2008年4月30日水曜日

A personal memory of bubbles

「だれか!」
慌てふためく男性の声。

指さす先には、溺れる人の影。

高い見張り台の上で、それを見つけた男は、すぐさま無線で応援を呼び、
近くにいた数人の仲間とともに現場へ走り出す。

人数分のライフジャケットと、
救助用の予備を脇に抱え、

男達は人混みをかき分け、砂浜を駆け抜ける。

後に残る砂しぶき、長く伸びた足跡。

男達の慌てた様子に、
次第に群衆も気がついたらしく、
道を空け、彼らの通る道を確保し始めたが、

好奇心には理性は叶わず、
本当に現場近くまで来ると、
溺れる人を見ようと、
群衆は二重三重の輪になって、
彼らの進行を阻んだ。

「どいてください!」
彼が大きな声を出す。

目の前の数人の人々が道を譲る。
その先に、また人混み。

「どいて!、どいて!」
力ずくで道をこじ開け、
突然開けた視界の先に、先ほど台の上で見た溺れる少女の姿。

先ほどより確実に沖へと流されており、水を掻く力も、ずいぶんと弱っている。

事は急を争う。

あたりに船の姿はない。
水上バイクも、まだしばらくかかる。

仲間の一人が一枚のボディーボードを抱えてきた。

ボードの男は、ちらりと彼の方を見ると、
一人何かにうなずいて、水面へとこぎ出した。

男の影がみるみる離れていく。

なすすべのない時間。

男は次第に小さくなる。

残された者達には、それを見守るしかできない。

救急車は呼びました。
無線が曇った声で叫んでいる。

「了解」
男は答える。

今からでは、20分はかかるだろう。
彼は咄嗟に考えている。

病院は気が遠くなるほど遠い。
今の彼にとって20分は生命線の彼方の数字だった。

それでは、みすみす殺してしまう。

彼を含め、陸に取り残された3人のライフセーバーは、
周りの人を退け、
彼女の救命措置を行えるだけのスペースを確保した。


「...ミチ!」

群衆の一人が、沖の一点を見つめ、
思わず声を上げる。

ミチとは少女の名だろう。
叫んでいたのは、中学生位の若者。

飛び出そうとしている身体を、仲間の一人が必死に抑えている。

「...ミチ!」
彼はなおも叫び続ける。
意識があるかも、はっきりしない、遠い沖の、少女に向かって。

この付近はこの時間になると、
沖へと流れ去る海流が良く発生する。

少女はそれに飲み込まれたらしかった。

この流れに乗ってしまうと、
泳ぎ慣れた人間でも、
そのまま岸に流れ着くのは難しい。


沖へこぎ出した彼は、早くも、
溺れる少女と同じ位に小さな影になっている。

彼は、しきりに少女に声をかけ、その反応を伺っている。
少しの間、それを続けた後、
彼は少女に、手に持ったライフジャケットを結わえ、

沖への流れから逃れるように、
海岸線と平行にしばらく泳いだ後、
こちらへ向かって真っ直ぐに泳いできた。


「...ミチぃ!」
少女の姿が近づけば近づくほど、少年の声は大きくなり、
身体は前へ前へと押し出された。
抑える方の彼も、顔を真っ赤にして、必死だ。

「あぶないから!落ち着いて!」
黒いゴーグルの向こうで、彼は弟を叱る兄のような眼差しを
少年に向けている。



ゆき!
ゆき!

少年の声が聞こえる。あたりに人影はない。
僕らだけの砂浜。

ゆき!

遠くで、少女が溺れている。
少女の小さな影はみるみる小さくなり、
波間に消え、
そして現れた。

少年は、
手元に残された、浮き袋を抱え、
彼女のもとに泳ぎだした。

泳ぎには自身があった。
水泳部の副主将。

彼は、彼女を押し流しているものと、同じ流れに乗り、
みるみる彼女に追いついた。

彼女はもはや、水面に顔を出していることすら覚束ない。
手だけを高く掲げようとしているが、
それも、時折波間に沈んだ。

彼女の手が、彼の浮き輪に触れた、
彼は咄嗟に、彼女の手を掴もうとした。

ぐらり。

浮き輪は、水を飲んで重くなった彼女の重力に絶えきれず、
傾いてしまう。

彼の知っている、彼女の重さではなかった。
彼女はもはや、海に魅入られてしまったかのように、
彼を道連れに、深く、海の底まで引きずり込もうとしているようだった。

彼は彼女の腕を掴み直そうとした。
しかし、濡れた腕は、彼の掌を滑り、

彼女は為す術もなく、暗い海面に吸い込まれていった。

これまで、何度も、握ったはずのその手が、
彼を拒むかのように、

冷たい、青い色をして、
波にのまれた。

彼女の掌の滑らかな感触。
命を失いつつある者の、無慈悲な冷たさ。

彼女の沈んだ後から後から湧いてきた、
無数の小さな気泡の列。

それは彼女から立ち上る、彼女の命の欠片、そのものにも思えた。

水面に至った気泡は、彼の目の前で、
小さな音を立てて、
次々と、はじけた。


ゆき!ゆき!

叫べども、叫べども、
彼女は遠く、

彼は浮き輪にしがみついたまま、
天も地も見失った意識で
闇へ向けて彼女の名を呼んだ。

誰もいないビーチ。
僕らだけの砂浜。

数時間前までの、少女の笑顔。
日に焼けた、肌の温度。

太陽の光。

始めて見た、少女の、水着姿に、
高揚した、少年の瞳。

ねえ、海、行かない?
誘ったのは彼の方だった。
いい場所、知ってるんだ。僕だけの、砂浜。
他に、誰もいないんだよ。

彼女が海が好きなのを、聞いていたから。

嫌われるかな。
そんなおそれを抱いて、彼がかけた言葉を、
彼女は、何も言わず、とびきりの笑顔で応じた。

じゃあ、日曜日に!


高揚した気持ちを、抑えきれずにいたのは、
おそらくは、彼女も同じ。

恥ずかしげに、はにかんだ笑みを浮かべながら、
高鳴る心臓の鼓動を、隠そうともせずに、
太陽の子は、
水着から伸びた、褐色の手足を惜しげもなく彼へ差し出して、
銀の砂浜へと踊り出す。

彼の手を取って、
波打ち際へと導いた、
その手が、


今、

僕の、

目の、前で、

沈んだ。



彼は、彼女の名前を叫び続けている。


僕ら、だけの。

僕の...、




「早く!」

仲間の声がする。
泳いでいった彼が、少女を抱えて戻ってきた。

待ち受けた男の瞳に、再び冷静な光が宿る。

意識は?
怪我は?
呼吸は?
脈は?

決められた手順に従って
状況を一つ一つ確認すると、

彼は心肺蘇生を開始した。

救急車が来るまで、
あと10分。

それまで、可能性を繋ぐのだ。

彼が、彼女の胸を圧迫する度、
少女の口元はゆがみ、
中から少量の水が零れ出る。

命を塞いだその水と、
彼は今戦っている。

彼の背後では、
少年が、まるで、自分も胸部圧迫を受けているように
不安にゆがんだ顔をして、
少女の力のない表情を見つめている。


おれは、あのときから、
少しは前に進んだだろうか。

彼は考える。

大切なものを、
為す術無く失った無力な少年は、
できる限りの手法を覚え、知識を蓄え、再び
浜辺に戻ってきて、

実際に何人かの、命を救い、
実績も付けたけれど。

どれだけやっても、自信だけは付かなかった。

次第に微かになっていく、心臓の鼓動の、
名残惜しそうに消えゆく、微かな歌声が、
彼の身体には、今尚、染みついて離れない。

ありもしない、可能性を掴むように、水面から、
彼のいる空へ差し出された彼女の、
日に焼けた細い指が

滑り落ちた、濡れた肌の感触が、

彼の脳裏に、しつこくフラッシュバックする。

その度に、萎える指先に、二の腕に、
彼は再び力を込めて、
少女の心肺蘇生を続けた。

おれは、
ゆきをすくう、力を
身につけただろうか

いまなら。

彼は、永遠に失われた彼女の心臓のリズムを
思い起こすように打ち続けた。

早まる気持ちを抑えながら、
自分にできる限りの処置を、

冷静になれ、
冷静になれ、

ビートは刻まれる。
回復に向かって。
祈りを込めて。


ゆき...。




「ミチ!」

彼の背後で少年の声がした。
彼女の口から、大量の水があふれ出した。

けほっ。

彼女は苦しそうにむせ込んでいる。
彼が背中をさすると、
咳は続き、
やがて苦しげな表情の隙間から、
彼女の瞳が薄く覗いて、彼と、その背後の少年を見た。

薄くひらいた瞳は、たちまち
涙に溺れた。

こぼれ落ちた滴を受け止めたのは、
駆け寄ってきた少年だった。


群衆に笑顔が戻る。
気がつくと、男達も微笑んでいる。

一人、また一人、群衆は離れていく。
一つの劇が終わったように、
彼らは三々五々、
自分の生活を取り戻していく。



遠く、近づいてくる救急車のサイレンを聞きながら、
彼は、少女の沈んだ砂浜の、名もない岩礁を見ていた。

岩礁を背に浮かぶ、一羽のカモメ。

カモメは、彼らの姿を遠くからじっと見ていたが、
やがて何かに首を振るような仕草をすると、
やにわに羽ばたき、水面を蹴り、

宙へ踊った。

カモメの飛び立った跡には
いくつかの水泡がわき出して、
しばらく波間に漂っていたが、

そのうち、静かにはじけて、
みんな消えてしまった。


男はそれでも、依然として、
なにもなくなってしまった静かな水面を、

身じろぎもせず、見つめている。

その眼差しの先には、
溺れる少女と、
届かない手をさしのべる少年との姿が
二重写しに見えていた。