2009年1月20日火曜日

『ロール・プレイ』 17 (『僕の彼女が転換します』改題)

「真樹?」
「…祐介」

電話の向こうの真樹は元気がなかった
「これから、そっちに行っていい?…ていうか、もう部屋に着きそうなんだけど」
こんこん、と扉をたたく音がした。

僕は立ち上がって、玄関の扉を開けた。
「こんばんは」
真樹は僕に微笑んで見せた。なんだかひどく、疲れているようだった。
「ねえ、...今夜は、ここで眠らせて」
真樹は理由も言わずにそう言った。

僕はもちろん、構わないと言った。
ありがとう。彼女はそういうと僕の部屋にあがり、服を着たまま、僕のベッドに横になってしまった。そうして、間もなく、すやすやと寝息を立て始めた。

彼女の眠りを妨げないよう、僕は余っていた毛布にくるまって、ベッドにもたれかかるようにして眠った。心配をして疲れていた。朱音さんのことは気になっていたが、ともかくも、真樹が無事に帰ってきたことで、一安心した。無理な姿勢ではあったが、僕もまた、すぐに眠りに落ちてしまった。


目が覚めた時、すでに太陽は高く昇っていた。
ベッドに眠っていたはずの真樹の姿はもう無かった。彼女の眠った跡はベットの上に確かに残っていたが、その温もりは消えかけていた。

彼女の眠った跡を直そうとして、彼女の使った毛布を手に取った時、僕は指先にひやりとした感覚を感じ取って、はっとした。真樹の使っていた毛布の、ちょうど、彼女の首に掛かっていたあたりが、かすかに濡れていたのだ。

彼女は昨夜、ベッドの中で、一人で泣いていたらしかった。


真樹、どこ行ったんだろう。そんな思いでいると、再び僕の携帯が鳴った。
「祐介!起きた?」
真樹だった。昨夜よりは随分、元気そうだった。

「ねえ、外に出てこない?」
「今どこにいるんだ?」
「アキハバラ」
「秋葉原?なんで、そんなところに...」
「いいじゃない。あなた達の『街』なんでしょ」
「それは、僕の友達の、街であって....、」
「気にしない気にしない。いいから早く来なさい!」

ガチャっ、と音がして一方的に電話は切れた。
僕は手早く身支度をして家を出た。

秋葉原の駅前には30分余りで着いた。
彼女の携帯に電話を入れた。

「祐介のすぐ後ろにいるよ」
真樹は電話口でそう言っていた。僕は後ろを振り向いた。そこには、恥ずかしそうに手を振る真樹がいた。その姿に、僕は思わず、吹き出しそうになった。

真樹は、あの、以前辞めた店のものとよく似た、メイド服を着ていた。

「へへ...、似合う?」
「どうしたんだその格好?嫌だったんじゃなかったのか?」
「また、着てみてもいいかなって思って」
真樹は目を細めて微笑んだ。

「ちょっと、萌えた?」
「...僕はオタクじゃない。」そっぽを向いた。
「でも、似合ってないことも、ない」
「正直に言えばいいのに」
真樹はあきれたように言った。
「私が自ら進んでこんな恰好をするのは、ほとんど奇跡だよ」
「いったい、どういう風の吹きまわしなんだ」僕は真紀の方を向き直った。
「朱音さんは、どうなったんだ?昨日は急に夜中に打ちに来たりして、...心配、したんだぞ...」

真樹は、みるみる僕を愛おしむような表情になった。
それは、はっとするほど美しかった。

「...ありがとう。心配してくれて」
「そんな...」
僕は彼女を見つめ続けることが出来なかった。思わず目をそらした。

「あのね、祐介、」
真樹は僕の方をまっすぐに見て言った。
「実は、わたし…、今、考えてるんだ、性、転換手術」
「へ?」

唐突なことで、僕には彼女の言っている意味がよく飲み込めなかった。「君は一体何を...、」
「簡単に言えば、私、男になりたいの」
真樹の表情は努めて明るかった。
「あの、『性同一性障害』ってあるでしょう?私、あれなの。部類としては軽い方なんだけどね」
「冗談だろう、そんな....」
「冗談なんかじゃない。...ほら、これ、診断書」

彼女は、一枚のA4大の紙を見せた。そこには確かに、医者の読みにくい癖字で、彼女の名前と、その病名が描かれていた。日付は3年ほど前のものだった。僕は、目が回りそうだった。
「でも、あれって、体は女でも、心は男、みたいな病気だろう?」

ぼくはすっかり取り乱して、自分の声が大きくなっていることにさえ、気がつかなかった。
「君は、確かに男勝りなところはあるけれど、僕と、付き合ってたじゃないか...、あれは、全部、嘘、だったのか...?」
「...嘘、なわけないじゃない」
彼女は言った。

「私は、今でもあなたを愛してる。あなた以外の“彼氏”なんて、私にはこれまでも、...これからも、考えられない」
僕は頭が混乱していた。

「この病気はね、いろいろな型のある病気なの。みんながみんな、完全な男性の心を持っているわけじゃない。...ただ、共通しているのは、女の人であれば、女性としての自分の体が、自分のものでないような違和感を持っている、という点。私にはそれがあった。ずっと、幼い時から」
「...」
「そして、私は、軽度だったから、心の状態が、完全に男性というわけでもなかった。違和感を感じながらも、女性としての感覚も持っていた…。そんな珍しいことじゃないんだよ。この障害を持つ人の中には、普通に結婚して、家族を作る人も大勢いるそうだから…」

彼女は彼の手を取った。ひやりとする感覚が、彼の手の皮膚を通じて伝わってきた。テニスをやめてから、その手はずいぶん白くなり、指もしなやかさを取り戻しつつあった。「...ねえ、ちょっと歩こうよ」

彼女は、彼の顔を見上げてそう言った。そして手を引いて、僕が日比野と歩きなれた道に繰り出した。


  †
沿道では、彼女のようにコスプレした女性たちを何人か見かけた。メイド姿の女性と歩く僕を、取り分けて注目する人間はいないようだった。日比野が何度も立ち止まった、ロボットアニメのフィギュアの飾られたショーウィンドウが通りに沿っていくつか並んでいた。

僕らは、手をつないだまま歩き続け、少し開けた交差点に出た。右から左へ、左から奥へ。人々が行き交い、視線も合わせずにすれ違う。まだ見ぬ人生が永遠に知ることのない人生と交差する場所。横断歩道の信号は、まだ赤だった。
僕と彼女は、そのラインの手前に立ち止まる。

「私の女性としての自覚は、あなたという人間と出会うことで、だんだん強くなってくるように思えた。私は、あなたと付き合い始めてから、自分の中の女性を再発見したの」
真樹の握った手が、しっとりと汗ばんで来るのを感じていた。彼女の中で、感情が激しく起伏しているようだった。

「私の中の女性としての違和感は、消えることがない。でも、一人の女性として、もっとずっと、あなたと一緒にいたい...。たとえ、それが女性として、演技しているだけだったとしても...。今は正直、そう思ってる」
彼女は、握った手に力を入れた。彼女の右耳に、僕のプレゼントしたピアスが小さく揺れているのに、僕はその時になってようやく気がついた。


僕らの前の信号が、赤から青になった。僕は一歩前に足を踏み出そうとした。
しかし、その時、しっかりと握っていたはずの彼女の手は、僕の手の中から、するりと抜けて離れてしまった。


「...でも、私....、やっぱり、気持ち悪いよね」