2008年5月6日火曜日

Phantom calling (2)

その喫茶店は、小高い丘の始まるちょうど手前に広がった、
林立するポプラの木の向こうに、隠れるように建っていた。

一見すると作業後屋のようで、
しかし別な面から見るとしっかりと土塀も塗ってあり、
木製の表札が慎ましやかに、その屋根の下を飾っている。

近づくとコーヒーの香りが様々に僕らの脳裏を刺激し、
幻想と恍惚とが入り交じったその、魔力のような匂いの中で、
僕らは体を無くした二つの霊魂のように寄る辺なく、
吸い寄せられるように入り口をまたいだ。

立ち寄った時間のためなのか、
人影はまばらで、
そうした喫茶店が常にそうであるように
店内も、テラスも、
適度な無関心と沈黙とに満ちていた。

足踏みするようなピアノ曲が、静かに流れている。
鍵と鍵の間に時々聞こえる、内に篭もる様なウッドベースの低いリズム。

大きな窓から突き刺さる、十分な太陽光線。
薄い黄色を帯びた窓のガラスのおかげで、それからは憑き物の、
棘のように鋭く網膜と精神を焦がす、青色系の光が失われ、
穏やかな丸みを帯びた暖色のささやきが踊っている。

翳るようなテンポを刻むのは、おそらくは穂先のような
スティックを操るドラムス。


年輪の見える大樹の輪切りのテーブル。
切り口に厚く塗られたニスはなめらかに磨き上げられ、
窓硝子から差し込んでくる光を
鈍く反射している。

室内に満ちる、木の香り。
呼吸。

ベージュ色をした空気が、長らく息つくことを忘れていた僕らを、
当然のような顔をして、迎えてくれた。

いらっしゃいませ。

まだ若いマスターの、
落ち着ききらない声。

だが、彼の横顔には、日に焼けた農家の青年のような
空と大地とを相手に生きる人間特有の古木を感じさせる風格が、
すでに現れ始めている。


僕らはその屋内を通り、涼やかな高原の風の吹くテラスに出て、
外の空気を吸いながら、
ポプラの梢の揺れる音を聞いた。

そこは、家と同じ木材を四方に組み合わせて作られた、テラスだった。
来る時に見た並木のちょうど影になり、
梢に遮られた光が、
僕らの机の上で楽しげに揺れた。

人語を遠ざける君にも、
あるいは人語を遠ざけているからこそ、
こうした自然のささやきには敏感であるのか、

君は見るからに色めきだった瞳のまま、
何もなくなってしまった空に吹く
一陣の風を見遣った。

そうしてふと、我に返ったように僕を見て、
その先ほどの輝きのさめやらぬ眼差しを
惜しげもなく僕に送った。

口角を横に引き延ばし、
口元だけが、ほとばしるように笑みを浮かべていた。

その少女のような、縛られることなく、愉悦する表情の上を
ポプラ並木を吹き抜ける風は、もう一度、からかうように滑っていった。


その喫茶店のメニューには
店長のこだわりだという、様々な名前も知らない国の、コーヒーが並んでいて、
僕らのもとに水を持って生きた店員は、その膨大な羅列を提示しながら、
どれになさいますかと、聞いた。

この様な喫茶店に来ておいて、
それは滑稽にすら思われるほど、矛盾することではあるのだが、
僕も、君も、
コーヒーという飲み物には、実は正直疲れていた。

それは、恋愛という現場の、実に様々なところに現れ、
その都度、涙も、一人芝居も、見てきたはずなのに、
いつも知らない顔をして
白いカップに収まっている。
ポーカーフェイスの悪党のように、その香りは官能的なのに、
いつもその熱を忘れさせるほど涼しげに、僕らの前に現れる。

そうしてそれは口に含む度、
ぬか喜びと一人芝居と、
涙の複雑な味を僕らに鮮やかに想起させる。

僕らはもう、コーヒーをコーヒーとしては味わえなくなってしまっている。

それは純粋に味わうには、あまりに、知りすぎた味なのだ。

だから、コーヒーを出す店にいながら、
僕らはその事実を避けていた。

でも、この店には、コーヒーの他にはアクリルのコップに入った水位しか、
出す物がなさそうだった。

僕らはそれで、折衷案として、
できるだけ、僕らの知らない国のコーヒーを頼んだ。

中南米のありふれた名前のコーヒーでは
僕らは正直怖かったのだ。

やがて銀の盆にのせられ、
いそいそと僕らの前に、
そのコーヒーは運ばれてきた。

東アジアの
コーヒーの飲み方をおそらく覚えたばかりの国の
旧植民地のコーヒー。

それはコーヒー栽培の後進国でありながら、
育ってしまえば同じ植物のようで、
幾分かの香りと味の違いはある物の、
やはり暗い褐色のポーカーフェイスの飲み物には相違なかった。

苦いコーヒーを飲みながら、
時々、舌を洗うように飲み込む
アクリルグラスに水を一口。

さほど冷たくはない、しかし、体温を適度に下げる
15℃の感覚。

その温度の精妙さに、僕が思わず微かに独り微笑むと、
同じように微笑む君に目が合って、
僕らは小さな机にコーヒーを挟んで、
二人、声を立てずに、笑った。

高原には、何もなかった。

収穫の季節でも、種まきの季節でもないこの初夏の一時期には、
そこは人影もなければ、
土を耕すトラクターの音もない。
風の潤す沈黙が広大に広がっている。

夏のこの一時期、
高原の主役は、この一陣の風なのだ。

彼らだけが、
この大地の起伏に沿って低く広がった緑の中で、いつも絶え間なく動き、
ジャガイモのつぼみを揺らし、
そばの花に陰るような笑顔をもたらす。

そして、温度から温度へと、彼らは熱を運ぶ。


僕らの上を吹きすぎた風が、そのまま
小高い丘を吹き上げて、
広いそば畑を揺らしていく様子を
僕らは木陰のテラスにいながらありありと
見て取ることができた。

自分たちと、世界との間に、なんの垣根も存在しないことを
風は嘲笑うように、
何度も、何度も、そうした悪戯のような行為を、僕らに見せてくれるのだった。

ついつい、二人の閉鎖的な世界にこもりがちの、
恋愛という視野狭窄に陥り、
それから立ち直る術を模索し切れていないまま、
新たな恋愛に戸惑っていた僕らにとって、
この風の無邪気としか言いようのない悪戯は
僕らに世界の広さを思い出させてくれるのに十分すぎるほどの微笑みを作った。

いつしか、一杯のコーヒーも底をつき、
そうして、しばらくの時間が、また重ねられて過ぎていった。

こうしている僕らの間に、いつも不思議なほど、言葉はない。
それは、言うまでもなく、
上っ面だけの見え透いた言葉に
全てが言い表されてしまうむなしさを
味わい尽くした、君であったから。

表現すると言うことは、
表現できなかった、他の多くの思い出を
全て捨て去る作業であるという
その悲しさに、
僕らはもう、絶えきれずにいたから。

僕らはもう、時々発作的に浮かんでくる、
二人の間の微笑み以外に、
必要とする交流を、
持てずにいる。

吹き抜ける風は、
その不自由に縛られた僕らの上を、
何不自由なく駆け抜けていく。

温度から、温度へと、
彼は単純な、
しかし、深遠な法則に従って
ありのままに、熱を伝える。


一杯のコーヒーと風の悪戯と
高原の気候と、そうして、音もなく降り積もる
ひとときの時間の中で、

風に揺れる抜け殻のような僕らはそれでも充足した何かを感じている。

それはあるいは、二人顔を見せつけ合って、
語り合うより雄弁に
二人の距離を確実に、近づけてくれているように想っている。

長い沈黙の中で、
それぞれの中に篭もり始めた行方を知らない小さな熱は
時々吹き抜ける小さな風を
僕らの間に必要とした。

それが、二言三言の、小さな言葉になり
そして、ため息になり、
時折、零れ出るような微笑みに変わる。

そうして、乾き始めたコーヒーカップを見ながら、
僕らは二人の何か大きなものが欠落した時間を静かに満たしていく。

耳鳴りも手のしびれも、依然として僕らの深い所に
巣くってはいたが、
失った物をぎこちなく補いながら
それでも残った方の手で、
残された感覚で、
僕らは僕らの時間を刻むのだ、

僕は左手で彼女の手を取った。
そして彼女が振り向くのを待って、一言、

もう、行こうか、
と言った。

君は、僕の目を見ると、
僕の左手に空いた方の手をのせて、包み込むようにしながら
微かに笑って、

小さく、頷いた。