2008年4月24日木曜日

Dagger, in the Jack's pocket

「なんで?」
彼女が言った
「何で、そう言うことになるの?」

街の郊外のファミレス。
あたりにあるのは原色の寂れたネオンばかり。

飲むだけ飲んで、語り疲れた男女が、
言葉のむなしさを抱えたまま、
言葉のいらない交流を欲して
集蛾灯に群がる虫たちのように引き寄せられる。
そうした街の当然の一角。

理性の生き物と言われる人間が、理性の限界を易々と認め、
言葉を放棄し、ため息と喘ぎに飽和したいくつもの城の建ち並ぶ
不条理の巣窟。

その片隅にある、小さな、ありふれたファミレス。
そこだけがぽっかり空いた日常のように、
決められた格好をしたウェイトレスが、マニュアル通りのお辞儀を繰り返す、
秩序と法の砦。
蛍光灯も、此処だけは外から見えるほど明るい。

そこで彼女は大きな声を上げている。
僕らの空気が凍る。

厨房で、何か金物を落とす音がした。

「もうしわけありません」
孝史が言う。
「健二がどうしても無理だと言うもので」

孝史は、結局“いい奴”なのだ。
そう言って、いつも僕の所為にして、話を終わらせようとする。

「え?、また健二なの」
美佐子は言う、その目は僕を明らかにさげすんでいる。
「いい加減にしてよね、私をいくら待たせたら気が済むの」
彼女は、その切れ長の目で僕に迫る。
それは見方によっては狐のように鋭く、
一方で猫のように妖艶だった。

「すみません」
僕は謝った。彼女の前では、下手な口をきくだけ無駄だ。
自分のプライドなど捨てて、一匹の虫けらになったつもりで、侍るほかない。
それが、いかに僕にとって屈辱だとしても、それが僕らの礼儀であり、最大の愛情表現だ。

「意地のない男」
彼女が鼻で笑った。
僕は卑屈に笑った。
心の中では、くそったれ、と思いつつも。

この女の、度を外れた虚勢には、
僕はある種蔑みに似た感情を持っていた。

男を知らない女ほど、
自分がサディスティックか、マゾヒスティックか気にするものだ。

それは男の本質を知らないが故、意気がれる、
ガラスのような虚勢に見えた。

それだけに、僕らには、それは儚く、
哀れですらあり、そして美しかった。

「ふん。斉藤」
彼女は僕の名を名字で呼んだ。まるで、
僕を足下でも及ばない存在にまで見下したと言わんばかりに。

「あんた、私にそんなことを言う権限があるの?」
僕は心の中で、爆笑した。

世間知らずの童女め。

男のなんたるかも、
満足に知らないくせに、女王気取りだ。

「ごめんなさい、美佐子さん」
僕は言った。あくまで申し訳ない表情を取り繕ったまま、諂うように。

「僕はその日予定があるんです」
僕は言った。

「あたしより優先する予定ってなに?」
美佐子は言った。僕のどこまでも下に出る態度に、
確かに彼女は一種の快楽を感じていた。
彼女とは、そう言う人間なのだ。

整った顔。容姿。

それが彼女だった。
彼女とは、形だった。

その表情は、いつも自信に溢れていた。

あばた顔の僕など、
虫けら程度にも思っていない様子だった。

「ごめんなさい、その日は、友達と約束があるので」
虫けらの僕は言った。

「友達?」
美佐子は鼻で笑った。
僕の言う友達が、彼女はおおよそ察しが付いているようだった。
おそらく、孝史か誰かが僕のその“友達”というものについて
彼女に告げ口したに違いない。

「あの田舎くさい女に、あなたは私を優先するというの?」
美佐子は再び笑った。
「ばかばかしい」

全くです。
孝史が言う。
ばかだな、おまえ。
下僕どもが笑う。

どいつも、卑屈な顔をしている。
僕も卑屈に笑う。

「斉藤」
彼女はなおも僕に絡んだ。
実際には、たいした興味もないくせに、自分から目の前に転がり込んできた、
この痩せたネズミが、おもしろくてしょうがないのだ。

「あなた、その子の約束の前に、私への服従があるでしょう?」
彼女は蔑むように言った。

僕は、そうです、と答えた。

「それに、背いたのだから、それなりの罰は受けてくれないと、ねえ」
その目は、ネズミをいたぶる猫ほどの慈愛もなかった。

彼女は、自分の細く美しい脚を、僕の前に突きつけた。
そして、その黒く鋭いヒールの靴をひざまずく僕の鼻面に突きつけ

「お舐め」

と言った。

僕は拒んだ。

彼女はそのことを見越したように高圧的に言った。

「あたしへの報恩が足りないようね。」

そして、あきれたように孝史を振り向くと、

「こいつの女の名前、なんて言ったっけ」
と尋ねた。

「光、です。」
孝史は答えた。

僕は、こんな奴らに簡単に名前を扱わせてしまった光に、申し訳なさを感じていた。
そして同時に、煮えたぎるような怒りも。

「光、ふうん」
彼女は鼻にかかったような息を漏らした。

そしてもう一度孝史を振り向くと

「じゃあ、その子を、あなた達のえさにしてしまいなさい」
と言った。

ぷっ
と孝史が思わず吹き出すのが聞こえた。

そして、笑いをこらえきれず、わなわなと小刻みに身体を震わせたまま、
「美佐子様の言う通りに。」
と、やっとのように言った。

「前にそうしたように、金を与えて、不特定多数の男を、捕まえておきます。」
孝史は努めて笑いをこらえながら続ける。

「後は、彼らを押し込めた、窓のない密室に、その餌を投げ込みます。
...僕らは、それを外から、監視カメラででも、のぞき込んでいればいいでしょう」

「それでいいわ」
美佐子は満足そうに言った。
すでにその中で起きる惨劇が、ありありと彼女の目には見えるようだった。

「一人の男では」
美佐子は僕の方を見ると、さもうれしそうに、
言った。
「満足できない身体にしてあげて。」


ファミレスの運営は粛々と進む。
先ほど帰ったお客の皿を、
厨房から出てきたボーイが
手際よく片付けていく。

少し遅れて、ウェイトレスも出てきた。
彼女は先に働いていたボーイの仕事を無言で手伝い始めた。

それはどこまでも、規定と契約に基づいた一連の動作ではあったが、
そのウェイトレスの細く白い首筋に見える、真新しいキスマークまでは、
ここからは見えない。


「ばかばかしい」
僕は言ってやった。陵辱もついに僕の度を超えた。

「とんだ、おままごとだ。」

世界が凍った。
孝史は、笑顔のまま固まっていた。

「何を言うの?」
美佐子は言った。つとめ提言を保とうとしているように、僕には見えた。
彼女は、自分に諂う男の顔は覚えていても、
刃向かう男の顔は知らないはずだった。

「ばか、ね」
彼女はそう言っただけだった。

ガラスは、いつの時代も美しい。

傷一つない一枚板のガラスよりも、
砕け散って散乱したガラスは尚のこと。

それには、血の跡すら、美しく見せる、
怪しげな力がある。

「此処に、二度といられなくなるわよ」
それでもかまわない、と僕は思った。

彼女と一緒に、この呪われた街を出て、
どこか広い海と、空の下で、
カモメのように笑って暮らしたいと、僕は夢を描いた。

光は、確かに美佐子の美しさには及ばないのは知っている。

しかし、僕は彼女こそ、僕が最優先すべき女性だと思いつつあった。
何を捨ててでも、守るべきものはまず、あの女性だ。

孝史は狼狽えていた。
彼にとっては美佐子が全てなのだ。
彼女が全ての美意識の基本であり、彼女の基準に合わない者は全て、愚であった。
それは言わば、美佐子以外の女を知らないことの裏返しだった。

「へっ」
僕はいつものクールな印象に似合わず、
慌てふためく彼を見て、僕は思わず鼻で笑った。

孝史の顔色はずいぶん青かった。
彼の頭の中は、美佐子の機嫌をいかにして修復するか、
その一点で凝り固まっているように見えた。

彼女の機嫌をこれ以上損ねれば、
側に仕える彼もただでは済まない。

元々その屈辱を味わうことを欲している彼とはいえ、
必要以上の被害を追うことは避けたいのだ。


美佐子は以前、
この上なく不機嫌だったとき、

5人の男に一人の反逆者を捕まえさせ、
よってたかって、女をもはや愛せない男に変えてしまったことがある。

初めは抗っていた男の表情が、
おそらく彼のこれまで感じたことのない快楽にゆがみ
次第にだらしなく、唾液などを滴らせて、
ひくひくと痙攣しながら、
自我を失っていく様子を、

彼女は一段高いところから、
足を組んで楽しそうに、見下ろしていた。


彼女は“いじめ”の天才だった。

彼女のいじめは誰にも怪我はさせない。

むしろ、閾値を超える快楽のなかで、
その人間を蝕み、精神をゆがめ、
廃人同様の人間にすることを得意としていた。

巧妙に法の抜け穴を利用するので、
誰も彼女を裁くことはできなかった。

僕らも、彼女の巧妙な手法によって、
もはや彼女以外の女を愛せなくさせられた人間だった。

僕らは毎夜、
群がる虫のように、
彼女の身体を貪った。

彼女無しには生きていけないほど、
性的な面において完全に依存していた。

だが、時折何かの拍子に、その魔法が解ける人間もある。
今日の僕のように。


「孝史。」
僕は言った。
「哀れだな。おめえは虫だ。」
僕はなおも言った。
「よく見てみな、この女を。
50過ぎたら、どこを見て過ごすつもりだ?」

美佐子は、依然として威厳を保っていた。
軽い笑顔すら浮かべて。
刃向かわないネズミを相手にしても、いじめ甲斐がない、とでも言うように。

孝史は依然おろおろしている。
彼は、美佐子の価値観に従う意外の何物をも、発達させてはいなかった。
あるいはそれら、通常の価値観を全て、退化させてしまった、哀れな男だった。


「ばか、ね」
美佐子は言った。

「あたしのもとから去った男を、幸せにはさせない。」
彼女の脅しには、現実味があった。
なまじ、口先だけの輩とは違う。確かに僕らは、無事では済まないのかもしれない。
しかし、あらがう価値をすでに、僕は見いだしていた。

「やってみやがれ」
僕はそう言うと、手元の机をひっくり返した。
そして出口近くの消化器をひったくると、
それを店内にばらまいた。

もうもうとした消化剤の煙の中、
僕は一目散に逃げた。

逃げながら、彼女に電話し、すぐに此処を逃げ出せるように
準備するように伝えた。

遙か後方で、
消防車の音が聞こえる。

パトカーが数台、僕の脇を慌てふためいて通り過ぎていった。

僕は自分の心を取り戻した痛快さに、
ネオンサインのきらめく街で一人苦笑せざるを得なかった。

夜の街の空気はつめたく
冷え切って、また澄んでいる。

僕はその闇の中を疾走した。

あの女のためか。
僕は再び苦笑した。
笑いが止まらなかった。

僕の脳裏には、さっきから、決して美人とは言えない光の笑顔が、
ちらちらしている。

しかし、世界で唯一、後先見えない自分をそうと知りながら、
好きだと言ってくれた、その優しく、また愚かな笑顔を、

むざむざと見捨てるわけにはいかない気がして、
僕は全速力で夜の街を駆け抜けた。