2009年7月27日月曜日

パルミラ (5)

彼女は、僕らがどんな人間でも、笑ってくれる。手を引けば、どこへでも付いてきてくれる。疑うことを知らず、肯定することだけを知っている。そこには、人それぞれに違う決まり事など、もはや存在しない。規格化された、極めて安定な、動作のパターンが僕らをいつも勇気づけるように仕向けてくれる。予想外の相手の反応に、僕らはもう、惑わされることはない。

だが、逆に、僕らから突然、このパルミラが失われてしまったら、どうなるのだろう。
想像したくもない、その恐ろしさを、僕に教えてくれたのも、また、代理店で働いていた友人の彼だった。

ある日、彼がいつものように、大学の北側の入り口から、彼のパルミラの手を引いて現れた。
彼のパルミラは、今日もくりくりと大きな瞳を僕らに向けて、微笑んでいた。
その表情が、今日はなんだか一段と愛らしく感じたので、僕は彼に、
「君のパルミラの瞳は、いつ見てもくりくりしていて、かわいいね」
と言ってあげた。

彼は、僕にそう言われると、まるで親が子をほめられた時のように大喜びして、控えめな自慢話でも始めるのではないかと僕は思った。

「……やっぱり、そうかな」
彼は、笑ってくれた。だが、彼の反応は思いのほか小さかった。
喜んでいるというより、失笑しているという表現が似合うような表情で、彼は力なく笑っていた。

「うん、いや、ほんと。個体差はほとんどないっていうけどさ、やっぱり信じられないよね。自分のパルミラの顔って、少し離れたところからでも、なんとなくわかるしさ」
僕がそういっても、彼は相変わらず皮肉に口をゆがめて、笑っているだけだった。

彼の様子がおかしいことに、僕はその時に至って、ようやく気がつき始めていた。

「……でも、実際に計ると、差はないんだよ」
彼は僕に目を合わそうとしないまま、うつむき加減に、そう言って笑った。
「子供の顔が親父に似ているとか、おふくろに似ているとかいうのと、同じ議論なんだろうな。数値化できないけれど、確かにそう見えるような、あいまいな共通認識だ」

僕には彼が、何故かさみしそうに見えた。
パルミラは彼の方を見て笑っている。でも、彼は彼女と手をつないではいるものの、その瞳を一度たりとも、覗き込もうとはしない。
「……どうか、したのかい?」
僕は気になって彼に尋ねてみた。
彼は僕の言葉など聞こえなかったかのように黙って、うつむいたままだった。
頬がかすかに、上下に振れているようだった。表情はうかがえなかった。だが、彼はその時、どうやら笑っていたようだった、

「……実は、俺の小さい頃から一緒にいたパルミラが、先日壊れちゃってね」
彼の口から、へっと、何かを嘲るような声が漏れた。
「……店に持って行ったら、もう、修復不能だって言われたんだ。それで、保障に入ってたから、新しいものと変えてもらったんだけど……」
彼はそこでようやく、手をつないだ自分のパルミラを見た。
彼のパルミラは、急に向けられた彼の視線に反応して、彼の方を見つめ、愛くるしい、大きな円い瞳で、にこりと笑った。
「……違うんだよね」
冷たい響きを伴った声が彼の口から洩れた。
「違うんだよね。俺の、ずっと一緒だったパルミラとは、どこか。眼が、ちょっと大き過ぎるような気がして、実際計ったりもしたんだけど、数字的には変わらなかった。店に頼んで、俺の記憶に合うような感じに、少し顔を整形してもらったんだけど……」
彼は、自分のパルミラを見詰めたままだった。彼のパルミラも彼を見つめていた。彼のパルミラは、子が親を見つめるような眼差しで、かすかに首をかしげ愛くるしく微笑み続けていた。だが、それを受け止める彼の表情は、もはや、ただ愛着のない、見知らぬ物を見る眼差しでしかなかった。
「……今度は、目があんまり小さくなったような気がして。なかなか、俺の中のイメージとは、一致しなかったんだ。挙句の果てに、店長があきれて、『シリアルナンバーが違うから、違う顔しているような気がするだけじゃないか』なんて言い出してさ。おれも、実際計って数字が同じだったわけだから、それ以上、反論できなかったんだ。実際、パルミラの部品の製造は、すごく厳密らしいからな。でも……」
彼はそこで、自分のパルミラの顔をもう一度見つめた。美しい笑みが、彼をやさしく見つめ返している。

「やっぱり、違うんだよな、確かに。先入観と言われたら、それまでなんだけど」