2009年2月4日水曜日

『カタワラ』: 1

どこにあるか みんなしってる
どこにあるか だれもしらない
まっくら森は うごきつづける
ちかくてとおい まっくらクライクライ
---谷山浩子『まっくら森の歌』より






コーヒーの匂いがする。台所で白い湯気がもうもうと立ち上る。
「本当は、もうちょっとお湯を冷ました方が良かったんだろうけどね」

言い訳のようにそう言ってこちらを振り向き、彼女は、にこりと笑った。黄色い琺瑯の細口のポットから熱湯が注がれ、付けっぱなしのガスがレンジの上で蒼い炎を立てている。彼女の手元では注がれた湯を吸って、フィルターに乗せられたコーヒー豆の破片が、豊かな香りのよい泡を伴いながら、こんもりと膨らんでいることだろう。カリタ式ペーパードリップの三穴からこぼれ落ちる褐色の雫が、サーバーに溜まった液体の表面をリズミカルに打つ。

「……ちょっと、濃くなっちゃうかも。大丈夫?」
湯を注ぎながら、彼女は心配そうに言った。
「濃くてもいいよ」
彼は苦笑いを浮かべて、そう答えた。

1月中旬の小春日和。家々の正月飾りもようやく取り払われた。正月の明るく浮ついた空気はまだ引きずられていたが、早く日常の生活を取り戻そうと、覚束ない足取りで毎日が進んでいるという風だった。庭先では毛を逆立てて、ぷっくりと着ぶくれしたように見える雀たちが、砂地の庭の上に落ちた小さな木の実の欠片のようなものをせわしなくついばんでいた。山茶花の灰色がかった濃緑の葉の上に、今にも落ちそうな溶けかけの雪が乗っていた。

彼女が台所のから、淹れたてのコーヒーを持ってきた。慣れない手つきで不安げに液面を見つめながら、足の裏をするようにして、しずしずと歩いてくる。小降りの盆に、蒼い模様の入った白磁のカップが二つ載せられていた。

……っと。
何とか炬燵の卓の上までたどり着いた彼女の口から、思わず声が出た。
並々とつがれたコーヒーの液面は今にも溢れそうな勢いで端々まで揺れている。
「はい」
盆の上に二つ乗せられたカップのうち、見栄え良く入れられた方のカップを、彼女は彼に差し出した。
「ありがとう」彼はそれを受け取って、自らの前に置いた。

古い民家を改装した彼女の家は掘りごたつだった。彼女は自分の分のカップを盆から取ると、その盆を卓の上からどけて、自身も彼の向かい側に座った。
「通販で、新しい豆を買ってみたんだけど」
彼女は冷えた両手を炬燵に入れたまま、目の動きで彼の手元のコーヒーを指して言った。
「知らない産地だけど、おいしいって書いてあったから買っちゃった。インドネシアか何処かで作った豆だって」
「……もしかして、トアルコ・トラジャ?」
彼は思いついた豆の品種を言った。

「そう!そんな名前!」彼女は驚いて声を上げた。
「さすが、賢治(けんじ)。よく知ってるね。伊達にコーヒーマニアは名乗ってない」
「そりゃ、この豆は結構有名だよ。モカとか、ブルマンほどメジャーではないかも知れないけれど」
「へえー」彼女の感嘆の声。「私は、てっきり、新しい産地を発掘したかと思って、自慢してやろうと思っていたんだけど。……やっぱり敵わなかったな。」
悔しそうにそう言って、自分の手元のコーヒーを静かにすすった。

彼も一口含んだ。インドネシアの火山島からはるばる日本まで、どんな人たちの手を経てそれは彼の口まで届けられてきたのか。一杯のコーヒーを飲む度に彼はそれを想った。いい豆には想像を膨らます力があると、彼は信じていた。口の中に香ばしく拡がっていく香りの中に、南国の強い日差しと、そこで働く人々の褐色の肌と、バナナの葉の茂る森が見えた気がした。そこで駆け回る子供の顔は日本人の顔とどこか似ているようで、我々にはない無垢な強さと厳しさがあった。生と死が私達よりずっと近い国で、彼らはかつて、隷属の象徴であったはずのコーヒー農園を再興させ、それをつてとして、昨日よりも安らかな暮らしを求めて、一つかみの赤い豆を、今日も天日に曝しているのだろう。

彼に遠い南国を夢見させた香りは、口の中に豊かに広がり、立ち上り、溜息となって、静かに消えていった。
「……おいしい」
驚いたように彼は言った。
「上手に淹れられてるよ」
「本当?」彼女の表情が思わずほころんだ。
「ちょっと、お湯を入れるのが早すぎたかなって、心配してたんだけど」
「そんなことはないよ。すごく良く出てる。……随分、上手くなったんじゃないか?」
「まあ、ネットで色々調べて、それなりに勉強したから」
彼女は自慢げに言った。
「マメが、良かったのかも知れないけどね」


彼らのいる部屋は、彼女の家の南側にある日当たりのいい茶の間だった。窓側に座った彼女の背に、長い冬の太陽の光が緩やかに注ぎ込んでいる。彼女はその温もりに甘えるように、背中を丸めた。

「なんか、こうしている時が一番幸せ」満足げに彼女は言った。
「こういう時間が、いつまでも続いてくれればいいのに」
彼女の両親は共働きだった。父は内科の医者で、母は看護師だった。二人はここから1時間ほど離れた町の中心地にある総合病院に、そろって勤務していた。

「父さんも母さんも、最近は帰りが遅くって。私一人、お留守番の日が多いんだよね」
寂しそうに彼女は言った。
「誕生日でも家族がそろわないなんて、今までも日常茶飯事だったけど……」
「病院関係の親を持つと、結構大変なんだな」彼は言った。
「お医者さんは給料がいいって聞くから、もっといい暮らししているものだと思ってた」

「給料は悪くないのかも知れないけど……。もらっているだけの代償は払っているんだよ。家族は」
寂しそうな笑みを浮かべて彼女は言った。
「普通の家族がちょっとうらやましいかな。5時には仕事が終わって、お父さんが帰ってきて、家にはいつも、お母さんがいて……」
「サザエさんみたいだな」
「そう」彼女は笑った。
「あんな家族。……うちは、家族の予定より患者さんの容態が最優先だから。……代わりのお医者さんが、いないってこともあるけどね」

彼女の両親の勤める病院は町でたった一つの総合病院で、人手不足に悩まされていた。一昨年まで医者を斡旋してくれていた大学病院が手を引いてしまい、5つあった診療科のうち、内科、外科だけを残して、閉めてしまった。彼女の父親が勤務する内科も、実際にはたった二人の医師だけで切り盛りしていた。そのため、一方の医師の都合が悪くなれば、彼女の父が無理を押してでも出勤しなくてはいけなかった。

「でも、みんな感謝しているよ。眞菜(マナ)のお父さんが来てくれていなかったら、あの病院、今頃とっくに閉鎖されてただろうって」
「そんな……。もう、10年以上も前の話でしょ」彼女は失笑した。
「そんなこと未だに言っている人なんて、いるの?」
「いる、いる。うちの母親なんかもそう。……田舎の人は良くも悪くも、昔のことを忘れないから」
「そうかもね」彼女が笑った。

「……じゃあ、賢治のお母さんにはやっぱり感謝しなくちゃいけないな。……そうだ!」
彼女が大きな声を出した。
「春になる前に、賢治のお母さんにケーキの作り方を教えてもらわなきゃ」
「ケーキ?」
「そう、ケーキ。約束してたんだ。私でも作れるケーキがあるんだってさ」
彼女はほくほく顔だった。
「……子供っぽいと言われればそれまでだけど、やっぱり憧れるよね、ケーキの作れる女の子って」

「ケーキ、ねえ」彼は、あきれたような口調で言った。
「コーヒーをやっと入れてる人が、ケーキか……」
「何?」彼女は彼を挑むようににらみつけると、不機嫌そうにした脣を突き出した。
「いいよ。賢治には食べさせてあげないから。賢治のお母さんと、うちのお母さんと私で、“女の休日”、するんだもんね」

休日って言っても、お前はまだ働いてもいないじゃないか……。のど元まで出かかった言葉をすんでの所で飲み込んだ。
「でも、ケーキなんか作って本当に大丈夫か?」
ふざけた調子で語っていた彼が、急に真顔になった。「だって、あれは……」
「大丈夫、大丈夫」彼女は気丈に笑った。

「……そのくらい、よく考えてるよ。自分のことだもん」