2009年2月17日火曜日

『カタワラ』:13

「……もう、いいよ」不機嫌そうに眞菜が言った。「……気にしてない」
「ごめん、……眞菜を、傷つけるようなことを言ってしまって……」
玄関先で、賢治は頭を下げた。

賢治は眞菜の家に、謝りに来ていた。
そろそろ夏も終わりになり、秋の草花がぽつりぽつりと見られるようになった。

眞菜も、外出を控えるようになってきていた。秋はブタクサなどのイネの仲間の植物が良く花粉を飛ばす。それは眞菜にとっては、時にスギの花粉以上に、大きな影響を与えていた。中学の時、卒業アルバムの写真にほとんどのらなかったのも、この秋の花粉のためだった。

「……傷つけたって、本当に思ってる?」疑いのありありと籠もった目で眞菜が言った。
「……賢治、いつも本当に口先だけなんだから」
「……ホントに、そう思ってる」賢治は言った。「そうでなかったら、わざわざ出向いてまで謝りに来ないよ」

賢治はまず眞菜に電話をかけてみたのだが、案の定、彼女は電話に出なかった。
こういう時は、彼女が本当に怒っている時なのだと言うことを、賢治はよく知っていた。家から滅多に出られない彼女にとって、電話にすら出ないと言うことは、関係を完全に遮断したに、等しかったからだ。

彼が彼女の家に謝りに出向いたとき、彼女は、すぐには出て来てくれなかった。
インターホン越しのやり取りが、すこし続いた後、彼女もそれでは言い足りないものを感じたためか、ようやく彼の前に姿を現してくれたのだった。

しかし、目の前に現れた彼女は、彼の予想とはやや違っていた。
賢治は彼女が、明らかに怒っていると思っていたのだが、彼女は意外にも冷静だった。むしろ、観察するような疑念を含んだ瞳を彼に向けて、彼女は玄関の上がりのところに突っ立って、彼に向かっていた。


「……賢治」
彼の言葉を受け取って、しばらくの沈黙した後、眞菜が口を開いた。
「……わざわざ来てくれたのはうれしいけど、もう、帰ってくれない?」

「どうして?」
賢治は自分がうろたえているのを真菜に見せているのすら気がつかないほどに動揺した。

「なんか、気分が滅入るんだ」
眞菜が身体を縮めて身を震わせた。
「……それに、なんか今日は花粉が随分飛んでる気がするし」
くしゅん、眞菜は大きなくしゃみをした。眞菜は常に携帯しているポケットティッシュで鼻をかむと、手近なところから大きなマスクを取り出し、顔を覆った。

「……ほらね。それに……」
「それに?」
「……賢治さ、そうまで頭下げて、私と仲直りする意味、あるの?」
眞菜はさらりと言った。
「……どういう意味だ」賢治には理解できなかった。

「……私と賢治は、住む世界が違うんだよ」眞菜が言った。
「賢治はこれから、大学に行って、多くの人と知り合う。社会の一員になって、それを支えていく。……でも、私は、こうして家の中で、春と秋に怯えて生活していくの、……持って生まれた、命が尽きるまで」
眞菜は後ろを向いて、マスクをずらし、もう一度鼻をかんだ。
もう何度もそうしていたためか、鼻の奥の血管が破れたらしく、ポケットティッシュに少し血が滲んでいるのが賢治にも見えた。

「……正直、私ともう仲直りしなくても、あなたの人生には、なんの影響もないとは思わない?もっと、ためになる人と、賢治は知り合っていくべきなんだよ」
……薫のことを言っているのだろうか。賢治には、眞菜の心の内の声が聞こえるようだった。
だが、彼女は単純に薫に嫉妬しているというわけでもなさそうだった。もし彼女が嫉妬しているとすれば、自分を含めたすべての、「普通の」高校生なのかもしれない。そう彼は感じた。

「……もう、今日はいいや、……私だんだん、だるくなってきた。薬飲んで、もう寝るね」
眞菜はそう言って、玄関の内側のガラス戸をぴたりと閉めた。奥の寝室に歩き去っていく、眞菜の小さな素足が見えた。

眞菜が再び現れることはもう期待できなかった。
賢治は仕方が無く、眞菜の家を辞して玄関の戸を閉めた。


彼には、もう彼女と仲直りする当てがなくなっていた。この様なことは、初めてと言っても良かった。今までであれば、電話をするか、会いに行くかすれば、結局仲直りして、2日と立たないうちに、元通りの関係に戻ってしまっていた。だが、今日の眞菜はそのいつもの眞菜ではなかった。

彼と彼女の関係に、二人の持って生まれた、境遇の違いというものが重くのしかかっているのを賢治は始めて意識した。高校の三年生は進路を決める時期とよく言うが、進路を決めると言うことは、過去のものとの決別も意味していると言うことを今頃になって思い知らされた気がして、彼は恐ろしさに身が震えた。

今まで、身体の一部のように身近だった眞菜の存在が、手の届かないほど遠くに行ってしまったような気がしていた。考えてみれば、彼は眞菜との距離をこんなにも意識したことはなかった。逢えない時期であっても、彼にとって眞菜は常に傍にいる存在だったから。それは、眞菜にとっても同じはずだった。その眞菜が、仲直りする必要など無いと、言い切ったのだ。

それは、体の一部を、ほとんど永久的に失ったに等しい喪失感だった。
これからどうしていこうという、らせんを描いて落下するような狂おしい感覚を賢治は感じた。

彼には、彼女の思いは全く理解できなかった。ただただ、彼女が遠くなっていく感覚に怯えていた。