2008年6月16日月曜日

捨て子の話

つい、先日の話だ。早朝、まだ薄明かりの時間だった。私は、いつものようにバイト先の店の前を掃除していた。辺りに人通りはなく、車もほとんど通らなかった。ふと、向かいの建物の角に立つ人影に気がついた。そこは個人病院だったが、開業までには、まだ時間があるはずだった。それは女のようだった。しきりに辺りを気にしていた。女はやがて、病院の入り口の前に手に持っていた荷物を下ろすと、振り返りもせず、その場を立ち去ろうとした。

「ちょっと待って!」私は店の前から、大きな声で呼び止めた。影はびくりとして、その場に立ち止まった。慌てて駆け寄ると、女が置いていこうとしたものは案の定、小さな赤児だった。二重にバスタオルのようなものを巻かれて、すやすやと眠っていた。女は怯えた様子で私の方を振り返った。まだ相当に若い女だった。おそらくは10代前後ではないかと思われた。

「君の子かい。」私は尋ねた。「どうするんだ、こんなとこに…」
「お願いします」私の言葉を遮るように、女は言った。「その子を育ててやってください。」
「ちょっと待ちなさい。」私は言った。女の幼さに苛立っていた。「産んでおいて、こんな所に捨てて、どうするつもりだ。」
「捨てるつもりはなかったんです。」女は言った。「でも、難しくって、結局...」
「結局捨てるのか。」私はあきれて言った。
私の語気が無意識に荒くなっていたためか、女はすっかり怯えてしまっていた。半べそを掻いていた。私は呼び止めたことを後悔し始めていた。この様な娘の取り扱いにはあまり詳しくなかった。出来るなら早くこの場をうっちゃって自分の持ち場に戻りたかったが、今更この状況を放って置くわけにも行かなかった。私がすっかり困り果てていると、ちょうどそのとき、病院の婦長が出勤してきた。
「どうしたの?」婦長は私の顔を見るなり言った。
そして今にも泣き出しそうな少女と、私の抱えた赤児を見て状況を察したらしく、少女を促して「まあ、入りましょう」と言った。女は大人しくそれに従った。私は赤児を抱えて、彼女らの後について行った。

それから20分ほど、少女は休むことなく泣き続けた。私は彼女の話をじっとして聞いていられなくて、応接室の中をうろうろしていた。17歳で、親の気がつかないところで妊娠し、ネットを見ながら自力で何とか出産まではしたようだった。でも、その後の扱いにほとほと疲れ果て、捨てることにしたのだという。
「赤ちゃんって」少女は言った。「こんなに泣くものだとは知らなくて。」
婦長は少女の手を握って、背中をさすりながらそれを聞いていたが、相槌を打つ程度で、特に諭すようなこともしなかった。少女は涙に咽せ、その話は後半ほとんど聞き取れなかったが、それでも婦長は辛抱強く黙ってそれを聞いていた。そして、やがて話があらかた出尽くして、少女の気持ちが落ち着いてくると
「じゃあ、またいらっしゃい。」と言って、彼女を送り出した。
その手には、身ぎれいに整えられた赤児と、婦長の連絡先などが書かれたメモが握られていた。少女は両まぶたをすっかり腫らしていた。それでも婦長と私に涙声でお礼を言って、来た道を帰って行った。
「あの子、大丈夫ですかね。」私は尋ねた。10代の母というものが信用できなかった。
「何度も泣くでしょうね。」婦長は言った。「でも、泣かずに親になった人なんて、きっといないわ。」婦長はそう言って私の肩をとんとんと叩いて、にこりと笑った。そして忙しそうに病院の奥へと消えていった。私は婦長の言った言葉の意味を計りかね、しばらくそこに突っ立っていたが、仕事を放り出していたことに気付き、慌てて持ち場に戻った。