老人は次第に隊列から遅れ始めた。

先頭の何人かがそれに気がついて、隊列を止めようとしたが、娘は手を高く挙げて、先に行っていてください、と合図した。先頭の男達は大きく頷いて、再び歩き出した。

娘は疲れ切った老人を励まし、少しずつ少しずつ、彼の家に向かった。
いつも通い慣れている丘の上の家が、今日は随分遠くに見えた。

こうやって坂を上って、いつもヤンの家に遊びに行ったっけ。
娘は自分が小さかった頃のことを思い出した。

ヤンったら、いつも、私の前では海のことしか話さないから、私まで、女なのに海の仕事に詳しくなっちゃって。
網を縫ったり、仕掛けを作ったり、銛を研いだり。
ああいう仕事をしている時のヤンは、本当に楽しそうだった。
私も、彼と一緒にいつもそんなことばっかりだった。
変な女だって彼も言ってたけど、私も一緒にやると、すごく、よろこんで...。

娘はふと顔を上げた。丘の上の老人の家が見えてきた。
「おじいさん、もう少しです」
彼女に肩を支えられた老人は、うめきとも返事とも付かない声を漏らした。
そして、膝を小刻みに震わせながら、一歩一歩坂を昇った。

ヤンは、本当はもっとかわいらしい女の子の方が好きだったんじゃないだろうか。
私が、彼の結婚相手に選ばれたのは、親の考えだったし、あの頃の彼の周りにはいつも女の子がいたから、私以外に好きな子がいたとしても、おかしくなかった。
悪いことをしたのかな、彼には。
彼の幸せを、私は奪ってしまった。私がはっきり断れば、それだけのことだったのに。
ヤンはおじいさんを大切にするから、きっと断りにくかったんだろうな。

ヤン。ごめんなさい。



二人が老人の家にようやく戻ると、中ではすでに弔いの準備が進んでいた。
村の女達は、弔いに出席する人数分の煮炊きに忙しく、泣くことも忘れていた。
スーの母親も、腫れたまぶたのまま、竈に薪をくべている。老人を座敷にようやく上げると、スーも母を手伝った。


やがて、山寺から僧侶が呼ばれてきて、弔いの儀式が始まった。
僧侶が念仏を唱え、ヤンの魂を山の頂にあるという仙人の国に送った。
そして、一通りの儀式が済むと、僧侶が先に立って、ヤンの亡きがらを山に埋めに行った。

そこから先は男だけの仕事と言われていたので、漁師仲間の数人が僧侶の後について山に入った。
そして、それほど経たないうちに彼らだけが軽くなった戸板を持って山から下りてきた。
それを見た時、スーはようやく、ヤンがいなくなったと言うことを実感した。

足下から力の抜けていくような感覚が彼女を襲ったが、まだ彼女にはすることが残っていた。
ヤンを弔う静かな宴が始まろうとしていた。

「全く、惜しい人を亡くしてしまった。それもこれも、俺の責任だ」
会の冒頭、漁師の頭はそう言って、老人に頭を下げた。老人はその言葉に、
静かに左右に首を振った。
「あんなに明るく、はつらつとして、腕も立つ若いものをみすみす溺れさせてしまうなんて..。」
老人はますます強く首を横に振った。老人の両の瞳から涙の粒がぼとりぼとりと落ちるのを出席した誰もが見ていた。

「スー、お前にも、本当に悪いことをした。」
頭は末席に腰掛けたスーに顔を向けた。
「婚約の日取りも、決まっていたというのに。」
「そんな...。わたしは...。」スーはそれだけ言うと、目を伏せた。

「二人の幸せを奪った、このことは忘れないようにしよう。あの三角波の場所での漁は、今後硬く禁じよう」
漁師達はみな、無言のうちに頷いた。

宴はそれから、静かに進められた。

そして、小一時間もすると、一人、また一人と客は帰っていき、やがてスーと彼女の母親だけが残った。
彼女らは宴の後を片付けていた。

老人は疲れてすでに座を払って奥で休んでいた。

「スー、あなたは大丈夫?」
母親がスーを気遣った。
「今日は疲れたでしょう。先に帰って休んだら。後片付けは、明日早く来てやってもいいんだから。」
スーは首を振った。
「おかあさんこそ、寝ててもいいよ。私もこれだけ片付けて、今日は下がるから。」
母はそれを聞くと、それならと言って、皿だけ机の上から下げて、家に戻った。
スーはそれをみんな水に浸けてしまった後、
「おじいさん、おやすみ」
と一言小さな声で挨拶して、老人の家を出た。


外は月もない夜空で、空には幾つもの星が瞬いていた。
カモメの星座や、海の神様の星が今日はいつもよりよく見えた。

海の神様の星は、他の町の人間は北極星と呼んでいるのだと、スーは以前ヤンから聞いたことがあった。
夜の海で陸が見えなくて迷った時、あの星を頼りに進んでくれば、きっと村までたどり着けるのだと彼は言っていた。

北極星は丘のふもとのスーの家の方から見れば、いつもヤンのいる丘の上に光っていた。
丘の上に立ってそれを見れば、ヤンの魂の昇っていった山の上に、その星は輝いていた。

スーはその小さな星の光を見て、もう一度、足の力が抜けてしまう感覚に囚われた。
そしてその場に座り込んでしくしくと泣き始めた。

風に揺られたすすきがさらさらと乾いた音を立て、
小さな声で鈴虫が鳴いているのが聞こえた。

スーの泣き声は、その中で、途切れ途切れに夜の闇に響いていた。

頭上には、彼の御魂の登った山が、夜空より更に深い闇として、静かにそびえ立っていた。