2008年6月28日土曜日

お姉さんになる日

「ねえ、先生。」
放課後、教室に残って先日の課題の添削をしていた私のもとへ、クラスの女子児童の一人がやってきた。
「なんだい?」
私は答案から目を外し、少女の顔を見ていった。少女はまん丸い目を更に円くして言った。

「お母さんが妊娠したの。」
私はどきりとした。少女の口から妊娠という言葉が飛び出すとは予測していなかった。
「ほんとかい。」努めて冷静に私は言った。「じゃあ、お姉さんになるんだね。」
「お姉さん?私が?」少女の円い瞳が喜々と輝いた。「私、お姉さんって呼ばれるの?」
「そうだよ。」私は微笑んで答えた。「もっと、お姉さんらしくしないと、赤ちゃんに笑われるぞ。」
「お姉さん、お姉さん。」少女はうれしそうに何度も繰り返した。
「お姉さんなんだ、ちいさい私が。」
「小さくても、お姉さんはお姉さんさ。」私は笑った。
「そうだよね。」少女は言った。「赤ちゃんは私よりきっと小さいもの。」
少女はその場で意味もなく、くるくると回った。うれしさが彼女をそうさせるようだった。
「先生は、赤ちゃん見たことある?」
「そりゃあるよ。」
「小さいよねえ。」少女は両の手を、赤ちゃんくらいの大きさに開いた。「おててなんかも、こんなに小さい」彼女の指をすぼめるようにして表した。「私見たことあるんだ、ケン君が家に来た時。」
「ケン君?」
「ケン君。お母さんのお兄さんの子供。」
「それはいとこって言うんだよ。」
「そう、いとこ。」少女は真面目な顔で言った。「ケン君とっても小さいの。」そう言うとまた両手でケン君の大きさを表した。「もうすぐケン君みたいな赤ちゃんが生まれるんだもんね。...先生、名前はどうしよう。」
「それは、お父さんお母さんが考えてくれるさ。」私は笑った。「君が心配しなくても、良いことだよ。」
少女は真っ直ぐに私を見ていった。「でも、家、お父さんいないよ。」不思議そうに首をかしげた。「じゃあ、お母さんが考えるのかな。」

私ははっとした。
少女の家庭は母子家庭だった。父親は存在しなかったのだ。
私は言葉を失った。
「先生、先生。」少女は不思議そうな顔で私を見ている。
「どうしたの先生。」
「ああ...、なんでもないよ。」私は努めて微笑んだ。「お母さん、うれしそうだった?」
少女は頷いた。
「うん。笑ってた。...でも。」
「でも?」私は聞き返した。
「でも、お母さん私に聞いたんだ。妹か、弟ほしくない?って。」
「なんて答えたの?」
「もちろんほしいって。」少女は自身の胸の内を表すように、体をきゅっと縮めた。「いもうとがいいなって。男の子って、すぐに散らかすでしょ。私、ご飯作って上げるんだ、サヤちゃんに。」
「サヤちゃん?それって、妹の名前?」
「そう。お名前。」少女はにかりと歯を見せて笑った。「私のサヤちゃん。」
「なんだ、もう勝手に決めてるんじゃないか。」私も笑った。
えへへ。少女は少し恥ずかしそうに身をくねらせた。

「おかあさん、結婚するの?」
私は努めて柔和な表情で彼女に問いかけた。

少女はきょとんとしていた。
「何で?」
「なら、いいんだ。」私は苦笑いした。「なんでもないんだよ。」
「変な先生。」少女は首をかしげた。「先生、お母さんと結婚したいんでしょ。」
「ち、違うよ!」私は今考えると不自然なほど慌てて否定した。
「だって、じゃあ何でお母さんが結婚するかどうかなんて聞くの?」少女が意地悪そうに笑った。「好きなんだ。ミワちゃんが、たっくんと結婚する時も、そうだったもん。」
私は苦笑した。
「先生は、お母さんが、もっと幸せになったらいいなと、思っただけだよ。」私はそう弁解した。
「ふーん。」少女は不思議そうに言った。「お父さんになくても、幸せだけどな。わたし。」そう言って首をかしげていた。

少女はしばらく話した後、生まれたら私にサヤちゃんを見せてくれる約束をして、手を振って帰って行った。

私は少女が帰ってからも、なかなか仕事に手が着かなかった。
そうしているうちに、上級生の担任をしている2つ上の彼女が来たので、その話しをすると、彼女は笑っていた。
「保護者の家庭の事情を詮索しなくても良いじゃない。」
「でも、担任としては、子供の家庭の様子くらい把握してないと...。」
「言わなくても、向こうからやってくるわ。」彼女はあきれていた。「知らせる必要のあることなら。」
私は返す言葉がなかったので、そのまま黙っていた。
彼女も私の脇に突っ立って、しばらく黙っていたが、やがて、
「サヤちゃんって、名前もいいかもね。」そう言って、教室を出て行った。

私は答案の丸付けを再開しようと赤ペンを持ったが、彼女の置いていった言葉の真意にそこでようやく気がついて、廊下の向こうに小さくみえる後ろ姿を慌てて追いかけた。