2008年5月11日日曜日

In the bowl (5)

僕と君の食卓はいつも、この小さなテーブルの上。

ブラウンの長方形に区切られた
閉鎖的な低い平テーブル。
その空間に並べられた僕らの料理。

生きようとする僕らの浅黒い意思の表れ。
人に絶望したことはあっても自らの命までは捨てきれない人間の。

しかし、僕らの皿にのせられた食事は、
いつもそんな動物的な要求を感じさせないほど優しい色をして
澄ましている。

生血に口を濡らし、肝臓をすする肉食獣と
毒の入った草を平気で毟り喰らう草食獣の間にあって、
僕らの食事はどうして、こんなにも優しいのだろう。

一杯のシチュー。
底の深い、白磁の皿に。鶏肉と、サヤエンドウと、
ちょっと大きめのにんじんとジャガイモ。

僕の切った野菜は、いつもなぜか大きくて、
小さくすれば、切りすぎると言われ、
大きければ大きいと言われ、
一度も、このシチューを褒められたことはない。

もちろん、それは以前の話だが。
今の彼女は、どんな僕の料理も、批評することはない。
ただ、おいしければ笑って、
おいしくなくとも、笑って、
食べてくれる。

それはうれしいことだけれど、
少し申し訳ない気もしている。

優しさは時に、僕らに苦い後味を残す事もある。
特に、純粋すぎる優しさは、甘くないことが多い気がする。
僕は彼女と一緒にいて、時々、その味を感じている。
それは決して、嫌なわけではないのだけれど。


シチューの傍らに
君の作った、ポテトサラダが一鉢。

僕がシチューに使ったジャガイモの余りを手に取ったので、
何を作るのかと思ったら、
案の定、このサラダを作った。


白い皿に並ぶ、二つの白い料理。
僕らを照らす白色灯。青白い冷光。

静かな食卓。
それはいつものこと。
低めにかけたラジオから、
静かな、控えめのメロディが切々と流れている。

静かな食卓に流れるメロディーは、
食事をさしおいて、食卓の空気を決めてしまうと僕は感じている。

上品な曲であれば、それは上品になり、
やかましければ、食べている気がしなくなる。

今、僕らの間に流れてくるこのメロディは、
明らかに、先ほどから、僕の注意をそいでいた。

僕らの食事には、この曲は、
あまりにしんみりしすぎているように感じた。

本来なら、僕は穏やかなトーク・ショーが聞きたい。

何をさしおいても、落ち着いた人の声が一番、食事の場には似合う気がする。

どんないいレストランでも、必ず人の声はするから。

むしろ、人の声を求めて、誰かと一緒に食事をすることがある位だから、
食事と話し声は常に対になる組み合わせなんだと思う。

でも、今の彼女に人の声は、
沈黙以上の苦痛をもたらすだろうとは感じている。
特にその声が周到に練られたものであればあるほど、
彼女の耳鳴りは次第にこめかみを締め付けるような苦痛を伴って
彼女に苦悶の表情を浮かばせてしまう。


だから僕は、ラジオの番組を切り替える代わりに、
僕の空いた左手で、
君の右手を掴むようにしている。

それは、言葉のない僕らの間をつなぐ。
食べるという作業につきまとう孤独を
少しでも癒してくれる、僕らなりの工夫。

利き腕を封じられた不自由な状態で、それでも
その手を払いもせず、左手でシチューを口に運ぶ君。

ぎこちないことには、僕の右手も同じ。
シチューを口に運ぶ度、ぴりぴりとしびれるこの右腕は、何を思っているのか。
口先で微かに震えるその先端の、乳濁したスープのどよめきを、
僕は時々見つめている。

不器用に進行する僕らの食卓。


この手を離すことで生じる、
向かい合っていると言うだけの孤立感が、
僕らには、なんだか、恐ろしい。

そんな恐ろしさの中で食事する位なら、
お互いの繋がっている感覚を保持したまま、
不便な食事を続けたほうが、まだ僕らの気持ちは救われる思いがした。

君と繋がれた左手が、
左手の面積以上の安心感を僕に与えてくれている。

左手から伝わってくる君の体温と皮膚の呼吸が
僕らの沈黙を和らげる。それによって確認する、君の確固とした存在。
これが、幻、ではないことの保証。

今の僕らに必要なのは、お互いに共有できる感覚。
たとえば、この皮膚感覚のように、僕らに残された感覚で、
僕らは僕らが未だ繋がっているという安心感を必要としている。


君は僕の手の下から、一度右手を抜き出すと、
僕の左手の上に、その右手を置き直した。

そして時折、思い出したように、
僕の手をさすりながら、食事を続けた。


言葉にならない不安に
君はいつも怯えている。

本来なら、一言、何か泣き言を発してしまえば、
それはそれで終わってしまうのだが
君はあの日から言葉を捨てている。

いずれにしろ、今の気持ちを素直に表す言葉など、
君には選べないのかも知れない。

あふれ出す言葉全てを吐き出すには、
あまりに細く、弱すぎる、その、喉。

全てを言い尽くす前に、それは灼けて潰れてしまう。
後には、言い尽くせなかったいくつもの思念が、
その胸にわだかまることだろう。


君はそれならばいっそ、黙り込んでいることを選んだのか。


君のしなやかな細い手は、僕の左手の上を、さっきから、
行ったり来たりしている。

その微かな感覚は、君の心の中で渦巻く不安を
象徴しているようにも見えた。

細い腕にかかる、押しつぶされそうな君の思いを
僕は確かに見た気がした。


僕は静かに腰を上げた。

食卓を回り込むように位置を変え、
そして、彼女の隣に座った。

窓を向いて座る彼女に並んで、僕も窓向きに座る。

カウンターに腰掛けた、いつかの二人のように。

あれは何時のことだったろう。
始めて、二人で会った日、だっただろうか。


取り残されて、右腕を失って間もない僕と、
両耳を失った君が、
傷口からの出血も十分に止まっていない状態で、
ぱっくりと開いた赤黒い傷口の深さに自分でも驚きながら、

まやかしのようにアルコールを飲んでいた夜。

それを思い出す。あれはもう、ずいぶん遠い日のことのように感じる。


あの時も今も、身体の側面に、
いつも感じている感覚は、彼女。

もたれかかるでもなく、
頼らないでもなく、彼女の重力が
僕の体の横で微かにふらついているのを、僕は感じている。
それはあのときと同じ。
君はあのときも、僕に頼るとも、頼らないともしなかった。

あやふやな軌道を巡る小さな彗星のように
常に大きな惑星の重力に翻弄されていた君。


僕がこんな窮屈を強いても、
君は何も言わなかった。

低いテーブルの間に、四本の脚を織り込んで、
僕らは二人折り重なるように、上手に体をずらしながら、
滑稽な食事は続いた。

思いの外冷たい彼女の肌。
温かいシチューもまだ、その肌には届いていない。


お互い顔をを合わせるわけでもなく。


窓の向こう。見えないいくつもの星。
地上に残る窓の明り

駅前の高層タワーのライトアップ、
そしてその頂上の衝突防止用の赤い明滅灯。

誰もいない空に、高層タワービルディングは
寂しげに空を見上げる。

月はない。


ここから見えるいくつもの窓の向こうに、
僕らと違った生活が、幾つもあるのだろうか。

あの窓の向こうには幸せが、
この窓の向こうには不幸が、
あちらには家族の肖像、
こちらには孤独の幻影。

いくつもの異なる生活が同じように照らし出す、
窓の明かり。無表情な星。

遠すぎる星の大きさは、僕らには分からない。

でもその中に、こうして並んで
シチューを食べているこの二人のように
失った部分を余った部分で埋め合わせながら、
かろうじてお互いを繋いでいるような、
不器用な恋が、他にもいくつか、あるのだろうか。

僕はそんなことを考えている。


彼女のシチュー皿から時折、かちゃかちゃと音が聞こえる。
僕の皿からも。

飲み込んだシチューのスープが僕らの喉の奥に
温かく流れ込み続ける。

ラジオからは相変わらず、場違いなメロディー。
傍らに感じられる彼女の重みが次第に大きくなってくる。

柔らかな肢体の中の硬質な悲しみ。
あふれ出しそうで、居場所を失った言葉。
行き場のない、その言葉の内圧に
彼女は破裂しそうになっている。

食事をしようと僕らが動く度、
机の上で、コップに入った水が微かに揺れる。

コップの水は揺れながら
それでも零れることは無く、
僕らの目の前で左右に危なげな均衡を保っている。


彼女がちょっと僕の方を見た。

流れるのは場違いなメロディー。
砕けたジャガイモ。なおざりにされたスプーン。
白い液体の上に浮かぶ色彩のオブジェクトは不安げに僕らを見上げる。

コップの水は更に左右に振幅を強めていく....。

ベランダ越しの遠い寂しげな高層ビルディング。
赤い明滅灯。誰もいない空。一様に無表情な幾つもの恋愛の形。

彼女は、隣に座った僕の胸に、その顔を埋めた。

小刻みに震えている、その小さな心臓。

両の手はしがみつくように、
僕のシャツの胸元を掴んでいる。シャツに刻まれる深い皺。
君に向けて流れ出すその陰影。

その爪の先が、奥まで突き刺さるような
痛みを胸に走らせる。

僕のシャツに冷たい感覚がしみ通ってきて
そこからゆっくりと広がっていくのを感じた。

僕は左手で彼女を支えている。
彼女の中から、この何か冷たいものが、
早くみんな出て行ってしまえばいいのにと、僕は思っている。

彼女はまだ震えている。
スプーンはシチュー皿の中で、先端を高く跳ね上げて転がっている。

コップの縁から静かに零れ落ちようとしている、一滴の雫。
それに映るのは逆さまの僕らの肖像。

濡れたグラスの表面を滑るように落ちて、やがてコップの縁を濡らし、
そして見えなくなった。


ごめんなさい。
彼女は言った。

僕の胸に顔を埋めたまま、
その声は僕の胸膜を直接震わせ、
そして心臓を握りしめた。

彼女の重みが僕の胸に全てかかってきているような気がする。
小さな身体にはあまりに重い彼女の
その身体に背負わされた記憶。

赤黒い魂の傷口。


僕は気が遠くなるような感覚を覚えて、思わず宙を見上げた。


人が見せるこうした、
動物的な、
あまりに動物的な仕草が、
人の感情を動かすことがあるのは、なぜなのだろう。

考えてみればくだらない、いくつもの物事。
でもそれは、同時に僕らにとって、あるいは生きることにも直結する、
切実な問題だったりもする。


サラダボールに入れられたままの、
彼女のサラダが目に入る。

そうだった。

君がポテトサラダを作るのは、何日ぶりだっただろう。

近頃はめっきり作る回数が減ってきていたのに、
久しぶりに君はこのサラダを作った。


君の作るポテトサラダにはいつも、
マカロニや、グリーンピースに混じって、
缶詰のミカンが入っている。

白いポテトサラダの中に、ポテトに埋もれるようにしながら
まぶされたミカンの果汁の詰まった水滴のような欠片が、
オレンジ色にちりばめられている。

僕は君と出会うまで、
ポテトサラダに缶詰のミカンが入ることを知らなかった。


...僕はうすうす気づいている。

君がポテトサラダを作るのは、
彼を思い出した時。

缶詰のみかんの入ったポテトサラダは
おそらく、彼の味なのだろう。

以前はこのサラダを、君は本当に良く作っていた。
だから僕は、これが、君と彼との思い出の味なのだと何となく
察していた。


今日君がこれを作り始めた時、
僕は彼のことを考えているのだと思った。

でも、僕にもそれを責める気はない。
僕の今日のシチューだって、
彼女との思い出がないわけではないのだから。

それを思い出さずに作っていたかと言えば、それは大いに疑問だ。

心のどこかで、彼女のことを思い出していた。
そうに違いないのではないかとさえ、思えてくる。


僕は、泣いている君を起こし、涙を拭いた。
そして静かに抱きしめてあげる。

人は、人と生きていると
どうしてこんなにいろいろなことが、
不自由になるのだろう。

もっと子供のように、
全てをありのままに、見つめて、

おもしろいか、おもしろくないか
そのたった二つの価値観で、生きていけたなら、
僕も君も、もっと
このポテトサラダと、シチューの味は
シンプルだと気づいただろうに。


君の掴んだ、僕の胸のあたりは、今もちくちくと痛んでいる。
拭き取った君の涙が、僕の指先で揺れる。

僕は君の顔を、正面で見すえた。
君は涙に濡れた瞳で、僕の目を真っ直ぐに見つめている。

泣いた後の乱れた呼吸が、僕の頬を吹き抜けていく。
嗚咽に揺さぶられる身体。上気した頬の色。

先ほどまでシチューを食べていた君の脣には、
うっすらと脂が浮かんでいる。


そんな表情のまま、君があまりに、真っ直ぐに僕を見るから、
僕は思わず、はにかんでしまった。

キスをしてもいいかとは思ったけれど、
その前に。

その脣を拭いて、
そして、

君の作った
ポテトサラダを。

柑橘系のその香りは
僕らの気持ちを少しでも
前に向かせてくれるだろうから。

先ほどまでびりびりとしびれていた右腕は、
微かに力を取り戻したようにも思える。

僕はその右手で、そっと、彼女の濡れた頬を撫でた。


ポテトサラダは食べないの?
僕がそう聞くと、

彼女は一瞬きょとんとして、
そして笑った。

泣き腫れたまぶたを時折
右手でこすりながら、

君はかつての思い出をその小さな手で装う。