2008年6月19日木曜日

雨の校舎

昨日から降り続いた雨が、今日もまた校舎の窓を濡らした。幾多の水玉模様で、きれいに磨かれた窓は濡れていた。くらい空の下で、蛍光灯に照らされた教室の中だけが妙に明るい。先生は黒板を見つめたまま、何やらぶつぶつ言っている。

少女はうんざりしていた。梅雨という季節は彼女を憂鬱にさせた。何時になっても、雨、雨、雨。夏が遠く、待ち遠しい。

しかも、少女をうんざりさせる物がもう一つあった。父だ。

彼女は傘を壊していた。来る途中、学校近くの電信柱とブロック塀の間に挟まれて、傘の骨はすっかり曲がってしまった。雨は相変わらず降り続いている。家に帰るには、父を呼ぶしかなさそうだった。

またあの緑色の車で来るのかな。
彼女は思った。思い出すだけで溜息が出た。
父は地元の小さな会社に勤めていた。車は、会社から貸し与えられている物だった。緑の古くさい型のライトバン。運転席と助手席のドアには、目立つ白抜きの文字で『山下工務店』と大きくプリントしてあった。

どうしてうちは、もっとちゃんとした車を持ってないんだろう。
少女は思った。
別に、ポルシェとか、ベンツとまでは言わないから、普通の車がないんだろう。

少女が思い描く『普通の車』には、少なくとも山下工務店という文字はプリントされていなかった。シルバー、あるいは青や赤とといった色をしていて、後ろはベニヤ板の敷かれた広々とした貨物室ではなく、ちゃんとしたリアシートが入っているような車だった。

それぐらいのお金もないんだろうか、家って。少女は危惧した。
あたし、高校行けないんじゃないだろうか。
それはそれで良いような気がした。目前に迫った高校入試は彼女を悩ませる一番の代物だった。家にお金がないという理由で、高校受験をせずに済むのなら、それに越したことはなかった。私はただ、残念、哀れ、と言う顔をして、あくせくと勉強するみんなを眺めているだけでいい。
それはどんなに気楽だろう。彼女は思った。そうなればいいのに。

「...瀬戸内、...おい。」
隣のコウイチが話しかけてきた。何?と言う顔で彼女が振り向くと、コウイチは黙って前の方を指さしている。少女がその指さす方を見ると、そこにさっきまでいた先生の姿がなかった。
「...自習だってよ。何でだろうな、急に。他のクラスの先生方も、みんな出て行った。」
コウイチが不思議そうに言った。教室に取り残された生徒はみんな、一様にコウイチと同じような表情をしていた。何人かの生徒が、教室を出て、廊下に半身を乗りだして、外の様子をうかがっていた。
「どうしたんだ。」生徒の一人が隣のクラスの生徒に話しかけた。
「わかんねえ」その生徒が答えた。

自習と言ってもすることがなかったから、教室は事実上の無法地帯になった。みんなそれぞれにしたいことをしていた。トランプを始める者があり、誰かをからかい始める者もあり、隣の教室から乱入してくる者もいた。受験を控えているだけあって、大半の生徒は大人しく机に向かっていたが、それでも気持ちは上の空のようだった。みんなしきりに、面白そうな声を上げているグループを気にして、きょろきょろしていた。

少女は、そのようなグループに参加する気分にもなれず、かといって勉強など、毛頭する気になれなかったから、頬杖をついてぼんやりと雨の降る校庭を見ていた。長雨で校庭はすっかり沼地のようになっており、所々に深い水たまりが出来ていた。誰かがおもしろ半分に歩いたのか、しばらく誰も出ていないはずなのに、一列の足跡が付いていた。その足跡は校庭の真ん中まで行って、そこから同じ道を通って引き返していた。

「何見てんだ。」コウイチが再び話しかけてきた。
「...足跡。」彼女は答えた。
「足跡?」コウイチはおもしろがって、身を乗り出してきた。彼女に覆い被さるように校庭を眺めた。「お、ほんとだ、誰か出たんだな、この雨の中。」コウイチは言った。「でも途中で引き返したんだ。意外と根性無いやつだな。」
「...コウイチ、臭いよ。」少女は言った。
浩一は思わず身を引いた。
「お、わりい。」恥ずかしそうに笑った。「ちゃんと部室でシャワーを浴びたんだけどな。」
「その後、なんかスプレーでもしなかった?」少女は言った。「その匂いが臭いの。」
「...お前、こういう匂い嫌いなのか。」コウイチは自分の着ているシャツをつまんで匂いを嗅いだ。「別に普通の匂いだと思うけど。」
「普通だとは思うけど。」彼女は言った。「でも私は、そう言う人工的な匂いは全部嫌い。...なんかトイレの芳香剤の匂いみたい。」
「まあ、言われてみれば。」コウイチは言った。「トイレの物ほど匂いは強くない気がするけど。」
彼女は、依然として雨の降る校庭を見ていた。思えば、嫌いな物ばかりが増えてくるような気がした。お父さんも嫌いになり、雨も嫌いになり、勉強も嫌いになり、コウイチの体に付いた匂いも嫌いだった。いずれ私は、世の中の物みんな嫌いになってしまうのかも知れないと、彼女はぼんやり考えた。世界はどんどん狭くなる。彼女は思った。

「お前、どんな匂いなら好きなんだ。」コウイチが言った。
「...考えたこと無い。匂いの種類なんて。」彼女は答えた。
「変な女だな。」浩一が言った。「女子ってみんな、香水みたいな物に興味あるのかと思ってた。」
「人それぞれじゃない?」彼女は言った。「女子って、ひとまとめにしないで。」
「その言い方も嫌い、なのか。」コウイチは言った。「...お前、好きな物って何か無いのか?」

「べつにいいでしょう、私の好きな物なんて!」彼女は強い口調で言った。「...うざいよ。ほっといて。」
コウイチはそう言われると口をつぐんだ。しかし、悲しげな目で、少女の方を見ていた。
「何?」いらついた口調で少女は言った。「何じろじろみてんの?」
コウイチは俯いた。「お前、楽しいか。」
「何が?」少女はコウイチをにらみつけた。
「...生きてるのがさ。」コウイチは彼女の方を見ずに言った。
「お前みたいな性格だと、なんか、世の中みんな嫌いになって、そのうち自分も嫌いにならないか。」コウイチは何かに困ったように頭を掻いた。「そんなの楽しくないだろ。」
「何で、楽しい必要があるの?」少女が言った。「私の人生でしょう。つまらなくっても、それは、私の物だよ。コウイチに言われる筋合いなんか、ない。」
「...まあ、そうなんだけどよ。」コウイチは言った。「まあ、そうなんだけど...。」
コウイチはそれ以上何も言わなかった。彼女は苛立った気持ちのまま相変わらず雨の降る校庭を見ていた。世の中ってなんて面倒なんだろう。少女は思った。
人間が一人で生きて行けたら、気持ちはどんなに楽だろうか。
少女は山奥で自給自足する自らを思い描いた。畑があり、田があり、せせらぎがあり、広い大地と空があった。いくらか鶏も飼っており、ヤギが大きな声で鳴いていた。そこはとても気持ちの休まる土地ではあった。気に障る物は何もなかった。人間関係の煩わしさもそこには存在しないようだった。
こんな所に住めたらいいだろうな。彼女は空想しながら思った。面倒な物は何もない。

ただ、会話だけが足りなかった。

会話がなかったから、笑いもなかった。流す涙もなかったし、心を揺さぶる感動もなかった。
想像の中の彼女は、いつも穏やかな微笑みを浮かべてはいた。しかし、それ以上の感情は生じなかった。
ヤギに笑ってもしょうがないか。

少女は一人笑った。

「...お前、気持ち悪いな。」コウイチが言った。「何、一人でにやにやしてんだよ。」
「何であんたに教える必要があるの」少女は言った。「どんな顔しようと、私の勝手でしょう。」
「ああほんとに勝手だ。」コウイチはそっぽを向いた。
「お前みたいな勝手な奴、どうにでもなれ。」

「...怒ったの?」少女はコウイチの顔をのぞき込んだ。「怒ったの、コウイチ?」
コウイチは答えなかった。むっつりとふくれたまま、黙って前を見ていた。
「コウイチ?」少女は再び尋ねた。反応はなかった。「ねえ、コウイチ?」コウイチの前に身を乗り出した。前を見るコウイチの目を真っ直ぐにのぞき込んだ。コウイチの顔は真っ赤だった。小刻みに震えていた。彼は笑いをこらえているのだった。

突然コウイチが吹き出した。
「コウイチ?、コウイチ?」コウイチは少女の口まねを始めた。
「コウイチ?コウイチ?」
「うるさい!」少女は手元にあった消しゴムをコウイチに投げつけた。コウイチはそれでも身をよじらせて笑っていた。

「コウイチ?、コウイチ?」コウイチは尚も口まねを繰り返した。
「うるさいったら!」少女も顔を赤くしてコウイチの二の腕を二度三度となく叩いた。
コウイチはそれでも笑うことを止めない。
大きな声でげらげらと笑っている。

少女は顔を真っ赤にして、唇を突きだしていた。
自分自身の世界を見る目が、このときを境に少しずつ変わり始めたことを、
後に少女は知ることになる。