2008年5月16日金曜日

Kid

少女の手を握った時、男はその小さな指先に、人間の感覚を覚えた。

ああ、俺は、ずいぶん長いこと、この感覚を忘れていた。
男は思った。

最後に触れた手は誰の手だったか。

今のように、必要に迫られて触れた幼い少女の手だったか、それとも、単に、コンビニの店員がおつりを渡す時、多すぎる小銭を落とさないように、そっと添えてくれた左手だったかも知れない。

いずれにしろ、俺は、この人の手の感覚という物を、もうずいぶんと長いこと感じていなかったようだ。
男は少女の小さな手を握りながら、そう感じていた。


思えば、彼は孤独な男だった。

数年前に、付き合った女性と別れたきり、彼は恋愛という物に愛想を尽かした。
それまで抱いていたその希望的な側面を正視できなくなり、その背後につきまとう利害関係と、別れ際の醜さから、彼は恋愛という塊が成長を始めるそばから、それをたたきつぶすように無関心を装い続けて生きてきた。

彼は、人と人が、精神的にある一定以上の距離に近づくことにすら、恐怖を感じていた。
ある一定の距離に近づいた時、人はそれまで見せなかった異なる一面を、彼に見せつけるかのように思われた。生真面目だと思っていた人の、面倒くさがりの側面。寡黙だと思っていた人の饒舌な笑顔。優しさの中の利己的な思惑。全てが、彼を幻滅させた。

人は、距離によって色が変わる。
彼はそう思っていた。

近づけば近づくほど、醜い細部が見えるような気がして、彼は何時しか、人という物に、出来るだけ近づかないようにしている自分に気づいた。いつも一定の距離を開け、そして遠くから人々を眺めた。たとえ話しかけられても、自らの内をさらけ出すことはせず、一歩引いて、その話しにさも関心があるような振りをしていた。

俺は一生、孤独なのかも知れない。
彼はある時からそう考え始めた。

誰にも頼らず、誰にも必要とされないまま、俺は世界の平行線上を生き続けるのだろう。

歴史に残る軸を中心とするなら、それとは一生混じり合うことはないと思っていた。世界のどんな流れも、人生の一般則も、彼に直接関係があるとは思えなかった。
幾つになったら家庭を持ち、子を産み育てる。そんなセオリーですら、彼には無縁だった。
唯、彼だけがいて、彼だけが死ぬ。
それだけのことだと、覚悟、していた。

だからこそ彼は、人に気兼ねなく、自分の好きなスタイルで生きようと決めていた。
週末には歓楽街に出入りし、その場限りの快楽を貪ることもあった。
しかし、将来に対し何を残すこともない彼には、そう言う一時限りの喜びこそ全てであった。
見たこともない未来のために今を捧げるより、今の瞬間を生きることこそが彼の生き方だと信じていた。

しかし、今、彼の連れている、この小さな少女は明らかに彼の力を必要としていた。

少女は涙ぐんだ目で、辺りの、原色もけばけばしい、ネオンを見つめている。

彼はそのいたいけな瞳から、出来るだけこの毒を帯びた陳列物を引き離そうと、その手を強く引いて歩いた。無数の裸婦像が、男を品定めするような女の瞳が、あるいは着飾った男の肖像が、彼と彼女を凝視していた。彼らはその中を、どこか目的地でもあるかのようにせかせかと歩いた。

この場所は彼にとって喜びを得るための場所のはずだった。
しかし、彼が少女の手を握っている今は、息苦しいほどに場違いに感じられた。

「お母さん...。」
少女は時折、思い出したかのようにつぶやく。
立ち並ぶ原色に縁取られた写真の中に、母の面影を見出したようだった。

「違うよ」
男は冷たくも取れるほどさめた声で、その子の言葉を断ち切った。
これが現実であるとは、現実であっても見せたくはなかった。

お母さんは、もっとちゃんとした格好をして、ちゃんとして、君を迎えてくれる。
迎えたがっている。

そう信じたかった。


彼が少女に会ったのは、とある性風俗店の狭い入り組んだ入り口から、外の通りへ出た時だった。

彼はいつもそう言う時、それまでのまやかしの幸福感から、現実の重苦しさと平凡な空気の中にたたき落とされる気持ちがした。全ては用意された夢なのだという、自分の行為の無益な結末を自嘲するような寒々とした心持ちがして、彼の高揚はいつも一気にさめてしまった。

少女はその店の入り口の電飾の派手にきらめく看板をじっと見つめていた。

どこにでもいそうな普通の、年はおそらく小学校の1,2年生だろうか。小さな少女が、目を大きく見開いて、看板に書かれた卑猥な漢字交じりの文言を必死に読もうとしていた。

「どうかしたの」
彼はその不釣り合いな光景にあっけにとられたままに、その少女に声をかけた。

「お母さんがいないの」
少女は言った。
「あたしを置いて、いなくなったの」

彼女の目は、何かを訴えかけるような物でもなければ、哀願することもない目だった。
しかし、その真っ直ぐに彼を見た丸い目は、現実を理解できないながらも必死に考えようとする、少女の駆けめぐるような思考がありありと浮かんでくるほどに切実だった。

「おかあさんが...。」
彼は今し方、自らの一部を差し込んだ、年かさの女をふと思い浮かべた。
そして、この場所と、この子の置かれた状況から、彼の脳裏にはこの子の出生と母に関する、ある一つの仮説が浮かんだ。しかし、それを認めるには、彼にはあまりに情報が少なすぎた。

「お母さん、もし、ひとりになったら、“ありす”って言うところのおじさんに頼りなさいって言ったの」

アリス。その名前には彼も覚えがあった。
この近所にある、バーの名前である。入ったことはなかったが、その前を何度か通りかかったことはあった。この様な歓楽街の中で、そこは比較的静かな場所で、大げさな飲酒に疲れた人々が救いを求めて立ち寄るような枯れた一角だった。

「そうかい」
男は言った。
「おじさんで良かったら、そのお店、知っているけど、連れて行ってあげようか」
男はそう言って、そう言ったことに、すぐに後悔した。
知らないおじさんについて行っていけないと言うことは、どこの親でもまず子に教えることではないか。何より、どうして自分がそんな面倒なことに首を突っ込もうとしているのか分からなかった。余計なことをしてしまった。男は言ってしまってから、そう思った。

少女は案の定、男の顔を見極めるかのようにじっと見ていた。
が、すぐに、その大きな丸い頭をこくりと縦に振った。そして、彼の左手に、その何も知らない小さな右手を預けた。

彼はこうも簡単に、見ず知らずの男に己を託してしまう少女の無知に悲しくなった。出会ったのが俺で良かったという、的外れな自尊心と、どういう教育をしているんだという、知らない親への怒りが同時にこみ上げてきた。
知らない人間に、己を預けてしまう、少女の無知な勇気。こういう場合に特有な、戦慄を帯びた使命感に、男は目が覚める思いがした。とにかく、俺がやらねばならない。男はそう感じた。

浅黒い男の左手に繋がれた、丸い小さな手。
男は、自らの汚らわしさを、急に感じる思いがした。
先ほどの行為の蒸れた匂いが、あるいは体液の香りが、まだ自分の周りに漂っている気がして、少女に対して、申し訳ないような気持ちになった。

何よりこの手はさっきまで....。
男はそこまで考えて、回想するのを止めた。


目的とする、“アリス”は、すぐ見つかった。
5階建ての古いビルの2階の奥に、その店はあった。

見かけ倒しの重厚な扉を開くと、そこはカウンターとテーブル一つしかない、小さなバーだった。カウンターの奥のひな壇に並んだボトルが、一斉に彼の方を見たような気がした。

「いらっしゃい」
髭の生えたマスターは、初老、と形容した方がいいような男に見えた。
髭の中に白いものが見えた。

マスターはグラスを丁寧に拭きながら、確かに、彼の連れた少女を見た。

「あの...。」
威厳のあるマスターに気圧される思いもしたが、男は左手の中の少女に勇気づけられるように言った。
「この子の母親を捜しているんですが...。」

「この子の?母親?」
マスターはグラスを拭く手を止め、額に皺を寄せて、彼を見た。そして少女をいぶかしがるように見た。

「君、名前は?」
「えんどうひかり」
少女は、はきはきと答えた。

「遠藤...。」
マスターは少し考え込むように宙を見上げたが、やがて彼女に視線を戻し、その顔をまじまじと見た。そして、それで何かの合点がいったかのように、頷いて、
「わかったよ。少し、此処で待っていなさい。お母さんはもうじき来るから。」
と言った。

そして男の方を見て、
「お客さんも、申し訳ないが一緒にいてやってくれませんか。この子のために。」
そう言うのだった。

男は、正直、もう自分の役割は済んだと思っていたので、このマスターの言葉は期待していなかった。少女と別れるのは少し寂しかったが、面倒とはそろそろお別れしたかった。

少女を見ると、彼の腰ほどの位置から、真っ直ぐに彼の瞳を見上げていた。
そして、彼の中指を、しっかりと掴んで話そうとしなかった。
自らの身体をぴったりと、彼の脚に沿わせるようにして立っていた。

「わかりましたよ」
男は観念したように、そう言った。

カウンターの一番奥まった位置に腰掛けた。
背の高い椅子には少女を持ち上げて座らせた。

マスターは彼女のために、グラス一杯のオレンジジュースを出した。
そして、彼の所には、柑橘系の香りのするカクテルを出した。
その小さな一杯を少しずつ舐めながら、男と少女は母の帰ってくるのを待った。

始め、店にいた客は彼らだけだったが、時間が経つにつれて、
店には数組の男女が来るようになった。

あら、かわいい。
女達は決まってそう言った。

男達は怪訝そうな顔をしていた。
こんな所に子供を連れてくるなんて。
大方、そう思っているのだろう。男には予想が付いた。普段なら自分が、向こうの立場なのだから。

だれだい、あの子。

一人で来た客の中にはそうマスターに尋ねる者もいた。
おそらくは常連なのだろう。木製ステッキを壁に預け、古い酒を飲んでいた、老紳士風の男だった。マスターが老紳士になにやら耳打ちすると、紳士は、ほう、と感嘆の声を漏らした。しかし、それきり、彼女を一瞥したまま何も言わなくなった。

更に時間が経つと、その老紳士も帰ってしまい、店には彼らの他、誰もいなくなった。
マスターは店の表に出て、表札を『Closed』に換えた。

少女はすでに眠っていた。椅子には背もたれがなかったため、こくりこくりと首をゆらし始めた少女を彼は抱き取って、自分の膝の上に座らせていた。子供の重みと、その暖かさに、子を抱いたことのない彼であったが、なぜか優しい笑みが漏れるのを感じた。あるいは、子供に対する優しさは、全ての人間の奥底にあらかじめ、すり込まれているのかも知れない。男はそんなことを考えながら、すやすやと寝息を立てる少女を支えていた。


女が現れたのはそれから更に数時間ほどした頃だった。すでに夜は明け始めていた。

がらがらとドアのベルが鳴り、駆け込んできた女には、男が予想していたほどの派手さはなかった。むしろ着ている物は質素に感じる程だった。しかし、彼に近づくと、女からは、強い香水の匂いがした。

「ありがとうございます」
慌てて駆けつけたのか、女の息は上がっていた。いつの間にかマスターが、連絡を入れていたのかも知れない。女は、母と言うには、まだ若い年頃のような気がした。男はすっかり眠ってしまった少女を、女に預けた。女は慣れた手つきで、その子を抱き上げた。

「本当にありがとうございます、このお礼は何と言ったらいいか...。」
「いいえ、いいんです」
男は言った。
「私も、滅多にない経験をさせてもらいました」
「お邪魔だったでしょう」
女は言った。美しい眉間にしわを寄せた。

「いいえ、この子はずっといい子でしたよ。」
男は言った。
「ずっと、お母さんのことを待っていました。」

女はそれを聞くと、先ほど男が、抱きかかえていた少女に対して浮かべたのと同じような笑みを浮かべた。そして、

「そうですか...。」
とだけ言って。抱き上げた我が子の背を優しく撫でた。

彼女はその後、二言三言話して、店を出た。
もう二度と、会うこともないんだろうな。彼はそう思った。

彼女の出て行った扉から、明け始めた朝の光が差し込んできた。

「もうこんな時間ですけど」
マスターが言った。
「よろしかったら、もう一杯、どうですか」

ええ、と言って、彼は受けた。名前も知らない、柑橘系のカクテルだった。
さわやかな酸味は、先ほどまで彼女の飲んでいたものと同じ、
オレンジジュースが使われているからかも知れない。

マスターは自分のグラスにも少しばかり、何かの酒を青いボトルから注いだ。
そして宝石色のマドラーで、静かにそれをかき混ぜた。

気がつくと彼もまた、あの母親と同じ笑みをうっすらと浮かべている。
この人は今、誰のことを想っているのだろう。
男は思った。

あの子だろうか。
それとも、彼しか知り得ない、誰かのエピソード。

いずれにしろそれは、幸せな思い出の一つではないかと男には想像できた。
あえてそれを聞く気にはなれなかった。
個人的な幸せは言葉にしても、大して面白く無くなってしまうことは、
痛いほど知っているつもりだったから。

男は先ほどまで彼の膝の上にあった、幼子の暖かさと重さを思い返しながら、
喉に下りていくシトラスイエローの冷たい感覚に酔いしれていた。

ドアの外では、朝を告げる雀の歯切れ良い鳴き声が、
アスファルトの裏通りに響いているのが聞こえる。