「ふふ...。ぼくは....、ぼくは爆弾...なんだ。」
少年は一人つぶやく。ある地方都市、人通りも激しい駅前の中央交差点を前にして。
目の前には大型の電気店、その脇には同様に集客力のある大型書店。信号が赤から青にめまぐるしく変わる度に、人と、車が交互にその交差点を埋め尽くした。
そんな、人混みの中に一人、紛れていた少年。
もうじき夏だというのに、長いコートを着て、髪の毛はしばらく切っていないのか伸び放題。元々パーマ気のある髪は、すっかりぼさぼさになってしまっていた。
コートの下は裸だった。分厚いコートの生地が歩く度に直接に肌をこすれ、少年は常時、こそばゆいような感覚を味わっていた。
目は、前を見すえている。そして、口元だけが笑っている。
「僕は...。僕は爆弾、だぞ.....」
へへ。少年は笑った。
こいつらは知らない。僕が爆弾だって事が。見ろ、あそこの女。世界で一番、おまえが見られているかのように、スカートをまくり上げて、太い尻を半分出して、長い付けまつげを振り回してやがる。もし、此処で、僕が爆弾だって知ったら、どうなるのかなあ。
へへへ。少年は再び笑った。
彼の脳裏には、その怖い物を知らないようにすら見えるきつい目つきの女子高生が、恐れおののいて逃げまどい、そして彼に哀願するように泣き叫ぶ様子が見えていた。
そうさ、僕に、乞うほか無いんだ。どんな、美人も、不細工も、此処にいる、男も、女もぜえんぶ...。
少年の口の端から唾液が出て、その灰色のコートの端に付いたのに、少年は気づく様子はなかった。唯、ひたひたと、道の真ん中を目指して、歩いていく。
月曜日の昼下がり。お昼休みもそろそろ終わる時間となり、人々は昼食を食べていた店を出て、仕事の待つ会社に戻るため、路上にどっと繰り出していた。
一様に陰鬱な雰囲気と、蘇り始めた緊張感に、都市のその一角は包まれていた。人々の目は真っ直ぐにオフィスの自分のデスクの上のいくつか積み重なった書類の山を見すえていた。見つめる方向が、たとえ同じであっても、彼らの見ている物は相互に異なっていた。
少年はその視点の交差する、中心点に向けて歩いているのだった。
グラウンド・ゼロ。
いつかの事件にまねて、彼はその地点をそう呼んでいた。
あの瞬間、全ての、交差する視点が、
あの一点に集中したんだ。
少年はそんなことを考えていた。
見ているようでお互いを見てもいない、この街に、僕は新たな視点の集結点を見出すんだ。
そしてそこに僕がいる。
少年は再び笑った。
少年はその瞬間を想像しては、何度も恍惚を味わった。長い間自分の求めていた物が、今、まさに手の届くような距離にまで近づこうとしている。自らの脚がもどかしい。しかし、そこに早く至ってしまうのも、また、つまらない。
彼の脚は、その二つの相反する思惑に縛られたかのように、すり足ぎみに、じわりじわりと距離を縮めた。
街頭の人通りは一層混雑を増した。地下鉄が着いたのか、駅からどっと人が塊のように出てきた。横断歩道前に立ち並ぶ人の列。いや、群。いろいろな臭いが入り交じり、音も激しく鳴り響いてはいるものの、会話は驚くほど少ない。孤立した群像。
少年もその中にいた。
すでに、彼は目的とする交差点の中央まで、あと少しの距離。
「あと、少しだ....。」
少年がにやりと笑んだ。その時、彼が何のことを考えていたのか、もう知る術はない。
彼が嘗て交際し(彼はそう信じていたが、それは彼の思い過ごしであったようだ)そして、裏切った数人の女性が、この付近で働いていた。彼はその復讐が間近に迫っていることを、喜んでいたのかも知れない。
あるいは、こんな事も関係しているのかも知れない。
彼は、幼い頃から、目立ったところがない少年だった。幼い頃の彼を知るという誰に聞いても、小さい頃はいい子だった、と言う決まり切った言葉しか返ってこない。それは言い換えれば、これと言った印象がなかったと言うことの、裏返しである。
その短い人生で、彼は何度となく、自分が社会から無視されているという感覚を味わってきたのだろう。その多くが、やはり同様に思い過ごしであったことは、事実だが。
実際、彼には、彼のことを考えてくれている友人が数人いた。しかし、少年の側が、その友人達のことを、どの程度考えていたかは疑問が残る。
こうなると、孤独はどちらが作り出したのか、分からない。
いずれにしろ、彼は、人の流れの交差するその点の上に立ち、
右手に起爆装置のスイッチを握ったまま、天を仰いだ。
信号は青。人々は、こちらから、向こうから、彼の前を大勢行き過ぎた。
彼は、その時、天に向けて何事か叫んだ。が、それを正確に聞いた人はいない。
都市に暮らす人々はすでに、こういう輩には慣れていた。
そして、そこから身を守るのは、無関心であることを人々は長い都会暮らしの中で学んでいた。
普通と言う殻に閉じこもった人間と、閉じこめられた人間とが、交差していた。
青信号によって生まれた一時的な雑踏。
だが、それも、これまでだ。
彼は思った。
これを押せば、全てが変わる。
彼は“普通”を破壊しようとしている。
長らく、封じ込めた....。
それを思うと、身体がぞくぞくと震えた。
未知の感動に、彼の恍惚は一気に高まり、そして溢れた。
何かが、どくどくと彼の中から垂れてきて、
内ももをひやりと濡らした....。
彼は微笑んだまま、
右手の中のスイッチを押した。
かちり。
乾いた小さな音を、彼は聞いた気がした。
***
葬祭場は、黒と白とに彩られていた。
好きでもなかった、多くの菊の花に囲まれて、彼の笑った写真が見える。
その笑いはどこか引きつったようで、おそらくは笑えと言われて笑ったんだろうなと見る者に想像させるほど、不自然な笑みだった。
高く掲げられた段の前で、一人泣いている女性がいる。おそらくは彼の母だろうか。
父親の姿は、ここからは見えない。
参列者は数十人。決して多くはない。
しかし、彼の生前感じていたであろう孤独を考えれば、この人数は、むしろ多いと言っていいかも知れない。壇上の彼は相変わらず不自然に笑っている。
「全く、ご不幸なことでありました。」
誰かが、彼の母に弔いの言葉を投げかけた。
「いいえ...。」
母親は言葉に詰まった。
「交通事故、だそうで。あんな人通りの多いところでも、本当に、無責任な運転をする奴が....。」
「ええ...。ほんとに、不幸なことでありまして...。」
母親は答える言葉を持たない。
「ところで...。息子さんは、一体何をなさろうとしていたのでしょう?からだに...。無数の電気コードが巻かれていたとか....。」
遺留品に...。トイレットペーパーの、芯が....?
まあ...。
入り口付近に集まった夫人達の、ひそひそとした会話が聞こえる。
それは確かに、祭壇の前の母と男にも届いたが、母はそれを、努めて聞かないようにしているようだった。その様子を見て、慰問の男も、それ以上、彼女の息子の目的について聞こうとはしなかった。
慰問の男は彼の祭壇に手を合わせると、棺桶の小窓を開けて、その亡骸をのぞき込んだ。
「しかし、奇跡的にとでも言いましょうか、事故でご不幸に会われたにしては安らかな笑顔だ。まるで、こういっては何ですが...、幸せそうな....。さぞ、ご多幸な人生だったので、しょうな....。」
小窓の中の彼は、恍惚に浸った表情で眠っている。
男が、思わず幸せそうだ、と言ったのも無理はなかった。
誰の目にも、写真中の生前の彼より、それは確かに幸せそうに映った。
母親はその彼の亡骸をじっと見つめている。
そして、最後に彼のこうした笑顔を見た日のことを思い出そうと努めたが、それはいずれも、古ぼけた、あまりに幼い日の面影に過ぎなかった。
母は一人、涙に顔を伏せた。
男はそんな母を慰めるように言葉を掛けた。そして、祭壇の彼の遺影に再び目を遣った。
遺影の中に微笑む、引きつった笑顔の彼と、不意に目があった気がした。
男は人知れず、ぶるり、と身震いした。
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