2009年2月9日月曜日

『カタワラ』:6

「おまちどうさま!」台所から、大きなケーキを持った眞菜が晴れ晴れとした顔をして飛び出してきた。ケーキはすでにたっぷりの生クリームで分厚くデコレートされていた。まだ時期には少し早い、ハウスもののイチゴが白地のケーキに赤いアクセントを落としていた。

「どう?」眞菜はケーキの載った皿を卓に乗せた。クリームの塗りが不格好なためか、ケーキは真円にはほど遠かったが、その分ボリュームがあった。

「へえ、ホントに、ケーキだ」賢治は言った。「これ、食べれるのか?」
「当たり前じゃない」目を大きく剥いて、眞菜は賢治を睨んだ。
「……さあ、切り分けて、賢治。賢介君と、うちのお母さんと賢治のお母さんの分も忘れずに」
「何で、俺が」今度は賢治が眞菜を睨んだ。

「良いじゃない、私よりもずっと器用なんでしょ」
眞菜はそう言うと、右手に持っていた包丁を一本賢治に手渡した。包丁は先ほどデコレートする際にパテの代わりに使ったらしく、ケーキに使われたクリームがべっとりと付いたままだった。賢治は眞菜から差し出された濡れ布巾でクリームを拭き取ると、静かに包丁をケーキに沈めた。

「ちょっと待った」徹さんが大きな声で止めた。「……写真をとろう」
そう言うと彼は黒い革張りの仕事鞄の中から、小さなデジカメを取りだした。

「ほれ、眞菜、せっかくだ、お前もナイフを握れ」
「え?」賢治と眞菜は一緒に、素っ頓狂な声を出した。

「……いいから、早く!……“練習”だ」目尻に笑い皺を寄せた悪戯小僧のような顔をして、徹さんは彼らにカメラを向けていた。

賢治はどうしたらいいものかと戸惑った。思わず、隣にいた眞菜の表情を伺おうとした。
しかし、その時、彼の手の上に眞菜の手が重ねられる感覚があった。

驚いて眞菜の方を向いた。彼女はしかし、賢治の方は見ようともせず、なぜだかとても、自信に満ちあふれた表情で、にこやかにカメラの方を向いていた。賢治はしょうがなく、カメラに向き直った。

「ほれ、賢治、もっと笑え」カメラを構えた徹さんが言った。
彼はほとんど、やけっぱちになって、満面の笑みを作った。
「お、いいね!これぞ、“初めての共同作業”」
「いいから早く取ってくださいよ」賢治は待ち切れずに言った。
「……はいはい、じゃあ、取るぞー。」

ぱちり。
シャッターが切られた。
「……はい、OK」

その声を聞くと、眞菜は自分の手を賢治の手から、引き下がるように静かに退けた。
賢治は眞菜の気持ちを掴みかねていた。彼女の表情を再びのぞき込んだが、彼女は先ほどとほとんど変わらない顔で、カメラの方向を向いたままだった。

徹さんは液晶画面で写真の出来映えを確認して、一人でにやにやと悦に入っていた。
「いやー、様になってるよ、ご両人」嫌らしい目で賢治の顔をちらり、と見た。
「あとは、ケーキがもうちょっと立派だと良かったな」

「はいはい」うんざりしたような調子で、娘は軽く父をあしらった。
「でも、味は大丈夫だよ。私じゃなくて、陽子さんのレシピだから。……さあ、賢治。ぼさっとしてないで、さっさと切っちゃって」

言い捨てるように眞菜が言った。彼は言われるがままに、黙々とケーキを切り分けた。


眞菜の作ったケーキは、ナイフを入れると、普通のケーキより少し乾いたような、サクサクした感じがした。しかし、その分、断面がきれいに切れた。彼はそれを、かたちを崩さないように苦心しながら、彼女の用意してくれた小さな白い皿に載せた。赤いイチゴがひとつ、その拍子にケーキから落ちて、恥ずかしそうに、ころりと皿の上に転がった。


「いただきます」
人数分を切り分けた後、賢治は銀色の大きなフォークで、ケーキの鋭角をそっと掬い取った。
眞菜が心配そうな顔でその様子を覗き込んでいた。
まるで自分自身がケーキになったような顔をして、切り取られたケーキの行方を目で追っている。

賢治は眞菜の強い視線を意識しながら、フォークの先のケーキを、ぎこちなく口に入れた。


切った時に感じたような、少しサクサクした感じが口の中でもした。しかしそれに、よくホイップされた生クリームが滑らかに絡んで、最後に、イチゴの少し甘酸っぱい味が舌の上を爽やかに駆けていった。

「……へえ、おいしいかも」少し驚いたように言った。
「……ほんとに?」ケーキの行方を追いかけていた彼女の瞳が、うれしさのあまり見開かれた。

「ほんとに。思ってたよりずっと。ねえ、徹さん……」
眞菜があまり喜ぶので、自分の感覚に自信をなくした賢治は、徹さんに意見を求めた。
「……ああ、ほんとに、おいしい」徹さんも同意見だった。
「よく作ったな」

彼女はおもわず、わあ、と言って喜んだ。喜ぶあまり、身体を上下に揺らしたので、後ろにまとめた長い髪が、ギャロップする馬の尾のように跳ねた。

「びっくりした?」
「あ?……ああ、ホントにびっくりしたよ」賢治は参ったというふうに、後ろ手をついた。
「いったいどうやって作ったんだ?卵も使わずに……」

「豆腐、だよ」眞菜は、してやったり、というような笑みを浮かべて言った。
「卵の代わりにね、水を一晩切った豆腐を使ったの。……ただ、それだけだと、生地がしっとりしないから、クリームを少し生地に混ぜたり、多少の工夫をしてみたんだけどね」

賢治はそれで解った気がした。生地がそれでもまだ少し乾いた感じがしていたのは、卵に比べて脂分の少ない豆腐を使っていたからだったのだ。ただ、言われなければ、それと気がつかないほど、ケーキはよくできていた。

「豆腐を使って、ケーキが作れるんだな」
徹さんが感慨深げに腕を組んで、自分によそわれた皿の上の、先の欠けたケーキを見つめた。
「まったく、窮すれば、なんとやらだ」

「ほんとに、最初に考えた人は天才だね」眞菜が言った。
「陽子さんの話だと、他にも小麦を使わないケーキまであるそうだよ」

「それはすごいな」賢治が言った。
「そこまでしても、ケーキが食べたい人が、やっぱりいるってことだろうな」

「ケーキを食べたいって言うか……。みんなと同じことを、したいってだけなんじゃないかな」眞菜が言った。
「……思い通りにいかないものを抱えていても」
エプロンの先から伸びた膝の辺りを、心細そうにさすっていた。

「みんなと同じこと、ね……」
「そう。……勝手だよね。他人と同じ過ぎれば、違うものを求めるのに」彼女は口の端で笑った。「どうしても人と違うと、同じものを求めてしまう」

「……でも、だからこそ、こういう工夫が生まれるんだろうな」
ケーキを見つめていた徹さんが口を開いた。
「あたりまえって、なかなか手間がいるってことだ」

その時、卓の上に置かれた徹さんのケータイが、突然鳴った。病院からのようだった。
「……はい。木下です。……涼子か」
病院から電話をかけてきたのは、奥さんのようだった。

「……堀田さんの体調が……、血圧は?……ちょっと待って」
徹さんは、眞菜を見ながら手振りで、何かを書きつける動作をした。あわてて、眞菜が手近にあった新聞広告の真っ白な裏側と、ボールペンを差し出した。徹さんは、それを受け取ると、賢治には読めない字で、素早く内容を書き留めていった。

「そうか……、じゃあ、瀬谷先生に頼んで、もう200単位くらい多めに点滴してもらっててくれ。あとの処置はそれでいい。……今すぐ行くよ」徹さんの目が、一瞬眞菜を見た。彼女は身じろぎもせずまっすぐに、徹さんが電話をする様子を見つめていた。「眞菜のことは大丈夫だ。今、丁度、賢治が来てる。……ああ、うん、わかった。……じゃあ」

「入院の人の体調が悪くなったの」眞菜が不安げな様子で聞いた
「……ああ、ずっと入院してた、おばあちゃんなんだけど……、すぐに行かなきゃな」

徹さんはそういうと、躊躇いもせず、すっくと立ち上がり、隣の寝室に入った。ぎい、と音を立てて寝室の奥のクローゼットが開いた。ワイシャツの一つをそこから取り出し、パジャマとも普段着ともつかないスウェットのシャツを脱いで素早く袖を通した。枕元に脱ぎ捨ててあったズボンに足を入れると、通したままにしてあったベルトのバックルの金具が揺れて、かちゃかちゃと音をたてた。

「……悪いな眞菜、今、バイトの若い先生しかいないから、ちょっと不安なんだ」医者の顔になった徹さんが言った。「残りのケーキは後で食べる。……取っておいてくれ」
うん、と眞菜が頷いた。不安そうな顔は、まだ消えていなかった。

「……いってらっしゃい」
足早に玄関から出て行った徹さんの後姿に、眞菜は小さく声をかけた。


「忙しそうだね」賢治は、徹さんの車を玄関の中から見送っていた真菜に声をかけた。
彼女は何も言わなかった。

徹さんの車がすっかり見えなくなってしまった後、急に我に返ったように振り返ると、徹さんの食べかけのケーキの乗った皿を持って、台所の奥へ運んだ。皿に載ったままのフォークが揺れて、皿の上でかちかちと金属的な音を立てた。その小さな音が聞こえる度、彼の居る部屋の静けさが一層引き立つように賢治は感じた。

「……あっ、ウグイスが来てる!」台所に行っていた真菜が、突然大きな声を上げた。
賢治が駆け寄ると、流しの奥の大きな窓の向こうを、静かに指差していた。
見れば、窓の外のすっかり立ち枯れた様になっている低い藪の中に、一羽の淡い緑色の丸い印象の小鳥がちんまりと座っていた。

「最近、よく見るんだよね」うれしそうに真菜が言った。「もう、春が近いってことなのかな」

春は、真菜にとっては不幸な季節のはずだった。しかし、そんな彼女でも春はやはり待ち遠しいのだろうか。賢治は疑問に思ったが、今ウグイスが来て素直に喜んでいる彼女の気持ちを、また落ち込ますのも悪い気がして、黙っていた。

「……いま、私みたいな人間でも、春が待ちいどおしいのかって、思ったでしょ」
賢治を見透かしたような眼で見ながら眞菜が言った。
「わかる?」賢治は素直に認めた。

「わかるよ、あなたの考えそうなことくらい」
やれやれ、とうんざりしたような様子で窓の外を見つめた。そして一言、
「……桜が、見たいな」
と、つぶやくように言った。

「サクラ?」彼女の口から突然出た、ありふれた花の名前を彼は聞き直した。
「そう、桜。小学校の校門のわきに、大きな枝垂桜があったでしょう」眞菜は賢治の方を振り返った。

「私、あれがとても好きだったの。花が、空から落ちてきたみたいに大きく垂れ下がってきて……」過去を懐かしむような眼で、真菜は語った。「小学校を出て以来、あの桜も、もう見ていないから……。春に花を見に行くことも、できない身体になっちゃったし」
眞菜は流しに置かれた飲み残しのコーヒーを捨て、水を流してカップを洗い始めた。

「あのときは、賢治も一緒にいなかった?あの枝垂桜の下で、みんなでお弁当食べたとき」突然、真菜が言った。

「何の話?」賢治には、全く心当たりがなかった。
「あ、そうか、あの時クラスが違ったもんね」眞菜が言った。「楽しかったな、あれ。……私の一番の、春の思い出」賢治がその時、その場にいなかったと言うことが解ったためか、眞菜はそれ以上詳しくそのことを語らなかった。

「……そういう花見って、もう何年してない?」賢治は眞菜に尋ねた。
「中学に上がってからは、もう桜は真近に見てない」眞菜は言った。「あの辺から、春には体調が悪くなることが、多くなったから。それからはせいぜい体調の良い日に、車の窓越しに見る位しかできなくなった。マスクとかでね、厳重に武装して出かけるんだよ」

眞菜はスポンジで洗ったカップを水でよくすすいで、流しのわきにあった洗いかごに、静かに立て掛けた。そして、まだ少し洗剤の残った自身の手を、水道の水ですすいだ。

眞菜の手には、所々、うっすらと赤い斑の様なものが浮かんでいた。それは、洗剤中に含まれていた何かの化学物質に対して、ごく弱い反応が起きている証拠だった。同じ年頃の女の子よりもずっと荒れて、少しむくんでしまった眞菜の手。度重なる反応で、彼女の手の皮膚は年齢の割に硬く強ばっていた。普通の生活を送ろうとしている限り、彼女の手は真っ先にその影響を被った。

眞菜の病気は、文字どおり、彼女の身体が世界を「拒絶」する病気だった。行き過ぎた拒絶反応が彼女の意志に関係なく、身の回りのありふれたものを容赦なく否定していた。


しばらくして、徹さんと入れ違いに涼子さんが家に帰ってきた。
「留守番ありがとうね、賢治君」

紫の細身のメガネの奥の、涼子さんの瞳がにっこりと微笑んだ。
「おばあさんは、どうなったの?」眞菜がそう尋ねると、涼子さんは目だけ細めたまま、
「……亡くなったわ」

と言った。隣に立った眞菜がはっと口をつぐむのが賢治には解った。
「徹は、後の仕事があるから、少し遅くなるかも知れない。……残念なことだった」
「徹さんは、落ち込んでいませんでした?」賢治がそう尋ねると、涼子さんはまた元のような微笑みを浮かべて、
「彼は医者だから、こういうのは慣れているだろうけど……。でも、この狭い町で、何となくでも、お互いを知っている人を救えなかったというのは、やっぱり堪えるでしょうね」
と言った。

「知っている人だったの?」眞菜がそう尋ねると、涼子さんは、
「ええ……、まだ、眞菜が小さかった頃かな。……病院に来たついでに、息子が取った、って言って、良く大きな鮭を贈ってくれてたの。私達は、“鮭のおばあちゃん”、て呼んでた。田舎の病院にいると、どうしても患者さんとは、そう言う人間的なつきあいになってしまう。それは、大切なことでもあるんだけど、反面……」

涼子さんは、そこまで言って口をつぐんだ。眞菜もそれ以上、尋ねようとはしなかった。


「……そう言えば、眞菜、ケーキを作ったんだって?」
涼子さんは思い出したように、突然そう言った。
「さあ、お母さんに見せてよ、取ってある?」
「もちろん」眞菜は自信ありげに答えた。
台所の奥から、ラップにくるまれたケーキの一片を持ってきた。

「へえー、上出来じゃない」
ケーキを一口食べるなり、涼子さんが言った。
「……コーヒーも満足に淹れられない私の、娘とは思えないわ」

それを聞いて、眞菜は苦々しく笑うだけだった。
賢治はその様子を脇で見ながら笑いをこらえていた。


やがて、日も落ちてきたので、お邪魔しましたと涼子さんにお礼を言ってから、賢治は母と弟の分のケーキを預かって眞菜の家を出た。

用水路脇の舗装路には、もう所々、ふきのとうが芽を出していた。向こうから散歩してきた犬が、すれ違いざま、賢治の方をふと見上げて、親しげにしっぽを左右に振った。

眞菜に、桜を見せたい。

帰り道、賢治が考えていたのはそのことだった。洗い物を終えた後の、眞菜のくたびれた赤い手を見ながら、賢治は心の奥でそう思っていた。それは、一見して実現不可能なことのようにも思えた。彼女の病気は緩やかに進行するばかりで、回復の見込みはなかった。だが、その一方で、彼は全く諦めるほどのことでもないと考えていた。

「工夫」すれば何とかなるのではないか、と彼は思っていた。
卵を使わないケーキが、実際に可能だったのだから。

遠く視線の先に見えてきた彼の家の窓に、ぽっと明かりが灯るのが見えた。
それに突き動かされたように、彼の足取りは自然と早くなって、家へと急いだ。