2009年2月20日金曜日

『カタワラ』:17

「一体、どうして、お前たちがあそこにいたんだ?」
病院の待合室。もう誰もいなくなった広い玄関ホールに、賢治の怒号が響いた。
薫は椅子にすわり、何も言わず、ただ口の先を幾分とがらせるようにして、じっと黙っていた。

「……まさか、お前が連れ出したのか」
ちがう!とでも言うように、薫は、きっと賢治を睨みつけた。
しかし、彼女はそうして目で訴えるだけで、それ以上何も言おうとはしなかった。

「……黙ってても始まらないだろう」
賢治が諭すように言った。「教えてくれないか」
「……私だって、知らないよ」薫がようやく口を開いた。
「ただ、私が眞菜さんの家に行こうとしたら、ちょうど彼女が玄関から出てきたの。マスクにゴーグルって格好で、どこか危ない所にでも行くのかと思った」
所在無げに、膝を動かしていた。

「どこに行くんだろうって思ったから、そのあと彼女についていったの。そしたら、あの木の下のところで立ち止まって……」
何かを、探してるようだった。薫はそういった。

「……でも、結局それを見つける前に、彼女胸をさえてうずくまりだしたの。だから……」

薫はそういって、賢治から顔をそむけた。泣いているらしかった。
「……ごめんなさい、勝手に、眞菜さんちにまで押しかけて……」
彼女の口から、嗚咽が漏れた。

彼はそれ以上、彼女に何も聞けなくなった。

眞菜が、何を探していたのか、彼には心当たりがなかった。だが、それは真菜が倒れていた場所にあったはずだった。
明日、明るくなったら、もう一度行ってみよう。賢治は思った。


「……ねえ、賢治」
泣いていたはずの薫が、賢治を見つめていた。
まだ涙が目尻に、零れんばかりの大きな雫となって残っていた。
「……眞菜さんのこと、どう思ってるの」

賢治は、すぐには答えられなかった。やや間が開いた後、呟くように、
「……幼馴染、だよ」
と、答えた。

「……それ、だけ?」
薫は言った。そして、涙のたまったひとみで、クスリ、と笑った。
「……最低」

薫が賢治を睨んだ。
その瞳には今までよりずっと強い、怒りに似た感情が込められていた。
「彼女がここまで思い詰めていたのに、あなたはまだ、私の前ですら、彼女との関係をはっきり認められないの?……いつまでも、そんな意気地のないこと、言ってるから……」

そういうと、彼女は、制服のポケットから、一個の錆ついた古い缶を取り出した。
封はすでに開いていた。
「……眞菜さんが倒れた木のそばに、転がってたの」薫は言った。
「彼女が探してたのは、これじゃないかってとっさに思ったから……、拾ってきた」
渡された缶の中には、二枚の紙切れが入っていた。
賢治は、紙きれの一つを缶から取り出し、おもむろに開いた。

手紙にはつたない字で、次のようなことが書かれていた。


おっきくなったら
しょうぼうしゃかきゅうきゅうしゃか
おいしゃさんになりたいです

けんじ

それは、幼いころの賢治の夢が描かれた紙だった。
そう言われてみれば、そう言うこともあったかも知れない。賢治はおぼろげながら、思い出した。眞菜と二人、まだ、小学校に入ったか入らなかったかの頃、あの樹の下まで、よく森を探検して、そうして、その時の二人の夢を、紙に書いて、埋めたと言うことが。

懐かしさに緊張を忘れ、彼はそれまで無意識に強ばらせていた顔が、穏やかさを取り戻していくのを感じながら、箱の中に残った、もう一片の紙切れを開いた。それは、眞菜が書いた手紙だった。


おっきくなったら
けえきやさんになりたいです

あと、けんじのおかあさんか、およめさんになりたいです

まな


「……私も、さっき中身読んじゃったの」
薫が言った。
「そうして、思った。……勝てないな、って」
彼女は誰もいない待合室の椅子の上に、ごろりと横になった。飾り気のない白い天井が、彼女の瞳にさかさまに映った。彼女の表情には先ほどの怒りはもう無かった。ただ、あきらめたような、安堵を伴った安らかな表情をしていた。

「離れているとか、手が届かないとか、あなたたちには正直、もう関係ないんでしょう?」
天井を見詰めたまま、誰に言うでもなく薫が言った。
「そういうの、どうしようもなく憧れるんだよね……。私、小さい時から、引っ越してばかりだったから」
体の向きを変えて、彼女は賢治に儚げな背中を向けた。短く切った後ろ髪越しに、彼女の細い首筋が透けて見えた。

「……幼馴染、か」
薫はぽつりと言った。

「簡単に言うけど、それに恵まれない人間だって、いるんだよ……」
言葉尻は、消え入るようだった。

彼は、その時、ふと、いつか夏の終わりに、薫と交わしたくちづけの味を思い出した。
そして、それに対して、動揺以外の心理が浮かんでこなかった自分を思い返していた。思えば、あれも似ているような気がした。どれだけ近くても、届かない、眞菜の差し出す荒れて硬くなってしまった、小さな手に。

触れあっているからと言って、わかり合ったことにはならない。
皮膚の表面から、身体の奥底までの、どうしようもない距離感を賢治は感じた。


しばらく、無言の時間が続いた。
やがて、彼女は向きを変えて、あおむけになった、そして、右の手を、不安から身を守るかのように、そっと自分の腹の上に乗せた。
彼女は楽しそうに笑った。

「……そんな固い絆に、この1年で挑もうとした私を、笑ってくれる?」
彼女は、おかしがって所々吹き出しながらしゃべったので、その言葉は途切れ途切れに賢治の耳に聞こえた。

「……でも、そうせざるを得なかったの」
彼女の表情に、ふと、悲しみの影が浮かんだ。

私には、自分から進んで作ってきた絆しか、無かったから。
彼女はそう言った。

「何もしなければ、何も生まれない……。もともと存在した関係なんて、血縁以外には、私には無いんだよ。仲良くなりたければ、恥ずかしいのをこらえてでも、相手にアプローチしなくちゃいけない。そうやって、みんなそれなりに苦労して、紡いできた関係なんだ」
薫の瞳はしっかりと天井を見据えていた。
もう、涙に濡れた悲しみも、自虐するような笑いも、その表情には無かった。
「……そして、それは、これからも続いていく」

「でも、真菜さんはそれを見つけて、どうするつもりだったのかな」
薫は賢治の方を向いて言った。
「……今更そんなものを掘り返すまでもなかっただろうに」

賢治には、おおよそ察しが付いていた。
眞菜は、この手紙を破り捨てようとしたのではなかったか。

過去の思い出とともに、賢治ともう縁を切る覚悟で、彼女はいたのではなかっただろうか。
気分のすぐれない中、寝室の見飽きた天井を見つめて、彼女は賢治よりも多くの時間、考え続けてきたに違いなかった。自分のこと、そして、賢治とのこと。その結果下した結論が、彼との別れだったのだ。

「……薫が言うように、おれが恵まれていたんだとすれば」
賢治が言った。
「それはある意味、ハンディキャップでもあるのかもしれない。……人と人のつながりを、あまり意識してこなかった。薫みたいに苦労しなかった分だけ、それを大切にしてこなかった。……なんか、そんな気がする」

賢治は、真菜の手紙を錆びついたクッキー缶にもどし、彼の学生服の上着のポケットにねじ込んだ。

『治療中』の赤い明かりが付いたままだった処置室から、ようやく徹さんが出てきた。
いつも見る、着古したスウェットのシャツではなく、上下真っ白な白衣を着て、しっかりとした造りの医療用のマスクも付けていた

「……ようやく、血圧が落ち着いたよ」
顔の半分ほどもある緑色のマスクを取り外しながら、ほっと安堵したように笑った。
「ただ、今回はちょっと重症だから、2、3日は容体が不安定になるかもしれない。……とりあえず今日のところは大丈夫そうだから、君たちはもう帰った方がいいよ」

賢治と薫は、ご迷惑をおかけしましたと、口々に謝って、病院を出た。


薫を家の前まで送って行ったあと、賢治は自転車をゆっくりとこぎながら、考えていた。
もう時間は夜半近くになっていた。町の中央を走る国道とはいえ、時々運送会社の大型トラックが走り過ぎる以外に、車の通りはなかった。

眞菜とは、確かに離れてしまうかもしれない。
賢治は思った。
でも、それが、何だというのだろう。

どんな遠くの海を目指した船も、いずれ、元の港に帰るのだ。

……幽霊船でもあるまいし。賢治はひとり笑った。
港がしっかりしてなくちゃ、安心して旅にも出られない。

賢治は自転車をこぐ速度を速めた。
開けた場所から見える港の全景が、かなたから聞こえる動力機関のベース音に乗せられ、賢治の耳は一瞬、船の甲板で聞く潮騒の音を聞いた気がした。