2009年7月20日月曜日

パルミラ (2)

パルミラは今や、会社のオフィスや、仕事場などへも持ち込みが許されている。
鉄道会社などは始め、列車一両あたりの人間の積載率が減ってしまうので、大いに文句を言っていた。

しかし、やがて、ある一社がパルミラ付帯料金を導入したところ、3割増しの切符であるにもかかわらず、売れ行きは好調だった。今では、どの鉄道会社でも、パルミラ付帯切符を導入していて、航空会社も膝の上に乗せるか座席の前に立たせることを条件に、パルミラの機内への持ち込みを許可している。

飛行機の座席の上に、同じ顔をした少女が、ずらりと並んで座っている様は、壮観なものだ。この場合もパルミラ付帯料金はやや割高になるが、それでも人々は、彼女らを手荷物預かり所に放り込むようなことはさせない。
きっちりとお金を払ってでも、パルミラを座席にまで連れて行くのが、今や常識的な行動と受け止められている。

実際に、以前、あるお金のない学生がやむにやまれず、パルミラを手荷物に預けようとしたことがあった。それを許した航空会社の窓口の気も知れないが、ともかくも向こうも仕事であるので、顧客の要求どうりに、その“手荷物”に荷札を付けて、ベルトコンベアーに流してしまった。ところが、その荷札をつけられてベルトコンベアーの上を流れていく少女の姿を見るに見かねた初老の男性が、突如、窓口の女性に怒鳴りかかって、黒いベルトの上を流れて行く気の毒なパルミラを止めさせた。そして、全く面識のないその所有者の学生の分までお金を払って、その哀れなパルミラを座席に座らせてあげたのだという。

この話は、パルミラが人々の間に受け入れられていることを明確に表す事例として、当時、新聞のコラムなどで何度か取り上げられ、助けた男性のインタビューを報じた局すら、一つや二つではなかったと記憶している。


パルミラが僕らの社会においてかけがえのない存在であることを示す例は、まだ他にもある。

これは、パルミラの最大の特徴であり、また、当然の性質でもあるのだが――、彼女たちは、たとえ何年連れ添っても、年をとることが無いのだ。

ある作家は、新聞に寄せた論評でそれを永遠の少女と形容し、
「幼い者にとっては、最初の恋人であり、あるいは友人であり、年齢を重ねるに従って、それらは愛しむだけの存在から、守らずにはいられなくなる存在へと変化する」
と述べた。

そのような複雑な変化を、年齢とともにしていく関係が他にあるだろうか。
幼馴染は自分とともに年をとり、それによってお互いの関係もまた不気味な煩わしさを伴って不可逆的に変化していくものだが、パルミラとの関係は何かの上に何かが積み重なるように、変化していくと言ったら、パルミラを知らない人にも解ってもらえるだろうか。

その作家の言ったように、初めは、ただ一緒にいてくれるだけの存在なのだが、やがてそれが、いてくれるというだけでなく、自分にとって無くてはならない存在となり、そして、その上に、守るべき存在であるという認識が重ねられていくのだ。

それは単純に、自分ひとりの成長に伴う変化にすぎないのだが、いつまでも顔の変わらないその少女は、幼いころの恋人に感じる懐かしくほろ苦い感情の上に、命の不思議を見るような感動があり、さらに、それを抱きしめずにはいられない親や祖父母の感性が折り重なった、不思議な性質を持っている。それは身内のようで、とても遠く、どこか気恥しく、そして、とても優しい感覚だ。

人々が、パルミラといつまでも手をつなぎ続けているのは、おそらくその感覚を途切れずに、感じていたいからだろう。幼い日の彼女は、あるいは自分の子供は、成長とともに変化し、いずれは記憶の中だけのものになってしまう。しかし、パルミラはいつも、そこにいる。手をつなぐものが、その折々に感じた感情を、どんどん上塗りしながら、パルミラは他の何よりもかけがえのないものへと変化していくのだ。
これは、僕らが科学の進歩によって得た、全く新しい関係であり、感覚であるのだろう。

このように、もはや社会の大方の人々から親愛の情を持って受け入れられているパルミラだが、それでも、これを社会からのぞいてしまうべきだと主張する人々もいるにはいる。それらの人々が主張するには、人間の愛情は本来人間に向くべき感情であり、それがこの様な人工物に向くのは、自然に反しているというのだ。彼らは、パルミラの普及した先進国の多くで、少子化と晩婚化が進んでおり、それは、本来人間に向くべきだった愛情がこの人工物に向けられた結果、誰も結婚して、子供を作ろうとしなくなったためであると主張している。

しかし、人々は知っている。それら、パルミラに嫌悪感を抱く人々の多くは、実際には、パルミラに触ってみたことさえない人たちなのだ。だれでも、新しいものは怖いものだ、あの、今では持っていて当然になった携帯電話ですら、出て来た当初は、厳しい使用マナーでがんじがらめにされて、使用場所を限局されていたそうだ。でも、今ではむしろ、使えない場所の方が限られている。
「一人で、壁に向かってぶつぶつ話しているのは不気味だ」
なんてことを言っていた人は当時、一部のコメンテーターの中にさえいたそうだが、その人達はもし生きていれば今も、同じような主張を自信を持って繰り返せるだろうか。パルミラにまつわる批判も、携帯電話の時のように、やがて落ち着いてくるのだろう。現に、そう言った批判は年ごとに減ってきているように僕は感じている。

販売開始から15年が経ち、普及率はもう7割を超えている。パルミラが、僕らの社会に、本当に受け入れられるのに、もう、そう長い時間はかからないだろう。