2008年4月29日火曜日

Say hallo tonight.

トゥルルルルル....。
電話の呼び出し音が鳴る。


誰も出る気配はない。



くたびれたソファ。

脱ぎ捨てられたままの衣服。

すっかり乾いてしまったシンク。

火というものの熱さを忘れてしまったように眠る、
ガスレンジは白く煤けてしまって、
もはや此処では主がしばらくの間、生活した記憶がない事を、
それは臆びれもせず、静かに物語っている。

部屋の奥の、
更に奥の、

暗がりに
潜んで、
こちらを
静かに

いや、
何もない暗い空虚を、
ただ、冷たくなった目で
さめざめとして、
見つめているのは、
一個の、
くまの
ぬいぐるみ。

あの日まで、毎夜のように、抱きしめられ、
主の眠りに着く時までひっそりと寄り添って、
その穏やかな吐息の数を数えた、
そのくまのぬいぐるみも、
今はその眠気に火照ったようなぬくもりを
すっかり忘れてしまったように
冷たい目をして、カーテンが引かれたままの、
薄暗い部屋の中を見ている。


そこは長いこと無人にされており、
生活を彩ったいくつもの日用雑貨達は、
その意義を見失って、
居場所を無くした子供のように、
部屋の隅で、息を詰めている。

主は、どこへ行ったのだろうか。

あの日まで、そこにはありふれた生活があった。


彼女は、帰って来るなり、
いつも、狭い玄関で無造作に靴を脱ぎ捨て、
靴箱の上の、ドライフラワーの頭をからかうように触れた。

ドライフラワーたちは、狭く日の当たらない玄関で、一日、
それだけをひたすら、待っていたかのように、彼女の手の先で
さらさらと音を立てて揺れた。

彼らが、一日のうちで、一番輝く、たった一瞬の、唯一の出来事。
遠い国の、広い草原で、風に撫でられたあの日を遠く思い出したかのように
熱に乾いた、彼らは揺れた。緑の記憶が、彼らを一瞬包んだその、
恍惚とした表情が、ぬいぐるみは今も、その綿詰めの軽い脳裏に
焼き付いて離れずにいる。

買ってきた、ビールを
すぐに冷蔵庫に入れて、

彼女は臆することなく身につけた衣服を全て取り外し、
もとの姿に戻って、

細長い足を操って、シャワールームの敷居をまたいだ。

シャワーの滴が駆け抜けていく。

曇りガラス越しに見える
彼女の伸びやかな細影を、ぬいぐるみは今も覚えている。

彼女があの形になるまでに、
いくつかの形を経て、
時にはその、自らの形の変化に
不安を感じ、
怯えて泣いた夜もあったことを、
ぬいぐるみは覚えている。

ふくらみ始めた、胸の感触を、
その奥で怯えたように震える、心臓の音を
ぬいぐるみはまだ、昨日のことのように、覚えている。

形すら、一定しない、
人間というものの
はかなさを
ぬいぐるみは時折、一人放り出された夜に
思ったものだった。

彼女が、やがて自分の形を受け入れ、
それに怯えることもなくなってからは、

形を越えて生きていける、人間というものの不思議を
逆に感じるようになった。

くまのぬいぐるみが、
己の今の形を失えば、
それは、
何になってしまうのだろう。

ぬいぐるみはそれを考えると、怖くなり、
それからはもう二度と、考えないようにしていた。

形のあるようで、無い人間の
いつも隣に、
形に縛られたぬいぐるみは寄り添っていた。


シャワーの音が止まった。
駆け抜けた滴達のさざめきは穏やかになった。

彼女は、シャワーの滴を、まだいっぱいに付けた身体のうちに
匂いのこもるシャワールームから出てきて、

まっしぐらに、キッチンに向かう。

冷蔵庫に冷やされた6缶のビールのうちから、一番手前の、
一缶だけを取り出し、
丸く整った、爪の先を痛めないように用心しながら、
プルタブに指をかけ、一息に引き寄せた。

気圧の解放された、
晴れやかな音。

あふれ出す、泡すら楽しいと言ったように、
彼女は、それをすぼめた唇の隙間から、一息に口に含んでしまう。

暖かな舌の上で、
炭酸は目覚め、
冷たい感覚とともに、はじけるような清涼感を残して、
彼女の口腔に踊り出し、
思い定めたように彼女の細い喉を駆け下りていく。

冷たいビールが
暖かく静かな腹腔で、穏やかにまどろむのを感じた時、

彼女は、
ふう、と一息吐いて、
満足そうに微笑んだ。

一日の勤めを終えた、と言う安堵感。

他には誰もいないという、背筋をなぜるような孤独と不安。

それらが、紙一重に隣接する、刹那の沈黙。



ビールは缶の中で、まだ、はじけ足りないいくつかの炭酸を
しきりに外へ放出している。

彼女は、
避けきれない孤独と沈黙の中を
一人打ち破るように、
晴れやかに笑った。

頭の後ろにまとめた長い髪の
跳ねるように伸びた先端に、
小さな滴が膨らんできて、

大きくなって、

彼女が笑うと、危なげに、
左右に揺れて、

やがてはじけて、飛んでしまった。


ベッドサイドに置かれた、
くまのぬいぐるみは、
その彼女の強がりで脆い笑顔を、
今と同じ、冷えた瞳で、見つめていた。

だが、その肢体は、少なくとも今とは違い、
毎夜愛されているぬいぐるみに良くあるように、
人の肌に慣れた、暖かさが宿っていた。


思えば、いつも、そうして彼女を見ていた。

幼い日、始めて彼女の胸の中に抱かれた夜から。
ぬいぐるみは、冷たい瞳で、内在する暖かさを感じながら、
その主の、幼い日から変わることのない、
弱さと、その成長を日々思い起こしている。

彼は、ぬいぐるみとしては幸せだった。
人が生きるために、本当に必要とされている、ぬいぐるみというものが、
この世の中に、一体、いくつ、あるというのだろう。

ぬいぐるみは、それを思うと、幸せだった、


彼女は、昼間は他人に弱みを見せられない人なのだろう。

一缶のビールに少し気持ちが落ち着くと、ぬいぐるみを抱き寄せ、
彼を相手に、よく、会社での話をした。

さぼてんのような後輩の話。
気の利かない部下の話。
自分のことしか考えない上司の話。

そして、

ずっと気になっていた、一人の先輩の話。

その話をしている時、彼女は、
初めは上機嫌に、快活に話し始めたが、
いつも、次第に憂鬱になり、最後には
ぬいぐるみを抱き抱えたまま、
うう、と俯いて、
嗚咽することも、あった。

そんなとき、ぬいぐるみは
いつも通りの冷たい瞳で、うずくまるように泣いている彼女を
身じろぎもせず、じっと見つめていた。

その頃、彼女には、
それとは別に、つきあい始めた男性が、
確かにいたはずだった。

彼と彼女が、時々、
部屋の隅に置かれた電話を通して、
語り合っている姿を、
ぬいぐるみは度々目にしていたが、

ぬいぐるみと、彼女が、こうして
二人語り合う時、
彼らの間に、彼の話が出てくることは
ついぞ、無かった。

彼女は、いつも、
その、気になっていた、唯一の
先輩の話をして、
そして時々涙につまり、
ぬいぐるみのふかふかした胸に、
泣き濡れた顔を埋めた。

泣き濡れた彼女の胸と、
膝の間に、
押しつぶされそうに、なりながらも、
彼は一言も漏らさず、彼女の泣き言を聞き、
その涙を、吸い続けた。

涙は、場所を得たように、
ぬいぐるみの身体に溶け、そして、静かな香りを残して
ゆるゆると乾いた。

それは、彼女のまだ、幼かった頃から、
ぬいぐるみの仕事だった。

流れる先のない涙は、
あまりに悲しすぎるから、
ぬいぐるみは進んで、
その涙を、
自らのうちに
取り込むのだった。


ぬいぐるみは、考える。

彼女の姿を見なくなったのは、
いつの日だっただろう。

いつも通り、彼女は会社に出て行ったきり、夜になっても、もう、
彼の待つ部屋には帰って来なかった。

いくつもの夜を越え、
昼を待っても、

ぬいぐるみの目の前にあの彼女が現れ、
ただいまの代わりに
抱きしめてくれる事はなかった。

そんなとき、彼女の身体からいつも香っていた
淡いシトラスの香りを
ぬいぐるみは懐かしく
思い出している。


前兆がないわけでは、無かった。

少し前から、彼女は次第に、家を空けることが多くなった。
ある時は一日おき。

ある時は数日空けた。

それでも、それ以上家を空けることはなかったし、帰ってくれば
いつもと同じように、彼を抱き寄せ、愛情を注いでくれた。

むしろ、そう言う時の彼女は、
いつもより上機嫌で、いつもより深く、彼を愛撫し、
いつもより、固く抱きしめて眠った。

まるで、そこに、
ぬいぐるみの、向こうに、
何かを、見ていたかのように。

そんなとき、彼女の身体からは
いつもよりずっと強い、お酒の匂いがした。

慣れない強いお酒の
燻されたような、くぐもった匂いに
ぬいぐるみはむせるような思いがした。

でも、そんな夜も、
ぬいぐるみはいつもと同じ冷たい瞳で、
酔いつぶれて眠る、彼女の上気した暖かな頬の温度に、
ゆるやかに同調した。

ぬいぐるみの向こうに、たとえ、何か別の何かの夢を見ていたとしても、
ぬいぐるみはその分限を越えて、
彼女の気持ちを求めることはできなかった。

進んで、その何かの、代理として、
彼は抱かれ、
愛撫され、
その熱い身体の熱を吸い、
そうして朝を迎えた。

ぬいぐるみはいつも、冷たい目をしている。
それは、自分がぬいぐるみであることを、誰よりもよく、
知っているから。

瞳に、驚喜を浮かべたとて、
それがいずれ、潰えるためにある恋であることを
ぬいぐるみは、ぬいぐるみとして生まれた時から、その身体の中に
たたき込まれている。

期待もしなければ、絶望もしない、
乾ききった瞳で、
ぬいぐるみはただ一時の、彼女のぬくもりに
身を委ねる。

頭を撫でられたドライフラワーのときめきを、
ぬいぐるみは今、思っている。

そのためにこそ、彼らは待つのだ。

渇ききった心で。



そんな彼女が、家にすっかり帰って来なくなって、数日経つと、
ぬいぐるみは自分が、ぬいぐるみであったことを忘れ始めた。

愛されるということを、なりわいとする道具でありながら、
愛されることにすら、枯渇し、
ただ、一布の、綿入れの袋に戻ってしまったようで、
冷たい瞳を暗闇に向けながら、
もう二度と帰ってこない、
主の帰りを、
主の熱を、
ささやきを、
強がりな笑顔を、
涙に濡れた瞳を、
吐息を

ひたむきに待ち続けていた。


...電話が鳴り続けている。
しかし、誰も出る者はいない。

電話の向こうの彼も、
自分と、何ら変わりのない、
一布の綿入れの袋のような彼なのだと、
ぬいぐるみは、思った。