2008年6月17日火曜日

ハツカネズミと人間

 男はネズミの脳を取り出そうとしていた。同僚の多くはすでに夏休みを取っていたため、研究室には男一人しかいなかった。
 雲一つない青空が窓から見えていた。もう、お盆だもんな。男は窓の外に陽光を浴びて眩しくきらめく、隣棟の白壁を見つめながら思った。ネズミは麻酔を掛けられ、解剖台の上にうつぶせに手足を固定されて、観念したように大人しくしていた。鼻先が小さくひくついている。その様子は、男の胸中にも些かの同情を呼び起こしたが、解剖する前に、どうしてもそのネズミの息の根を止める必要があった。男は解剖台の引き出しから注射筒を取り出した。そしてそれに致死量の薬剤を詰めた。
 
 恨むなよ。男は心の中でそうネズミに語りかけながら、注射筒に針を接続した。針先がネズミの腹の位置に近づくと、男の中で躊躇する心は急速に膨らんできた。いつもこうだった。この一針を注射する時の抵抗感は男の針先を小刻みに震わせた。抵抗感が限界まで膨らみ、血圧が上がるような感覚があって、やがてそれを突き抜ける頃には、針はネズミの腹内に達しているはずだった。

 しかしその日の男は違った。いつまでも針を刺すことが出来なかった。針は小刻みに震えたまま宙に留まっていた。しばらくそうした状況が続いたあと、男は、やがてぷつりと糸が切れたように、針を持った手を下ろした。大きな溜息が出た。「やっぱり向いてないのかな。」男は一人呟いた。


 男は父親だった。三歳になったばかりの男の子がいた。たどたどしいながらも親と会話ができるようになり、笑ったり泣いたり、感情表現もずいぶん豊かになった。先日は、どこで捕まえたのか、小さな芋虫を捕まえてきて、彼の書斎の机の上にはい、と言って置いていった。彼の妻はその後ろに立って息子の小さな背中を支えていたが、そのような悪さを仕組んだのは他ならぬ彼女であることは明らかだった。
 彼は芋虫が嫌いだった。幼い頃、近所の悪戯好きな少女に、首筋に虫を投げ込まれて以来、彼は徹底して虫が嫌いだった。そんな彼が気づいてみれば、あのときの少女のような、悪戯好きの女性を妻にしてしまっていた。しかも、妻は息子まで、彼女と同じ悪戯好きの人間に育て上げようとしているらしかった。裏の小さな畑で泥遊びや砂遊びをするのは日常茶飯事で、ミミズをたくさん捕まえて一つの箱に閉じこめ、彼の机の引き出しの中に入れていたこともあった。庭に出ていたら、突然二階から布団が落ちてきたこともあった。息子がネクタイを締めて、七三分けにされて、すっかり中年サラリーマンみたいになって、彼の部屋に入ってきたこともある。町外れの古い町営の借家で、彼女は毎日そうした悪戯を考えながらにやにやしていた。

その妻に昨日言われた。
「あなたの仕事って、やっぱり面白い?」
休日の昼下がり、退屈しのぎに一緒にテレビを見ていた時だった。彼女は息子のために、実家から送られてきたトウモロコシを芯から剥いていた。
「ああ...、楽しいさ。好きで選んだ仕事だもの。」男はそう答えた。食べ終わったトウモロコシの芯を寝転がったまま皿に戻した。
「前から思ってたけど、今はどんなお仕事をしているの。」妻は身を乗り出して聞いてきた。
男はその質問を意外に感じた。「何だい、今頃...、どうしたんだ、今まで聞いた事なんて無かったくせに。」
妻は笑った。「結局私には分からないんだろうけど...、でも知っておきたいのよ。分からないなりに、夫のしていることくらい。わたくしの夫様が、昼間のほとんどを費やしている仕事ですもの。」そう言って、また笑った。「それに...、」
「それに?」彼は尋ねた。
「最近、思うの。あの子を見ていると。新しい命ってすごいんだなあって。生まれた時はあんなに頼りなかった小さな命が、今ではああやって、自分の手足をぶんぶん振り回している。」
妻がそう言って見た先には、口の周りにアイスクリームをいっぱい付けた息子がいた。自分で口の周りを拭こうと思ったのか、箱の中のティッシュペーパーを上手に引き出そうと、ティッシュの箱と格闘していた。彼は何時しか目的を忘れたらしく、ティッシュを箱から出すことに熱中していた。おかげで周りは、引き出されたティッシュペーパーが白い雪のように舞っていた。
 彼は妻の方を見て、丸顔でニカニカと笑った。妻も笑って答えた。

「あなたの仕事も、生き物を扱う仕事でしょう?」妻は言った。「だったらきっと、私が感じる命の不思議や、神秘的な出来事に、あなたは毎日たくさん触れているんだろうなって思って。」
「まあ、それは...、」
「それもいい仕事よね。」妻は言った。「役に立つ立たないは別としても、誰もが気がつかないものと、大切に向き合えるから。」そう言って彼女はティッシュをまき散らして誇らしげにしている息子に駆け寄った。そして、積もったティッシュで真夏に雪合戦を始めた。息子はきゃっきゃと声を上げて逃げまどっていた。

男には言えなかった。
自分の仕事はネズミの脳を取り出す仕事であることを。
命の神秘だとか、不思議だとか、そんな物を考える以前に仕事に忙殺されていることを。
彼は自分の仕事の意義を、ちょうどその時、見失っていた。唯ひたすらネズミの脳を採り続けるだけの人間になっていた。


 研究室の片隅の窓辺に立ち、男はタバコを吸っている。解剖台にくくりつけられていたネズミは飼育箱に再び戻されていた。命拾いしてほっとしたのか、小さな前足を器用に使って毛繕いをしていた。
 彼はプロだった。その自負もあった。必要とあれば、無論ネズミも殺すことも厭わなかった。実際、これまでにも相当数のネズミをさばいてきた。しかし、飼育箱から解剖台に移すためにしっぽを掴まれたネズミが、恐怖の余り失禁して、硬直する姿を見るにつけ、彼は心を締め付けられるような思いがした。普段は大人しい実験用のネズミたちも、その時は決まって大きな声で鳴いた。
(俺の研究は、この小さな命を奪うに値する研究なのだろうか。)男はネズミを殺す度、そのような疑念を抱かざるを得なかった。この研究で、脳の機能の一端は分かるかも知れない。でも、大勢の人の命が特に救われるわけでもない。俺は結局、研究者として自分が生きていくために、このネズミたちを殺しているに過ぎないんじゃないか?
 彼はこの疑念を、もうずっと繰り返し考えていたが、その答えはなかなか出なかった。妻の顔を思い出した。悪戯をする時の息子の顔を思い出した。(俺が科学を志したのは...、)男は思った。(そもそも、ああいう悪戯心が発端だったんじゃないのか?)

 男は首筋に青虫を投げ入れた少女に連れられて、野山を駆けめぐった日々を思い返していた。少女の手はいつも泥だらけだった。そして、あちこち擦り切れていた。
 あの頃は自分の手も、同じような手だった気がした。
男は、改めて自分の手を見つめた。白魚のようにきれいな指が並んでいた。多くのネズミを手に掛けながらも、その手は傷一つ負っていなかった。男は自らの手を見つめながら苦笑した。そして灰皿で吸っていたタバコをもみ消した。