2009年2月6日金曜日

『カタワラ』:2

彼女の家を出てから、賢治は用水路沿いの舗装路を通って家に帰った。
農繁期に農作業用のコンバインやトラクターが通るための小道だったが、彼女の家に向かうには、この道を使うか、あるいは大きく迂回するしかなかった。

迂回路の途中には、彼らが幼い時「暗闇の森」と呼んだ、うっそうと茂る保安林が拡がっていた。人の手の加えられた痕跡が少なく、自然のままに木々が茂っていた。そうした特徴を持つ森は、この田舎町といえども、もうほとんど残っていなかった。近隣の地区の森は、何十年も昔の国の政治家の策によって、ほとんどすべて杉林に置き換えられてしまっていた。春になるとそうした森から、雲の湧くように黄色いチョークの粉のような花粉が沸き立つのが、もう風物詩のようになってしまっていた。

一方で、人の介入から残された彼らの暗い森は、幼ない子供らの格好の遊び場だった。賢治も、そして眞菜も学校帰りは毎日のようにあの森で遊んだ。小枝を握り、枯れすすきを分け入って、何を目指す出もなく、ひたすらに森の奥へと突き進んだ。特に目的など無かった。強いてあげるとすれば、誰もいない森に、彼らの力だけで分け入ることこそが最大の目的だった。

それは不安で心細い遊びだった。深入りしすぎて、無事帰れるかわからなくなった事も、一度や二度ではなかった。森の中でさんざん迷った挙げ句、ようやく明るい出口を見出した時の、一度死んで生き返ったような安堵感を、彼は昨日のことのように覚えていた。あわてなくても出口は逃げないと知りながら、思わず駆け出したあの頃の気持ちが、気持ちの奥底にしっかりと根を張っているように感じていた。

思えば、あの頃から、眞菜はいつも彼の傍にいた。
彼の前に立って、棒きれを振り回していた日もあれば、片方の靴を野バラに引っかけて壊してしまい、彼に背負われて家に帰った日もあった。

靴を壊した日、家に帰った眞菜を彼女の母はきつく叱った。賢治も隣に立たされて、一緒に叱られた。ところがその時は、眞菜より先に賢治が泣き出してしまった。眞菜の母親はそれ以上叱るに叱れなくなり、語尾もうやむやに、そのまま奥に引っ込んでしまった。涙をボロボロとこぼして、嗚咽しながら泣き続ける賢治を、眞菜は弟をあやす姉のような目をしてなだめてくれた。近所に他に同級生もいなかった彼にとって、彼女は、唯一の幼なじみだった。


「……ただいま」
賢治は自宅の玄関の引き戸を開けた
「お帰り、賢治」奥から、母の声がした。
靴を脱ぎ、茶の間に上がると、母が台所で夕食の支度をしているのが見えた。
「……眞菜ちゃんの所に行ってたんでしょう?」彼に背中を見せたまま、母は言った。
「どうだった?彼女、体調は良さそう?」
「ああ、いつも通り」賢治は言った。「元気すぎて困るよ、あいつ」
……ふふっ、と母が笑う声が聞こえた。
「まあ、いいことじゃないの。一時はどうなることかと」
「毎年のことでしょ。あいつがぶっ倒れるのなんて」
賢治はぶっきらぼうに言った。

それを聞いた母は、ふう、と溜息を吐いた。
「……そんなこと言わないの。あなたあれね、眞菜ちゃんの話になると、急に言葉が乱暴になるのね」
母は、作業していた手を休め、台所から彼の方を向いて見据えた。そして、おかしそうに含み笑いをして、
「本人の前でも、そんな態度なの?」
と言った。

賢治は、母親に自分のことが見透かされているような、薄気味悪さを感じた。
「……んなこと、どうでもいいだろ」
彼は思わず、母から目をそらした。
……ふふっ。また、おかしそうな母の含み笑いが聞こえた。母はまな板に向き直って、止めていた作業を再開した。
「……まあ、大切にしてあげてね。私の大切なお友達なんだから」
小さな声で、独り言のようにそう言った。

母は冷蔵庫から大きなブロッコリーを取り出し、小さく分けた。彼はそれで、今夜の夕食がシチューだとわかった。
母親がブロッコリーを使う時には大抵、シチューと決まっていた。
母は冬になるとシチューを良く作った。あまりに頻度が高いので、彼はいい加減うんざりしていたが、母親はそれに構う様子はなかった。
「またシチューなの?」
彼は言った。
「何でいつも冬はシチューばっかりなの?」
「なんだか雪を見ると、温かいシチューが食べたくならない?」
母は言った。
「……ならないよ、別に」彼は突っぱねた。「だいたい、いつも思うんだけど、シチューってどうやって食べればいいわけ?カレーみたいにご飯にかけれるわけでもないしさ」
「シチューは、シチューとして味わえばいいわけ」火加減を見ながら母は言った。「いつもそうしてるじゃない」
「なんか、中途半端な気がするだけだよ」彼は言った。「……主食にも、おかずにもなりきれない、みたいな」
母はそれを聞いて笑っていた。
「それもそうね」
しかし、静かにシチューを混ぜる手を、休めることはなかった。
賢治は一人で突っぱねるのにも飽きてしまって、畳の上にごろりと横になった。
母のシチューに溶けるバターの香りが、彼の鼻をくすぐった。

「たっだっい、まー!」
玄関の引き戸を壊れんばかりにぴしゃりと開けて、小さな男の子が駆け込んできた。
「ニイ(兄)、ほれ!」
少年は、道ばたで捕まえたテントウムシを彼に差し出した。温かいところで冬眠していたものを、無理に捕まえてきたのだろう。小さな手の中に乗せられても、じっとしていた。
「賢介おまえ、どっからこんなもん捕まえてきた?」
「まっくら森」賢介はあっけらかんとして答えた。
「あそこは今行ったら雪が積もってて危ないだろう。急に深くなったりするんだぞ」
賢治は怖い顔をして賢介を脅したが、
「おれ、怖くねえもん」賢介はびくともしなかった。
掌に載っていたテントウムシを大切そうに人差し指と親指でつまんで、賢介は母親の所に走っていった。

彼は賢治の年の離れた弟だった。彼は現在高校2年生であり、賢介は来年小学1年生だったから、実に10年の差が開いていた。これほど歳が開くと、もう兄弟と言うより、親子のような感覚さえ伴っていた。特に父が不在がちの彼の家庭では、必然的に彼は父としての役回りを果たすことになっていた。

彼らの父は遠洋漁業の船乗りだった。家に帰ってくるのは年に数回。しかも一月と留まることがなかった。こんなに家にいない父と、母はどうして結婚したのか。賢治は、それを不思議に思うことがあった。

「さあ、食べましょう」
母は腰に腕を巻き付けて離れない賢介を伴ったまま、できたてのシチューの鍋を卓の真ん中に持ってきた。先ほどから彼の鼻をくすぐっていたバターの香りに混じって、炒めたタマネギの甘い香りが辺りに拡がった。

文句は言ったものの、母の作るシチューの味は嫌いではなかった。賢治と賢介は取り合って食べた。

母はその様子を見ながらも、一人静かに自分の作ったシチューを食べていた。そう言う時の母を、彼は少し遠く感じた。彼女は食べながら何かを思い出しているらしかった。ここではない何処かの、遠い誰かと、静かに会話しているようにも見えた。

彼はその理由を知らなかった。母に尋ねたところで、素直に彼に答えてくれるとも思えなかった。おそらくは、母の忘れられない、何か大切な思い出とシチューは関係しているのだろうと、彼は高校生になってからようやく気がつくようになった。始めはそれが、父との思い出であると思っていたのだが、成長するにつれて、そう思うだけの自信がなくなってきた。それは疑うという気持ちとは違っていたが、母を見る目が、彼なりに複雑になっていることの表れだった。


柱の時計が6時の鐘を打った。