2009年2月10日火曜日

『カタワラ』:7

四月に入り新学期が始まるころになると、当然のように眞菜は外に出られなくなった。彼女の家の玄関の内側にはビニールのシートが貼られた。クリーンルームの前室のように、入室者はそこから先に入るには、まず玄関で花粉をしっかりと落とさなくてはいけなかった。

彼女の両親はつまりそれを毎日繰り返すことになる。
少しでも花粉との接触のリスクを減らすため、賢治ですらも、特に用向きがなければ眞菜の家に行くことは憚られた。

またしばらく、あいつの顔が見れなくなるな。そのことを思うと、賢治は特に寂しいと言うよりも、憤りを感じた。

同じ高校生でありながら、一方はありふれた危機に怯え、家で軟禁のような生活を強いられている。そしてもう一方、自分を含め大多数は、外へ自由に出歩くことを若者に当然に与えられた権利として、疑うことを知らずにいる。

誰も恨むことの出来ないその不条理な、強いて言えば神か仏かの仕打ちに、彼は憤っていた。
なぜ、他の誰でもなく、眞菜であったのか。

春の陽気に包まれ、新しいクラスメイトとの生活が始まって、友人達が浮かれだしても、賢治の気持ちは暗く鬱屈していくだけだった。


「……ちょっと、賢治?」
向かいに座った女生徒が賢治に声を掛けた。
「聞いてるの?ねえ?」

「……わりい」
賢治は自分がぼんやりと机を見たまま、眞菜のことを考えていたことに気がついた。
今は放課後。掃除も終わり、受験を意識し始めた生徒が数人、居残って勉強をしていた。

「そんなことで、大丈夫なの?」怪訝な顔の女生徒は言った。「どこ受けるの?国立?」
「まあ、一応」
賢治は場に合わせて、適当に答えた。まだそれほど自分の志望については考えていなかった。彼の夢はあくまで喫茶店を開くことだった。大学を目指すのは、みんなが入っているから、と言うだけに過ぎなかった。父親の影響か海外の情勢にも興味があったから、何か国際関係を学べるような学部であればいいという程度に考えていた。

「何?“一応”って」女生徒は、賢治の答えが気に入らなかったらしかった。
「そんなんじゃだめだよ、目標はしっかり見すえないと。賢治、何か始めても、いつも、最後はぐだぐだになるんだから」
女生徒はいつの間にか、自分が賢治のお守りでも言いつかったかのような顔をして、そう言った。
「……わかったよ……」
賢治は返事するのも面倒そうに、向こうを向いた。

何で、よりによって、こいつと一緒のクラスになったんだ。
心の底で彼はそう思っていた。

女生徒は名を薫といい、賢治とは高校になってからの同級生だった。
彼女は、彼が2年の時、他のクラスの学級委員だった生徒で、当時、賢治は別なクラスの副委員を勤めていた。

副委員と言っても、どうにかようやく委員が決まったものの副委員を務めるものが見つからず、仕方なく委員の友人であった賢治に話が回ってきたと言うだけのことで、彼は特に積極的にその役割をこなしていたわけではなかった。

一方の彼女は自分から率先して委員になったと聞いていた。実際に学級委員の集まりの時には彼女は自分から進んで発言をする方だったし、時には生徒会長をしのぐ存在感を見せることさえあった。彼女は3年に上がってからも、当然のように学級委員に着くと皆が思っていた。

「なら、いいんだけど」薫は椅子の上で居住まいを正した。
「……でね、話って言うのは、私と『契約』を結んで欲しいわけよ」
「『契約』?」賢治は眉根を寄せた。「何が言いたいんだ?」

「……つまり、だからね、」
薫は借りてきた言葉を話すような口調で言った。
「賢治は英語と現代文が出来るけど、数学と理科が苦手、私は社会と理科と数学なら、何とかなる。でも、英語も国語全般も全くダメ。……私達って、ちょうど正反対でしょう、だから……、教え合いっこ、しない?」
名案でしょ、とでも言うように、薫は瞳を爛々とさせて賢治の反応を待った。
「一人では出来ないことも、二人、力を合わせれば出来るってよく言うじゃない。私達にも、きっと、出来るよ」

「それは、たぶん夫婦に言う言葉だろう」賢治が言った。
「俺たちには、関係ないんじゃ……」
「夫婦……、賢治、そんなこと考えてるの?」彼女が言った。
「これから、仲良くなろうって段階なのに……」
小さな声でそう呟いて、椅子に座った自分の足下を見つめていた。
机の下では、彼女の膝がそわそわと動いていた。

「とにかく、私達は協力した方が良いの。絶対、お互いのためになるよ」
薫は、賢治の顔を見ながらはっきりと言った。
「……ねえ?やろうよ」

「何で、俺が……」賢治は答えを渋った。
「別に、薫に教えてもらわなくても自分でやるよ……」
「そう言う問題じゃないの」怒ったような調子で薫が言った。

「……あなたが私を必要としていなくても……、私は、教えてもらいたいの。……それとも、そこまで、いやなの?」
薫は黒目のはっきりした目で、じっと賢治を見つめていた。
それを正面から受けきれず、賢治は視線を窓の外に逃がした。

「……いいよ。それなら」
薫は下脣を突き出して、すねるようにそう言った。
「賢治があたしを“たぶらかした”って、みんなに言いふらしてやるから」

「おい、何言い出すんだよ」ただごとではない言葉に、賢治は慌てた。
「おれ、そんなことしてないぞ」
「したのよ。……したことに、なるの」薫は意地悪な目を賢治に向けた。
「……さあ、どうする?」
「……お前、悪女だな」吐き捨てるように賢治が言った。
「なんとでも言ったら」薫は平然としていた。
「……態度をはっきりさせない、あなたが悪い」


「……解ったよ」
賢治が折れた。「お前に、国語と英語、教えればいいんだろ。……後は自分でしろよ」
「やった!」
先ほどの悪女ぶりが嘘のように、薫の顔に幼げな喜びが満ちた。
「じゃあ、私は数学と理科を教えてあげるからね」
「いいよ、そんなの自分でやれるから」くだらない、とでも言うように賢治は言った。
「……その代わり、変なこと、周りに広めるなよ」

「もちろん!」素直に薫は答えた。
「あたしも、そこまでは堕ちてない。……大丈夫。そんなに突っ張らなくても。ちゃんと賢治には教えてあげるからね。理科と数学」
「……いらねえって言ってるだろう」
賢治は不機嫌に窓の外を見た。

「でさ、早速、質問なんだけど」
ふてくされた賢治の態度など、あえて気にしないかのように、嬉々とした顔の薫が言った。
「……“たぶらかす”って、具体的に何すること?」



薫との小さな“勉強会”は、それから2時間続いた。賢治はすっかり疲れて学校を後にした。

学校は小高い丘の上にあった。古ぼけたトタン屋根の自転車置き場で使い込んだ自分の自転車にまたがり、坂の上から街の方角を見れば、いつもそこには大きな海があった。

賢治は、この風景が好きだった。海には細い幾何学的な線を持つ防波堤が突き出していて、何隻もの大型漁船が明日か明後日かの出港を待っていた。賢治はいつも海沿いの、港の中を走る道を通って家に帰った。

坂を下りるに従って、街はぐんぐん大きくなった。始めは家の密集に過ぎなかった住宅地が、彼を取り巻く程の大きさになるまでに数分とかからなかった。家々の窓には、すでに灯りが入り始めたものもある。賢治の自転車は最短距離を選び取って、夕焼けに赤く燃える海を目指して走った。

彼の住む街では、夕日は海には沈まなかった。海に沈む夕日というものを、彼はいつか見てみたいと思っていた。夕日が海に沈む時、一瞬緑色の閃光を発すると、彼は父から聞いたことがあった。あれはどういう光の加減なのか、赤い光を発していた太陽が、突然緑に光って見えるのだから、自然というのは不思議だと、長い船旅ですっかり顔が赤い髭に埋もれた父は、塩に灼けた顔をにやにやさせて語っていた。

ただ、彼の街ではそれは見えない。朝焼けなら見えるかも知れないと、それから数日早起きし続けたこともあったが、そう言った閃光は一度も見ることが出来なかった。金色に輝く海を見て、まぶしさに目を窄める朝が彼は昨日のことのように脳裏に蘇って、顔は切なく微笑んだ。

やがて、自転車は港に入った。朝には賑やかに鳴いていたカモメたちも夕暮れには何処かに行ってしまって、静かになった港にはもう人影が見られない。浮かべられた船だけが打ち寄せる波に併せて、眠りにつく頃の心臓の拍動のような穏やかでなまめかしい規則性を伴って上下に揺れているだけだった。

父さん、今頃何処にいるんだろう。並ぶ漁船を左手に見ながら、彼はふと考えた。また、ルソンか。それともフィリピンか。ケガしてなければいいけれど。

夕日にそそのかされて不意に浮かび上がってきた、そんな届く当てもない感傷に浸っていると、突然に彼の携帯が鳴った。眞菜からのメールだった。


“賢治?今電話しても大丈夫?”