2009年2月7日土曜日

『カタワラ』:4

かっ、かっ、かっ、かっ。
翌週の土曜日、賢治が眞菜の家に行くと、彼女は台所に立って、ボウルとかき混ぜ機を手に、何やら熱心にかき回していた。身長の割には少し大きいピンク色のエプロンをして、足を肩幅に広げて、もうすでに腕が疲れていたのか、肩がすっかり上がっていた。エプロンの平たいひもが、小さな背中でたすきがけに交差していた。

「上がってちょっと待ってて」元気の良い声が台所から聞こえた。

普段は両肩まで下げている髪を珍しく高い位置でまとめていた。普段はあまり意識しない眞菜の丸い肩と首筋を見て、賢治は無意識に目をそらした。

「よう、賢治」茶の間に上がると、眞菜の父親が横になってテレビを見ていた。土曜日の昼間の、ゴシップばかりをあつかう討論番組だった。
「徹さん、今日はお休みですか?」

賢治は炬燵に足を入れながら眞菜の父に声を掛けた。
眞菜の父は起き上がる素振りも見せないまま、ああ、と返事した。
「休みって言っても、拘束されてるんだけどね」
彼はそう言って、炬燵の上に置いた携帯の、飾り気のないストラップをつまんで、ゆらゆらと左右に揺らして見せた。携帯の胴には「市民病院」と大きく書かれた白いシールが貼られていた。緊急の時には病院から連絡が来る、専用の電話だった。

「こいつが鳴らないことをいつも祈ってるんだが、そう言う時に限って鳴るんだよね」
苦笑しながら徹さんは言った。
「大変なんですね、お医者さんて」
賢治がそう言うと、眞菜の父は、ああ、全くだ、と言う顔をして、
「……君も、医者にはなるなよ」と言った。

「……なりたくてもなれませんよ、僕なんて」賢治がそう言って謙遜すると、眞菜の父は、彼独特の、顔にくしゅっと皺を寄せた笑い顔を浮かべて、
「眞菜の主治医にだったら、なってもらいたいけれどな」と言った。
賢治は苦笑いを浮かべ、何も言えなくなった。眞菜の父はそれを見ておかしそうに微笑んでいた。

「ところで、眞菜、今何しているんですか?」
話題をそらそうと、眞菜のいる台所の方を見ながら言った。
「……ああ、ケーキを作っているそうだ」
彼女の父は言った。

賢治はそれを聞いて合点がいった。彼女が先ほどからボウルで熱心にかき回していたものは、ケーキの生地だったのだ。
「君のお母さんが水曜に遊びに来て、教えていってくれたらしいぞ。知らなかったか」
徹さんは不思議そうに彼の顔を見た。
「ええ。……そのうち教えてもらうとは、眞菜から聞いていましたけど」
彼はそう答えた。
「あの子がケーキか……」感慨深げに、彼女の父は言った。
「コーヒーも満足に淹れられない娘が、ケーキを作る、なんてな……」
「ちょっと、お父さん!」台所から眞菜の声がした。
「みんな聞こえてるんだからね!」

眞菜の父は首をすくめて、賢治の方を見た。
賢治も同じように首をすくめた。
そして、男二人、顔を見合わせて、声も出さずに笑った。

「……でも徹さん、眞菜、ケーキなんて作って大丈夫なんですか?」賢治が尋ねた。
「……確か、卵もだめでしょう、彼女」

徹さんの顔から、一瞬笑いじわが消えたように賢治は思った。
やっぱり、お医者さんなんだな。賢治はそう思った。が、次の瞬間には、彼はまた、いつものくしゃくしゃの顔に戻っていた。

「……大丈夫大丈夫。あの子のレシピをさっき見せてもらったけど、良く考えられてるよ。卵は一切入ってない。君のお母さんは、よく調べたなあ」
「卵なしで、ケーキなんて作れるんですか?」

「できるんだな。僕も話には聞いていたけれど、食べたことはまだ無いんだ」
「びっくりするよ!」台所から、眞菜の威勢の良い声が聞こえた。
「びっくり、ねえ」徹さんは困ったように言った。
「……良い方にびっくりできると良いけど」

やがて、台所から、ばたん、と戸を閉めるような音がした後、オーブンレンジの設定をいじる甲高い電子音が聞こえた。
そして、オーブンの中のケーキがが静かに回り始めると、エプロンを着けたままの眞菜が台所から出てきた。腕まくりした袖から、日焼けしていない二の腕が見えた。

「さて、後は焼き上がりを待つ」
そう言うとエプロンを外して、自分も炬燵に入ってきた。先に炬燵に入っていた賢治の足にごつりと当たって、賢治はあわてて自分の足を炬燵の端へ退けた。

眞菜は、賢治の方を見て、甘えるようににこりと笑って、
「……コーヒー淹れて」と言った。
「おっ、いいね。賢治、僕も」
炬燵の向こう側に寝転がったままの徹さんが、卓の下から手の先だけを彼に見せて言った。

「……揃いも揃って」
あきれたようにそう言って、賢治はゆっくりと炬燵から出た。


台所へ行き、火にかけたポットで湯が沸く間、彼は必要な他の器具を棚から出していた。
冷蔵庫の上に置かれた、黒いオーブンレンジに目をやると、先ほど眞菜が型に流し込んだ生地が、ターンテーブルの上で、電熱線の赤い光を浴びて、くるくると静かに廻っていた。

……卵なしのケーキって、出来るんだ。

賢治は焼き上がりを待つ生地を見ながら、そう思った。
できあがりの味がどうあれ、そういうものが実際に存在することが驚きだった。

コーヒーを淹れるスペースを確保しようと、台所の狭い台の上に目をやると、先ほど眞菜の使っていたボウルと、生地が付いたままのかき混ぜ機がそのまま放り出されていた。
賢治はあきれたように溜息をついて、それを流しに退けた。


眞菜の病気は、誰に言っても簡単には信じてもらえなかった。

春と秋には家の外に出られなくなる病気なんて、確かにすぐに信じられる方がどうかしているかもしれない。

しかし、これは、紛れもない事実だった。