2008年6月26日木曜日

吠える犬

「俺、鹿児島に両親がいるんだ。」男は言った。
両軍の衝突から3日続いた戦闘は、彼の表情から少年じみたふくよかな頬をすっかり奪い去っていた。落ちくぼんだ眼下の奥から、緊張と恐怖の渦巻いた目が、ぎらぎらと光っていた。
「それでも戦わなくちゃ行けないのかな」
「まだ迷っているのか。」年上の男があきれたように言った。
「君は志願して、この隊に入ったはずじゃないか。それでもまだ...。」
「確かに、志願はしたさ。」若い男は声を荒げた。
「でもそれは、名目上だ。実際には...。」
「周りが、一斉に志願したから。」
部屋の奥で聞いていた、細身の女性兵士がぼそりと呟いた。黒い大きなライフル銃を丁寧に磨いている。
「あなたらしいわね。何時までも子供なんだから。」男の方を見もせずに女は言った。
「...お前はどうなんだよ。」子供と言われた若い兵士は不平そうに問い返した。
「あたし?あたしは...。」女性兵士はふと、微笑んだ。
「どこでもよかったわ。この子と一緒にいられれば。」そう言って、ライフル銃の銃身に軽く口付けた。
「気が狂ってる。」若い兵士はいぶかしがるように女を見た。
「お互い様。」女性兵士はまだうっとりと、黒い銃身を見つめていた。
「じゃあお前は、」二人のやりとりを黙って聞いていた、年上の兵士が口を開いた。
「その銃とさえいられれば、敵方にでも付いた、と言うことか。」
女はその言葉に、きょとんとして、男の方を見た。黒い大きな瞳だった。
「ええ。もちろん。」女は質問されたことすら意外と言った様子だった。
「考えられない。もう、この子と離ればなれになるなんて。向こうの軍じゃ、正規兵しか、こんな立派なスナイピング銃、使わせてくれないでしょう?流れ者は何時までも流れ者扱いよ。能力があってもなくても。」そう言うと、愛おしげに銃身を撫でた。
「だからこっちの軍に入ったの。」
「恐ろしい。こいつには政治の欠片もないのか。」若い男がうんざりした様子で言った。
「イデオロギーだの正義だの、正当性だの大儀だの、この女には一切関係ない。」
「はは、くだらない。」女は軽くあしらった。「だから何時までも坊やなのよ。」
「なにを!」若い兵士は立ち上がった。挑みかかろうとする彼を止めたのは年上の兵士だった。
「まあ、待て。」彼は言った。「勝てる相手じゃない。」
「こんな女ごときに!」若い兵士は言った。「俺が負けるとでも言うのか。」
「ばか!」年上の兵士は、叱責した。
「あの女の銃をよく見ろ。」
女は依然として何食わぬ顔で銃身を磨いていたが、その銃の安全装置はすでに外されていた。
「この距離からなら、あいつは確実にお前の脳天を打ち抜くぞ。」
「クソ!」若い兵士は、足下の椅子を蹴り倒した。部屋に大きな音が鳴り響いて、奥の方で壊れた通信機械を直していた老兵が思わず顔を上げた。
「静かにせんかいガキが。」老兵は大声で言った。「気が散って修理どころでないわい。」
「直りそうかい?じいさん。」年上の兵士は老兵に語りかけた。
「は?」老兵は問い返した。彼は耳が少し遠いようだった。
「直りそうかい?」兵士は大きな声で聞き直した。
「わからん。」老兵は首を振った。「何せ老眼で、細かいところまでは見えんからな。」
「役立たず。」若い兵士が、すねたように小声で言った。
「だまらっしゃい!こわっぱ。」老兵は大声で怒鳴った。
「まあ、じいさんも、あんなガキの言葉に一々腹立てなくても。」
「じじいでも、ガキでも、悔しいものは悔しいわい。」老兵は顔を真っ赤にしていた。薄くなった頭の皮膚まで、茹で上がったかのように赤くなっていた。
「わしはこう見えてかつては第92連隊で、くろがねの泰蔵と...。」
「また、昔の話しか。」若い兵士は皮肉に笑った。「昔のことしか語るべき事がないんだろうな。」
「お前はいい加減黙ってろ。」年上の兵士は低い声で叱った。「これ以上、隊の和を乱すと、それなりの罰を受けることになるぞ。」
そのとき、それまで無関心のように振る舞っていた女兵士が、安全装置を外したライフルを真っ直ぐに若い兵士の頭部に向けた。そして片目を照準に当てたまま、美しい歯を見せてにこりと笑った。
「ばん。」
そう言って女兵士は引き金を引いたのだが、それは銃の轟音にかき消されて誰の耳にも届くことはなかった。轟音が微かな響きを残して、部屋の中から消えていくと、あとには床に転がった若い兵士が残された。
「撃ったのか。」年上の兵士は女の方を見た。女はもう一度にこりと笑った。彼女は美しかったが些か色が白すぎた。青白いほどの笑顔だった。

撃たれた若い兵は、床に転がったまま動かない。目が天井の一点を見つめて凝り固まっていた。
老兵と、年上の兵が彼のもとに駆け寄ったが、女はそれに見向きもしなかった。
「おい!」「しっかりしろ!」
体を揺すっても彼は動かなかった。
「貴様!」年上の兵は女の方を見て怒鳴った。
「見方を撃つこと無いだろう!そもそもなぜ、安全装置を無断で外している?」
「かわいそう。」女は言った。「大好きな子の首を、首輪で縛っちゃうなんて。」女はそう言うと銃身をその身に抱いた。「噛みついてもくれない犬には、何の魅力もないわ...。あなたも、そう思わない?」
「たわけ!」老兵は言った。「まだ生きておるわい。」
若い兵士は天井を見上げたまま、硬直していた。恐怖のためか、体が小刻みに震えていた。彼は失禁したようだった。
「馬鹿め。」老兵は言った。
彼女の弾丸は、若い兵士の耳元をかすめ、板張りの壁に穴を開けていた。おそらくはこの兵士の耳には、銃弾の空気を切り裂く音が、しっかりと刻み込まれたことだろう。
「意気地無し。」女は笑った。
そして銃を大切そうに、革のケースにしまった。