2008年6月21日土曜日

老人と電車

抱き上げてみると少女の体は思ったよりずっと重かった。
老人はその重みに、自らの子を抱き上げた時のことを思い出した。妻の初めての出産は難産だった。当時は分娩室にはいることは許されず、老人は夜通し、待合室で、うろうろと落ち着かなかった。何度も外に出ては星を見上げ、月を見上げて、妻と、そして生まれてくる新たな命の無事を祈った。柔らかな産着に包まれて初めての娘が真っ赤な顔をして彼の前に現れた時、老人はどれほど泣いたことだろう。ストレッチャーに載せられて、妻が運ばれていく時、何度、ありがとうという言葉を口にしたか、今ではもう、覚えていない。

半日歩き続けた少女はすっかりくたびれてしまったようだった。
渠の肩にもたれるようにして、ぐっすりと眠ってしまっている。老人の耳元で、安らかな寝息が聞こえていた。

「この子を早く家に送り届けて上げないと。」
老人は独りごちた。

老人が、この少女と出会ったのは、老人がいつも利用する駅のホームでのことだった。
少女は自動改札の前で手間取り、辺りをきょろきょろ見回していた。

「どうしたんだい。」老人が尋ねると少女は、
「おばあちゃんちに、いくの。」と答えた。

どうやら少女は、一人で祖母の家に行くところのようだった。親もまた、子供に冒険をさせたものだ。老人は尊敬を通り越してあきれた。老人の目に少女は確かにしっかりしたこの様に見受けられたが、一人旅に出すにはあまりに幼い年齢に見えた。

「お母さんと来なかったのかい。」老人は尋ねた。
「お母さん、いない。」少女は答えた。

少女には元々、お母さんがいないのだろうか。老人は思った。今の家庭事情を考えれば、そんな家庭があってもおかしくないと感じていた。父子家庭なのだろうか。

「お母さんは、元々いないのかい」老人は念のためもう一度聞いてみた。
少女は首をかしげたまま、老人をきょとんとしてみていた。老人の質問が理解できないようだった。

「まあ、いい。」老人は仕方なく笑った。
「おばあちゃんちは近いのかい?」
「宮城県東郡陸前町字菅原1-10-5 ごとう、とめこ」少女ははきはきと答えた。
「ごとう、とめこ...。」老人はその名に聞き覚えはなかった。そのような住所も、この辺りには存在しなかった。
「ここの近くじゃないなあ。」老人は困ったように言った。
「間違えていないよね。」

「宮城県東郡陸前町字菅原1-10-5 ごとう、とめこ」少女はもう一度言った。
「...お父さんが言ったもん。」

「お父さんが、か。」誰が言おうと、存在しない地名は存在しないのであった。
どうやらこの子は完全に迷子のようだった。警察に引き渡すか、それとも自分でこの子を家に送り届けるか、そのどちらかしかなさそうだった。

老人はその日、特に何もすることがないので、近くの競馬場にでも行くつもりだった。元々、それほどギャンブルをする方ではない。しかし彼には、これと言って趣味がなかった。仕事を引退し、地元のこの田舎町に帰ってきてはいたものの、特にすることがあるわけでもなく、日がな一日、新聞を読んだり、縁側に出たり、その程度のことしかできなかった。娘も、そのあとに生まれた息子もとっくに独立しており、妻は先年先だった。

「じゃあ、おじいさんがついて行って上げよう。」老人は言った。久しぶりに小さい子を相手にしてみたかった。孫は娘夫婦にいたが、彼女は二年に一度も帰ってきていない。孫が生まれた時に年賀状に写真を貼って送ってきたきりだった。
「おばあちゃん地に行くのは難しいから、お家に戻ろうか。...さあ、お家はどっち?」
「海老原駅」少女は言った。ここから、一時間ほど電車で走ったところにある駅だった。
「よし。」老人は少女の頭を不器用に撫でた。「じゃあ、冒険に出発だ。」
少女はきょとんとした顔で、老人を見上げた。

海老原に出るには下りの列車に乗る必要があった。
ホームの時刻表で時間を確認しているうちに、海老原方面の列車が入ってきた。老人と少女はすぐに列車に飛び乗った。

列車の中で少女は、小さな財布をずっといじっていた。
子供に人気のマスコットキャラクターの絵柄の入った小さな小銭入れだった。

「お財布かい?」老人は尋ねた。
少女はそのお財布がお気に入りなのだろう。それを見せつけるようにぐいと老人の前に尽きだした。
「おお、かわいいねえ。」老人は笑顔で応じた。
少女はそれを手元で再びいじり始めた。そのうちそれにも飽きたのか、ふと顔を上げ、椅子に逆さまに座って、窓の向こうの景色を見つめた。そこは工業地帯であった。白と赤に塗り分けられた煙突が、数本、彼女の前を通り過ぎた。

「電電工業」少女は目の前に並ぶ建物の一つを指さした。老人は後ろの窓をふり返った。
「お父さんあそこにいるの。」少女はガラス玉のような大きな黒い瞳で、じっと電電工業の立ち並ぶ工場群を見つめていた。
「お父さん、何屋さんなの?」老人は尋ねた。
「さらりいまん。」少女は答えた。退屈を紛らわすためなのか、座席の上でぴょんぴょんと跳びはねたが、余り楽しそうではなかった。
「サラリーマンか...。」老人はその言葉に、思わず一人苦笑を浮かべた。そう呼ばれた頃の自分を懐かしんでいるようだった。

あの頃は、よく電車に乗った。老人は思った。
だが、俺はどのくらい、町の景色を見ていただろう。
20年住んだあの都会の町並みの、どの程度を俺は知っているだろう。

少女は電電工業の建物を見送ってしまうといよいよ退屈になったようだった。
しばらく椅子に座って足をばたつかせていたが、やがて、うとうとと眠り始めた。
老人は少女が反対側に倒れてしまわないように、腕を回して、自らの体の方へ抱き寄せた。
少女の体は大人しく、老人の体にもたれた。

老人は母親が子守歌を歌うときそうするように、少女の小さな肩を、はたはたと拍子をとるように打ち始めた。それは遠い物語だった。老人の母の、老人がまだ、老人ではなく、今彼のそばにいる少女のような、一人の子供だった時代の、母の残してくれた、体に刻まれた、拍子だった。

老人はその拍子で、体の思い出すままに、少女の肩を打ち続けた。
そのリズムに少女は気持ちがよくなったのか、より深い眠りに落ちたようだった。
老人は思わず、穏やかな微笑みを浮かべた。