2008年4月27日日曜日

innocence

君が地元に帰ってきているという話を
僕はあらかじめ友人の一人から聞いていたので、

近々、君は僕の前に現れるだろうとは思っていた。

でも、その君が本当に僕の家のドアを叩き、
中に入ってきたとき、僕は少なからず覚悟をしていたはずなのに、
大いに動揺していたのは、事実だ。

「何ヶ月になったの?」

僕は自身の動揺を押し隠し、さりげない風を装って
君に尋ねた。

「5ヶ月。」

君は、明確に、端的に答えた。
それは君にとって、間違えようのない事実だった。

君の関心の全てが、その丸く膨らんだ下腹部に注がれ、
君の思考、生活、行動の全てがそれを中心に回っていることを、
僕は認めざるを得なかった。

君に渡すコップの中の、オレンジジュースの液面が微かに震えるのを、
自分では努めて見ないようしていた。

地元の大学を卒業した後、君は、彼の後を追って東京の会社に就職した。

僕がそのことを知ったのは、それもやはり、友人伝いだった。

要するに、君に、多大なる関心を払っているつもりでいながら、
僕は君の何一つ知らず、
同時に、何一つ知ろうとしていなかったのだ。

こんな僕が、君から、君の多くの一人の友人として見られていたことに、
あれほど驚き、そして悲嘆に暮れる権利は、なかったのかもしれない。

君は僕の見ていない、見ようとしていないところで、他人を好きになり、
その気持ちを引くために、当然の努力をし、笑顔と優しさの全てを使い、
おそらくは僕の見たことのない君すらも惜しげもなく見せて、
そして、多くの人がそうであるように、君もまた、一人の女になった。

しかし、それほどまでした彼ではなく、
よりによって、僕の知らない、また別の男と懇意になり、
そして、今になって、こんな姿で帰ってくるとは、
当時の僕は想像もできなかった。

僕は、身の回りのことは、身の回りのうちだけで起きるものだと錯覚している。

しかし、今君のおなかに宿っている小さな命は、現に僕の知らない世界の
知らない顔をした男と、僕が知るつもりでいた君との間にできた、
小さな間隙なのだ。

そこからは、君だけが知り、僕が知らなかった世界が透けて見える。

妻はもう出かけていた。

息子は幼稚園に行っていた。
僕一人、休日出勤の振り替えで、休みをもらっていた、
その最中だったのだ。

君は、妻に会いに来たに違いない。

だが生憎と、彼女は近所の奥様達と仲良く買い物に出かけており、
今日は遅くなるとあらかじめ言っていた。

由希子、いないの?
君は僕の家のキッチンを、首を伸ばすようにのぞき込んだ。

いま、外出していてね。今日は遅くなるそうだ。
僕は彼女の言ったままを伝えた。

開け放たれたベランダの窓からは、
雲一つなく晴れ渡った初夏の青空が見える。

そして、そこから絶え間なく、すがすがしい5月の風は吹き込んでいて、
窓辺に吊された、僕の淡色のシャツが、その風に乗ってそよいだ。

いい天気だね。
君は言った。

フローリングの上に惹かれた小さなマットの上に、
脚を伸ばして座った君は、その前に置かれた木製の小さな机によって
そのいたいけな腹部が隠れたこともあって
あの日の瑞々しい笑顔をそのままに見ているようだった。

ねえ、
君はあの日の笑顔のまま、僕の方を振り向いた。
妊娠の影響か、あの頃よりも、幾分印象が丸くはなったが、
目が糸のように細くなり、首をかしげ、甘えるような微笑み方は、
あの頃のままだ。

おさんぽ、しようか。



僕の家から100メートルも歩いたところには、
市の中心部を流れる大きな川が流れていて
その川沿いは、遊歩道として整備されていた。

僕には君と、以前、この川沿いを歩き、昨日や今日の、
とりとめのない会話を交わした記憶がある。
あのときの僕は、これこそが、恋愛というものだと、
信じて疑わなかった。

その川沿いを、上流に1キロも歩けば、
市内で最も大きな公園にたどり着く。

君はそこまで歩こうと言い出した。

妊婦さんには、
適度な運動が必要なの。
取って付けたような医学知識を生真面目に語る君の顔に
僕は、以前のあどけない面影をはっきりと見た。

オレンジ色のアスファルトで舗装されたその遊歩道を
僕らは、ゆっくりと、歩いた。
それは言うまでもなく、君と、君のおなかを気遣うため。

その腹部のふくらみが、
君が並々ならぬ関心を向ける対象であるからという、
ただそれだけの理由で、僕は身重な君の歩みに、
身軽な自分の歩みを併せようとしていた。

それは僕の思いやりであったのかもしれないが、
端から見たら、よほど滑稽な光景だったことだろう。
健康そうな男女が、牛歩のようにとぼとぼと
遊歩道を歩いているのだから。

久しぶりだね。
こうやって歩くの。
君は言った。
僕の懸念など意に介さず、その表情は晴れやかだった。

覚えてるの?
僕は聞いた。

覚えてる。
この川も、この草木の色も。
あなたは、あのときも、そんなとぼけた服を着て、
私の右側に、立って歩いた。

そう言って、何かを思い出したのか、懐かしそうに
ふふ、と笑った。

僕には、君の中で、
僕に対する記憶が、どのような位置を占めているのか分からなかった。

最も重要な記憶ではないことは、確かだと思う。
しかし、忘れるに値する記憶でも、ないようだった。

思い出せば笑ってしまう、
楽しい記憶ではあるようだが、

それが僕の思うほど、
貴重でかけがえのない記憶であるという保証はなく、
それゆえ、僕は内心苛立っていた。


どこかで、ヒヨドリが鳴いた。
セキレイが黄色い腹を見せながら、
長い尾羽を上下に振って、僕らの前を横切り、
はたはたと飛び立った。

全ての名もない命が僕らの周りで確実に息づいている。
長い冬の終わりにほっと息つく暇もなく、彼らは次の命のために
その活動を始めている。

平日の昼下がりと言うこともあってか、擦れ違う人もない。
ただ僕らだけが、遠く公園に向けて、しずしずと歩みを進めている。


その時、不意に、僕の腕に薄い微かな肌の感覚があった。
僕が、驚いて見れば、それはいつしか君の左手に繋がれていた。

そんなに、びっくりしなくても、いいじゃない。
君はまた微笑んだ。

あの頃も、こうやって、歩いていたんだから。

君はあの頃から何も変わっていなかった。
思えばあの頃もこうして、不意に僕の手を取って
歩き出したことがあった。

なんか、おさんぽしていると、隣の人と、手を繋ぎたくなるじゃない。
そんな子供じみた言い訳を、君は臆することなく主張し、
僕の右手を取ったまま、楽しげに歩いた。

その仕草も、表情も、君は君なりの理由を持って、
友人である僕に対して、
そう言う行為をしていただけなのだが、当時の僕には、
女性が時折見せる、そのような無邪気な行動が、
それだけを意味するものとは到底思えなかった。

全てのものに、意味を求めていた時代でもあった。
全てを疑い、全てに作為を見いだして、それで分かった気になっていた。

今、あの頃と同じように繋がれた君の手は、
あの頃と変わらぬ大きさで、僕の掌にひっそりとなじんだが、

その肌はあの頃のように何も知らない少女の手ではなく、
多くのものに触れ、多くの感覚を知った手のはずだ。

あるいは対象を掻き抱き、
色めく感覚に際限なく溺れたこともあるはずの、その手で、
君はあの日と同じように、僕の手と繋いでいる。

しかし、その君の手が、
多くの経験を経たあげくに僕の手の中に、
また、こうしてあるはずの、その手が、

あの頃と変わらない質感と無邪気さを、
未だにしっかりと内包していることに、
僕は驚き、狼狽えていた。


変わったね。
君は言った。

少しだけど。
小さな声で、付け足した。

以前より、ずっと
臆病になったみたい。

前、あなたの手をこうして握ったときには、
あなたは口には出さなかったけど、目を爛々とさせて、
いつもより少し、胸を張って歩いてた。

でも、いまのあなたは...。

何をそんなに怯えているの?
僕の右手を掴んだ左の手に君はぐっと力を込めた。


もし、失うことを恐れているのなら....
誰かに繋がることすら、怖くなっているのなら....


もう離さないから。
君はそうとでも言うように、繋いだ手に更に力を入れた。

君が僕の手を、あまり強く握ったので、君の掌を流れる
血流の脈までもが、その手を通じて伝わってくるようだった。
あるいは、それは実際には、締め付けられた事によって、
僕の側の脈拍が感じられただったのかもしれない。

だが、僕は、君の掌を通じて、
君の身体を巡る血液と、君に宿る、新たな命の拍動を感じていた。

それは、間違いなく他人だった。僕の知らない、
おそらく君すらも良く知らない、
誰も知らない、誰かだった。

君は小さな身体で、必死に、この日に日に大きくなる他人を
抱えて暮らしているのか。

それはもちろん、成長する喜びではあるのだろうが、
膨張する不安でもあるに違いない。

父親のない子を産み、育てる母親の心痛など、
平均的な人生を選んで生きてきた、臆病な僕に、
どこまで分かるというのだろう。

ただ、一つ考えられるのは、僕が君であれば、
産めないだろう、と言うことだけだ。

生まれてくる子供に罪はないとはいえ、
その半分は君をこういう境遇に追い込んだ、その男だ。

それを産み育てようとする母親の心理にあるものは
自らの過ちを悔いる罪の意識であるのか、
それとも男に対する復習であるのか、
あるいは、単純に、子供が欲しいという純粋な母性であるのか
僕には分からない。


分からないけれど、


僕は君を、包み込むようにして、抱きしめた。

君は逆らわなかった。

分からないけれど、そのいたいけな小さな腹部には
君の唯一微かな希望が、美しい、楽しい過去の思い出が
すくすくと育っているのだろう?

君の肩は、正直、昔より少し肉付きが良くなった。
生まれてくる子供のために、
君の身体はまさに作り替えられようとしている。

そしてその、新たな命のために、
この小さな肩をいからして、君は生きていこうとしている。

抱きしめた君の、
小さな肩口からは、微かに母の匂いが漂い始めていた。


僕らは、そうして公園にも行かず
遊歩道を静かに行ったり来たりするばかりで
君の言う、おさんぽを終えた。

疲れた君を家に送り届けるため、
僕らは最寄りの駅から、電車に乗った。

電車はそれほど混んではいなかった。

僕らは二人が座れるスペースを見つけ、
そこに並んで腰を下ろした。

電車が走り出すとまもなく、
君はうとうとと眠り始めた。
やがて僕にもたれかかるようにして
君は眠った。

電車は次第に速度を上げながら僕らの過去と未来とを置き去りにして
現実から次の現実までの軌道を定刻通りに刻んでいく。

僕は、身体の側面にぴったりと寄り添う君の柔らかな感触を感じながら、
今はもう、遠い昔の話になってしまった、
若い頃の君の心の声を聞きたくて、
その肩をそっと、自分のもとへ引き寄せた。

そして、君がうわごとのように小さく漏らした一言の言葉に
思わずはっとしたとき、

近づけた君の瞳が真っ直ぐに僕の表情をのぞき込んでいることに気づいた。

僕は自分の太ももの薄くなったデニム地越しに、君の暖かな左手の感触を
確かに感じていた。

その左手からは、彼女の身体を流れる血流と、
小さな他人の確かな胎動とが、
一緒になって、僕の身体に流れ込んできた。

僕は君を抱き寄せた。
君は抗うことなく、それに従った。

電車は次第に速度を上げ、
その街の風景をまだ十分に視認できないうちに
ごうごうと、音を立てながら、真っ暗な地下世界へと下っていく。

僕は君に、まだ降りる駅を聞いていないことに気づいた。

しかし、これから僕らの向かう先に、そもそも降りる駅など存在するのかすら、
僕には自信を持って答えられそうになかった。