2008年9月22日月曜日

ナイフの世代

「届かないものを追いかけていると言うことぐらいは自分でも分かっていたんだ」
ユウキはコウイチを見ようともせずに、そう言った。
「でも、しばらく...。もうしばらくと思っているうちに....。」
ユウキの目はうつろだった。その瞳は、もう遠くなってしまった過去を...、静かにふり返っているようだった。

コウイチとユウキは同級生だった。いつも、何をするにも一緒で、なんにも面白いことがない時でも、二人して何やらごにょごにょと話しては、ひひ、と笑い会うような仲のよい男児の典型のような二人だった。

その二人の関係も、彼らが中学3年生を迎えた頃から、微妙な変化を示し始めた。

コウイチは一人の女性を恋したのである。
女性と言っても、同じ学年の女子生徒なのだが、それでも彼にとっては立派な初恋だった。彼女と過ごす時間は何をするのも楽しく、些細なことでも笑いあえた。彼は時々、人生でこんなに笑ったことがあっただろうかと思ってみることもあった。それほどに彼女と過ごす時間は幸福だったし、彼女も同じ幸福を味わっていると言うことを確認する度に、その幸福は更に倍加するようだった。

一方でユウキも、誰か女性を好きになったという噂は聞いていた。
それはコウイチのように、同じ学年の女子生徒ということでは、どうやらないらしかったが、彼らが話す中で、そのことを話題にすることはなかった。いつも一緒にやってきた二人の関係に、二人の違いが入り込むのが、怖かった。
彼らは何時までも、以前の彼らのままで、そういう時は無邪気に笑い転げた。


ある日の夕方、コウイチが部活の帰りで遅くなり、帰宅を急いでいる時のことだった。
春先のことで、日は次第に長くなってきてはいたものの、6時を過ぎるとだいぶ薄暗くなって、学校の周辺は人通りもまばらになった。紺色の空の下に聳える白亜の校舎は、1階の職員室を煌々と明るく照らしたのみで、普段明るい声の響く幾つもの教室のいずれもが、真っ暗な闇に飲まれていた。コウイチは薄闇に沈み逝く校舎に別れを告げて、校門を出た。

校門を出てしばらく歩くと交差点があり、底がコウイチとユウキが、いつも別れる場所だった。ユウキの家はそこを右に曲がった先にあり、コウイチの家は左に曲がった先にあった。今日は一人で家に帰るコウイチはいつもはユウキが曲がっていく右の通りを無意識に眺めながら自身は左に曲がった。

薄暗い左の通りは、彼の前に不穏に立ち上がっていた。点々と続く街路灯の明かりが断続的な平和をもたらす以外には、暗い不安が立ちこめていた。おそらく、女性一人では縮み上がってしまうだろうというような、不気味な通りだった。

コウイチはそのほの暗い道を転々と連なる明るい場所を突き抜けるようにして進んで行った。彼を覗いて通る人はなく、通る車さえない静かな道だった。

ふと、その時コウイチは目の前を見つめ、そして思わず立ち止まった。

二軒ほど先の、知らない民家から、ユウキが一人の女性に付き添われるようにして出てきた。
暗くてはっきりと分からなかったが、女性は、少なくともユウキの母親ではないようだった。ユウキが女性と親しげに言葉を交わすと、彼女は喜んでいるようだった。ユウキはやがて彼女に手を降って別れた。女性も、門の前に立って、同じように手を振りながら彼の背中を何時までも見送っていた。

コウイチはその様子を、通りの角からずっと見ていた。

自分の知らないユウキがそこにはいた。

彼は彼のことを、幼い時から、何一つ余すことなく、知っているつもりだった。
しかし、目の前にいる、ユウキの殻をかぶったような...、それは紛れもなくユウキ自身なのだが...、ユウキは、彼の全く知らない女性と、全く知らない親しみでもって会話していた。

それは、思わずコウイチを通りの角に隠れさせてしまうほどに、見てはいけない光景のように思われた。

ユウキはそんなコウイチには気がつかない様子で、彼のすぐ目の前を、少し早歩きで通り過ぎていった。そうして歩いていくユウキの姿は、いつものユウキと何ら変わることがないようだった。コウイチは嫌な夢でも見たような顔つきで、しばらくそこにいたが、やがて静かに歩き出すと、ふらふらと自分の家に帰っていった。


次の日、彼はユウキと話すのを躊躇っていた。
いつものように話しかけようにも、どのように話しかければいいか分からなくなってしまったのだ。いつも見慣れたユウキは、まるで赤の他人のように、今日は感じられた。だからコウイチは、ユウキがいつものように親しげに話しかけてくるまで、結局こちらから話しかけることが出来なかった。

話してみると、ユウキはいつものユウキだった。
そんな様子に、コウイチも次第にいつもの感覚を取り戻した。昨日のことは、悪い夢だったのだと思うようにした。彼の様子には、何も代わったところはなかったのだ。彼の見たものを裏付ける変化は、何も。


しかし、何時までも、夢のままでは終わらなかった。
事実は、いくら本人が思い違いをしようとも、事実として冷たいほどそこに居座り続けるものだ。コウイチにも、それを思い知らされる時が来た。

ある時ユウキが、全身あざだらけの無惨な姿でコウイチの前に現れた。

それは昼間の出来事だった。日曜の午後、いくら電話しても電話に出ないユウキに見切りを付けて、コウイチが公園脇の道を歩いている時だった。

向こうから、よろよろと歩いてくる人影があった。

始めはそれがユウキであるとはコウイチも気がつかなかった。
それほどまでに彼の姿は痛々しかった。

コウイチがそれがユウキであると気が付いて駆け寄ると、こちらに向かって居歩いてきたユウキの足取りが、ぴたりと止まった。彼は腫れた目を上げて、コウイチを見た。そして、悲しそうに切れた口元だけで笑った。


ユウキが洗いざらい、すべてを話してくれたのは、その日の夕暮れ、もはや遊ぶものの誰もいなくなった、小さな公園だった。
その話は、同級生どうしの無邪気な恋愛しか知らないコウイチにとってあまりに衝撃的なものだった。

静かに、その話しをしている時のユウキは、彼の知るユウキではないように思った。
またあのときの、遠い存在に、ユウキはなってしまったように思われた。
まるで、夜の闇と会話しているかのように、コウイチとは一度も目を合わせずに、ユウキは小さな声で一人語り続けた。

「当然なんだ。考えてみれば。」彼はそう言うと、口元に皮肉な笑みを浮かべた。
「僕は、いけないことをしたんだから」そうして、一つ、大きな溜息をした。
「好きになるって事は、どうしてこうも、自由にならないものなんだろう。それがいいことなのか、悪いことなのかも分からないのに、どんどん前にだけは進んでいく。...それは、彼女も同じだったと思うんだ。僕らは、ふたりとも、同じ気持ちだったのだから。」
ユウキはもはや、コウイチの存在を意識していないかのように、切々と話し続けた。
コウイチは彼が話し切ってしまうまで、質問を挟むことは憚られるように感じていた。

「彼女、泣いてたよ。僕が殴られている間、ずっと。」
コウイチはそう言うと、俯いたまま身を小刻みに震わせた。
口の間から、微かな嗚咽が漏れた。

「もう、こんな恋は嫌だな」
一言、ぽつりと言った。
その声さえも、夜の闇に吸い込まれていくようにコウイチには感じられた。

「僕らは結局、こうするしかないんだ」

ユウキの言葉をコウイチはよく理解できなかったが、それでもなぜか、胸の奥に迫るものを感じていた。
それは彼に突きつけられた、一本のナイフのようでもあった。