2009年1月21日水曜日

『ロール・プレイ』 19

冬の気も緩んだ三月。冷たい外気に、暖かい光が場違いに差し込んでいた。春に切り替わるその直前のないまぜの大気に、僕と日比野の吐く息ももう白くはない。年中変わらない格好に、着古した暗い色のオーバーコートを羽織っただけの日比野と並んで、冬の通りを歩いた。

年度末で、電気店には多くの客が入っていた。皆、引っ越しや転居を控えているのだろう。多くの生活が再生する季節を迎えていた。

「...うちの妹が、悪いことをした」彼は事情をおおよそ知っているようだった。
「君に連絡しようとしても、つながらない、と言っていたよ。あいつなりに、心配はしているらしい。...まあ、自業自得なんだが」

「ごめん。僕の方もなかなか...、まだ気持ちの整理がついていないんだ」
僕は正直に打ち明けた。気持を誰かに打ち明けるのは、ずいぶん久しぶりだったから、口に出した途端から、気持ちが少しずつ軽くなるのがわかった。
「だろうな。僕だってショックだったよ。まさか自分の妹が、他人の“彼女を横取りするとは。恐ろしくて、両親には、とても言えない」

「朱音さんは、君だけに相談したのか」
「…僕が止めたんだ。」日比野は小さな声で言った。
「あいつは、始め、親にきちっと言うって言ってたんだ。まあ、あいつの考えそうなことなんだが….。だが、こればかりは、親は簡単には受け入れられないだろう?時間をかけて、すこしずつ伝えていった方がいいって言ったのさ」

「彼女らなりに、苦しんでいたようだったからな...。社会から、なかなか受け入れられない関係だということは、痛いくらいにわかっていたようだったし...」
日比野はそっぽを向いた。
「それとこれとは、話が別だ」

「でも...。」彼は、僕の方を向き直った。
「いいかい、もし、うちの妹が、男だったとしたら...、君は何の疑いもなく、あいつを恨めると思うんだ。変な事情を持ち出したところで、やってることは同じだろう」
彼の眼鏡の下の瞳は、いつになく鋭く、しっかりと現実を見ているものの強い眼をしていた。彼のこのような眼差しを、僕は初めて見たように思った。

「恨むだなんて、そんな...、朱音さんにはいろいろ世話になったし....」
朱音さんが、僕のことを好きでいてくれたようだ、と言う真樹から聞いた話は彼には伏せておいた。こんな時に、彼の前で、とても出来る話ではないと思った。
「ともかく、来週の土曜には出発するらしいぞ」
「…もう、行くのか」

彼女は手術を受けるかどうか決心する前に、卒業と同時に、この国よりも性に寛容な国に移住すると聞いていた。それにはアカネさんも同行することになっていた。もっとも、朱音さんはまだ大学二年生だったから、とりあえず今回は一時的に付いていくだけになるようだった。だがいずれは、どこかで二人の生活を作ることを目標としているのだろう。

「君にここまで迷惑掛けたんだ。あいつらなりに追い込まれているんだろう。…見送りには、行くのか?」
「行きたいとは思っているけど」
「無理するな...、どうせだったら、また二人で、メイド喫茶にでも行って、気を紛らわそう。もっと、女の子の可愛い、店を見つけたんだ…」
だが、彼は途中で気が変わったようだった。

「...かえって、いやなことを思い出しそうだけれどな」
ため息をついて冬晴れの空を見上げた。



夜の空港は閑散としていた。
青色ダイオードに縁取られた看板が、照明が部分的に落ちて薄暗くなった空港内に強い光を放っていた。

彼女らの飛行機はほとんどその日の最終便と言っていいほど遅い出発だった。

「...来てくれたんだ」
「朱音さん、は?」
「もう出発ロビーに入ってる。先に行ってますって」

僕らは、飛行機の発着の見えるテラスに歩いた。
エスカレーターが僕らを吹き抜けの宙に浮かべて、そぞろに高い所へ運んでくれた。
「向こうに着いたら、すぐ手術するの?」
彼女は首を振った。

「朱音の方も、私が男性化するのを求めているわけではないし、しばらくは二人で暮して様子を見るつもり。...向こうはそういう関係には寛容らしいから」
「僕は君のことを知るまで、同一性障害って、もっとわかりやすいものかと思ってたよ。」
「自分のことを、僕って言うとか?」
彼女は笑った。

「…正直、大人になってから、女に生まれたことを、後悔しない日はなかった。でも、初めてかな。ほんのひと時...、あなたの子供がほしいって、本気で思えた。もちろん、私が何者なのか、余計、迷いもしたんだけれど...、」
彼女は困ったように首をかしげて微笑んだ。その表情は切なく僕の胸に迫った。

「…ねえ」
彼女が言った。
「今日までの私とあなたの関係は、なんて呼んだらいいんだろう」
僕は考えた。僕にとっては、これは恋愛以外の何物でもなかった。彼女の中にたとえ男性の心が眠っていたとして、それが、どうして僕に解るだろう。僕の目に映る彼女は、どう見ても、一人の愛らしい女性に、他ならないのだから。

「君なら、なんて呼ぶ?」
僕は自分の回答を避けて、彼女に尋ねた。
彼女は下唇を少し咥えたような顔をして、じっと、真剣に考えていた。そしてやがて、はっきりと僕の方を見て、言った。

「わからない。私とあなたの関係は、私とあなたの関係。...世の中には、まだ名前の付いていない関係が、あんまり、多すぎるよ」
困ったようにそう言って、笑った。

「恋愛という言葉では、片付けられないか」
僕は言った。
「もちろん」彼女が言った。「...もしかして、あなたはそれを、望んでいるの?」
「正直、ちょっとね」僕は少し照れくさくなってしまった。
「なあんだ」彼女は笑った。「それなら、それでもいい。...あなたを愛していることには、変わりなかったから」

滑走路を示すランプが、一列に並んで、その先に続く航空路の見えない路線の入り口を指示している。その中へしずしずと舞い降りる一機の飛行機が見える。
暗闇で、僕らの影がひと時、重なった。

「...もう、行こうかな」
彼女が言った。
「ありがとう。...また、どこかで会えるかな」
「…顎に髭の生えた私とでも、また会いたい?」
彼女は悪戯をするような目をしてそう言った。
僕は答えた。

「会いたいよ。…君が男の人になってしまっても。...いずれにしろ、僕らのすることは、変わらないじゃないか」
「...結局、会うのはお酒の席、なんだろうね。私達」
彼女はあきれたように言った。
「...ホントに、あなたが私の最初で、最後の“彼”で、良かった」

そう言って、自分の荷物を手にとると、ゲートに向かって歩き始めた。

ゲートをくぐる直前、彼女は、くるりと後ろをふり返ると、みるみる愛らしい笑顔になって、僕の方を向いて手を振った。そして、いずれは切られてしまうのであろう、伸び始めた黒い後ろ髪をなびかせながら、空港の検査場の奥に消えた。


[終]

『ロール・プレイ』 18

「….でも、私…やっぱり気持ち悪いよね。」

横断歩道の手前から一歩も動かないまま、彼女は笑っていた。頬を伝う一筋の涙が陽光のさす笑顔の中に光って見えた。

「結局私は、オトコオンナなんだ。誰かを愛そうにも、その誰かに、私は適した心と体をもっていない。いつも、どちらかが、私の足かせになって、前に進むのを阻む…。」

彼女は顔を覆った。薄い皮膚に鮮やかな赤みが透けて見えた。
ぼくは、その場所に立ちつくしたまま、その様子を何も言わずに見つめていた。

「ねえ、祐介?」

「ん?」

「...もう、これで最後にしない?」
泣きぬれた顔を上げて、彼女は言った。溜まっていた涙が、その瞬間、大きな滴となって、ぼろぼろとこぼれた。

僕はもう、驚かなかった。
ここまでの話で、彼女がそのつもりで、今日ぼくを連れ出したことが、ある程度予想できていた。

「それがいいと思うの。…祐介だって、もう元のように、私を愛することは、できなくなったでしょう?」

「手術は、もう受けると決まったの?」僕は尋ねた。

彼女は首を振った。「あくまで、私の中で…、必要なら受ける覚悟を決めただけ」
「もしかしてそれは….。」
「そう、朱音、のために。おかしいでしょう…。.付き合ってたんだ、私たち。もう二年前になるけど。」

真樹は、僕の前に立って、横断歩道を歩き始めた。鉢の開いたスカートと、それを彩るレースが、彼女が歩くたびに左右に揺れた。

「周りに何を言われても気にしないで、付き合っている人たちも、いるにはいるんだ。でも…、私は小さいころから、女の子らしく生きるように、強く親に言われてきたせいもあって….、やっぱり後ろめたかった。私も彼女も、それが普通でないっていう意識に、いつも潰されそうだった。それでお互い決めた。別れて、みんながやっているような、普通の…、幸せな恋愛しようって」

真樹の場合、そうして出会ったのが、僕だった。

「...今になって思うと、私があなたに出会ったとき、朱音は私に、気を使ってくれたんじゃないかなって思ってる。別れた時も、言い出したのは私だった。そのときも、あの子は何も言わずに受け入れてくれた。それに...、」
「それに?」
「気づいてた?そもそも朱音は、あなたのことが好きだったんだよ。それを...、結果的に、私が奪った格好になった。もう少し早く、そのことに気がついてあげるべきだった」
「それは,,,,」
「私は...、罪悪感を感じてるんだ。少なくとも私が...、もう少し自分をしっかり受け入れらていれば、誰も不幸にすることはなかったのに....、」
「自分を受け入れるって...、」
「つまり、だから…」

真樹と僕は、歩いているうちに秋葉原の人通りの多い通りを抜け、狭い道に入って行った。まとわりつくようなかび臭い配管の匂いが、風に乗って通り抜けた。向こうには、また日当たりのよい広い道が見える。蝶のように朗らかに、メガネをかけたワイシャツたちが語り合い、通り過ぎていくのが見える。

「前にも一度、考えたことがあって、その時、自分なりにいろいろ調べたけど...、でも、あれはすごく大変な手術なんだって...、いろいろ、程度があるみたいでは、あるけれど...、いろいろなところから、筋肉を取って、より合わせたりして...。でも、私は恐れるべきじゃなかった。自分を受け入れるために、そのくらいの代償は払ってそれで...、」
「男として、朱音を愛する?」
「ええ...、せめて、形式的にでも、彼女と普通の恋を...。」


「ごめんね、祐介は何も悪くない」彼女は言った。
「悪いのは、すべて私。朱音を苦しめたのも、祐介に...、迷惑掛けたのも。そもそもが...、私たちは、知り合うべきじゃ、なかったのかも。」
すべてを諦めたような声だった。

「私の迷いが...、すべて悪かった。最初から、私が自分を受け入れられていれば、だれも必要以上に苦しめることは、なかった。」
真樹は静かに言った。
「…ごめんなさい。」

僕は放したままだった真紀の手を取った。そしてそれをしっかりと強く握った。
「そんなこと、言うなよ」

彼女は驚いたように目を大きく開いて、僕を見ていた。
「…ごめんなさいなんて、言うなよ。どんな経緯があったにせよ、今の君は、僕の彼女なんだ。朱音さんの、幸せを考えるのはもっともだけど….、もっと僕のことも考えてくれないか?」
「….」

「僕は今まで、君を女性として以外、見たことがなかった。人の内面なんて、そもそも、本人にだって、よく見えないものだろ。だったら、僕が君を女性として疑わない限り…、君は、僕の彼女、だよ。…そうやすやすと、手放したくはないんだ。」

僕は彼女を引き寄せた。
暗いビルの谷間。湿った風が通り過ぎる。
「…ありがとう」真樹は言った。

「ありがとう、祐介。でも、もういい。私には、これで十分」
彼女は、僕の胸からからそっと体を離した。彼女を抱きしめた時の感覚が、僕の胸元から少しずつ乾くように消えていくのを感じた。
「あなたの気持ちは、とてもうれしい。でも、朱音には…、私しか、いない」
彼女の気持ちは動かないようだった。

「でも…おかげで.最後に、幸せな恋愛ができた。これで、私は女としての自分に、思い残すことは、ない。」自分自身に言い聞かせるように彼女は呟いた。

「…さあ!」
再び顔をあげた。そして、矢庭に僕の手を取った。
「辛気臭いのは、もうこれで終わり。この先に、いいお店があるの。…もう少し、彼女で居させてね。」
「いいお店って?また、居酒屋?」
彼女はうなずいた。
「たこわさが、本当においしいの」
満面の笑みを浮かべた。
「今日は、日本酒といきましょうか。…悪い?」
「いえ、いえ」
僕は言った。
「…どこまでもついていきますよ、君の行くところなら」
彼女は笑った。
「ほんと、いい返事!」


僕は今まで、誰に恋していたんだろう?

彼女と別れてから、僕は考え続けていた。僕の愛した『彼女』は、あくまで真樹の一面であって、すべてではなかったはずだった。真樹は普通の恋愛をするために、それを隠そうと努力してきた。その努力も含めて、僕は真紀を愛せなかった。その努力を知っていたのは、僕ではなく、朱音さんだけだった。

女性という存在の中に本来ならば相容れない、男という現象を内在してしまった彼女。それを一時的にせよ否定するために、しつらえられた、『彼女』というロール。それは、猫の耳を持つメイドのような、キャラクターという照れ隠しと同等の存在なのかもしれなかった。じゃあその表面ばかりを見ていた僕は、彼らと変わらないわけだ。秋葉原でコスプレの少女を追いかける無数のワイシャツたち...。

僕にはもう言葉が出なかった。何も考えられえなかった。
これで最後にしない?、と切り出された時にはそれほどのショックもなく、この苦痛を意外と乗り切れるのではないかという楽観すら抱いていた。しかし、こうした悲しみは、死に至る疼痛のように、じわじわと僕の精神を蝕むようなのだ。
彼女と別れて一週間もたつころには、僕は何もしたくないという無気力な感情に取りつかれた。

自分の生活や、思考の中に、彼女のことを考える癖ができていた。
テレビを見ていても、これ教えてあげようとか、思う自分がいた。
自分の将来を考えても、彼女との生活を前提に作られた未来があって、その未来から彼女の姿を消してしまうと、そこには暗い虫食いだらけの、原型を想像できないほど朽ち果てた『夢』が転がっているだけだった。

とにかく、今は休みたかった。何か深い眠りか...、陶酔できるものに出会って...、頭の回転を抑えて...、このぐるぐる回る思考の輪廻を、一度どこかでリセットする必要を感じていた。


    †
僕が絶望のどん底にいた頃、日比野からまた、『街』に出ないかと誘われた。
真樹と付き合い始めて以来、彼と会うことは少なくなっていた。正直、外出したい気持でもなかったが、誰にも話さず、葛藤を続けることにも、いい加減疲れていたので、彼の誘いに乗ることにした。

2009年1月20日火曜日

『ロール・プレイ』 17 (『僕の彼女が転換します』改題)

「真樹?」
「…祐介」

電話の向こうの真樹は元気がなかった
「これから、そっちに行っていい?…ていうか、もう部屋に着きそうなんだけど」
こんこん、と扉をたたく音がした。

僕は立ち上がって、玄関の扉を開けた。
「こんばんは」
真樹は僕に微笑んで見せた。なんだかひどく、疲れているようだった。
「ねえ、...今夜は、ここで眠らせて」
真樹は理由も言わずにそう言った。

僕はもちろん、構わないと言った。
ありがとう。彼女はそういうと僕の部屋にあがり、服を着たまま、僕のベッドに横になってしまった。そうして、間もなく、すやすやと寝息を立て始めた。

彼女の眠りを妨げないよう、僕は余っていた毛布にくるまって、ベッドにもたれかかるようにして眠った。心配をして疲れていた。朱音さんのことは気になっていたが、ともかくも、真樹が無事に帰ってきたことで、一安心した。無理な姿勢ではあったが、僕もまた、すぐに眠りに落ちてしまった。


目が覚めた時、すでに太陽は高く昇っていた。
ベッドに眠っていたはずの真樹の姿はもう無かった。彼女の眠った跡はベットの上に確かに残っていたが、その温もりは消えかけていた。

彼女の眠った跡を直そうとして、彼女の使った毛布を手に取った時、僕は指先にひやりとした感覚を感じ取って、はっとした。真樹の使っていた毛布の、ちょうど、彼女の首に掛かっていたあたりが、かすかに濡れていたのだ。

彼女は昨夜、ベッドの中で、一人で泣いていたらしかった。


真樹、どこ行ったんだろう。そんな思いでいると、再び僕の携帯が鳴った。
「祐介!起きた?」
真樹だった。昨夜よりは随分、元気そうだった。

「ねえ、外に出てこない?」
「今どこにいるんだ?」
「アキハバラ」
「秋葉原?なんで、そんなところに...」
「いいじゃない。あなた達の『街』なんでしょ」
「それは、僕の友達の、街であって....、」
「気にしない気にしない。いいから早く来なさい!」

ガチャっ、と音がして一方的に電話は切れた。
僕は手早く身支度をして家を出た。

秋葉原の駅前には30分余りで着いた。
彼女の携帯に電話を入れた。

「祐介のすぐ後ろにいるよ」
真樹は電話口でそう言っていた。僕は後ろを振り向いた。そこには、恥ずかしそうに手を振る真樹がいた。その姿に、僕は思わず、吹き出しそうになった。

真樹は、あの、以前辞めた店のものとよく似た、メイド服を着ていた。

「へへ...、似合う?」
「どうしたんだその格好?嫌だったんじゃなかったのか?」
「また、着てみてもいいかなって思って」
真樹は目を細めて微笑んだ。

「ちょっと、萌えた?」
「...僕はオタクじゃない。」そっぽを向いた。
「でも、似合ってないことも、ない」
「正直に言えばいいのに」
真樹はあきれたように言った。
「私が自ら進んでこんな恰好をするのは、ほとんど奇跡だよ」
「いったい、どういう風の吹きまわしなんだ」僕は真紀の方を向き直った。
「朱音さんは、どうなったんだ?昨日は急に夜中に打ちに来たりして、...心配、したんだぞ...」

真樹は、みるみる僕を愛おしむような表情になった。
それは、はっとするほど美しかった。

「...ありがとう。心配してくれて」
「そんな...」
僕は彼女を見つめ続けることが出来なかった。思わず目をそらした。

「あのね、祐介、」
真樹は僕の方をまっすぐに見て言った。
「実は、わたし…、今、考えてるんだ、性、転換手術」
「へ?」

唐突なことで、僕には彼女の言っている意味がよく飲み込めなかった。「君は一体何を...、」
「簡単に言えば、私、男になりたいの」
真樹の表情は努めて明るかった。
「あの、『性同一性障害』ってあるでしょう?私、あれなの。部類としては軽い方なんだけどね」
「冗談だろう、そんな....」
「冗談なんかじゃない。...ほら、これ、診断書」

彼女は、一枚のA4大の紙を見せた。そこには確かに、医者の読みにくい癖字で、彼女の名前と、その病名が描かれていた。日付は3年ほど前のものだった。僕は、目が回りそうだった。
「でも、あれって、体は女でも、心は男、みたいな病気だろう?」

ぼくはすっかり取り乱して、自分の声が大きくなっていることにさえ、気がつかなかった。
「君は、確かに男勝りなところはあるけれど、僕と、付き合ってたじゃないか...、あれは、全部、嘘、だったのか...?」
「...嘘、なわけないじゃない」
彼女は言った。

「私は、今でもあなたを愛してる。あなた以外の“彼氏”なんて、私にはこれまでも、...これからも、考えられない」
僕は頭が混乱していた。

「この病気はね、いろいろな型のある病気なの。みんながみんな、完全な男性の心を持っているわけじゃない。...ただ、共通しているのは、女の人であれば、女性としての自分の体が、自分のものでないような違和感を持っている、という点。私にはそれがあった。ずっと、幼い時から」
「...」
「そして、私は、軽度だったから、心の状態が、完全に男性というわけでもなかった。違和感を感じながらも、女性としての感覚も持っていた…。そんな珍しいことじゃないんだよ。この障害を持つ人の中には、普通に結婚して、家族を作る人も大勢いるそうだから…」

彼女は彼の手を取った。ひやりとする感覚が、彼の手の皮膚を通じて伝わってきた。テニスをやめてから、その手はずいぶん白くなり、指もしなやかさを取り戻しつつあった。「...ねえ、ちょっと歩こうよ」

彼女は、彼の顔を見上げてそう言った。そして手を引いて、僕が日比野と歩きなれた道に繰り出した。


  †
沿道では、彼女のようにコスプレした女性たちを何人か見かけた。メイド姿の女性と歩く僕を、取り分けて注目する人間はいないようだった。日比野が何度も立ち止まった、ロボットアニメのフィギュアの飾られたショーウィンドウが通りに沿っていくつか並んでいた。

僕らは、手をつないだまま歩き続け、少し開けた交差点に出た。右から左へ、左から奥へ。人々が行き交い、視線も合わせずにすれ違う。まだ見ぬ人生が永遠に知ることのない人生と交差する場所。横断歩道の信号は、まだ赤だった。
僕と彼女は、そのラインの手前に立ち止まる。

「私の女性としての自覚は、あなたという人間と出会うことで、だんだん強くなってくるように思えた。私は、あなたと付き合い始めてから、自分の中の女性を再発見したの」
真樹の握った手が、しっとりと汗ばんで来るのを感じていた。彼女の中で、感情が激しく起伏しているようだった。

「私の中の女性としての違和感は、消えることがない。でも、一人の女性として、もっとずっと、あなたと一緒にいたい...。たとえ、それが女性として、演技しているだけだったとしても...。今は正直、そう思ってる」
彼女は、握った手に力を入れた。彼女の右耳に、僕のプレゼントしたピアスが小さく揺れているのに、僕はその時になってようやく気がついた。


僕らの前の信号が、赤から青になった。僕は一歩前に足を踏み出そうとした。
しかし、その時、しっかりと握っていたはずの彼女の手は、僕の手の中から、するりと抜けて離れてしまった。


「...でも、私....、やっぱり、気持ち悪いよね」

『ロール・プレイ』 16

真樹と付き合いだして、5カ月が過ぎたころだった。
ある日の夕方、朱音さんから突然に、そして久々にメールがあった。

“祐介さん、こんにちは。
先輩とはうまくやっていますか?”

久しぶりのメールにしては要領を得ないメールだった。一体どうしたんだろう。そう思いながら、僕はメールを返信した。

“うまくやってるよ。ありがとう。
それもこれも朱音さんのおかげ”

ややあって、朱音さんからメールが来た。

“今どこにいます?”

“自分の部屋でテレビ見てる”

その日は大学の残っていた最後のテストがちょうど終わった日で、僕は早く家に帰ってきていた。真樹のほうは、看護師の国家試験が近づいていたから、自分の部屋で勉強すると言っていた。

朱音さんから、しばらくして返信が来た。

“遊びに行っちゃおうかな。場所
って、大学のそばですよね”

不意のことだったので驚いた。

どうして彼女が急に僕の部屋に来たいと思ったのか、全く見当がつかなかった。
理由の無い不安を感じた僕は、朱音さんに直接、電話してみた。

「...もしもし」少しためらいがちに、朱音さんの声がした。
「朱音さん?」できるだけ優しく彼女に語りかけた。
「どうした?」

「...へへ」はにかむような彼女の笑い声が聞こえた。「...ご迷惑、でした?」

「いや、いいんだけど、突然のことだからびっくりして...」
「今、先輩っていらっしゃいます?」
「いや、真樹、最近、国家試験の勉強が忙しそうで。今も、家で勉強してるはず」

ああ、そうですよね。
朱音さんが言った。

「いきなりで、すいませんでした、何だか....、少し祐介さんとお話ししたい気持ちになったもので」
「…何か、あったの」
いえ、何かあったというわけでも....。
電話の向こうの朱音さんは、何事か、言うのをためらっているようだった。

ええ、あの、なんというか….。電話の向こうで、彼女はそんな言葉を繰り返していたが、
「…祐介さんは、先輩のどういうところが好きですか」
唐突に、僕にそう質問してきた。
「どういうところって...、前にも言ったと思うけど、…少し不器用で、でも、いろいろ周りのことは考えていて...、女の子らしいところもあって…、そういうところかな。...なんで急に、そんなこと聞くの」
僕は恥ずかしくなって、照れてしまった。

「...幸せそう」朱音さんは言った。
「先輩も、今きっと、幸せですよね。最近、どんどんきれいになってる」
「そう?...だと、いいね」

真樹が、会うたびに少しずつ女の子らしくなってきているのは、僕の目にも分った。朱音さんに買ってもらった化粧品のほかに、いくつか自分に合いそうなものを買い足しているようだった。服装も、はじめはジーンズばかりだったのだが、先日は線の柔らかいワンピースを着て僕の前に現れた。髪も、僕と出会った時にはうなじがすっかり見えるほどに短く刈っていたのを、今では軽く肩に掛かる位まで伸ばしていた。

彼女の誕生日に僕が贈った安物のちいさなピアスは、まだ付けずに大事に仕舞っておく、と言った。

もう少し待って。これが似合うような女性になったら、私、これを付けて祐介の前に現れるから。
そう言って、楽しそうに笑う彼女を見ながら、僕はその日がそう遠からず来るような気がしていた。

朱音さんは、電話の向こうでふっと口をつぐんだようだった。
少しの間沈黙があった。
「...なら、いいんです」
「どうしたの!朱音さん、らしくないよ」
ふふっ、と朱音さんが小さく笑った声がした。
「...らしくない、ですか」
「うん。ずい分、らしくない」

「...らしくない、かあ」
吐き出すように朱音さんは言った。

「...私がやっぱり変なのかな」
「どうしたの、一体。何か、悩んでるの?僕でよければ、相談に乗るよ。朱音さんは、僕らの恩人なんだから」

「...ありがとうございます。もう、いいんです」
電話の向こうで、朱音さんは言った。

「ごめんなさい、急に、電話しちゃって。本当に...。じゃあ...」
朱音さんはそう言って、一方的に電話を切ってしまった。


電話が切れてからも、僕はしばらく真っ暗になった液晶画面を見つめていた。

付き合い始めた当初、僕はできるだけ早くに朱音さんのもとを再び訪れて、お礼をしなくてはいけないと思っていた。しかし、目の前のことにかまけているうちに、それは遅れに遅れ、結局あれから一度も朱音さんに合わないまま、月日が過ぎていた。

一方で真樹の方は、時々彼女と会っていたようだった。
真樹の話にはちょくちょく朱音さんの名前が出てきていたので、僕も彼女とずっとあっていないということを特に意識していなかったということもあった。

それでも、ここ一か月ほどは、彼女でさえも朱音さんとは会えずにいた。電話をしてもつながらないことが多く、メールの返事も遅れがちで、やり取りも途切れがちだったそうだ。心配になって部活に顔を出したこともあったが、後輩の部員には、最近彼女は顔を出していないと言われたという。

僕はどうしようかしばらく迷っていたが、やっぱり不安に思ったので、そのまま真樹に電話をかけた。

「どうしたの?祐介」
僕は朱音さんから電話があったことを真樹に話した。僕と彼女の間に、重い空白の時間が流れた。

「…そう」
長い沈黙を割くように真樹が口を開いた。
「….どうする?彼女、何かあったんじゃないかな」
「…」
真樹は何も言わなかった。ひょっとすると彼女はうすうす事情を知っているのかもしれない。そんな気がした。

「君は何か心当たりがない?朱音さんが元気がない理由に。」
「….ねえ、祐介」
電話の向こうから、真樹の抑えた声がした。
「何?」
「少し、時間をくれない?これから、朱音に会って、ちょっと話してくるから…。」

「それがいいと思う。僕よりきっと君の方が、相談に乗れると思うよ」
「…だと、いいね」
彼女は、あまり自信がなさそうだった。
「いずれにしろ、事情は必ず教えるから、心配かもしれないけど、待ってて」
「うん。…頑張って」
…へへっ、まかせて。真樹の返事が、受話器ごしに聞こえた。


それから僕は彼女からの返事を部屋で待っていた。返事は、夜半を過ぎても来なかった。明日になるのかな。そうは思いながらも、気になって眠れそうになかった。僕は気持ちを落ち着かせるため、CDラックから気に入っていた一枚を取り出し、ボリュームを絞ってかけた。

ワルツ・フォー・デビーいうピアノ曲だった。
作曲者の姪ために作られたというその軽快なメロディーは、川辺を跳ねる少女をの姿を連想させ、沈んだ心をいつも浮き上がらせてくれた。物音ひとつない、深夜の静かなアパートの一室で、追いすがる不安をかき消すには、破滅的な人生を送った作曲者が残した、かすかな未来への希望を歌ったこの曲が打って付けのように思えた。


時計が午前2時を回ろうとしていた頃、夜の静寂を引き裂いて、携帯が鳴った。

「真樹?」

2009年1月18日日曜日

『ロール・プレイ』 15 (袖のない舞台の上で)

後に、僕はまた日比野と久しぶりに秋葉原に出た時に、偶然その話題になったことがあった。
「それは違うな。愛情は必要だよ。」

彼は意外な答えを返してよこした。
「なんで、また。」
僕は常々の日比野を思い返して、その回答とのギャップに、思わず笑ってしまった。
「笑うなよ。...そう思って悪いかい」
「いや、あんまり意外だったから....。」
僕にそう言われると、日比野まで思わず苦笑してしまっていたが、
「君は、『偶像』に恋をしたことがあるかい」
ふと真面目になってそんなことを言った。

「『偶像』?」僕はその言葉に心当たりがなかった。
「そう。要するに、理想の女性を模したものだ。僕にとっては、フィギュアやアニメのキャラみたいなのが、それに当たるのかもしれないな。テレビのアイドルだって立派な偶像だと思うけれど」
「それに“恋”をするのかい?」
「...できなかったな、僕には」
彼は言った。

「...やっぱり、飽きるんだよね。できあがったものは、一つのパターンから抜け出せないから」
「オタクの君でもか」
「オタク、か」
彼は冷笑を浮かべた。
「そんなもの、本当に存在するのかな」

『街』は朝からじめじめとしていた。夏を迎えて、沿道を歩く人々はテレビアニメさながらの露出の多い格好をして現実的なアスファルトの道を行き過ぎる。細く鋭いシルエットのヒールのつま先では、虐げられた彼女らの親指が悲鳴を上げている。彼女らのモデルとなった、ハイヒールの美少女戦士達も、外反母趾に悩んだことが、あったのだろうか。そんなエピソードが物語中に挿入されていない限り、コスプレする彼女らは、そのことでうかつには泣けない。

「その瞬間に快楽が生じることにはそれでも変わりがないんだ。でもどうしてその後であんなに虚しい気持ちになるのか...。僕なりに考えたこともあったな」
日比野は話を続けた。行き交う人々を見つめながら。

「ある時、ふと気がついたんだ。ようするに、それは、相手に受け入れられているっていう、確信が得られなかったからだって。」
彼の手は、目の前に置かれた大ぶりのコーヒーカップの取っ手に掛けられていた。それを飲むでもなく、彼は深い褐色の液面をじっと見つめていた。

「『偶像』相手に恋をして、それをいつまでも追っかけていたって、そんなのは完全に一方的だ。そんな確信...、安心のようなものが得られることは、いつまで経っても無かった。僕が、恋愛や、セックスに求めていたのは性的な快楽もあるけれど、それよりむしろ、そういう安心感だったんだ。相手に、一番恥ずかしくて、大切で、繊細な部分まで、受け入れてもらっている、っていう」

彼はマグカップのコーヒーを口に含んだ。白い湯気が彼の小さな瞳の前で揺れた。
「だから...、相手がロボットだったら、いずれつまらなくなると思う。人間相手だって、あんまりワンパターンだと、倦怠期ってものがあるくらいだろ」

日比野の真剣な表情を見ていて、僕はふと、あることを思い出し、思わず含み笑いをしてしまった。アカネさんから聞いた日比野のグラマラスな彼女のことを思い出したのだった。じゃあ、恋人がコスプレしてくれてたら、文句がないってことか?真面目に話してくれた日比野には悪いと思ったが、そう思うと、笑いが抑えられなくなった。
「どうしたんだ」
突然笑い出した僕に、怪訝な顔をして彼が尋ねた。

「...いや...、実はこれ、ほんとは内緒にしてくれって言われてたんだけど...、」
僕は黙って隠し通せる気がしなくて、朱音さんから聞いた話を、正直に彼に話した。

「...あいつ、ほんとおしゃべりだな」
「怒らないでやってくれよ、僕まで、嫌われちゃうよ」
「僕まで、は余計だ」
日比野はコーヒーを口に運んだ。

「...彼女とは確かに付き合ってるよ。でも...、」
「でも?」
「あれは、彼女の、『ロール』だからな」
「...『ロール』?」

聞き慣れない言葉に僕は戸惑った。
「ほら、ゲームであるだろ、ロール・プレイング・ゲームってやつ。」
「ああ、ドラクエとかかい?」
「そう。あれは、自分が勇者っていう、一つの『役』を演じるゲームなんだな」
それは僕も知っていた。幼い頃からそう言うゲームは好きで、良くやっていたから。

「で、それが君の彼女と、どう関係があるの?」
僕には解らなかった。いくら秋葉原がそうした空想と現実が入り交じった街だったとしても、それが、実在する彼と彼女の関係にまで関わってくると言うのはどうにも理解できなかった。
「彼女は…」

彼は言葉を選ぶようにゆっくりと説明を始めた。
「聞いたと思うけど、相当にコスプレに凝ってるんだ。それは、ちょっと凝りすぎてるくらいでさ。コスプレそのものが、ゲームやマンガの登場人物になりきって、それを演じている訳だけれど….。彼女はいわば、『オタクに恋されたコスプレ少女』っていうロールの中にいるんだな」
「まさか、そんな...」

「それは、そんな不思議なことじゃない。恋なんて、大なり小なり、そういうものだろ。映画のワンシーンを再現したような凝ったデートの演出を、俳優に似ても似つかない二人が恥ずかしげもなく、やっていたりするだろう。横浜辺りで」
「まあ、それは...、」
真樹とつきあい始めたばかりの僕にも多少、心当たりがあった。

「僕は最近、それを強く意識しているよ。彼女にとって僕は、演出の装置のひとつに過ぎないんだ」
「そんなことは...」
「彼女が本当に愛しているのは、究極的には、たぶん自分だけだ。もし、僕よりオタクらしいオタクが現れたら...、そんなの、いっぱいいると思うけれど...、彼女はそれと僕を取り換えても、そんなに気にしないだろうな。…要するに、僕、という人間でなくてもいいわけだよ。僕と同じ、『ロール』の人間であれば」一息に言った後、彼はいつか見せたような、覇気のないぼんやりとした表情を浮かべて、窓の外の往来を眺めていた。

「君は自分に自信が無さすぎじゃないか?…もっと、考えてみたらどうだい。彼女には、僕が必要だ、とかさ」落ち込んだ様子の彼を励まそうとして僕は言った。

「...君は幸せなんだな。」日比野は冷笑を浮かべた。僕の励ましの言葉は、彼には届かなかったようだった。何かを思い出すように、手元のコーヒーカップを見つめた。そして、そのカップを両の手で、静かに包んだ。




真樹と付き合いだして、5カ月が過ぎたころだった。
ある日の夕方、朱音さんから突然に、そして久々にメールがあった。

『ロール・プレイ』 14

こんなことがあった。

あれは付き合い始めてどれくらいたった頃のことだろう。
彼女と、初めてセックスした時のことだ。

僕の体が彼女の体に近づき、覆いかぶさろうとした刹那、彼女は不思議なものを見るような眼で、僕の顔を見つめていた。女の人が、こういうとき男の顔を見つめることはあることだと思うけれど、僕には何だか、その時の彼女の、新しい発見にでも出くわしたような表情が気になった。

一通りのことが終わった後、僕はそのことを思い出した。隣の彼女に、あの時、一体何を考えていたのか聞いてみた。

「『会話』だなって、思った」彼女は言った。
「会話?」彼女の口から意外な答えが返ってきたので、僕は驚いた。
「そう。セックスってね、たとえば男の人がちょっかいを出し始めるでしょ?」

彼女は暗闇の中で、僕の目をまっすぐ見て話し始めた。薄暗がりの部屋の中で、残光のようなグローランプの光を反射して、彼女の瞳はほのかに、火を灯したような輝きを宿している。

「すると女の人が反応するよね。今日の私は、なんだか恥ずかしがってしまったけど。….でね、それを見ると、男の人はまた次の対応をとる。...あなたは、私の背中をくすぐったっけ」
自分の欲求に突き動かされた、あまり意識的ではない行動を、詳しく彼女に再現されて、僕はずいぶん恥ずかしい思いをした。女の人が意外と冷静なのに驚いた。

「こうやって、二人の間のやり取りがあって、セックスってキャッチボールみたいに進んで行くんだなって、ふと思った。….まるで、お互いの身体で会話しているみたいに。」

それは僕に、彼女と一緒に見た動物番組に出ていた、南国の鳥に住む鳥の果敢で複雑な求愛ダンスを思い出させた。オス鳥の真剣な表情とその最中の自分の表情とを重ね合わせ、僕は思わず苦笑せずにはいられなかった。

「でも、」彼女は続けた。
「...今、あなたに話しながら思ったんだけど、じゃあ、もし、女の人の反応を、完全に再現できるロボットがあったら...、男の人はそれだけで、やっぱり十分なのかな」
「それは...。」

僕は答えに詰まった。それはつまり、セックスに愛情は必要かってことなのだなと僕は理解した。

「それは、そうかもしれないな...。」
僕は自分の行動を思い返してみて、否定する自信がなかった。
「そうだよね」彼女は意外にあっさり僕の答えを受け入れた。
「いくら話しても、届かない言葉はあるものね。会話は成立しているように見えても」彼女は微笑んでいた。

「回りくどい言い方だな」僕は言ってやった。
「...確かに」
ふふ、と声に出して笑った。

「ねえ、」彼女は身体を僕に向けて、急に真面目になって尋ねた。
「あなたは、私の身体のどこが好き?」
「身体の?」
「そう、私の、身体の」

僕らの体にかかっていた毛布を手で持ち上げるようにして、彼女は自分の身体が僕によく見えるようにした。そうして、自分自身でも、自分の身体を覗き込んだ。
「教えてくれない?私にはよく、わからない。この身体の何が、あなたを興奮させるのか。…言い換えれば、ロボットには、何が必要?」
僕は再び、答えに詰まった。

「胸とか、おしりとか、そんなところが男の人にとっては魅力的なんだろうなって、思ってはいるけど、男の人と、女の人の感覚って、違うみたいでしょう?…自分の感覚とは、違うのかなって。」
「全体が、必要なんじゃないかな…」
「全体?」

「…でも、人によって違うみたいだよ。胸だけとか、足だけとか、そういう部分だけで、興奮する人もいるみたい」
「…祐介は?」
彼女はまっすぐに、僕の目を見ていた。
「祐介は、どうなの?」
僕は答えに困ってしまった。
「祐介は、私に何があるから、私を女として、興奮してくれるの?」
彼女の目は真剣だった。

「何がなくなったら、私はあなたにとっての女性ではなくなってしまうの?」

『ロール・プレイ』 13

「村瀬、真樹さん、か」


僕は独りごちた。今日の彼女の仕草一つ一つを思い起こしていた。
正直、彼女の性格は、外見から予想していたものとは大きく違っていた。僕はもっと穏やかで、朱音さんが言っていたようにシャイな性格なのだろうと思っていたが、実際に話してみると正反対で、むしろ自分よりずっと頼りがいのある性格のように感じた。

でも、そうした男勝りな性格の一方で、時々見せる女性的なしぐさや感覚が僕が、僕には余計に魅力的に映った。

「…そうだ」
僕は、そこで、ふと今日の日を生み出してくれた朱音さんのことを思い出した。ポケットから携帯を取り出して、彼女にメールを送った。

“朱音さん、もう寝ちゃったかな
?今日は、ありがとう”
そう言う書き出しだった。

“始めはどうなるかと思ったけど
、予想外に彼女とうち解けてしま
いました。”

朱音さんからはすぐに返事が来た。

“こんばんは☆祐介さん。
まだ眠っていませんよ。ちょうど
ベットに入ったところ。
良かったですね。私は先輩が、知
らないところでお店を辞めていた
ことを、さっき友達から聞いて、
明日、不平を言って上げようと思
っていました。”

僕はそれを聞いて明日の二人のやりとりを想像し、一人でにやけてしまった。
彼女はそれから、メールの末尾に

“もう、祐介さんがお店に来なく
なっちゃうだろうなと思うと、少
し寂しいです”

そう書いていた。
僕は、少なくとも日比野と秋葉原に行くことは今後もあるだろうし、メールだけではなく実際に朱音さんに会って今日のことを報告したいと思っていた。そのことをメールに書いて返信した。

“また、行きますよ。朱音さんの
ネコミミメイドは特別です”

彼女から返事が来た。
絵文字で、怒りを表すマークが入っていた。

“もう!
でも、いいです。
また来てください☆”

僕は携帯を折りたたんでポケットにしまった。
幸せな笑みはいつまでも引かなかった。


   †
さて、僕はこうして真樹と知り合ってから、順調に交際を重ねていた。
そのほとんどは初めの時と同じようにお酒を介した付き合いだった。

真樹は、朱音さんの説明から受けた印象よりずっとオープンで、誰とでも仲良くできそうな印象の女性だった。あまり女の人と合わせるのが得意でないと感じていた僕にとって、彼女のこの性格は救いだった。僕と彼女は、始め飲み屋で頻繁に合うようになり、あちこち出歩くようにもなり、やがて彼女の部屋に上がり込んで飲むことも多くなった。

女の子の部屋に入ったのは、それが初めてではなかった。僕の印象では、女の子は誰も、自分の世界のようなものを部屋に持っていることが多くて、物もちがよすぎるのか、学生用の狭い部屋の中に過剰なほど多種多様なものが詰め込まれている印象があった。
しかし、真樹の部屋はまったく違っていた。

彼女の部屋は、物がほとんどなかった。テニス用品や、生活に使う雑貨類が、小さなケースに収まってぽつんと部屋の隅に置かれているくらいで、女の子の部屋でよく見たクッションやぬいぐるみや、化粧品類は、まったくなかった。

「殺風景だね」
初めて彼女の部屋に上がった時、思わずそう言ってしまったほどだった。
「普通、女の子の部屋って、もうちょっと化粧品とか、あるものだと思ってたけど」
「…一応、あるにはあるんだけど」
彼女はそう言って部屋の隅を指差した。
「朱音に、この前買ってもらったのが、そのまんま」
「...やっぱり、朱音さん頼み?」

「頼みというか、向こうが勝手に買いましょうって言い出して」
真樹は笑っていた。
「化粧って、それこそ成人式の日にやられたくらいで、普段しないから」
「女の人にも、そういう人がいるんだね」
冷やかすつもりで言うと、彼女は、
「現に、ここに」そう言って自分を指差した。

「...やっぱり、変わってるよね、私って。女として生まれたんなら、もうちょっと自分をきれいに見せることも、考えたほうがいいんだろうけど」
「必ずしもそうでもないんじゃない?女の人だからって、みんなお洒落なわけでもないでしょう」

それは慰めでも何でもなく、普段から僕が思っていたことだった。僕は、化粧の匂いというものがあまり好きになれなかったから、多少地味でも小ざっぱりした人の方がむしろ好ましいとさえ思っていた。
「でも、どうなんだろう。そういう意識が全くないっていうのも、ちょっと変なんじゃない」
彼女は、そのことが意外に気なっていたらしかった。
「そんなに気にするなら、お洒落したらいいのに」
「まあ、それはそうなんだけど」
彼女は困ったように笑っていた。
「なんというか...」

彼女は、自分の中で、何か適切な言葉を探しているようだった。
そして、やがて僕の顔を不安げな目で見上げて、
「…祐介はさ、鏡に映った自分は、自分だと思える?」
そんなことを聞いた。
思わず笑ってしまった。
「そりゃあ、そうでしょう」

「そうだよね。」言った彼女も笑っていた。
「私もそれが普通なんだろうなって、思う。...でも、時々わからなくなるんだよね」
「なにが?」
「私、本当にこういう顔してるのかなって」
彼女は部屋の隅に置かれた小さな鏡を見ながらいった。
その鏡には、表面に薄くほこりが積もっていた。

「自分の顔って、自分の目では見えないでしょう。鏡で映るのは自分の顔だって教わってはいるけれど...。」
「まあ、それが事実だからね」
「事実とは分かっていても...。なんていうのかな、受け入れられないんだよね」
「受け入れられないって、自分の顔でしょ?生まれたときからの」
「そのはずなんだけけどね...。なんて言ったら伝わるんだろう。あれかな、初めて、録音された自分の声を聞いたときみたいな違和感」

「ああ、あれ!」僕はようやく合点が言った感じがした。
「あれ、変な感じだよね。え、これ、僕の声?って、誰でもなる」
「そうそう。その感じ」彼女は笑った。
「まさにあれ。鏡を見るたびに、自分の中でイメージしている自分と、鏡に映る自分とに、なんかギャップを感じる」
「でも、さすがに慣れない?一年や二年の付き合いでもないんだし。自分の顔とは」
「…そういうもんなのかな。なんだか、根本的に違うんだよね。イメージと。どうしても、受け入れられなくって….」

「それは大変だ。魔法で豚にでも変えられた?」
「豚はないでしょう!」彼女は怒ったように眉を吊り上げて見せた。
「でも、この違和感がずうっと続いてる。私の場合には。...まあ、些細なことなのかもしれないけど」


    †
こんなことがあった。

『ロール・プレイ』 12

彼女の連れて行ってくれた店は、大学のそばの居酒屋風の飲み屋だった。
「男の人と入る店としては、ダメダメな選択なんでしょうけれど、」
彼女は屈託無く笑った。「私は、こういうところの方が、落ち着くもので」

二人して座敷に上がると、店の人が注文を取りに来た。
二人とも迷わず、「生」と注文した。

渡された熱いおしぼりで手を拭いていると、さっきまでの緊張がとけ、気持ちが次第に楽になるのを感じた。
「なんだか、初対面のような気がしなくなりますよね、こうして居酒屋で向かい合っていると」彼女も僕と同じ気分なのか、そんなことを言った。

「ええ、不思議と。バーや、おしゃれなお店だったら、こうはいかないかなあ」
「初対面の女の子と、二人でお酒飲んでるって構図ですもんね。こういう時、男の人が頼むのは大抵、ウィスキーのロックみたいな強めのお酒で…、」
「女の人なら、ワインか、カクテル」

「普段あんまり飲まないようなお酒を、いつも飲んでいるような顔をして飲むんでしょう?…そんなの、どうかしてる」彼女はあきれたような表情をした。
「むしろそう言うところでも、ちゃんと変わらず、ビールを頼めるくらいの方が、立派だと思うけど」
「ビールって、実はおしゃれなお酒だと思うんですけどね」
僕がそう言うと、彼女は、そうそう、と相槌を入れた。
「細身のグラスに注ぐと、実は結構、エレガントですよね。...祐介さんも、実は、結構、お酒のみ?」
彼女は、にやりと笑った。
「...え?ええ、人並みには」
はは、と声を上げて笑った。「安心した」
彼女は座を崩した。

「今、さっきの大学の看護学科にいるんですけど、女の子が多いせいか、お酒をこういう、砕けた雰囲気で飲めることがなかなか少なくて…」
「そうなんですか。...真樹さんって、結構豪快な人なんですね。なんて言うか、僕なんかより、よっぽど男気がありますよ」
彼女はそれを聞いて笑った。
「よく、言われます。特に朱音に。そこがだめだって。でも、もちろん、みんなに見せるわけでは無いですよ」
真樹さんははずかしそうに笑った。
「祐介さんには、もう私の一番恥ずかしいところを見られてしまったから、怖いものは無いですから」

運ばれてきた中ジョッキを持って乾杯した。
「乾杯!...出会わせてくれた、朱音に」
「乾杯!」
真樹さんは、並々とつがれたビールをおいしそうに、喉を鳴らして飲んだ。
相当喉が渇いていたらしく、一度に半分ほどを飲んでしまった。

僕もさすがに、女の人に負けるわけにも行かず、普段はあまり威勢良く飲む方ではないのだけれど、真樹さんと同じ位の量を飲んだ。

そうしているうちに僕らは次第にうち解けてきた。
正直、女の人と、こういうかたちでうち解けたのは初めてだった。

「祐介は、朱音とどういう知り合いなの?」
ほどよく酔いが回ってきた頃、彼女は僕にそう聞いた。
「大学の同級生の、妹。最近まで会ったことはなかったんだけど...」
僕は日比野と、あのメイドカフェを訪れた時の経緯を話した。
彼女はそれを聞いておなかを抱えて笑っていた。
「ははっ!、それはびっくりしたでしょ。あなたもだけど、そのお兄さんの方が」
「すっかり、へこんじゃってた。おかげで彼の妹の愚痴を、さんざん聞かされて」僕は思い出して笑ってしまった。

「でも、朱音を見た時、正直どう思った?」
いたずらっ子のように、愛くるしい瞳を爛々と輝かせて、彼女は僕の表情をのぞき込んでいた。ポロシャツの外れたボタンの間から、偶然、彼女の胸元が見えた。僕は彼女の女性を意識してしまって、どきりとした。
「...かわいいと思った?」彼女はまだ、同じ姿勢で僕の顔を覗き込んでいる。
僕は何も言えず、頷いた。
「….あの日比野の妹でなかったら、すぐに告ってたかも」
気持ちを落ち着けて、どうにか、そう答えた。

「だよね。やっぱりかわいいよね、あの子」
彼女は、姿勢を元に戻して言った。「何で、あんなにかわいいんだろう」
「女の人から見ても、やっぱりそう思う?」「もちろん!」
彼女はさも当然、と言うように答えた。
「かわいい。あの子は。あの子のメイド姿を見た時は、私まで萌え萌えしちゃったくらい。…なんか、抱きしめたくなっちゃうよね」
彼女は切ない表情を浮かべて、自分の胸を抱くようなしぐさをした。
「あの子と一緒にずっと、ずっと過ごせたら、きっと幸せ…、だろうなって思うもの」そう言いながら、彼女は笑みを浮かべてジョッキを傾けた。

彼女と僕は結局、軽く飲んでご飯を食べる予定が、夜中までそのまま飲み続けてしまった。ビールが焼酎になり、水割りがロックになるまで、それほど時間はかからなかった。

「じゃあ、これで。」店の勘定を割り勘で済ませた後、彼女が言った。
「また、飲みましょう。祐介とはまた、飲みたい」
「僕も!」
お互いにもう、相当酔っていたが、何とかアドレスを交換した。
彼女の家はそこから近いと言うことで、送る必要はない、と言うことだった。
僕は店の前から、彼女の後姿を見送った。

彼女の姿が、大学前のアパート群の方向に消えていったのを見届けた後、すっかり暗くなった道を、僕は一人で帰った。

心の中で、今日の予想以上に上首尾な展開に驚きながらも、憧れた子と仲良くなれたという単純な喜びの味を噛みしめていた。

「村瀬、真樹さん、か」

2009年1月16日金曜日

『ロール・プレイ』 11

“先輩は、看護学科なんですが、
正直、看護が好きなようではなさ
そうです。うち大学の看護ではそ
ういう人は少数派だから、ちょっ
と居心地が悪そうです。”

先日のメールで、朱音さんは書いていた。

“お母さんの強い意見があって、
看護に入ってしまった、と言って
いました。本当はもっとテニスの
出来る環境に進みたかった、と言
っていました。”

僕は朱音さんが教えてくれた彼女についての断片的な情報を、大学に向かうバスの中で無意識に何度も反芻していた。次第に、彼女についてのイメージが固まりつつあった。だが、ある程度イメージが固まってしまうと、これは少々、危険なことのような気がしてきた。

僕はまだ、彼女と“会った”とも言えない状況なのだ。それなのにイメージをかためてしまうのは付き合いの妨げになるばかりで、初対面の人と会う際に、あまりいい心構えであるとは言えなさそうだった。

僕は頭をからっぽにして、朱音さんから教えられた情報をすべて忘れてしまおうとした。窓の外の景色を眺め、車の動く音を聞いていた。相手が実際どんな人であれ、それをまずは受け入れてみよう。多少不安もあったが、僕はそう考えていた。


練習場は、大学の正門のすぐ右手にあった。
四方を高いフェンスに囲まれたテニスコートは二面あったが、手前のコートは使われていなかった。奥のコートには、ボールを自動で打ち出す機械が据えられており、そこで誰かが練習していた。

「すいません」
ちょっと失礼かな、と思いながら、僕は声を張り上げて、その人に声を掛けた。練習していた人は僕の声に気がつかなかったようだった。
「すいません」僕はもう一度大きな声を出した。ようやくこちらに気がついた様子で、装置のスイッチを止めると、フェンスの近くまで駆け寄ってきた。

「村瀬さんを...、」僕はそこまで言って、はっと口をつぐんだ。
目の前に経っていたのは間違いなく、あの彼女だった。

その時彼女は、白いサンバイザーにショートパンツ、ポロシャツ、と言った格好だった。あのメイド喫茶で、ネコミミを付けて給仕していた彼女と同一人物であるとは、遠くから見た分には全く解らなかった。

フェンスの向こうの彼女は、突然現れた見知らぬ人物が自分の名前を知っていたことに驚いたのか、きょとんとしていた。先ほどまで練習をしていたので、息が切れたと見え、わずかに肩で息をしていた。
「はい、村瀬は私ですが.....」
「あの、僕、実は...、」
日比野朱音さんから話があったと思いますが...、そう切り出して、僕は自分が何者であるかを説明した。

「ごめんなさい。...あなたに嫌な思いをさせたんじゃないかと心配になりまして...。あなたの知らないところから、観察するようなことをしてしまって...、本当に申し訳ない。」そう言って頭を下げた。
それを聞いて、彼女はただ苦笑するのみだった。フェンスの向こうから、いえ、いえ、と手を振って僕の頭を上げさせようとした。

「そんな、いいんです….。こちらこそ、朱音がご迷惑をおかけしました。でも、私は正直、そんなことは全く知りませんでした。お店を出る時、あの子はただ、『今日は友達に会う予定があるから』とだけ言って、先に店を出て行ったので」
「...あなたを僕に会わせるって事、朱音さん、言ってなかったんですか?」
「ええ。」彼女はおかしなことを聞いた、とでもいうように笑っていた。

「...そうだったんですか」
変だな、とは思いつつも、そのことは、もはや僕にとって重要な問題ではなくなっていた。
「それにしても...、よりによって、あんな格好の所を見られちゃうとは...。」
彼女は恥ずかしそうに頭を掻いた。「私がいつもジャージばっかり着ているものだから、朱音に、『先輩はこのままじゃだめです、もっとカワイイに、目覚めなきゃ』って強く言われて...、連れて行かれたのが、よりによってあの店だったんです。」彼女は苦笑いした。

「でも、さすがに、私にはあの雰囲気は向いてません。朱音に内緒で、今日付で辞めさせてもらいました。」
「そうだったんですか」思わず僕も笑った。

柔道部と思われる集団が列を組んで雑木林の前を走りぬけた。歯切れのいい掛け声がつかの間のオレンジ色の静寂に響く。気が付けば、日はすっかり傾いていた。夕焼けの群青色が厳かに空を夜に沈めていく。テニスコートに置かれた装置が長い影を引いていた。ツィー、ツィーという、名も知らぬ鳥の声が奥の林からこだました。

彼女は夕闇にとらえられつつあるキャンパスにしばし目を奪われていたが、やがて僕の方を向き直ると、
「こんなところで、フェンス越しに話しているのも変ですよね。...祐介さんって、言いましたっけ?...おなか空いてないですか?」と言った。
僕は、昼間ほとんど食べていなかったことを思い出した。すっかりお腹が空いていた。「そう言えば、コーヒーぐらいしか飲んでなかった」

「じゃあ、何処か、食べに行きましょうか。...お酒は?」
彼女は人なつこそうに微笑んだ。

「朱音に振り回された者どうし、今日は飲みません?わたし、もう喉が渇いちゃって。」
思いもよらない展開に、内心、少なからず戸惑ってはいたが、僕は二つ返事で賛成した。

『ロール・プレイ』 10

朱音さんはその質問を意外と受け止めた様子だった。目を大きく見開いて、明らかに驚いた様子だった。
「行かれるんですか?」
「...せめて、謝りたいんだ。」僕は言った。
「彼女のことを勝手に眺めて、勝手に舞い上がってた。知らないところで話を進めてしまっていて...。」

「それについては、….私も反省してます。」
「だから、…謝っておきたいんだ。」
それは、彼女に会うための口実というつもりでもなかった。話したこともない彼女を僕は既に知り合いのように感じていた。これきり出会うことは無いだろう、という考えは、このとき想定の外にあった。また会うつもりでいる人間を、人はなかなか裏切れないものだ。
「でも、それでしたら、私から先輩に言っておけばいいことじゃないですか」
朱音さんが言った。

「そもそも、私がしたことですし….。そんなにお気になさらなくても、先輩なら、大丈夫ですよ」
「まあ、そうなんだけど…、僕の方も、その気になってたから。朱音さんだけに謝らせるのも、なんか、悪いよ」
「そんな…、私のことでしたら….。」
「あくまで、このままじゃ僕の気が晴れないってだけのことなんだけど」僕は言った。

「うまく会えなかったからといって、このまま、何事もなかったような顔して生きているのもなんか、ね。」
「…やさしいんですね。祐介さん」朱音さんが微笑んだ。「そんなに…、気になりますか?….先輩のこと」
僕は否定しなかった。

「わかりました。...じゃあ、ちょっと待ってください、いま住所を書きますので...。」
朱音さんは、手に持ったバックから小さなノートを取り出し、細々と書き入れ始めた。ついて来てくれないんだ、と僕はその時思ったが、これは彼女なりの配慮なのかも知れないと思った。癖があるが読みやすい字で、彼女の通うキャンパスのおおよその所在地と、練習場所の位置を書き入れた。それはここからそう遠くない距離にあった。「はい。これでいいはずです」
朱音さんは、所在地を書いたメモを手渡した。

「駅に着いたら、3番の出口から出て、大きな道路を渡った先にあります。入口に守衛さんがいると思うので、わからなかったら聞いてください」
「ありがとう、何からなにまで」
僕はお礼を言った。

「朱音さんには、本当に感謝しているよ」
「いえ、そんな…」朱音さんははにかむように笑った。
「私は、祐介さんに幸せになってもらいたいだけです。もちろん、先輩も」
じゃあ、これで。彼女はそう言って、僕に軽くお辞儀をすませると、愛嬌のある笑顔を残して去っていった。彼女の小さな後ろ姿は、週末の秋葉原に繰り出した人々の群衆に埋もれて、すぐに見えなくなった。

彼女の姿を見送ると僕の眼は、すぐに彼女の渡してくれたメモに向けられた。おおよその行程を把握すると、僕は彼女の先輩が練習しているという大学のキャンパスを目指して歩き出した。



彼女の先輩は、名を村瀬真樹といった。

2009年1月15日木曜日

『ロール・プレイ』 9

僕はもう1時間も前からスタバの入り口の脇のテーブルに座って、朱音さんと、彼女の先輩がやってくるのを待っていた。本当はもう少し後から店に入ろうと思っていたのだが、ゆっくり時間を潰す場所が見つからず、随分早めに店に来てしまっていた。

本来、秋葉原の街は、僕のテリトリーではないのだ。日比野がいたから、時間がつぶせたけれど、僕一人では、彼とよく行っていた店に入る気さえ、とてもなれなかった。朱音さんの働くメイド喫茶を出てから、あちこちさまよった挙げ句、僕は結局無難に全国チェーンの書店に入り、適当な文庫本を立ち読みしていた。本屋なんて、どの店に入っても置いてある本はほとんど同じなわけだし、僕の興味も限られているから、その立ち読みにもまもなく飽きてしまった。

だんだん、立っているのに足も疲れてきたので、僕は立ち読みしていた本を買い、時間よりまだ大分早かったが、待ち合わせの店に入って待っていることにしたのだった。

気配を感じて、ふと、目を上げると、通りの向こう側の露地の入り口から、私服に着替えた朱音さんが出てくるところだった。店の入り口近くに座った僕に気がついたらしく、片手をあげて小さく手を振った。通りを真っ直ぐ、こちらに横断してきた。

しかし、彼女の後にはだれも付いてくる様子がなかった。

「ごめんなさい、祐介さん。」朱音さんは僕の所まで来ると、残念そうにそう言った。「...先輩ったら、今日はテニスの練習しようと思っていたから、ごめん、なんて言うんです。」眉根を寄せて、朱音さんは溜息を吐いた。

「いつも、こうなんだから。…人が、せっかく心配しているのに...。祐介さんも言ったように、先輩、こういう事に関しては、とっても不器用な人なんです。だから...。」
「...そう、ちょっと残念かな」
僕は彼女と知り合えることを期待していただけに、言葉以上に内心は落ち込んでいた。
「...ちょっと、予定が狂っちゃったね」

朱音さんは困ったように微笑んだ。僕より、さらに落ち込んだ様子に見えた。

「...そうですね。私も、時間が余っちゃいました。」朱音さんは言った。「何処か、買い物でもしてこようかな...。」
そう言って、午後になっても人通りの絶えない秋葉原の通りを何気なく見渡した。

僕にはその時、朱音さんが何か言いたげな様子に見えたが、彼女は特に何も言わなかった。

僕は正直、もうこのまま、帰ってしまってもいいかと思っていた。そもそもが、棚から牡丹餅のような話なのだし、それが思い通りに行かなかったからといって、どうということでもないのだ。自分の中で何もかも、始めからなかったことにすればいいだけのことだった。そもそも、この話は、はじめ、断ろうと思っていた話ではなかったか。今の僕の生活に恋愛が特に必要である理由などなかった。昨日と同じ、いつも通りの、それなりに充足した僕の生活が、また明日もまた始まる、というだけのことだった。この日比野の妹さんと、知り合いになれたというだけでも、収穫ではないだろうか。

しかし、その一方で、朱音さんの先輩だという彼女をもう単なる他人とは割り切れなく生っていることに僕は気がついた。それは、一種の親近感のようなものだった。一度できかけた彼女とのかすかなつながりを簡単には失いたく無くなっていた。もう一度、もっと傍で彼女を見たかった。単なる興味本位な関心だったと言われれば、そうだったのかもしれない。彼女に対する純粋な好意では無かったのかも知れない。

でも、必要以上の人付き合いを避ける傾向にあった僕としては、このような気持ちを抱くこと自体が、これまでなかったことだった。自分から進んで、他人と新たな関係を築くなど、大学に入ってすぐに、勢いにのまれるように日比野と親しくなってしまったあのときを除いて僕には経験の無いことだった。

なぜそのような気持ちが急に湧き出してきたのか分らなかった。目の前にいる朱音さんは確かに素敵な女性だった。だが、彼女に対して働く興味とはまた少し違った興味が、一目見ただけの彼女に対しては働いているように思った。まだ、出会ったばかりであるというのに、その身体に触れた感覚が、未来の記憶のように鮮明に僕の体に蘇ってきて、しようがなかったのだ。

僕はその感覚に突き動かされるように、アカネさんに尋ねた。

「…彼女の練習場所って、どこ?」

『ロール・プレイ』 8

黄色い声で出迎えてくれた猫耳メイドの中に、朱音さんの姿もあった。
「良く戻られました、ご主人様。」
朱音さんは愛嬌たっぷりに、僕の所に駆け寄ってきた。相手のことを知っているだけに、僕はなんだか気恥しくなってしまった。

「お席にご案内しますね」
彼女は僕の腕を取って、席へと案内した。
前回座った窓際の席よりもずっと奥の、店の全体が見渡せる席だった。朱音さんは僕を座らせた後、奥から水を持ってきた。
「ほら、あの人です」
朱音さんは目配せして、早速店の入り口近くにいる、一人の女性を指さした。

その瞬間、僕は、はっと息をのんだ。

確かに、先週は見ていない人だった。朱音さんより背が高くて、やや華奢な印象だった。だが、ずっとテニスをしていた人らしく、引き締まった体つきをしているのが遠目で見ても解った。短めに切った髪は、女の子にしては無造作で、整えられていないような気もしたが、彼女の顔つきが、女性らしいと言うより、少女か、少年のようだったので、特に気にならなかった。

「どうです?かわいいでしょう?」
「...え?ええ。本当に」
僕はいつの間にか、ぽおっとなって彼女を見つめていた自分に気づいた。
「先輩、すごくシャイな方なので、あなたのことは、あえてまだ言っていません。バイトが終わったら、また後で、改めてご紹介しますね。」「え、ええ。」

僕は早くも緊張していた。着古したジーンズと、先日ドアの取っ手に引っ掛けて、背中側の裾に穴のあいたワイシャツで、ここにつらつら来たことを、僕は後悔していた。

前回来た時のようにコーヒーを頼むと、奥から、先ほど朱音さんが紹介してくれた女性がコーヒーを運んできた。どうやら、彼女の差し金らしい。
「...ご注文の....、ぷ、“ぷんぷんぶれんど”、です。...ご主人様...。」

この女性は、どうもこういう接客が苦手らしく、勤め始めて数週間になる割にはあまりに不慣れだった。もしかすると、今までできるだけ、店の奥の方にいて、お客さんと接することを避けていたのかもしれない。他の女の子が、鼻の奥を振るわせるような、いわゆる『アニメ声』を出しているのに対して、この女性はやはりスポーツ系らしく、おなかから声を出している印象だった。見た目の印象より、ずっと低く、楽器でたとえれば、木管のような響きをかすかにもった声だった。

「…ご注文は、以上でしょうか」
女性はおそるおそる、僕の顔を覗き込んでいる。いちいちこんなに真剣にお客さんに接していたら、きりがないだろうな。僕はそう思って、思わず笑いだしてしまいそうになるのを、必死にこらえていた。

「ええ。ありがとう。」
それでも女性の必死さは十分に伝わってきた。僕は心を落ち着けて、静かに笑顔で応じた。女性も出来る限りの愛想笑いでそれに答え、思ったより厚みのある背中を見せながら、店の奥へと去って行った。

彼女があまりに接客に不慣れな点からみて、この店でバイトをするのは彼女の本意ではなく、朱音さんに無理矢理付き合わされたのだろう、と僕は察した。

「...どうです?」彼女と入れ替わりに朱音さんが僕の席にやってきた。
「彼女を、このバイトに引き入れたのは、君だね」僕は率直に彼女に言った。
朱音さんは、申し訳なさそうに笑って、
「だって、先輩があんまり...、なんというか、女の子らしくないから、ちょっとこういうところで、すこし矯正してあげなくちゃって思ったんです。」
「すごい後輩だ。」僕は苦笑した。

「でも、それだけ、君にとって大切な先輩って、事だね。」
「...ええ。」朱音さんの目は、真剣だった。
「先輩には、女の子がみんな一度はするような、幸せな恋愛をしてもらいたいんです...。で、どうです、先輩のこと好きになっていただけました?」
「...君に、言われたからって訳じゃないけれど」僕は正直、口に出すのが恥ずかしかった。「...かわいいね、彼女。その、不器用なところも含めて、さ」
朱音さんはにっこりと微笑んだ。本当に慕われている先輩なんだな、と思った。
「正直、女の子の紹介してくれる“かわいい女の子”なんて、当てにしない方だったんだけれど、...今回は違ったな。人柄的にも、本当にいい人そうだし。」

「“人柄的にも”って、人柄から見てくれたんじゃなかったんですか?」
朱音さんはちょっと意地悪に、僕にそう聞いた。僕は、笑うしかなかった。始めに、体つきを見た、なんて、男の性だとしたとしても、とても言えるものじゃない。
「でも、まあ、いいです。じゃあ、先輩に話しておきます。5時に、また例のスタバで会いましょう。」
朱音さんはそう言うと、僕に深々とお辞儀して、下がっていった。


約束の時間になった。

2009年1月14日水曜日

『ロール・プレイ』 7

翌週の土曜日は、先週の週末ほどの快晴ではなかったが、それでも良く晴れていた。白い雲が、黒みがかった腹を見せて、僕らの上を通り過ぎる。山手線から見える都市の緑は、先日降った雨に洗われて、生まれ変わったように輝いていた。緑色が都市計画の端数を埋めていく5月。

秋葉原の駅で降り、先週、日比野と行った店に僕一人で向かった。先週同様、彼も誘ったのだけれど、彼は、色々と理由を付けてそれを断った。そもそも、遠慮や、雰囲気を察するという感覚に乏しい人間なのだ。僕と朱音さんが紹介してくれる女性との現場に自分がいたら、きっとお邪魔だろうという配慮が働いたとは、とても思えなかった。むしろ普段の彼ならば、女の子に興味など無いような顔をして、ひょうひょうと付いてきたに違いなかった。彼は単純に、妹とあの店で再び会うのが、嫌だったに違いない。

あの後、僕は朱音さんと何通かメールをやりとりしていた。彼女が紹介すると言っていた女性は、彼女の大学の先輩で、去年までテニス部の主将をやっていたそうだ。朱音さんも、高校からテニスをしていたから、この先輩には大学に入学してからずっとお世話になっていたのだという。

“じゃあ、祐介さんと同い年ですね。
先輩ももう四年生になるので今年で
卒業です。私はそうなる前に、先輩
に少しでも恩返ししたいのです”

彼女はメールでそう書いていた。僕なんかが、恩返しになるのかな。
正直にそう書くと、

“なれます!私の見込んだ男なんで
すから!”

と返事が返ってきた。それなら僕は君が....、とでも、せっかくだから書いてみようかとも思ったが、真剣そのものの彼女の姿勢に対して、ちょっとふざけ過ぎのような気もしたので、やめておいた。あんなにかわいい子なのだから、大切な人は、きっともういるに違いないとも思った。

それにしても、僕にはどうして、彼女があの時、その女性を他ならぬ彼の兄にも紹介しようとしなかったのか、ずっと気になっていた。僕の前では仲たがいしているように見せていたが、兄妹なんて、人前ではああしていても、実際には意外に仲がよかったりすることがよくあるものだ。言い古された表現だが、喧嘩をするということは、お互いを心配していることの裏返しであったりする。もしかすると、彼女はあらかじめ、兄にその女性についての話をしていたのかもしれないと思った。物のついでに、僕はそのことも訊ねてみた。時間が少し空いて、彼女から返事が返ってきた。

“兄には彼女がいますよ。知らな
かったのですか?”

僕は驚愕した。
日比野には彼女などいないと思っていた。失礼ながら、未来永劫、彼はそう言う話題とは無縁だと思っていた。大体、彼は慣れないうちは普段の会話を成立させるのすら困難な人間なのだ。そんな人間が、一体どうやって女性を口説くのだろう。彼の恋愛の始まりを想像することすら、僕には困難だった。

“兄には口止めされているのです
が、私は一度彼女と兄が並んで歩
いている様子を見かけたことがあ
ります。くらくらするほどグラマ
ラスな女性でした。”

女の子をくらくらさせるほどの女性が、どれほどの女性なのか。そして、その隣に、他の誰でもなく、あのオタクの日比野が並んで立っているというのだ。彼は、その時、どんな顔をしているのだろう。何を話しているのだろう。恋人たちに特有の、あの周りの人間の姿など目に入っていない、ささやくような内向きの会話が、彼と、そのグラマラスな女性の間にもとりとめもなく繰り返されていたりするのだろうか。

“兄の話によると重度のコスプレ
イヤーなんだそうです。キューテ
ィーハニーの格好をさせたら、観
客に死人が出たと聞いています。”

僕にはもう、日比野が日比野に見えなくなりそうだった。長く付き合ってみても、人間の本性というものは分からないもののようだ。僕のいないところで、彼は何をしていたのか。オタクの日比野は、僕の中でグネグネと姿を変えつつあった。ヘミングウェイも青ざめるマッチョでタフなワイルドターキーの似合う男を僕は思わず想像した。その幾多の修羅場をくぐりぬけてきたような、冷たく鋭い一重の視線の先には周囲に死を振りまき、コスプレするグラマラスな女の姿。目の前の女の皮を一枚一枚剥いでいく、冷たく疑り深い彼の視線。響くウッドベース。気だるいピアノ、ささやくようなスネアドラム。ぼうや、だからさ。彼は僕を思い出し、冷笑を浮かべて、ふとつぶやく。

“あ、私の言ったこと、兄には内
緒にしていて下さいね!”

朱音さんからの、にわかには信じがたいメールを受けて、思わずそんな、根も葉もない空想をしながら通りを歩いているうちに、いつしか朱音さんのバイトしている店の前までやって来ていた。僕はビルの二階の古ぼけた木彫の扉を開けた。

「おかえりなさいませ~」
「おかえりなさいませ、ご主人様!」

2009年1月13日火曜日

『ロール・プレイ』 (intermission)

ほんのつい先ほどまで、断ろうとまで考えていた話で、すっかり頭の中がいっぱいになってしまうなど、思えば僕もずいぶん軽薄な人間だ。意志が弱い、というのはまさに僕のような人間を言うのだろう。しかし、僕だって、それまでずっと彼女が欲しくなかった訳ではなかった。本当に嫌だったのは、彼女を得るまでの気の遠くなるようなプロセスだったのだ。それを得るためには、僕は自分の生活の一部を少なからず変えなくてはいけなかったから。

当時の僕にとって、恋愛は優先第一位の事項ではなかった。もっとやりたいことはたくさんあった。特にあのころは、小説を書くことに熱中していて、色々な本を読みあさっては研究していた。そうした時間をつぶしてまで、うまくいくかもわからない恋愛に踏み出す気には、どうしてもなれなかったのだ。だが、その煩雑さが、可能な限りショートカットされるのであれば、僕はそれほど、恋愛することそのものには抵抗は感じなかったということだ。

もしかすると、このころの僕が求めていたのは、可能な限り手軽でリスクの少ない、スイッチ一つの恋愛だったのかもしれない。夢や、目標が飽和した世界で、恋愛は多くの趣味や習い事の間に、すっかり埋もれてしまった。それ以上の手間や時間をかけるゆとりは、もう僕の24時間の中に、残されてはいなかったのだ。

『ロール・プレイ』 6

質問の持つ意味は、僕にも瞬時に分かった。話に無関心を装っていた日比野でさえも、さすがに驚いた様子で、思わず妹の方を振り向いた。

「え、あ、あの...」
妹は、自分の言ったことよりも、むしろ二人の男の驚きようにすっかり狼狽えた様子だった。「あの、そういう、わけじゃ、...わっ、わたしはぁ、ただ…」
彼女は思わずうつむいた。両の耳が赤くなった。「...違うんです...」

「何が違うんだ?」日比野までが少なからず興奮しているようだった。興奮する理由が僕とは違っていたが。
「何が違うんだよ」「いえ、あたし、じゃないの!」
妹は赤くなった顔をあげた。

「あたしじゃなくって...、あっ、あたしの、....先輩の話!」妹は、迫ってきた兄の顔から逃れるように横へ飛びのいた。
「せっ、先輩のこと...、私、本気で心配しているんです。とってもかわいい人なのに、男の人と付き合ったこと、全然、無いらしくって」
「お前は、あるというのか?」
「お兄ちゃんは黙ってて!」
妹は赤くなった顔で、兄をにらみつけた。
「...祐介さん、あの、一度、先輩と会っていただけます?きっと….、好きなっていただけると思います。本当に、本当にかわいい、方、ですから」

「はあ...」
悪い話ではないが、急なことでもあり、はっきりした返事は出来なかった。僕は、そういうものからずいぶん長いこと遠ざかっていた。こうやって気ままに一人で生きていくのも悪くないかな、などと考えていた時期だった。朱音さんの申し出はうれしかったが、僕はあまり乗り気ではなかった。

「それは、その...、あなたの先輩という方が、僕をどう思うか、ですよね…。僕がここで決めて、どうなるものでも、無いんじゃないでしょうか」
僕は、そのときの生活が正直、気に入っていたのだった。だから、これを変えるような面倒は避けたいと思っていた。このまま、この話をやんわりと断る方法を心の内で模索していた。
「それは、心配ないと思います...。だから、私もお願いしてるんです。」
彼女は僕の言葉の真意に気がついていない様子だった。まっすぐな瞳で僕を見て訴えかけるように言った。

「実は、先輩、あのお店で、今、私と一緒にバイトしているんです。今日、見ませんでした?」
僕には、これと言って思い当たる店員はいなかった。
いや、気がつきませんでした。そう答えた。
「そうですか...。それなら、もし、よろしければ、後でもう一回お店に来ていただけますか?...こっそり、お教えします。」
「何もそこまでしていただかなくても...、」

彼女の積極性に、僕は気持が引いてしまうのを感じていた。
「...祐介さん」消極的な僕を前にしても、彼女はうろたえる様子がなかった。僕は思わず、そのまっすぐな瞳に吸い込まれそうになるのを感じた。
「...せっかく、ここで、出会えたんですから...、もう一度だけでも、お店に来て….、いただけませんか?」

僕は彼女に、すっかり気圧されてしまった。はあ、と生半可な返事を返してしまった。

「...本当ですか!」彼女の表情が、ぱっと明るくなった。
「じゃあ、また、来週にでも!」彼女は、そう言うと、すぐに僕にメールアドレスを教えてくれた。そして、もう一度、ありがとうございますと満面の笑顔でお辞儀した後、跳ねるような足取りで僕らの前から立ち去った。

僕と日比野は、その場に突っ立ったまま、彼女の後姿を見送った。
「活発そうな子だね。誰かさんとは違って」
「...まいった」日比野は、すっかり意気消沈していた。
「今日は、人生最悪の日だ」
「そうかな」
「君は、いいさ。新しい出会いの段取りを、つけてもらったもんな。...あからさまに、にこにこしてくれてるね」
「...ごめん」
自分でも気がつかないうちに僕は微笑んでいたらしい。

「でも、あんなにかわいい妹さんがいるんだから、君はいつも幸せだろう?」
「そうでもない」日比野はぼそっと言った。
「...一緒にいると、いろいろ大変だ」彼はこれ見よがしに、大きな溜息を吐いた。
それから、彼はとうとうと、朱音さんがどれだけ扱いに困る妹であるかを語った。彼の部屋に勝手に入ってきて、大切なフィギュアをみんな売りに出してしまった話や、ことごとく彼の振る舞いに文句をつけ、挙句の果てに、向かい合ってご飯を食べているだけで、気持ち悪いと言われた話など、彼はこれまでの彼女の悪行の数々を述べ立てた。

だが、彼がどれだけ彼女の欠点を述べ立てても、その時の僕の耳にはほとんど入ってこなかった。彼女が紹介してくれるという女性が、どんな女性なのか、だんだんに興味が出てきた。また、にやけたところを彼に指摘されないように自分の表情に気を払いながら、それからしばらく、彼の愚痴に付き合っていた。

『ロール・プレイ』 5

彼の携帯はその日の夕方に鳴った。妹からだった。
その現場には、なぜか僕も立ち会わされた。
「君だって、同罪じゃないか」それがその理由だった。

指定された場所は妹の働いていたメイド喫茶の向かいにあったスタバだった。
僕らがそこへ行くと、野外のパラソルの下にしかめつらで、不機嫌そうにせわしなく携帯をいじる一人の女性が座っていた。

こちらに気がつくと、女性はすっくと立ち上がって、つかつかと僕らのところへ歩いてきた。
「おにいちゃん...。一体、何してたの、あんなところで」
彼女は開口一番、あきれたように言った。

「おまえこそ...、何してたんだ」日比野は、ばつが悪そうに妹から目をそらしていた。
「バイトよ、バイト...。まさか、あんなところでお兄ちゃんに会っちゃうとは..。いくらオタクの兄とは知っていても、...なんかショックだよ」
「お前こそ、あんな店で働くのが間違ってるんだ」
すかさず兄は言った。それでも、居心地が悪そうに、妹には見えない体の後ろで、指をいじっていた。
「そんなこと言われても...。誰も、あんなところでお兄ちゃん会うとは思うわけ無いじゃない。私は恥ずかしかったよ。客に兄がいたなんて、他の店の子には、とても言えない」
苛立って頭を揺らすたび、長く伸ばした彼女の髪が大きく振られた。

「あんな格好の店員に、ご主人サマー、なんて持ち上げられて、にゃンにゃンだの、るんるんだの、そんな甘ったれたお店でいい気分に浸れるなんて、どういう神経してるの?私には解らないな」
そう言う店で働いている割に、妹は辛辣だった。
「なら、辞めればいいだろ...」
「割良いのよ、あのお店」
悪びれもせず妹は言った。

「店の他の子も、みんな同じ考えだと思う。あんな恥ずかしい格好させられて、店長に変な台詞を強制されても、そう言う動機がなくちゃ働いてられないに、きまってるじゃない」
妹はきっと兄をにらみあげた。口をへの字に結んでいた。兄は妹に返す言葉もないらしく、黙り込んでいた。顔をしかめて、口をむっつりとつぐんでいた。全く似ていないようでも、怒った時の表情は意外に似ているな、と僕は思った。

「それに、あのフロアのチーフ...、たぶん、お兄ちゃん達も席に案内されたと思うけど…、あの人、相当きついんだよ。あの人のせいで、バイトが何人やめたことか。店長の前でばっかり、いい子ぶって...」
兄が何かに苛立ったように、一瞬、ちらと妹をにらんだ。思えば、僕らを席に案内してくれた店員を彼は気に入っていたのだった。

「見るからにきつそうでしょ、あの人。あれで、自分が人気あると思ってるから、最悪なんだよね....。あんなのに付いているお客さんは、みんな見る目ないよ」
何かを思い出したのか、妹はそこで、ぷっと吹き出しそうになった。
「...まあ、」努めて笑いをこらえるようにしながら、妹が言葉を継いだ。
「今回のバイトは、お金が目当てってわけでもないから。まだ我慢もできるんだけれど」

妹はその時、一瞬、僕の方を見た。
「...まだ何か、理由があるのか」
兄はそっぽを向いたまま、あきれたように言った。これが、この兄妹の会話らしかった。
「うん...。まあ...、」妹は、先ほどまでの威勢が嘘のようにおとなしくなった。しばらくまごまごと戸惑った後、僕の方をもう一度見た。

「ねえ、あなた...、あの...、兄の友達の方ですか?私、日比野朱音(あかね)って、いいます。この兄の妹で。...いつも兄が、お世話になってます」彼女は僕の前で深々とお辞儀した。
「あ、いや、そんな。僕は、伊勢祐介といいます。僕こそ、お兄さんに、お世話になりっぱなしで...」

僕が自己紹介している間中、妹さんは僕の表情を、じっと見つめていた。彼女の大きな瞳に見つめられて、僕は少し緊張してきた。これがあの、変わり者の日比野の妹とは、とても信じたくなかった。

「伊勢...、祐介、さん」彼女は僕の名前をゆっくりと反復した。
「実は、ちょっと、お伺いしたいことが...」彼女の目はとても真剣だった。僕はつばを飲み込んだ。
「実は、...あのね....、あ、初対面で、男の人に、こんな事、聞いて、いいのかな...。私、やっぱり、へん、かもしれません….」
「はは...、そんな...、なんでも、どうぞ」
僕はもう、気が気でなかった。
「じゃあ、あの…、」

彼女は躊躇いがちに大きく息を吸った。「...好き、...な人っています?今?」

2009年1月12日月曜日

『ロール・プレイ』 4

注文から十分もしないうちに、僕らのメニューが運ばれてきた。
「お待たせしました、ご主人さま!」
運んできた女の子は、先ほどとは違い、随分小柄な子だった。

まだ、店の仕事に慣れていないようで、メイド役が板に付いているとはとても言えなかった。
「ご注文の...、あまあま...、るんるんブレンドと....」
「“あまあまるんるんここあ”」
彼女の方を一向に見ようとせず、窓の向こうを向いたままの日比野が、すかさず彼女の誤りを指摘した。
店員は、彼の不意の横やりに驚いて目を丸くしていたが、
「え?ああ、...あまあまるんるんココアですね...」と、素直に言い間違いを直した。

彼女は盆の上のコーヒーを狭いテーブルの上に乗せようとした。ところが、先に置いてあった水の入ったコップに手が触れ、危うくひっくり返しそうになった。
「ごめんなさい!」そう言ってあわてて、今度は銀盆の上に載せていたふきんでテーブルを拭こうとすると、今度は力が入りすぎて、テーブル全体が、がたりと傾きかける。はっと驚いて、彼女は思わず両の手をひっこめた。

慣れない仕事で彼女は明らかに舞い上がっていた。その上、日比野に不意打ちのように指摘されて、ただでさえ、上手にいかない仕事がますますぎこちなくなっているようだった。

何とかテーブルの上を拭き終ると、彼女はおそらく無意識に、ふうと大息をついた。それから日比野の方を見た。客である日比野が気を害したのではないかと、気になっていたらしかった。窓の向こうを向いたきりの彼の表情をのぞき込もうと、彼女は何度も首を伸ばしていた。しかし頑なにも、彼は一向に彼女の方を振り向こうとはしないまま、窓の外を見ているだけだった。

僕は彼が恥ずかしがっているのかもしれないと察した。それに気づかず、気をすり減らしている彼女が申し訳なく思えてきた。
「...ごめんなさい、大丈夫ですから」
僕は小さな声で、彼女にそう言った。
彼女は、いえ…、と小さな声で答えたが、それでも、しばらくその場所にとどまっていた。しかし、やがて諦めたのか、僕に小さくお辞儀して下がっていった。

「…今の子、ちょっとかわいいね」
僕は窓の外を向いたままの日比野に話しかけた。
「...そう」
彼は気乗りしない、ぼんやりした表情のまま、頬杖をついていた。
「そうやって窓ばかり見てても、わかんないんじゃない?」
僕は彼を茶化すつもりで、そう言った。

彼は突然、立ち上がった。「...もう、帰ろう」
僕は驚いて彼を止めた。
「ちょ、ちょっと待ってよ。どうしたんだよ、急に。まだ、メニューが来たばかりなのに。」
日比野は立ち上がったまま、ちら、と僕の目を見た。
相当困った顔だった。
「まずいんだよ」彼は言った。
「何が?」
「今の...。」
「今の?」
彼は、先ほどメニューを持ってきた女の子を指しているらしかった。
「今の子が、どうかしたの?...君、まさか…、タイプ?」
「そんなんじゃない」思いの外、彼は真剣だった。
「あれは...。」
「あれは?」
「…あれは、僕の妹だ」

『ロールプレイ』 3

彼と一緒に秋葉原へ出ても、僕は何かを買うわけではなかった。
駅前を行き交うコスプレの女性達には、萌えと言うか、恥ずかしい場所にできた痛々しい吹き出物を覗き見せられたような気分になることのほうが多く、それを取り巻き、写真を撮ろうと群がる男たちには思わず冷笑を浮かべずにはいられなかった。ただ、ここに来ると、日比野の目の色が明らかに変わるのが僕にはとても興味深かった。

大学で授業を受けている時や、同級生と話している時の彼は、寡黙で口数も少なく、落ち着いた印象を受けるのだが、ここへ来ると、内なる力に目覚め、自身が20代前半の若者であるということを思い出すようだった。秋葉原に来ると、彼のメガネの下の一重の小さな瞳は、生き生きと輝きを取り戻した。

「おお...、おお...!」
聞き様によってはきわどい、感嘆の声を発しながら、店から店へと、彼はストリートを渡るチョウのように飛びまわった。彼の目には魅力的に映るアイテムを見つけては、花に蜜を吸うごとく、ショーウインドウの前に立ち止まり、見入った。

僕はもっぱら彼の後をついて周り、何かにとりつかれたかのように彼が呟き始める解説を、手短に相槌を打ちながら、聞いている役だった。彼の説明というのは、いわば彼の中から湧水のように噴き出してくる関連知識が行き場所を失って、漏れ出てきた情報に過ぎず、合いの手を入れる必要などないのかもしれない。それでも、一応僕を想定して話されている言葉を無視して聞き流すのも悪い気がして、いわば自分の良心の呵責を静めるために、相槌を打っていたにすぎなかった。

約束の地にめぐりついた巡礼者が感激に胸震え、常態ではない、トランスの境地に達するように、秋葉原の日比野は体力を急速に消耗した。そうして、いい加減歩き疲れると、僕らは良く秋葉原あたりに多い、メイド喫茶に入った。

どうしてこういうときの選択がメイド喫茶だったのか、僕にはわからない。秋葉原だって普通の喫茶店はいくらでもある。表向きの理由として考えられたのは、どちらかというとそういうちょっと変わったお店のほうが、席が空いていることが多いということくらいだった。

その日入ったのは、まだ開店して間もない、ちょっと露地を入ったところにある一件の小さなお店だった。日比野によれば、この店の、ネット上での評判は悪くない、とのことだった。
「どういう評判なの?」
僕は日比野に聞いてみた。メイド喫茶の評判とは、何で決まるのか。見当もつかなかった。

彼は少し答え難そうにしていた。僕から視線をそらすと、何を見るわけでもなくあたりを見渡した。そして、小さな声で呟くように、
「...女の子が、みんなかわいいそうだ」と、言った。
「ああいう店の評価って、ほかに見るべきところがあるか?」彼は開き直ったように言った。
「いや、対応がいいとか、店内の雰囲気がいい、とかさ」
「...そうか。でもそれは、普通の喫茶店でもいいことじゃないか」
「...」
「別に、コーヒーが飲みたいから、メイド喫茶に行くわけじゃない」
僕には、返す言葉もなかった。

彼の言っていた店は、古びたビルの二階にあった。
「おかえりなさいませ!」
「おかえりなさいませ!」
「おかえりなさいませ、ご主人様!」
入り口のドアを開けると、たちまち甘ったるい黄色い声で僕らは歓迎された。戸のそばには、案内係らしい女の子がかしこまって控えている。
「おかえりなさいませ、ご主人様。お二人様ですか?お席へご案内いたします。」
女性はメイド服に、猫の耳を付けていた。彼女に案内されて僕らは窓に面した席に腰掛けた。先ほどまで歩いた通りが、眼下に見える。通りを歩く女性の、固く結われた緑色の二つお下げの頭頂の分かれ目から、地の頭皮の人間じみた薄い色が透けて見えた。
テーブルのわきに立った猫耳の女性は、過剰なレースに縁取られた実用性のない小さな前掛けのポケットから伝票を取り出すと、
「ご注文はいかがいたしましょう?」
と、大きな瞳をくりくりさせて答えた。取ってつけたような長いまつげで、そのふちは華々しく彩られていた。
僕はそれほどおなかも空いていなかった。コーヒーを頼んだ。向かいに座った日比野は手元のメニューをまじまじと眺めて、なかなか決められずにいた。
ややあって、一言、
「...“あまあま、るんるんここあ”、ひとつ」消え入りそうな声で言った。

「はい!、かしこまりました。ご主人さま、しばらくお待ち下さいませ、にゃん!」
女性は招き猫のように手頸を肩口でかしげて、満面の笑顔を見せた後、僕らを後に店の奥に去っていった。少し疲れていたのか、後ろの毛がほつれて、摺り足気味な歩みだった。

「...どう思う?」
日比野は鼻眼鏡の上からのぞき込むようにして僕の方を見ていた。
「どこにでも、いそうな感じじゃない?」
僕は言った。すでに日比野に何軒か連れて来られていたので、こういう雰囲気には慣れてしまっていた。本来の“鑑賞”の仕方とは違っているかもしれないが、コスプレをしていても、それを通り越して、一人の女性として相手を見るぐらいのことはできるようになっていた。
「そう」
日比野は見上げていた目を再びメニューに向けた。眠り猫のような半睡の瞳はそれを見るようで見ていないらしかった。
「...僕は、好きだな」

2009年1月10日土曜日

『ロールプレイ』 2

この日比野と僕が出会ったのは、大学に入ってすぐのことだ。あれは確か、専門科目の時間だったと思う。植物生理学の分厚い教科書にうんざりした4月の話だ。彼は元来、とても真面目な学生なので、授業はいつも、一番前の席に座って聞いていた。狭い教室の一番前は、講義する先生の机とほとんど密着していて、そこに座ると、ほとんど先生の腹と、背中ぐらいしか見えないはずなのだが、そこに座ることで、彼は安心を覚えるようだった。

本格的な授業開始の初日から僕は悪癖の時間に無頓着なところが出て、授業に遅れそうになってしまった。自分の性格を呪いながら家から大学まで走って来た。教室に駆け込むと、もう席は後ろの方から埋まってしまっていた。
開いているのは日比野の隣だけだった。
「ここ、座っていいですか。」
遠慮がちに聞くと、彼はなぜだか少し驚いたような顔をして、
「...ああ。」
という、何とも曖昧な返事を返してよこした。僕はその返事を聞いてもなお、彼が座ることを許してくれたことがわかりかねて、そこに立ったまま、しばらく座ることを躊躇していた。

その日の授業は、まだ大学生活の第一歩ということで、これから行う講義の説明で終わった。単位、講義、シラバス、レジュメ。聞きなれない単語の羅列で、僕らをひとしきり戸惑わせた後、担当教授は、目の前の視界をさえぎる灰色の前髪を掻き上げて、
「...じゃあ」
と言い残し部屋を去った。

礼も起立もない始まりと終わりに、右も左もわからぬ新入学生たちは戸惑い、しばらく授業が終わったのさえ分からずにいたが、やがて好奇心が騒ぎ出したのか、隣に座った他の学生と積極的に会話を始めた。僕は普段、それほど社交的な方ではなかった。だが、せっかくだから隣に座った日比野と少し話してみようと思った。大学の一年目には、それまでの不可能を可能にする恥ずかしいまでの世間知らずなエネルギーがある。

「あのさ、君はここ、地元なの?」
僕は大学に入るために、他県から出てきていた。
「..え?」
彼は、またも、きょとんとした顔で僕を見た。
「あ、いや…、何でも、無いんだ...。」
僕の最初の挑戦は、それっきり、だった。そもそも、出会ったばかりの彼の出生にそれほどの興味があったわけではない。話すきっかけが欲しくてした質問が相手に意外と受け止められてしまったら、それまでのことだった。

正直、僕のそれまでの人生で、こんなに会話の合わない人間と出会ったのは生まれて初めてのことだった。このとき僕は、彼とはずっと話す機会はないだろうと強く思ったのだが、それでも不思議と縁というものがあったのだろうか。選択する講義も、実習でのグループも一緒になることが多く、少しずつ話をしているうちに、ずい分仲良くなった。

日比野は、それでも言うまでもなく変りものだった。仲間からも多少際物扱いされていたところがあった。だが、僕はあまり構わなかった。僕もそれほど友人を多く作る方でもなかったし、彼はものの考え方が他人とは違っていて、見ているだけで新鮮で興味がわいた、と言うこともある。

そうして僕らは、週末になると、彼の聖地である秋葉原にフラリと出かけるようになった。秋葉原はオタクの街だというくらいはもちろん知っていた。だが、だからこそ、僕はこの街があまり好きではなかった。僕は外見上オタクに間違えられることが多かった。あまり格好にかまうほうでもなかったこともあるのかもしれない。実際にはアウトドアも嫌いじゃないのだが、どうもインドアに見られてしまうようなのだ。その所為もあって、僕はそれまでオタクというものを心の底で嫌っていた。不健全なものとして。

『ロール・プレイ』 1

「脳みそを、ふっとばしてやるわ」
                ―ヘンリー・ダーガー『非現実の王国で』






彼はそのロボットフィギュアを、エヴァ、と呼んだ。
「エヴァ初号機は….、使徒を撃墜するために….、都市全体の電力を集めて….、」
店内に陳列された紫色のカマキリのように線の細いロボットのフィギュア。いくつかの色やポーズのものがあり、僕らには見えないが、彼らには見えている未知の存在に敵対するように、虚空をにらんでいる。僕の隣で食い入るようにこのフィギュアを見つめ、ぶつぶつと意味深な単語の並んだ解説を唱える彼にも、このフィギュアと同じ敵が見えているらしかった。

僕は彼の解説に始め、うんうんと手短に相槌を打っていたが、それにもやがて疲れてしまって、ショーウィンドーを覗き込むため、彼と目線を合わせるようにかがめていた腰を起して、ぼんやりとあたりを見渡した。

薄暗い店内に、広く構えられた入り口のガラス戸を通じて、外の通りのアスファルトに反射した陽光がまぶしく差し込んでいる。

久しぶりに良く晴れた日曜日だった。
僕はいつものように親友の日比野とつるんで、『街』に出ていた。

僕らの言う、『街』というのは、もちろん秋葉原のことだ。

僕は自分が日比野のようにオタクだとは思っていない。彼のように美少女フィギュアを眺めて悦に入るタイプではないし、ガンダムだって、子供の頃遊んだプラモデルくらいでしか知らない。主人公の恋人が誰で、誰に憧れていたかなんて、僕は日比野と出会うまで、全く知らなかった。

ロボットアニメ、と言うとガンダムぐらいしか僕には連想できなかったが、彼に言わせると、それはとうに古典らしい。彼の凝っていたエヴァというロボットを僕は彼と付き合い始めるまで知らなかった。
「...これだって、もう古典と言っていい位だが」
さも当たり前という顔をして、平然と彼はそう言っていたが、一度行った彼の部屋は同様のカマキリのようなフィギュアで一杯だった。登場人物の女の子のフィギュアも数多く陳列されていた。埃っぽく薄暗い室内には、物が多く座るところがないほどだった。

机の上にもDVDのケースや、アニメ雑誌がうずたかく積まれており、棚の片隅に、彼の大学の専門分野であるはずの、植物生理学の教科書が追いやられていた。部屋の中はそれほど物が無秩序にあふれていたのに、フィギュアの並べてある棚だけは、不思議にきれいに整えられ、向きやポーズまできっちりと決められて、ディスプレイされていた。
それは僕に、かつて田舎の祖母の家で見た、神棚を連想させた。

エヴァ、すなわちエヴァンゲリオンを、僕ははじめ彼の口頭で知ったので、エバンゲリオンという表記だと勘違いしていた。僕がエバンゲリオン、と発音する度に逐一、彼がエヴァンゲリオン、と発音を強調して、訂正しようとしていたのが記憶に残っている。こういう小さな間違いさえ、彼にとって許し難いことらしかった。僕が彼にとって魅力的な諸々のオブジェクトの発音を誤るたびに、彼は逐一、几帳面な英語教師のように、その発音を正してくれた。

そのうち、彼は仲の良くなった僕を、彼と同じ世界に引きずり込もうと思ったらしい。部屋の棚に飾られたフィギュアの一つ一つを詳細に解説し始めた。普段の寡黙さが嘘のように、こういう時の彼はブレスを挟むことさえ忘れて、せきを切ったように説明を始めた。

だが、そうした説明の多くは、相手の耳に届くことを目的としていないらしかった。あまりに早すぎて、また、情報量も多すぎ、僕は途中からついていけなくなった。彼のような人間の、ああいう場面での説明が、果して何を目的としているのか、僕には未だにわからない。おそらくは、知っていることを、よどみなく言い切ることに、何らかの快感を得ているとしか、思われない。

彼の熱意もむなしく、僕はいまだに、なぜエヴァンゲリオンのパイロットが女子高生で、全身タイツみたいなぴちぴちの“戦闘服”を着て、宇宙人と闘わなくてはいけないのか全く理解できていない。昔のドラマであった“セーラー服と機関銃”のようなモチーフをその背後に感じなくはないけれども、それが確かに同種類のものだと、言い切るだけの確信もない。


これはずっと後になって、オタク文化を論評した新聞の解説から知ったのだが、“萌え”という彼ら独特の嗜好を解くカギとして『ペニスを持つ少女』という言葉があるらしい。それは、一種の両性具有だ。本来なら男性に象徴されるはずの“破壊力”を持った美少女、と言うモチーフが、オタクの“萌え”とどうも密接に関係しているという。

それは確か、コミック原作の映画の評論に書いてあった話だった。世界を守るため、少女を全身兵器のサイボーグに改造し、戦う、という物語だった記憶がある。その評論家は、破壊力を失ってしまった男性が、それをアニメの中の美少女に見出し、あがめているのではないか、とまとめていた。

その評論家の言うとおりだとすると、日比野の大切にしている美少女パイロットのフィギュアが、新たに生まれてきた日本の土着信仰の女神のようにも見えてくるから不思議だ。縄文時代の遺跡から、豊穣の女神を模した、豊満な女性の土偶がたくさん出てくるそうだが、日本人はそれから何千年も経っても、大して遠くには来ていないらしい。

ただ、素材がプラスチックになって、女性のスタイルがちょっと変わってしまっただけだ。胸が大きいことにかけては、今も、変わっていない。

無論、僕は、まだ日比野に洗脳されるには至っていない。どうやら、日頃粘り強い彼も、ついに僕を見放したようだった。そうした強行的な布教活動はしだいに行われなくなった。