2009年2月20日金曜日

『カタワラ』:16

「いま、どこにいるんだよ!」
あわてて靴を履きながら、賢治は受話器に向かって怒鳴った。

「……わからない……、どこ?、なんだか深い森の中」
暗闇の森だ。賢治は真っ先にそう思った。
しかし、なぜ、二人があの場所に行ったのか、彼には全く見当がつかなかった。

「……眞菜の様子は、どうだ?」
賢治は放っておけばどこかへ行ってしまいそうな自分の気持を務めて抑えるようにしながら、彼女の容体を聞いた。
「……なんだか、ひどく苦しそう、ぜえぜえ言ってる」
喘息の発作が起こったのかもしれない。賢治はそう思った。
たとえマスクをしていても、原因物質を完全に防ぐことはできないと徹さんから聞いたことがあった。
ほおっておけば、真菜の呼吸はどんどん苦しくなるだろう。

薫に、少しそこで待っているように連絡して、賢治は一度電話を切った。
「……徹さん?」賢治はすぐに徹さんに電話をかけた。
「おう、賢治、どうした」明るい彼の声が聞こえた。
「……眞菜が……、倒れたらしいんです」
電話の向こうで、眞菜の父が医者の顔になるのが彼には分った。
「いま、友達がすぐそばにいるみたいなんですが……、どうも森の中らしくって、……いったいなんで、あんなところに!」
「……まあ、賢治、落ち着け」
徹さんが低い声で彼をいなした。
「森に行く前に、うちに寄ってくれないか。そこに、眞菜の緊急用の吸入薬がある。……それと、新しいマスクを持って行ってくれ」
徹さんは、そのほか、ニ三の処置を賢治に指示した。
「……いいか、賢治、落ち着いてやれよ。……僕もすぐ家に帰るが、それまでは君が頼りだ。特に森の中のことは、誰も知らないんでね」
そして、ややあって、一言、
「……眞菜を、頼む」祈るように、そう言った。

眞菜の家に立ち寄って、徹さんが指示したマスクと、吸入薬を探した。真菜はすぐに帰るつもりでいたのか、家のかぎは空いたままだった。指示したものは取り出しやすい場所にまとめて透明なビニールの手提げ袋に詰めて置かれていた。賢治はその袋を手に提げて、深い森の中に分け入っていった。


太陽はすでに、沈んでいた。
西の残光が、かろうじて森の中に、一本の道を示していた。紅葉は、紫色の夜の気配のなかで、不気味に闇を増すばかりで、風が吹くごとに、その乾いた葉が、かさかさと音をたてた。

「……賢治……」
再び薫に電話をかけると、不安げに彼女が言った。
「……まだ?……、呼吸が、どんどん荒れてきてる……、」
電話の向こうから、かすかに真菜の、ぜえはあ、ぜえはあ、と喘ぐ苦しげな呼吸音が聞こえてきた。
壊れたふいごのようなその声を聞いて、賢治はさらに道を急いだ。

「何か、目印はないか」
賢治は薫に言った。
「……目印……」賢治に言われて、薫はあたりを見回したようだった。しかしすぐに
「……そんなものないよ。この暗い森で、何を目印にすればいいわけ?」
取り乱したような声が聞こえてきた。
「……何か、些細なものでもいいんだ」
賢治は努めて冷静に言った。「……頼む」

薫は再び気を静めて、あたりを見回したようだった。しかし、彼女には目印になるようなものは見つけられなかった。
「……なんにもない……、なんか、葉っぱのすべすべした、変な木の下にいるってだけ」
「葉っぱの、すべすべした……」
賢治はそれを聞いて、はっと思い当った。遠い記憶をさかのぼった。秋になっても葉を落とさない、すべすべの葉っぱを持つ木。それは森の中に、複数生えていたが、真菜と彼が何度も通ったのは、そのうちたった一本だった。
……あの、タブの木の下だ。

「……待ってろ、薫。わかった」
賢治の口元に思わず笑みが浮かんだ。彼の足は速度を増して、暗がりに沈む森を駆けた。


「賢治!」
暗がりの中から、袋を持った賢治が飛び出してくると、薫は驚きと、喜びがないまぜになった顔をして、思わずそう叫んだ。
眞菜は、薫の膝にもたれかかるようにして、すでにぐったりとしていた。
苦しそうな真菜の息が、マスク越しに聞こえた。

賢治は急いで袋から、吸入薬を取り出すと、眞菜の頭にそっと大きな袋をかぶせて、余計な花粉が入らないようにした。暗くなってきたので、そして、その中で真菜のマスクを外し、吸入薬を彼女の口にあてがって、薬剤を気管にそっと送り込んだ。
しばらくそうした後、彼は彼女に、家から持ってきた新しいマスクをつけた。それは、作業用の防塵マスクのようなもので、口の先に、武骨な円形のフィルターがついたものだった。その形は、映画で見た、ガスマスクによく似ていた。彼女にとって、この世界は、ここまで住みにくいものなのか。賢治はとっさに、そんなことを思った。

「……早く行こう」
一通りの処置を終えると、賢治は真菜を背負って森の道を走り始めた。気を失った眞菜は、賢治の肩にしがみつくこともできず、何度もずれ落ちそうになった。薫がやがて、後ろから眞菜の両肩をそっと支えた。二人はそうして歩調を合わせるようにして、前へ前へと進んだ。

日はすっかり落ちていた。森の外よりも、森の中は、夜が早くやってきた。道はもう、ほとんど見えなかった。かろうじて森の木々の隙間から洩れて来る月の明かりだけが、彼らの頼りだった。森の出口は、太陽の明かりでのみ、彼らに認識された。こう弱い光の中では、すぐそばに出口があったとしても、それが出口と認識されるのは難しかった。正しいはずの道で、彼らは何度となく迷った。そうして、そのたびに、背中の真菜のすっかり冷え切った手脚が、彼の心に重くのしかかってきた。

そのとき、ぽつりと小さな光が、彼の視野に飛び込んできた。星というには明るい光だった。
「……車だ」
賢治が呟いた。

「……徹さん!」森の出口で待ち構えていた、徹の車のヘッドライトだった。