2008年5月8日木曜日

Crescent drown in glass (3)

僕と君が失った物が、本当に
右腕と、両耳だけであるかは、
考えてみると、疑わしくも思えてくる。

僕らはそれ以上に、何か大切なものを、永久に、
失ってしまったような気がするのだが、
それが何であるかを具体的に見出すことはできずに、
ただ、身体的なこの欠失感を、
あたかも、僕らの、あの時失った物であるかのように
錯覚しているだけなのかも知れない。

少なくとも、僕には利き腕を通して、
君を感じることは今もって出来ていないし、
君が、僕の話に、注意深く耳を傾けてくれることは
期待できない。

何かを失った物同士が、どうして、
吹き溜まる落ち葉のように、街の片隅に
身を寄せ合って暮らしているのか
僕にはまだ、確かな答えは見いだせていない。


君は、冷たいフローリングの床にひたと座り込み、
ベランダ越しに月を見ている。

魂を失った抜け殻のように、月を見上げるその姿は
この世界という呪縛から、自らを抜け駆けさせる術を、
空を巡る月に求めているかのようにすら見える。

僕はこういう時、いつか君に、僕一人、置いて行かれるのではないかという
恐怖を感じる。

君の中に、僕がどれほど認識されているのか、
僕にはまだ、はかり切れていない部分がある。

君にとって、僕が無二だという確証は
未だに僕は得られていないように感じている。

おそらくはどれほど求めても、それは永遠に得られない
幻のような理想なのかも知れないが、
それでも僕は、君との関係を信じるにたる
何かを求めずにはいられずにいる。

世界から、言葉を失った君は、
おそらくは此処に生きているという実感の半分ほどを失ったに等しいのだろう。

小さな頃から、耳が聞こえないならともかくとして、
君は自分の耳を、そこから入ってくる言葉を
もはや信じようとしなくなっている。

言葉を信じない君に
僕は、何を持って、僕を伝えればいいのだろう。

僕の右手は依然しびれに似た感覚を持ったまま
君に優しく触れることも叶わない。

ともすれば、それは粗暴になりそうで、
ともすれば、虚しく空を切るだけに終わりそうで、

いずれにしろ、僕は君に、優しく触れる事すら叶わずにいる。

どう触れようにも、僕の頭には
過去の傷口から、浸みるような痛みが、
右腕で君を触れる度に蘇ってきて、

そうしてそれは、いつまでも、僕の中にうずいている。

君もそれは同じなのだろう。

僕のささやく言葉を聞く度に、
君は青ざめた顔をして、
そしてやがて、我慢ができなくなったように、
そっと僕の口に、君の人差し指を当てる。

言葉がむしろ僕らの気持ちを虐げてしまうとでも言うように、
君は言葉を遠ざけようとする。

僕は夜になり、
失った感覚以上に、光まで失う時間になると、
君を見失う恐怖が、よりいっそうに強くなるのを感じる。

こうして、ぼんやりと月を見上げている君は
僕からすでに、遠くへ行ってしまった存在のようにも思える。


開け放たれた窓から、
湿った夜風が吹き込んできた。

窓のカーテンが内向きに揺れる。

君はまだ、月を見ている。

手には両手で抱えるようにして
小さなグラス。

食事の終わった後の、一杯の水。
すでにそこに注がれた時の温度を離れ、
君の掌の冷たさに染まっている。

口を付けて、半分ほどにまで減った水は
頭上の弦月の光を受けて、
かつての海原を思い起こしたかのように、
前後にさざめく。

その一向に落ち着かない水面に、月の光と、
君の面影が揺れている。


遠くで、誰かが歌っている。

と、思うとそれは、君の歌だった。


君は、小さな声で歌っている。

僕も知らない歌を。

それは幼い日の、思い出の歌なのか。
それとも...。

いずれにしろ、まだ彼女に、今より素直な聴力のあった時代、
それは彼女の脳裏に刻まれた、今となってはかけがえのない音の記憶。

君は小さな声で歌っている。
かすれて消えてしまいそうな小さな声で。
ともすれば夜の闇に紛れてしまう、
その微かな歌声は、それでも
僕の耳に静かに流れて来る。


君は、何に向けて、歌っているのか。

この空の月か。
傷つくことを知らなかった、かつての君か。
それとも、この歌を教えてくれた、また別の誰か。

おそらくは君自身にも、君の歌は届いていない。
それは君から発せられ、誰にも届かず消えていくため息。

暗くなり始めた蛍光灯の下で
君はまだ冷たい床に座り込んだまま、
月を見上げ歌っている。

小さな肩が、震えているようにも見える。
恐ろしいほど小さな背中に
酷いほどの暗い夜が背負わされているのを感じる。

君はつぶれそうになっている。

その二本の脚で、明日も、立ち上がることができるのだろうか。
それすら、今の僕には疑わしい。

いつか、君はその脚までも、
夜の重さに砕いてしまうのではないだろうか。


夜の光が、君の頬を照らす。
君はいつしか歌うことを止めた。

しかし、依然として、月の返事を待つかのように、
彼女はじっと瞳を夜空に向けている。

グラスの中に、小さな波紋が立った。

同心円状に立つ波紋は
その中心に落ちた雫の
疑うべくもない一列の名残。

波紋はやがて重なり合い、
幾重にも連なって、
そうしてコップの縁へ
吸い込まれるように消えていく。


君は身じろぎもせず、月を見上げている。

収まる気配のない波紋の列は、
君と月の横顔を絶えず乱し続けた。

君の嗚咽が聞こえる。
それすら、夜の闇には
あまりに弱く儚いものだ。

月は気づかない。
僕らが、月に泣いていることすら。
この暗い闇の中で、何を、見ればいいのか。
彼自身は、あんなにも明るく、輝いているのだから。

僕は、月を見上げる彼女から、
そのグラスをそっと奪うと、

残った水を静かに飲み干した。

口の中を潤すのは
冷え切った彼女の温度。

もはや、凍えているとしか、
形容のしようがないほどの
その冷たい感覚で、僕の喉が濡れていく。

先ほどまで月を見上げていた色の未だ褪せていない彼女に
彼女の温度に濡れた舌で、できる限りの僕を、伝えた。

失った右腕はしびれて、うずくような痛みを
僕の神経に訴え続けた。

君の聴覚を襲う耳鳴りが
僕の耳にも
遠く届いてくるような、気がした。


傍らに打ち捨てられたグラスは
更に冴え冴えと輝き始めた弦月の冷光を浴びて、
青白い光に砕けている。