2009年1月14日水曜日

『ロール・プレイ』 7

翌週の土曜日は、先週の週末ほどの快晴ではなかったが、それでも良く晴れていた。白い雲が、黒みがかった腹を見せて、僕らの上を通り過ぎる。山手線から見える都市の緑は、先日降った雨に洗われて、生まれ変わったように輝いていた。緑色が都市計画の端数を埋めていく5月。

秋葉原の駅で降り、先週、日比野と行った店に僕一人で向かった。先週同様、彼も誘ったのだけれど、彼は、色々と理由を付けてそれを断った。そもそも、遠慮や、雰囲気を察するという感覚に乏しい人間なのだ。僕と朱音さんが紹介してくれる女性との現場に自分がいたら、きっとお邪魔だろうという配慮が働いたとは、とても思えなかった。むしろ普段の彼ならば、女の子に興味など無いような顔をして、ひょうひょうと付いてきたに違いなかった。彼は単純に、妹とあの店で再び会うのが、嫌だったに違いない。

あの後、僕は朱音さんと何通かメールをやりとりしていた。彼女が紹介すると言っていた女性は、彼女の大学の先輩で、去年までテニス部の主将をやっていたそうだ。朱音さんも、高校からテニスをしていたから、この先輩には大学に入学してからずっとお世話になっていたのだという。

“じゃあ、祐介さんと同い年ですね。
先輩ももう四年生になるので今年で
卒業です。私はそうなる前に、先輩
に少しでも恩返ししたいのです”

彼女はメールでそう書いていた。僕なんかが、恩返しになるのかな。
正直にそう書くと、

“なれます!私の見込んだ男なんで
すから!”

と返事が返ってきた。それなら僕は君が....、とでも、せっかくだから書いてみようかとも思ったが、真剣そのものの彼女の姿勢に対して、ちょっとふざけ過ぎのような気もしたので、やめておいた。あんなにかわいい子なのだから、大切な人は、きっともういるに違いないとも思った。

それにしても、僕にはどうして、彼女があの時、その女性を他ならぬ彼の兄にも紹介しようとしなかったのか、ずっと気になっていた。僕の前では仲たがいしているように見せていたが、兄妹なんて、人前ではああしていても、実際には意外に仲がよかったりすることがよくあるものだ。言い古された表現だが、喧嘩をするということは、お互いを心配していることの裏返しであったりする。もしかすると、彼女はあらかじめ、兄にその女性についての話をしていたのかもしれないと思った。物のついでに、僕はそのことも訊ねてみた。時間が少し空いて、彼女から返事が返ってきた。

“兄には彼女がいますよ。知らな
かったのですか?”

僕は驚愕した。
日比野には彼女などいないと思っていた。失礼ながら、未来永劫、彼はそう言う話題とは無縁だと思っていた。大体、彼は慣れないうちは普段の会話を成立させるのすら困難な人間なのだ。そんな人間が、一体どうやって女性を口説くのだろう。彼の恋愛の始まりを想像することすら、僕には困難だった。

“兄には口止めされているのです
が、私は一度彼女と兄が並んで歩
いている様子を見かけたことがあ
ります。くらくらするほどグラマ
ラスな女性でした。”

女の子をくらくらさせるほどの女性が、どれほどの女性なのか。そして、その隣に、他の誰でもなく、あのオタクの日比野が並んで立っているというのだ。彼は、その時、どんな顔をしているのだろう。何を話しているのだろう。恋人たちに特有の、あの周りの人間の姿など目に入っていない、ささやくような内向きの会話が、彼と、そのグラマラスな女性の間にもとりとめもなく繰り返されていたりするのだろうか。

“兄の話によると重度のコスプレ
イヤーなんだそうです。キューテ
ィーハニーの格好をさせたら、観
客に死人が出たと聞いています。”

僕にはもう、日比野が日比野に見えなくなりそうだった。長く付き合ってみても、人間の本性というものは分からないもののようだ。僕のいないところで、彼は何をしていたのか。オタクの日比野は、僕の中でグネグネと姿を変えつつあった。ヘミングウェイも青ざめるマッチョでタフなワイルドターキーの似合う男を僕は思わず想像した。その幾多の修羅場をくぐりぬけてきたような、冷たく鋭い一重の視線の先には周囲に死を振りまき、コスプレするグラマラスな女の姿。目の前の女の皮を一枚一枚剥いでいく、冷たく疑り深い彼の視線。響くウッドベース。気だるいピアノ、ささやくようなスネアドラム。ぼうや、だからさ。彼は僕を思い出し、冷笑を浮かべて、ふとつぶやく。

“あ、私の言ったこと、兄には内
緒にしていて下さいね!”

朱音さんからの、にわかには信じがたいメールを受けて、思わずそんな、根も葉もない空想をしながら通りを歩いているうちに、いつしか朱音さんのバイトしている店の前までやって来ていた。僕はビルの二階の古ぼけた木彫の扉を開けた。

「おかえりなさいませ~」
「おかえりなさいませ、ご主人様!」