2008年4月23日水曜日

Spring shower

開け放たれた扉が、主の不在を物語っていた。
女が帰宅したとき、そこに男の姿はなかった。

「マサト」女は呼びかけた。
「どこへ、言ったの?」

しかし、部屋の中から返事がない。
わずかに、男の酸えた臭いが、漂ってくるだけだ。

たった、15分程度の外出だった。
15分前、彼女がここを出るときには、彼はまだ、ここにいた。

それが、今やもぬけの空だ。
彼女は上がり込み、部屋の内部を調べた。
特に変わった様子はない。

書類の散乱は、彼のいつもの癖だった。
それをあきれながらも片付けてあげるのが、
彼女の小さな楽しみになっていた。

「どこへ行ったの?」
女は再び問いかけた。
虚空に問うても、返事はない。
ただ、問いかけるよりいっそうの不安が、彼女を冷たく包むだけだった。

彼女はバスルームを開けた。
そこには、彼女が先ほど出かける前、体を洗った残り香がかすか漂っている。
バスルームの床はまだ塗れていた。

彼女は靴箱を開けた。
彼の、いつも外出の時に履くスニーカーは、依然としてそこにあった。
しかし、よそ行きの革靴はなくなっていた。


彼女は手提げ鞄から、携帯電話を出した。
慣れた仕草で、彼の番号にかけてみる。

誰も、出ない。

暫くして、もう一度かけなおしてみた。

それでも誰も出ない。


そうして何度目かの呼び出しをしている際、彼女は異変に気づいた。

どこかで、電話がバイブしている。

驚いて部屋の奥に戻ると、彼のベットの上で携帯電話が震えていた。
小さな液晶画面には、彼女の名前が表示されている。


彼とのつながりが途切れてしまったことを実感した。

どこに行ったのか、見当も付かなかった。

ほんの数十分前まで、ここにいて、
「行ってらっしゃい」
などと、のんきな顔で言っていた彼が、突然、姿を消したのだ。


彼女は、なすべき事を考えた。
ふと、彼の携帯電話を手に取り、その着信履歴を覗いた。

一番上には、先ほどかけた、彼女の名前があった。
そして、そのすぐ下には、名前の表示されない、番号だけの表示があった。
彼女が家を出て、すぐの着信だった。

彼女は、自分の携帯電話を取り出し、その番号と合致する番号がないかどうか調べた。
しかし、そんな番号の知り合いは彼女にはいなかった。

だれなんだろう。
彼女の不安は募った。

この人が、彼がどこへ言ったか知っているのだろうか。
彼女は訝しんだ。
この番号は、誰だろう。

知らない人との電話で、彼がいきなり家を飛びな出すなんてことは考えられない。

彼女には、彼が意図的に、この番号を登録しなかったのではないかと思われた。

それは明らかに、彼女への発覚を恐れての処置だと思われた。
そうまでして、彼女に隠すべき事実が、彼にはあったということになる。

彼女は、よく知っていると思っていた彼の、
最大の理解者だと信じていた彼の、
全く知らない側面をかいま見てしまった気がして、
その闇のあまりの奥深さに、ふるえがした。

彼女はおそるおそる、その数字の羅列で表記された何者かにカーソルを合わせた。
震える右手は、その操作すら拒んだ。

彼女は目を固く閉じ、2度、深呼吸して気持ちを静めると、
余計なことを勤めて考えないようにしながら
おもむろに、リダイヤルの操作を取った。

トゥルルルル...、

呼び出し音が、規則的に彼に向けて発信された。
しかし、いつまでたっても、その向こうに誰かの声が聞こえてくることはなかった。

トゥルルルル....、

彼女にはこの呼び出し音が、先の見えない濃霧の中で発信される、霧笛のようにも聞こえた。
それは周りにそれを受け取る対象がいない可能性を理解しながら、放たずにはいられない、不安の信号だった。

ガチャ

突如、規則性は破られた。

あ...、
「あのっ..!」

あなたのおかけになったでんわはげんざいつうわすることができません。
おるすばんせ....。

彼女はスピーカーから耳を話した。

突如途切れた緊張により、携帯電話はその手からぼとりと落ちて転がった。

漠として空を見た。頭の中には何も映らなかった。

通話を切るのを忘れていたことに、彼女は暫く気づかなかった。

そうしてしばらく呆然とした後で、
彼女は再び、ひたひたと不安が立ち上ってくるのを感じた。

(不安とは、希望の存在するところに生じる、一種の影だ。
そもそも、何の希望もいだかない人間に、
不安という感情など生じるはずも無い。
絶望的な状況に、少しでも希望を見出そうと努力すればするほど
その人間は不安に苛まれることは、よくあることだ。)

彼には、仕事が午後いっぱいかかりそうとは言ってあった。
しかし、彼女は駅のそばまで着いた時点で、空模様が怪しくなってきたのに気づき、
傘を取るために、家に引き返しただけだったのだ。

実際、彼女が家に着くまでに、ぽつぽつと雨が降り出し、
今、外を見れば、窓硝子は泣き濡れた赤子のように、無数のしずくに濡れている。


彼は...、

彼女は思った。

その瞳は窓ガラスを濡らす無数のしずくたちの盛衰を無為に追いかけている。
彼女は自分がバラバラになったのを感じた。


雨のしずくは次から次へとガラスに付着した。
それは以前についていた水滴と一つになって大きくなった。
それは周りの液滴に出会えば出会うほど膨らんで、
膨らめば膨らむほどより多くの液滴を取り込もうとした。

しかし、ある臨界までその大きさが達した時、
液滴はその自重に耐え切れなくなって、周りの罪の無い多くの液滴を巻き込みながら、
ガラス戸の上から下までを一息に駆け下りた。

液滴の流れた後は、一本の筋となって残った。
こうしてできた幾通りもの筋によって、
彼女と彼女の世界は、斜方形に区切られてゆく。

彼は...、

彼女は思った。


彼は、傘を持って行っただろうか。


傘立には、彼の赤い傘が、入ったままになっていた。
雨を知らない、よく乾いた傘が、玄関から吹き込む湿った風をうけて、
戸惑うように傘地の一端を揺らしている。

あの傘、結局使わなかったんだ。

欲しいって言うから、買ってきてあげたのに。


彼女はそんな些細なことに捉われていた自分に気付き、
自分を弄するように笑った。

笑いは次第に大きくなり
やがて声を出すのを堪えられなくなって

彼女は身をよじって笑った。

おかしくてしょうがなかった。

自分の醜態が、浅はかさが、見事に翻弄された
この恋愛という、柄にも無く真面目腐った思い込みが!

とめどなく涙があふれ、呼吸は乱れた。
息をつく暇も無いほどの笑いの発作の中で、
彼女は突如、涙に咽んだ。

ばか、みたい。
咽びながら彼女は思った。

なにやってんだ、あたし。


そしてふと何か思い当たり、

かつて無いほど皮肉な笑みを浮かべた。
それは一つの破壊的な結論だった。
自虐的な恍惚に、彼女の表情はゆがんでしまっていた。


彼がもう、帰ってこない。

彼女はそれを悟った。

その兆候は以前からあった。

近頃、彼はケイタイでよく誰かと通話していた。

ただし、それが仕事の関係で、不特定多数と話しているのか、
それとも特定の対象であるのかまでは分からずにいた。


今、彼女は彼の通話記録を、過去へ、過去へとさかのぼっている。
先ほどの、彼女の直前にかかってきていた番号は、
頻繁に、時には、彼女の番号より多くリストに現れた。


そういえば、彼が最近ケイタイで話しているとき、
ずいぶん優しい声をしてたっけ。

彼女は微笑んだ。

あんな声を聞いたのは、
つきあって、半年位までだったな。

彼女の脳裏には、そうしたいくつもの、
具体的事実が後から後からわき上がってきた。

それ一つ一つは様々な解釈が可能なもので、
都合よくとらえれば、別けなく握りつぶしてしまえるものだった。

しかし、一つのある決定的な疑惑に取り付かれた今となっては、
それらの具体的事実は、彼女に、一つの結論を突きつけていた。


疑わないことが、優しさだと、思っていたのに。

彼女は思った。
嫉妬心から、彼の携帯をのぞき見するとか、
いちいち通話の相手を訪ねるとか、
そう言うことは、したくなかった。

彼も大人なんだし、いろいろなつきあいはあるだろうが、
その中でも彼女との関係は特別なものと認識して呉れさえいれば、
それでもかまわないと思っていた。

でも。

彼女は再び笑った。
瞳そのものがこぼれ落るかのように、大粒の涙は止めどなくあふれた。


特別なものと認識したがっていたのは、私だけだった。
それは、勝手な思い違いだった。




...ごめんなさい。




彼女は自分が、不思議でならなかった。

しかし、何度も口をついて出たのは、この言葉だった。

どんな怒りも、憎しみの言葉も、胸の奥ではわだかまっていても、
体の表面で、涙にふれたとたん、それは謝罪に変わった。


ごめんなさい.....。ごめんなさい...。


彼女は、誰もいなくなった部屋の真ん中で、対象もないまま謝り続けていた。


開け放たれた玄関からの暖かく湿った風に紛れて、
彼の匂いは、いつの間にか消えてしまっていた。


風の中に、かすかな春の土の匂いを彼女は感じた。


彼女の華奢な手の中では、彼の携帯が、彼が最後に受け取り、
通話した着信の電話番号を、かたくなに画面に表示し続けている。