真夜中の車中。車の中に男と女。
車は疾走する。
誰もいない高速道路。アスファルトの上を滑る様に走る銀のセダン。
車中には絶え間なく低音のベース音。
オレンジ色のナトリウムランプに照らされた、助手席の女が運転手の男に話しかけた。
「ねえ、私達、これからどうするの?」
男は答えなかった。
唯、その先に続く道が、ほとんどRの無い緩い曲線を描いていることを知ると、静かにギヤをシフトした。エンジン音が一段と軽やかに上昇する。
「ねえったら。」
女はもう一度、男に語りかけるが、男は依然として答えない。
男は黙り込み、前を見たままだ。自分の行く先に続く、何もない道をひたすらに見つめている。高速に乗ったばかりの頃は何台か見かけた対向車も、ここしばらくは一向に姿を現さない。彼と彼女の前にはオレンジ色に照らされた道が、暗闇にぼんやりと浮かび上がり、遙か視界の彼方まで伸びているだけだった。それは良好なようで、目印もない悪路。ともすれば、自分たちの居場所すら、見失ってしまいそうになるほどの。
女は問いかけるのを止めた。ふてくされたように助手席にもたれかかった。
「...勝手にすればいいわ。」
女はそう、投げやりに誰に向かってでもなく呟いた。
二人は共通の友人の結婚式に招待され、出席した帰りだった。
彼女らはもう付き合って3年になるが、男の側から二人の今後についての示唆を受けたことは、これまで一度もなかった。
彼女は彼と一緒になっても良いと付き合い始めてからずっと思っていた。しかし、彼は一向に彼女に自分の気持ちを明らかにしなかった。
私とは、一緒になる気はないのだろうか。
彼女は最近、そう思い始めていた。
遊びなら、遊びでもいい。
それでも、それならそうと、説明はして欲しい。
彼女の思いは、月日を重ねれば重ねるほど、切実だった。
しかし、その思いは何時になっても彼には届いた様子はなかった。
彼は依然として、そのことについては口をつぐんでいた。
友人の晴れやかな結婚式の後、二人で食事した、小さなレストランのテーブルでも、この静かな車中でも、彼はその話を持ち出してはくれなかった。
車だけが黙々と真夜中の高速道路を北上している。
大きな言葉の欠落を抱えたまま、エンジンだけが雄弁に、この重苦しい沈黙の中、独りよがりな語りを続ける。
街路灯のオレンジ色の光が入る度に、女の黒い瞳に涙が光った。しかし、前ばかりを見つめる男は、それを気遣う様子もない。
女は、サイドウィンドウ越しに流れる街路灯の列を見ている。風景は残像となって、瞳の中に何列もの光の帯を描き、そして、月もない闇にうっすらと消えていく。
「あなたは、いつもそう。」
女はその姿勢のままで呟く。サイドウィンドウに映る半透明の男の影に向かって。
「私のことを、本当にかまってくれたことなんて、今まであった?...いつもそうやって、自分勝手で、都合が悪くなると、黙り込んで...。」
男は何も答えない。半透明に流れる風景を写したまま。
カーステレオは低音を響かせている。遠い昔、交通事故で死んだ天才的ベーシストのはじく弦の音。
「そうやって黙っていれば、そのうち、私の気持ちが収まると思っているんでしょう...。分かってるんだから...。」
男はそれでも答えない。
女の見つめる影の中の男は不敵に微笑んでいるようでもあり、無表情のようでもあったが、いずれにしろ鮮明な像を結ばなかった。後ろの風景を写しながらガラスの中の男は彼女の方ではなく、前の何もない道を見つめ続ける。
女はそれきり、何も言わなくなった。
沈黙のまま、時は流れた。
何時しか曲は切り替わり、トランペットが静かな立ち上がりの曲を演奏し始めた。始めは夜に溶けるように、そしてやがて嘆くように、金管の響きは音色を変えていく。
「...トイレに行きたい。」
女はぽつりと言った。
深夜のパーキングエリアは、まるで忘れられた城のように、赤々とランプに照らされているばかりで、人影はほとんど無かった。広い駐車場の隅で、疲れ果てたトラックが数台寄り集まって眠り続けるばかりで、昼間はあったであろう街の特産品の売り場も、すっかり影を潜めていた。安紙に書かれた昼間の露天のメニューが時折吹く湿った夜風に揺れる。
彼女がトイレから出てくると、彼は先に戻ったらしく自動販売機の前で缶コーヒーを飲んでいた。左手には暗闇の中にたばこの先端の光りが赤く灯っているのが見える。
彼は自分の車の方を向いていたが、それを見ているようではなかった。
そのずっと先の、視界を左右に横切る高速道路の先の高い山々を見ているようだった。
山々はそこへ沈もうとしている月に照らされて、ほのかにその頂を暗闇に浮かび上がらせていた。
彼女は時折深く息着くようにたばこの煙を吐き出す彼に、何か話しかけづらいものを感じて、自分がトイレの前にいるのも忘れて、しばらくそこで彼を見ていた。
そうして、再び吹き始めた夜風の冷たさに、ふと正気に返り、つかつかと彼の前に進み出ると、少し振り向くようにして、
「行くよ。」
と言った。
彼は表情も変えず、たばこを近くの灰皿でもみ消すと、缶コーヒーをあおるように飲み干して、彼女に続いて運転席に戻った。
彼が運転席に座ると、
彼女は彼の腿の辺りに先ほどのタバコの灰のようなものが微かに付いているのが気になった。
暗い中でそれは、白く...、あるいは月光を浴びて銀色に光っているのだった。
彼女は咄嗟に、彼の腿を払った。
銀の雫が、はらはらと落ちた。
彼はその時、一瞬彼女の瞳を確かに見た。
そしてその行為の意味を理解すると、何も言わずに車のキーを回し、高速道路へ戻った。
車に戻っても二人の間に会話は依然としてなかった。
彼女はまた同じようにウィンドウに映る彼の横顔越しに流れゆく暗い風景を見つめていた。
ありがとうって、言えなかったな、あたし。
彼女は考えていた。
昔だったら...、会って最初の頃だったら、ああいう時、待ってもらったから、
ありがとうの一言くらい、反射的に言ったはずなのに。
彼女は、ぶっきらぼうに『いくよ』としか言えなかった自分に後悔していた。
慣れてくると、どうして、この言葉をひとこと言うのに、
こんなにも難しさを感じてしまうんだろう。
彼女の方の窓からは月は見えなかった。
月明かりは常に、彼女の見つめる方向の後ろ側から差し込み、車外の風景を照らした。
屋根のある車の中だけが、ほとんど暗闇になり、計器類を照らす僅かな光り以外、はっきりとした輪郭を持たなかった。
暗闇を運んでいる、一台の車は北に向けて疾走する。
たぶん、期待しているからかな。
彼が私に何かをしてくれる分、
私が彼に、何かをしているって。
彼女は一人考えていた。
男がが何も言ってくれなかったから、彼女は考え続ける以外になかったのだ。
でも...、これで二人の関係が終わるとしたら、
言わなきゃ無いのかな、『ありがとう』って。
突然、暗がりの中で、吹き出したように女が笑った。
ありがとうって、別れの言葉だったんだ。
そして、それで何かが吹っ切れたように、女は前を向いた。男と同じ風景をフロントガラス越しに見つめるために。その顔には微かな笑みすら浮かんでいるようだった。
彼は、私が灰を払ってあげた時、
『ありがとう』って、言わなかった。
彼女はその事実だけが、まだ二人の先に続きがあることの...、
少なくとも彼がまだ、別れを考えていないことの現れであるように思った。
それだけにすがるのも、ばかばかしいけど。
女は口元を抑えて、もう一度微かに笑った。
しかしその表情は夜の闇に取り込まれるように、また、すぐに曇った。
でも...、こんな不確かなものじゃなく...。
黒く濡れた瞳が、男の横顔を覗いた。
その瞳はどこか切実なものを秘め、声にならない声を含んでいた。しかし、自分の弱い部分を見透かされたくなかったので、その瞳を男に覗き返されることは避けたかった。男が視線を僅かにでも彼女の方に動かすと、すぐに視線をフロントに戻してしまった。
男は彼女のその視線を気にしているようだった。何も言わなかったが、無関心な振りをして、彼女の視線を追いかけているようだった。
女はそれに気づいていたが、それでも、あえて視線をそらし続けた。自分に対して何の説明もなく、黙り込んだままの男の意のままにさせたくない気持ちと、視線を合わせたい欲求の中で、揺れ続けた。
「...なんだよ。」
たまりかねたように男は言った。
不意に女が笑った。
「...気持ちわりいな。」
女はそれ以上、戯れるのを止めた。
男もそれ以上何かを口にすることはなかった。
彼女が逃げるのを止めたことに安心したのか、あるいはその小さな戯れ事が急に終わってしまったことに興ざめしてしまったのか、先ほどのような潜むような熱心さは、すっかり失せてしまった。
女はそれでも、言葉にならないながらも、彼がまだ、彼女を気にする素振りを見せたことには満足していた。溜息を吐くようにゆっくりと深い息をした後、椅子にもたれるように深く腰掛けて、女は再びフロントグラスに目を戻した。
道はどこまでも続いている。
ずいぶん家に近づいたようでもあり、更に遠ざかってしまったようでもあった。
この道で合っているのだろうか。
女は、ふと、そんなことを考え始めた。
来る時に通った道のようでもあったが、夜になったためか、元とは違う道を走っているような感覚を彼女は感じていた。
もしかすると、彼は道を間違っているのかも知れない。
でもそれを私に言いそびれて、走り続けているだけなのかも知れない。
彼女が危惧するようにそれは、得てして正しい道を外れているかも知れなかった。男は何も言わなかったので、確かめる術も無かった。二人はどこへ向かおうとしているのか分からなかった。そして、今どこにいるのかさえ、曖昧だった。
それでも彼女は、もはやそんなことは気にしなくなっている自分に気づいた。
夜は、どこまでも続けばいい。
彼女は思った。
人生のどこに、ゴールがあると言うんだろう。
それは、結局どこまでも走り続ける事じゃないんだろうか。
ありがとうを忘れた、二人のまま。
女は一人助手席でそんなことを考えながら、男と同じ加速度の中に身を委ねた。
トランペットが夜に叫んでいる。
エンジンはそれに呼応するように、更に回転数を上げた。
どこへ連れて行くのかな。
女は運転席の彼の横顔を気づかれないように、ちらりと見て、
そして、何かおかしくて、くすくすと笑った。
夜の闇は一層深くなる。
対向車は、まだ来ない。
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