2009年1月21日水曜日

『ロール・プレイ』 18

「….でも、私…やっぱり気持ち悪いよね。」

横断歩道の手前から一歩も動かないまま、彼女は笑っていた。頬を伝う一筋の涙が陽光のさす笑顔の中に光って見えた。

「結局私は、オトコオンナなんだ。誰かを愛そうにも、その誰かに、私は適した心と体をもっていない。いつも、どちらかが、私の足かせになって、前に進むのを阻む…。」

彼女は顔を覆った。薄い皮膚に鮮やかな赤みが透けて見えた。
ぼくは、その場所に立ちつくしたまま、その様子を何も言わずに見つめていた。

「ねえ、祐介?」

「ん?」

「...もう、これで最後にしない?」
泣きぬれた顔を上げて、彼女は言った。溜まっていた涙が、その瞬間、大きな滴となって、ぼろぼろとこぼれた。

僕はもう、驚かなかった。
ここまでの話で、彼女がそのつもりで、今日ぼくを連れ出したことが、ある程度予想できていた。

「それがいいと思うの。…祐介だって、もう元のように、私を愛することは、できなくなったでしょう?」

「手術は、もう受けると決まったの?」僕は尋ねた。

彼女は首を振った。「あくまで、私の中で…、必要なら受ける覚悟を決めただけ」
「もしかしてそれは….。」
「そう、朱音、のために。おかしいでしょう…。.付き合ってたんだ、私たち。もう二年前になるけど。」

真樹は、僕の前に立って、横断歩道を歩き始めた。鉢の開いたスカートと、それを彩るレースが、彼女が歩くたびに左右に揺れた。

「周りに何を言われても気にしないで、付き合っている人たちも、いるにはいるんだ。でも…、私は小さいころから、女の子らしく生きるように、強く親に言われてきたせいもあって….、やっぱり後ろめたかった。私も彼女も、それが普通でないっていう意識に、いつも潰されそうだった。それでお互い決めた。別れて、みんながやっているような、普通の…、幸せな恋愛しようって」

真樹の場合、そうして出会ったのが、僕だった。

「...今になって思うと、私があなたに出会ったとき、朱音は私に、気を使ってくれたんじゃないかなって思ってる。別れた時も、言い出したのは私だった。そのときも、あの子は何も言わずに受け入れてくれた。それに...、」
「それに?」
「気づいてた?そもそも朱音は、あなたのことが好きだったんだよ。それを...、結果的に、私が奪った格好になった。もう少し早く、そのことに気がついてあげるべきだった」
「それは,,,,」
「私は...、罪悪感を感じてるんだ。少なくとも私が...、もう少し自分をしっかり受け入れらていれば、誰も不幸にすることはなかったのに....、」
「自分を受け入れるって...、」
「つまり、だから…」

真樹と僕は、歩いているうちに秋葉原の人通りの多い通りを抜け、狭い道に入って行った。まとわりつくようなかび臭い配管の匂いが、風に乗って通り抜けた。向こうには、また日当たりのよい広い道が見える。蝶のように朗らかに、メガネをかけたワイシャツたちが語り合い、通り過ぎていくのが見える。

「前にも一度、考えたことがあって、その時、自分なりにいろいろ調べたけど...、でも、あれはすごく大変な手術なんだって...、いろいろ、程度があるみたいでは、あるけれど...、いろいろなところから、筋肉を取って、より合わせたりして...。でも、私は恐れるべきじゃなかった。自分を受け入れるために、そのくらいの代償は払ってそれで...、」
「男として、朱音を愛する?」
「ええ...、せめて、形式的にでも、彼女と普通の恋を...。」


「ごめんね、祐介は何も悪くない」彼女は言った。
「悪いのは、すべて私。朱音を苦しめたのも、祐介に...、迷惑掛けたのも。そもそもが...、私たちは、知り合うべきじゃ、なかったのかも。」
すべてを諦めたような声だった。

「私の迷いが...、すべて悪かった。最初から、私が自分を受け入れられていれば、だれも必要以上に苦しめることは、なかった。」
真樹は静かに言った。
「…ごめんなさい。」

僕は放したままだった真紀の手を取った。そしてそれをしっかりと強く握った。
「そんなこと、言うなよ」

彼女は驚いたように目を大きく開いて、僕を見ていた。
「…ごめんなさいなんて、言うなよ。どんな経緯があったにせよ、今の君は、僕の彼女なんだ。朱音さんの、幸せを考えるのはもっともだけど….、もっと僕のことも考えてくれないか?」
「….」

「僕は今まで、君を女性として以外、見たことがなかった。人の内面なんて、そもそも、本人にだって、よく見えないものだろ。だったら、僕が君を女性として疑わない限り…、君は、僕の彼女、だよ。…そうやすやすと、手放したくはないんだ。」

僕は彼女を引き寄せた。
暗いビルの谷間。湿った風が通り過ぎる。
「…ありがとう」真樹は言った。

「ありがとう、祐介。でも、もういい。私には、これで十分」
彼女は、僕の胸からからそっと体を離した。彼女を抱きしめた時の感覚が、僕の胸元から少しずつ乾くように消えていくのを感じた。
「あなたの気持ちは、とてもうれしい。でも、朱音には…、私しか、いない」
彼女の気持ちは動かないようだった。

「でも…おかげで.最後に、幸せな恋愛ができた。これで、私は女としての自分に、思い残すことは、ない。」自分自身に言い聞かせるように彼女は呟いた。

「…さあ!」
再び顔をあげた。そして、矢庭に僕の手を取った。
「辛気臭いのは、もうこれで終わり。この先に、いいお店があるの。…もう少し、彼女で居させてね。」
「いいお店って?また、居酒屋?」
彼女はうなずいた。
「たこわさが、本当においしいの」
満面の笑みを浮かべた。
「今日は、日本酒といきましょうか。…悪い?」
「いえ、いえ」
僕は言った。
「…どこまでもついていきますよ、君の行くところなら」
彼女は笑った。
「ほんと、いい返事!」


僕は今まで、誰に恋していたんだろう?

彼女と別れてから、僕は考え続けていた。僕の愛した『彼女』は、あくまで真樹の一面であって、すべてではなかったはずだった。真樹は普通の恋愛をするために、それを隠そうと努力してきた。その努力も含めて、僕は真紀を愛せなかった。その努力を知っていたのは、僕ではなく、朱音さんだけだった。

女性という存在の中に本来ならば相容れない、男という現象を内在してしまった彼女。それを一時的にせよ否定するために、しつらえられた、『彼女』というロール。それは、猫の耳を持つメイドのような、キャラクターという照れ隠しと同等の存在なのかもしれなかった。じゃあその表面ばかりを見ていた僕は、彼らと変わらないわけだ。秋葉原でコスプレの少女を追いかける無数のワイシャツたち...。

僕にはもう言葉が出なかった。何も考えられえなかった。
これで最後にしない?、と切り出された時にはそれほどのショックもなく、この苦痛を意外と乗り切れるのではないかという楽観すら抱いていた。しかし、こうした悲しみは、死に至る疼痛のように、じわじわと僕の精神を蝕むようなのだ。
彼女と別れて一週間もたつころには、僕は何もしたくないという無気力な感情に取りつかれた。

自分の生活や、思考の中に、彼女のことを考える癖ができていた。
テレビを見ていても、これ教えてあげようとか、思う自分がいた。
自分の将来を考えても、彼女との生活を前提に作られた未来があって、その未来から彼女の姿を消してしまうと、そこには暗い虫食いだらけの、原型を想像できないほど朽ち果てた『夢』が転がっているだけだった。

とにかく、今は休みたかった。何か深い眠りか...、陶酔できるものに出会って...、頭の回転を抑えて...、このぐるぐる回る思考の輪廻を、一度どこかでリセットする必要を感じていた。


    †
僕が絶望のどん底にいた頃、日比野からまた、『街』に出ないかと誘われた。
真樹と付き合い始めて以来、彼と会うことは少なくなっていた。正直、外出したい気持でもなかったが、誰にも話さず、葛藤を続けることにも、いい加減疲れていたので、彼の誘いに乗ることにした。