2009年7月24日金曜日

パルミラ (4)

二人で、公園の小さな散歩道を歩いていた時のことだ。
先日降った雨のせいで、道の真ん中に、大きな水たまりができていた。

僕は、そういうとき、男の子が先に渡って、女の子の手を引くものだと思っていた。それは、誰かに教わった知識というよりも、いろんな映画や、本なんかで、みんな当然のようにそうしているから、僕もこういうときは、そうしなくてはいけないのだと思っていたのだ。

だから、僕は当然のように、そのぬかるみを飛び越え、彼女に向かって大きく手をのばして、彼女の手が僕の手に触れるのを待った。

でも、彼女の反応は、予想とは違ったのだ。
彼女は僕の手を見るなり、一歩後ずさりして、そして思わず、自分の前や後ろを振り返ったのだ。そして、少し怒ったような声で、
「やめてよ!」
とさえ、言ったのだった。

僕は驚いて、差し出したその手を、引っ込めてさえしまった。

彼女は白い頬を真っ赤にして、そして、僕の方は一度も見ないまま、水たまりの一番端まで歩いて行き、草のぼうぼう生えているその道の端のところを歩いてまで、僕の手を借りようとはしなかった。

彼女の真新しい白いサンダルは、草の中を歩いたせいで、露に濡れ泥で汚れてしまっていた。彼女は水たまりを越えてから後も、僕の方ははっきりと見ようともせずに、一言も発することなく、雨に洗われた緑の美しい散歩道を、細い肩を怒らして歩いていた。

僕には、隣を歩く彼女が頬をふくらませながら、それでも、ちらちらと僕の表情を眼だけでうかがっているのがわかった。でも、僕はどうして、彼女をそんなにも怒らせてしまったのか、一向に判っていなかった。僕は男の人がみんなやるような行動を取っただけだった。
そして、それは少なくとも、彼女のためを思ってとった行動だった。
しかし、結果として、僕は彼女を怒らしてしまった。
おそらく、僕は何か間違いを犯したのだろう。男の子として、何か、してはいけないことを、してしまったのだろう。

人間と人間の関係には、詩や、芸術ですら表されていない、その他、見た目でも分からない、文章化されていない取り決めが、あまりに多すぎる。そして、その基準は人によって少しずつ異なっている。

僕の嫌われてしまったその行為が、別の人にとっては、ちょっとした憧れであったりすることもある。

それを、僕らはいちいち学んでいかなければならないのだろうか。人によって、基準の違う取り決めを、一つ一つ、間違いを恐れながら、砂の山を――、中心に立てた枝を残して、少しずつ、周りから崩していくように。


結局、ふり返ってみれば、中学から高校にかけて僕は人間の女性を数人愛した。しかし、結果はどれも似たようなものだった。彼女たちの「基準」を僕は僕なりに努力して、学びとろうとしたが、仕舞には、それにもいい加減、疲れてしまっていた。

僕は、その時々で、強い男にもなったし、やさしい男にもなったのだ。
何でもできる器用な人間にもなったし、ちょっとがさつな男性になったこともあった。繊細で、詩や文学を理解する男性であることもあれば、そんなものは全く気にも留めない、アウトドア派の人間になってみたりもした。

しかし、そうした努力をすればするほど、僕にはだんだん、わからなくなってくるのだった。こうして、努力して育んだ彼女と僕との愛情は、果して、真実の愛情と言えるのだろうかと。

彼女はきっと、本当の僕ではなく、努力して得た僕の姿を愛しているにすぎないのではないかと思い始めたのだ。そのような、虚像に向けられた愛情を僕は、僕に対する愛情であると受け取っても、よかったのだろうか。

それに関しては、いまだにわからない。
彼女たちの思い描く、『彼氏』の枠を踏み外した規格外の僕を、彼女たちは果たして好きになってくれたのだろうか。それを犯すのは、勇気といえるのか、それとも、彼女たちへの理解が足りないために生じる行為と、受け取られてしまうだけなのだろうか。

ただ、それを試みる前に、僕はこの終わらない積み木崩しに疲れてしまっていた。

いや、疲れてしまっていたのは、実は、僕だけではなかったのかもしれない。
世の中の人はみんな、もはや疲れていたのだ。人の顔色をうかがい、お互いの不文の法を読みあい、それを満たすことに喜びを感じ、それにそむくことに恐れを抱くのに。

誰かを愛するということは、誰かの法律の網の中に、自分を組み入れる作業だ。いずれ、その法律は、二人の折衷のものへと変わっていくのかもしれないが、その期間の何と長くて、なんと耐えがたいものなのだろう。

この、一分一秒が競われる時代の中で、花が咲くのを待つような時間の長さを悠長に待ち続けることが出来る人が、果たしてどれほどいるのだろうか。
インスタントの代用品が、枯れない造花が、これほど咲き誇っている時代に、季節を待ちこがれることの意味を、僕らは何処に見出せばいいのだろうか。

時代はもう、強い絆を作るという作業に、背を向けてしまったのだ。

技術の進歩が、僕らに、絆という、がんじがらめのクモの巣のような代物に背を向ける勇気を与えてくれた。

それは、少し大げさな言葉で言えば、解放、なのだ。
皆を縛り付けていた煩わしいザイルが、ついに断ち切られたのだから。
僕らに、個人を大切にする時間が与えられたのだから。

なぜなら、僕らにはもうパルミラがいる。
枯れない花が僕らにはある。