2008年5月9日金曜日

Some, so formulaic (4)

太陽が落ちてから、
世界が本当に夜に浸るまでの、
短い薄明に、彼らは匂いの籠もった巣を這い出し、
おもむろに街に行き交う人々の中に混じる。

光源を無くした世界は、それでも太陽光の間接照明を受けて
薄明かりの中に微睡んでいる。

その時間には、影が消え、かといって、十分な明かりがあるわけでもなく、
深みを増す群青色の空の下、
夜にも昼にも属さない刹那の時間の中で万物が狼狽える。

それは彼らも同じ。
むしろこの混乱する時間にこそ彼らは、
何食わぬ顔をして、街のありふれた一員になることができる。

しかし、今、彼らのいるこの
巨大なアーティファクトの中では、
そんな薄暗がりなど、ほとんど意味をなさないのは事実だ。

現に彼女は暗くなり始めた世界の中でも、なおも明るく輝く、
店頭の楽天的な希望に満ちたショーウィンドウの先の未来を
次々と物色しながら、

灯から灯へ渡り歩く
夜の虫のように、
光を求めてうろついている。

その目は憧れる少女の瞳ではなく
儚むようなうつろな瞳。
届かないものを知ってしまった者の、
あきらめに似た。

店頭の希望に満ちたオブジェをいくつもいくつも眺めた後で、
その下に控えめに飾られた立て札の中の数字を
ちらりと見ずにはいられない
悲しい習性の虫。

希望を希望で終わらせているうちは、まだそれは美しい夢なのに
その数字は、彼らに、具体的事実でもって
その夢の入り口を指し示す。

光ばかりを追うこともないだろうに。
どうして人は、光を求めるのだろう。
光を、むしろ畏怖する彼らでさえ、
こうして夜の灯を渡り歩く。

彼は、彷徨う彼女の手を、付き従う一個の付随体として、
握りしめている。

この掌からこちらは彼、の領域。

この掌から向こうは彼女、の領域。

しかしもう長いこと、そうして繋いでいたので、
彼女の領域が次第に彼の方まで伸びてきて、
同時に彼の領域が彼女の方まで伸びて、
そのオーバーラップした領域から
彼女の生理的反応までもが
伝わってくるような奇妙な感覚に、彼は陥っていた。

手を繋ぎ続けた相手は、あるいは、もうすでに、
自分の体の一部になってしまうのかも知れない。

とすれば、失った物が感じる痛みが
時折、幻肢痛のように私の心を痛めるのも、
それは無理のないことなのかも知れない。

彼はそう思っている。

忘れたはずのささやきが耳元で聞こえる。
彼は思わず目を塞ぐ。

今の感覚を取り戻す。
取り返せない過去の幻のような曖昧なものなどではなく。

右手に触れるのは、彼女の冷たい左手。

嘗てそこには誰かとの約束があったが、
今ではそれも見あたらない。

彼に塗りつぶされた
凛として冷たい彼女の左手。

しかし、どうして、繋ぐのはいつも右手なのか。
それは彼には、今もって分からない。

彼の右手は、すでに、
彼女の一部と同化してしまっている。

これを失うことは...。

あるいは右腕を失うのに等しいのかも知れない。


彼らが身を寄せ合って生きている、
この、何時来ても知らない街のような顔をして迎える、
洗練された人工都市の片隅に、時折吹くのは、冷たいビル風。
人の間を抜けてきたその乾いた風が彼らを徐々に干上がらせていく。

水が、飲みたい。
彼は思う。

しかし、見渡してみても、
喉を潤す泉すら、この街は欠いている。

あらゆる所にはびこる、リスク・ファクターが、
彼らから泉を奪い、安全性の名の下に、
ペットボトル詰めの水を並べさせる。

塞がれた泉はそれでも、この乾いた街の底を
耐えることなく流れているのに、
人はその暗流に見向きもせず、
遠いアルプスの恵まれた土地の泉に口を潤す。

いつか泉はあふれ出す。
あるいは、地面を沈める。

彼は自分が、その時を心の底で待っているようにも感じている。
平常から路線を外れつつある彼らは、
もはや適度の混乱の中でしか、安心して生きられない。

平静の世界は常に無関心のようで、
言いしれぬ興味に満ちた眼差しを彼らに向けて、
そうして舐め回すようにじろじろ見ているような錯覚に、
彼らはいつも苛まれている。

常に付き纏う、その感覚。

それは幸せになるために、選んだ選択だったはずなのに、
結果としてみれば、それを心から満喫する気持ちは起きず、

ただ、街の目を避けて、
彼らの生きるのはいつしか、
こうして夜になった。

彼は、目を恐れている。

いつも目が、その周りにはあって、
あり得ない角度から、視線を送り込んでくるのを感じる。

ある時は正面。
ある時は頭上から。足下から、背中から。

しかし、どうにもやりきれないのが、
その目は、彼の心の中からも、
彼を覗いていると言うことだ。

こればかりは、どこに隠れても、どこに潜んでも逃れられない。


街は、目立とうとするものには冷笑と無視を与えるが、
目立ちたくないと祈るものには、残酷なほどの興味を向ける。

彼は...、
いや、ひょっとすると彼女も、そうした
ほとんど錯覚と言っていいほどの
自意識の嵐に
頭を抱え、
目をつむり
太陽を避け、

しかし、だからといって、
二人離れてしまうことも出来ず (なぜだ?、と彼は自問している)、
むしろ、二人の間に風の吹く
谷間を少しでも埋めようと、
常にどこか繋がっていることを必要としている。

彼には、もうおそらくは会うことのない、友人の声が聞こえる。
では、なぜそうまでしてこの道を選んだのだ、と。


それは...、
彼には答えられない。

あの頃の彼には、確かな結論があった。
しかし、少なくとも
それは今の彼の中では揺らいでしまっており、
結論と言うのが恥ずかしいほどに、根拠のない
妄信と言ってもいいものに変わってしまっている。

それは、それを信じていなければ、今の彼の生き方に、
なんの筋道も見いだせない気がして、その深く暗い泥の中に
埋もれてしまいそうな恐怖を感じるから、
その川に浮かぶ浮き草のような結論に
しがみつかずにはいられない、と言うだけのことだ。

結論という、言葉の形を取らせているのは、
それは常に説明できる形にしないと怖いからだ。

彼は何より、自分自身に対する説明を
常に必要としている。

本当なら、もっと、
素直に生きたい。

彼は思う。

愛すべき人を、何のはばかり無く
愛し、供に笑うことが、
今の彼には何と尊いことに思えるか。

彼女は...、
あんな事のあった後だというのに、彼には、元気を失ってはいないように思える。


あるいは元気にしている振りをしているだけなのかも知れない。
彼女は日に日に痩せてきた。

明らかに分かる。
まだそれほど老け込む年でもないはずなのに、
腕の血管がはっきりと浮き上がっているのに彼は気づいている。

その笑顔を裏打ちするものが、彼女自身も目を背けてしまうほどの
暗い闇であることが、彼の目にははっきりと見えている。

彼女がどんなに笑おうにも、
はしゃごうにも
高い声を上げても
彼は、余計惨めな気持ちになるだけだった。

多くの犠牲を払って得た、彼女との時間を
少しでも満ち足りたものにしようと、
彼らは何度もお互いを確かめ合い、

距離を縮め、
呼吸を縮め、
凍える心臓を摺り合わせるように、
毎夜眠った。


ねえ。
彼女は言う。
真っ暗な、闇に紛れて。
皮膚と温度だけになった存在で。

私たち、今、
幸せかしら。


彼は、すぐには答えられない。

暗い、暗い闇の中。
定かに見えるはずもない彼の瞳を、のぞき込むように見つめている彼女。
それを正面から捉えることが、彼には出来ない。

彼女の目の光だけが、闇に浮かんで見える。
その瞳は至って切実だ。
冗談や、はぐらかしなど通ぜぬ、差し迫った目。
彼女は息を止めている。
息を止めて、答えを待っている。

答える勇気は彼にはない。
彼の舌は乾き始めている。

しかし、意を決して、彼は自虐に満ちた言葉で答える。

「幸せさ。」


彼は思い出している。
昔の私には、もっと言葉があった。

しかし、
今の私に使える言葉は、何と少なくなってしまったことか。

嘘を吐くことすら、造作もないほどの語彙があったはずなのに、
今となっては、こんな見え透いた
言葉を一つ吐くのにも不自由している。

私は君達とともに、
自分自身の言葉も、失ってしまったようだ。

彼はそれ以上の言葉を吐くのが億劫になり、
彼の答えに満足できずに、顔をのぞき込み続ける彼女の脣を、
半ば強引に奪った。

彼女はそれでも、その奪われた脣の奥で、何かを言おうとしているらしかったが
彼の舌は絶え間なく、その言葉を封じた。

やがて、彼女も察したように
静かに、それに従った。


彼は気づき始めている、彼らに用意された言葉はもう無いのだと。


言葉の多くは、理性の産物だ。
理性を裏切り、情に従った彼に
それを弁解する、言葉など
もう、あるはずはないと、
彼は諦めて仕舞った。

先ほどまでのアルコールの香りが、
まだぷんと香っている。

酔っているんだ。
彼はその事実に
勇気づけられるように、
彼女の上に覆い被さる。

彼はそうして、二人が一つの対である感覚を得ようと
彼女に求め続けるのだが、

近づけば近づくほど、
彼らの間に立ちふさがる
皮膚の分厚い壁を
意識せざるを得なかった。

その皮膚を突き破る糸口を探して、
彼の指は、彼女の本来薄いはずの皮膚の上を
いつまでも、虚しく滑った。

彼は思う。
最初の夜より、
彼女は今、確実に遠くなった。


それは、彼らの切実な祈りに反して
流れ去る、二つの流氷のように
次第に大きくクレバスを広げながら
不運にも、異なる海流に乗って離れていこうとしている。

近づこうと、彼らはお互い手を伸ばし続けている。

しかし、いずれは、それにも疲れてしまう日が来るのだろう。

その時、どちらが先に、その伸ばした手を下ろすのか。
彼はその審判が下される日を恐れている。


もし私と出会わなければ、彼女も、君ともっと幸せに暮らせていたかも知れない。
彼は時々考える。彼の、もう会うことのない友人のことを思っている。

でも、考えようによっては、この選択をしたのは彼女でもあるのだから、
我々は同罪者として、同じ法廷に立つべきなのだ。
陪審員として、君達の裁く法廷に。

皮肉な笑みを浮かべながら、
私は自己弁護するだろうな。
彼はそう思うとすでに、皮肉な笑みを浮かべているのに気がつかない。

もはや、空論に過ぎなくなった
私の言葉で。
その時、私に、いくつの言葉が味方してくれるか、
それは定かではないが。


強がりを言うようだが、始めて彼女にあった時、
すぐに恋に落ちたわけではない。

その時私には、
私の女がいたわけだったし、
彼女とはそれなりに、うまくいっていたから。

しかし、
その後、偶然に彼女に再会し、
少しばかり、話をしているうちに

私たちは旧知の知り合いのような馴れ馴れしさを
得てしまったのだ。

彼女の体を知ることには、
不思議と、何の抵抗もなかった。

知り合いの君の、彼女と言うだけなのに
どうしてこうも、気ままなまねが出来たものだろう。
今となっては不思議だ。

魔がさした、そう言ってしまえば、そうかも知れない。
彼女はそれほど魅力的に当時の私の目に映った。
多少痩せてしまったとはいえ、それは今でも、色あせてはいない。

しかし、その一瞬のはずだった出来事が
私達にとって、今の逃れられない日常になってしまっている
この残酷な現実。

おそらくは彼女も、同じ思いだろう。

私達は一時のスリリングな戯れ事を終え、離れた後も...、
離れられなくなった。


そうして...。

私は、いつの間にか、言葉を捨てていた。


彼は懐から一箱のたばこを取り出し、
うつむき加減に、そのうちの一本に火を付けた。
紫煙の向こうに彼の表情が翳る。


今の自分たちに起きている現象を
説明しきれない言葉など、
もはや無意味だと、彼は悟ったのだ。

しかし、罪悪感に苛まれた日には
彼はそれでも言葉にすがろうとした。

この呵責を丸めて表現してくれる、
矮小化してくれる、
言葉の魔力に
彼は再び頭を垂れて懺悔しようとするが、
それは、言葉に、やはり、ならないのだ。

思い通りに行かない交接のようなやるせなさが、
彼の中にわだかまって、
彼はいつもそのような時には、自嘲気味な笑みを浮かべた。


私は言葉を探している。
理性を裏切った私に、
それでも手をさしのべてくれる、
慈愛に満ちた...、悪魔の、呪文を。

たばこの先が、いっそう赤く光る。
煙が、ゆるゆると彼の口からあふれ出していく。


彼女は、まだ見つめている。
ショーウィンドウの向こう側。

ウェディングドレス。

ハネムーン。

リング。

ダイヤモンドは永遠。
空虚な響き。

しかし人は、刹那を生きる。


私であれ、君であれ、
あのときの永遠は、今、どこに行った?


ショーウィンドウの向こう側。

普通の恋人達にとっては当たり前の、
行き着く先にある品々が、

彼らの流される先にある未来には存在するかどうかも、疑わしい事を
おそらく彼女は、彼以上に承知している。

ショーウィンドウのなかで、
マネキンは微笑んでいる。

樹脂の瞳を空に向けて、
口元も涼やかに、
白鑞の腕は腰元。

夢を見続けていれば、
いつかは人も、こうなってしまうのだろうか。
彼女は思っている。

樹脂の動かぬ瞳は
ショーウィンドウの外の、くたびれた二人には目もくれず、
作られた当初に設定された方角を見つめ続ける。

その見つめる先では、一筋の飛行機雲が、
長々と、細い二列の平行線を残して、
やがて、いつもより遠い色をした空に吸い込まれて消えていく。