2009年1月16日金曜日

『ロール・プレイ』 11

“先輩は、看護学科なんですが、
正直、看護が好きなようではなさ
そうです。うち大学の看護ではそ
ういう人は少数派だから、ちょっ
と居心地が悪そうです。”

先日のメールで、朱音さんは書いていた。

“お母さんの強い意見があって、
看護に入ってしまった、と言って
いました。本当はもっとテニスの
出来る環境に進みたかった、と言
っていました。”

僕は朱音さんが教えてくれた彼女についての断片的な情報を、大学に向かうバスの中で無意識に何度も反芻していた。次第に、彼女についてのイメージが固まりつつあった。だが、ある程度イメージが固まってしまうと、これは少々、危険なことのような気がしてきた。

僕はまだ、彼女と“会った”とも言えない状況なのだ。それなのにイメージをかためてしまうのは付き合いの妨げになるばかりで、初対面の人と会う際に、あまりいい心構えであるとは言えなさそうだった。

僕は頭をからっぽにして、朱音さんから教えられた情報をすべて忘れてしまおうとした。窓の外の景色を眺め、車の動く音を聞いていた。相手が実際どんな人であれ、それをまずは受け入れてみよう。多少不安もあったが、僕はそう考えていた。


練習場は、大学の正門のすぐ右手にあった。
四方を高いフェンスに囲まれたテニスコートは二面あったが、手前のコートは使われていなかった。奥のコートには、ボールを自動で打ち出す機械が据えられており、そこで誰かが練習していた。

「すいません」
ちょっと失礼かな、と思いながら、僕は声を張り上げて、その人に声を掛けた。練習していた人は僕の声に気がつかなかったようだった。
「すいません」僕はもう一度大きな声を出した。ようやくこちらに気がついた様子で、装置のスイッチを止めると、フェンスの近くまで駆け寄ってきた。

「村瀬さんを...、」僕はそこまで言って、はっと口をつぐんだ。
目の前に経っていたのは間違いなく、あの彼女だった。

その時彼女は、白いサンバイザーにショートパンツ、ポロシャツ、と言った格好だった。あのメイド喫茶で、ネコミミを付けて給仕していた彼女と同一人物であるとは、遠くから見た分には全く解らなかった。

フェンスの向こうの彼女は、突然現れた見知らぬ人物が自分の名前を知っていたことに驚いたのか、きょとんとしていた。先ほどまで練習をしていたので、息が切れたと見え、わずかに肩で息をしていた。
「はい、村瀬は私ですが.....」
「あの、僕、実は...、」
日比野朱音さんから話があったと思いますが...、そう切り出して、僕は自分が何者であるかを説明した。

「ごめんなさい。...あなたに嫌な思いをさせたんじゃないかと心配になりまして...。あなたの知らないところから、観察するようなことをしてしまって...、本当に申し訳ない。」そう言って頭を下げた。
それを聞いて、彼女はただ苦笑するのみだった。フェンスの向こうから、いえ、いえ、と手を振って僕の頭を上げさせようとした。

「そんな、いいんです….。こちらこそ、朱音がご迷惑をおかけしました。でも、私は正直、そんなことは全く知りませんでした。お店を出る時、あの子はただ、『今日は友達に会う予定があるから』とだけ言って、先に店を出て行ったので」
「...あなたを僕に会わせるって事、朱音さん、言ってなかったんですか?」
「ええ。」彼女はおかしなことを聞いた、とでもいうように笑っていた。

「...そうだったんですか」
変だな、とは思いつつも、そのことは、もはや僕にとって重要な問題ではなくなっていた。
「それにしても...、よりによって、あんな格好の所を見られちゃうとは...。」
彼女は恥ずかしそうに頭を掻いた。「私がいつもジャージばっかり着ているものだから、朱音に、『先輩はこのままじゃだめです、もっとカワイイに、目覚めなきゃ』って強く言われて...、連れて行かれたのが、よりによってあの店だったんです。」彼女は苦笑いした。

「でも、さすがに、私にはあの雰囲気は向いてません。朱音に内緒で、今日付で辞めさせてもらいました。」
「そうだったんですか」思わず僕も笑った。

柔道部と思われる集団が列を組んで雑木林の前を走りぬけた。歯切れのいい掛け声がつかの間のオレンジ色の静寂に響く。気が付けば、日はすっかり傾いていた。夕焼けの群青色が厳かに空を夜に沈めていく。テニスコートに置かれた装置が長い影を引いていた。ツィー、ツィーという、名も知らぬ鳥の声が奥の林からこだました。

彼女は夕闇にとらえられつつあるキャンパスにしばし目を奪われていたが、やがて僕の方を向き直ると、
「こんなところで、フェンス越しに話しているのも変ですよね。...祐介さんって、言いましたっけ?...おなか空いてないですか?」と言った。
僕は、昼間ほとんど食べていなかったことを思い出した。すっかりお腹が空いていた。「そう言えば、コーヒーぐらいしか飲んでなかった」

「じゃあ、何処か、食べに行きましょうか。...お酒は?」
彼女は人なつこそうに微笑んだ。

「朱音に振り回された者どうし、今日は飲みません?わたし、もう喉が渇いちゃって。」
思いもよらない展開に、内心、少なからず戸惑ってはいたが、僕は二つ返事で賛成した。