2008年5月4日日曜日

Phantom pain (1)

君は、いつも僕の右手と、
君の左手を、繋ごうとした。

でも、どうして、いつも右手だったんだ?

君が、あんまり、僕の右手にばかり、
君の思い出を残すものだから、

君と別れたあの日から、
僕の右腕は、永遠に、
僕から失われてしまった。


今、僕は、彼女と並んで、電車を待っている。
地方鉄道の列車は、
客を乗せることを放棄したように、
思い出したようにしか、僕らの前を通り過ぎない。

その、時折通り過ぎる、
そして僕らには目もくれず、全速力で通り過ぎる
いくつもの、快速列車と、特急列車を見送りながら、

僕と彼女は初夏の日差しの中、
駅に張り出した庇の薄暗い影で、
未だ来ない、各駅停車を待つ。


この土地に画に描いたような田園風景を
期待していた君は、
その意外に商業的で、
何台もの観光バスが行き来する“ファーム”の入り口に、
辟易していた様子だった。

そして、そうした現実的な人足の羅列に背を向けて、
誰もいない方へ、いない方へと、
二人並んで、田園を横切る、舗装された広い農道の片側を
とろとろと歩いた。

幸い、僕らの目指す、
その一軒の喫茶店は、そうした、駅近くの商業的ファーム群から
さらに離れた場所にあった。

目的地周辺の、人影もまばらな静かな佇まいに、
僕らは今まで胸を縛り付けていた何かが、
僅かにゆるんだように感じて、ほっと安堵した。

あたりには唯、見渡す限り、そばの白い花だけが揺れている。

もし、死後の世界という物があるとしたら、
きっとこういう世界だろうと、僕は内心思わずにはいられなかった。

その彼岸の国のような静かな大地を、僕と彼女は手を繋いだまま
歩き続けた。

低すぎる人口密度は、人を不安に感じさせる物らしい。
都会の高密度な生活を嫌っていながらも、
その中で毎日を送ってきた僕らにとって、
この、見渡す限りの視界にほとんど人影の見られない世界は
僕らを次第に、そうした不安に陥れた。


君は寂しくなると決まって、
僕の右腕に、手を伸ばす。

そして僅かな力で、僕の右掌に、それを密着させる。
小さなひんやりとした、その左手。

でも、その感覚は、実際には
僕の心に、もはやなんの感情も、
蘇らせてはくれない。

僕の右腕はすでに失われているのだ。

以前付き合った彼女と、突如として、別れた、
あの日から。

今、君が、いくら、その形の良い手を
僕の掌にすりあわせたとしても、
また、僕がどれだけ、この右腕で君を求めたとしても、
その感覚は、僅かなしびれに似た感覚を僕にもたらすだけで、
本来それに伴うはずの、精神の高揚と安心感すら、
僕には一切、わき上がっては来ないのだ。

君はそれを知っているはずだ。
しかし、君はそれでも、僕の右腕に、手を繋ぎ続ける。

それが、一つのリハビリであるかのように。

あるいは....、

それはあるいは、以前の彼女、に対する、
ささやかな挑戦、なのか?


いずれにしろ、僕の希望とは裏腹に、
僕の右腕は、まだ、君の手の感触に対する素直な感動を
僕に伝えては呉れない。

ただ、しびれに似た冷たさだけが、僕の感覚神経を逆なでしている。


左手に繋げば、まだ、もう少しは僕に、
切実にそれは訴えてはくれるだろうに、
君にいくら言っても、それを聞き入れてはくれない。

その理由を僕は、知らないわけではない。

僕が右腕を失ったのと同じように、
君は、二つの耳を失っていたから。

そんな君に、もとより僕の言葉など、
届くはずがないのだ。


以前付き合った彼は、
とても話のうまい、男だった。

口先だけでなく、実際にも品行が良く、
その時々に漏らす一言一言の言葉の中に
君はまだ見ぬ人生の一端を、
一つの視点を見出して、

その小さな啓蒙の一つ一つに
何も知らない、幼い君は酔いしれた。

なんて、賢い人なのだろう。
年上の彼への憧れと、恋の狭間に、垣根を作ることを知らなかった君は
その憧れを、恋と思いこむ日々を重ねた結果、
それはいつしか、本当に、恋に変わっていた。

彼との時間の密度が増し、
その言葉を、もっと間近に聞くようになって、
君はますます、その一言一言に酔いしれた。

見る世界が変わり、
考えが変わり、
陽気な君に落ち着きが加わり、
笑顔の中に、微かな悲哀が混じった。

君は明らかに、子供から、一人の大人の女性へと
彼の言葉を浴びながら、脱皮しようとしていた。

僕が始めて君と出会ったのはその頃だった。
彼が紹介してくれた君は、
すでに彼の言葉の渦にしっかと飲み込まれていた。

おそらくはその時が、君が僕の以前の彼女と出会った最初だったはずだ。
君はどういう感想を抱いただろう。

それを聞こうにも、君には僕の声は聞こえないのだから、
きっとそれは、不可能なことなのだろうけど。

君が別れたのは、それからさほど日にちの経過しない、
ある日のことだったと記憶している。

品行方正を是とし、そこから生み出される言葉を君に浴びせかけていた彼の
突然の脱走。

相手の女性は、僕の“知り合い”だった。
だから、僕はよく知っている。

それは、僕の失われた右腕の最後の感覚として、
今も、夜ごとに蘇る、幻肢痛でもある。

ともかくも、
僕は、右腕を失い、
君は耳を失ったまま、取り残された。

彼の甘く、深い言葉を浴びすぎ、
心酔したあげく、それに混じった毒素にやられた君は、
もはや、誰の言葉も、
聞き入れることはなくなった。

ただ、うつろな笑顔で、
僕の話にも、空回りのような相づちを打っているだけだ。

そうして、時折ぼんやりと外を見ては、
何もない空間の中に
何かを見つけていた。

君の目は、やられていないはずだった。
だから、おそらくあれは、ぼんやりと何かを見ていたと言うよりは
時々聴覚を乱す耳鳴りに、
君なりの対処法で答えていただけなのかも知れない。

何かの、ほんの小さな助詞の一句にでも、
君は彼からすり込まれた、
長く、甘い警句を思い出し、
その幻聴のもたらすしびれに
君も立ち向かっていたに違いない。

僕の言葉など、君に届くはずもなかった。
ありふれた大衆品のような僕の言葉とは違い、
彼の言葉は研ぎ澄まされていた。

そんな洗練された言葉を、毎日のように浴び続けた君には
粗悪な僕の言葉などに、反応する神経は、もはや残っていないのだろう。

純度の高い言葉は
まるで麻薬のように、僕らの神経を冒す。

君の時折見せるあのおぼろげな笑顔は、
その禁断症状に疲れた
あきらめの表情なのだろうか。

言葉が氾濫する時代の中で、
明らかに君は疲れていた。
その疲れた精神を休ませるのは
誰もいない、人語のない、
遠く、広い、田園のはずだった。