家に帰っても、賢治の気持ちは、囚われたままだった。
眞菜とのことがいつまでもぐるぐると頭の中を廻っていた。
夢なんて、無いよ。
あのときの眞菜の一言が、気になって仕方がなかった。
本当に、あいつには夢なんて無いんだろうか。
賢治は思った。
いくら、しんどい病気だからといえ、生きていれば、誰だって、小さな夢の一つくらい描くものではないのだろうか。
もし、本当に、今の眞菜に夢がないのだとしたら……。
彼はそれを考えると、背筋がぞっとした。
夢の描けない生活というものの、背後に寄る辺のない、せっぱ詰まった心境を、一端だけでも、かいま見た気がしたからである。
眞菜に、夢を与えなくちゃ行けない。
彼は強くそう思った。今のままでは、いくら何でも、悲しすぎはしないか?今の眞菜は、いったい何のために生きているというのか。ただ、いつか年取って、死んでしまうのを、待っているだけじゃないか。
同じ高校生で。
賢治は思った。
同じ高校生で、それは、あまりにひどすぎる。生きると言うことの価値を、誰よりも知っている人間が、どうして、誰よりも死に近い場所にいなくてはいけないのか。どうして、夢から遠い場所に、居なくてはいけないのか。
眞菜は彼女の言うように、普通の世界の『カタワラ』にいて、どれだけ手を伸ばしても、それに対して何も出来ない存在なのかも知れなかった。それならば、世界の方から、彼女に手を差し伸べることは出来ないのだろうか。彼は思った。
それが、自分が傷つけた眞菜に出来る、最大の罪滅ぼしになると彼は思った。そして、彼の中には、おぼろげながら、すでに、そのあてもあった。
だが、彼と彼女の関係は、今、すっかり冷え切っている。
何を始めるにせよ、まず、これをどうにかしなくてはいけないと考えていた。
「……賢治、いつまで寝てるの」扉の向こうから、母親の声がした。
「……悩み事」賢治は答えた。
「また、眞菜ちゃんのこと?」
扉の向こう側で、母親が溜息を吐くのが聞こえた気がした。
「なんだかんだ言っても、仲良しなのね、あなたたち」
「そうかな」賢治は母の言葉に素直に同意できなかった。
「……お互いを無視できないって言うことは、仲良しって事なの」
母は言った。「離れていても、相手のことを考えてるって事も」
「……でも、心配しているのは俺だけかもしんないよ」賢治は言った。
「あいつはもう、あいつと俺が仲直りしても、意味がないって言ってた」
扉の向こうの母は急に静かになった。
しばらくの間、沈黙が続いた。
「……賢治、一つ質問なんだけど」ややあった後、母が言った。
「あなたはもし、片思いの相手が、別な誰かを好きになりかけていることを知ったとして、」
「その別の誰かと一緒になる方が、その人のためになるって解った場合に、……その人を、諦めたり、する?」
「……わかんないよ、そんなの」
賢治はぶっきらぼうに答えた。
「……眞菜ちゃんは、今、そう言う心境なんじゃないかな」母は言った。
「あなたは、あの子があなたを思う気持ちを、未だに信じられないの?……もう10年以上も、あの子はあなたのすぐ傍で、あなたを見つめていたのに」
「……でも、これからは違うだろ」賢治は言った。
「眞菜の言うように……、これからはおれとあいつの距離はもっと開いてしまうんだ」
「……距離って、そんなに大切なものなのかな」母が言った。
「……あなた、前に、どうしてお母さんとお父さんが一緒になったのかって、聞いたよね」
賢治は思い出していた。随分前に、そんなことを聞いた気がした。しかしその時、母は、何も答えなかったはずだ。
「……お父さんに告白された時ね、実はお母さんには、別に好きな人がいたの」
母は小さな声で言った。
「……片思いだったけどね、結構真剣だった。お父さんはもう船乗りだったし、滅多に帰ってこないことも解ってた。お母さんはすぐにでも、断ろうと思った」
「でね、断りに行こうと思って、お父さんの住所のあった宿舎に行ったら……」
お父さん、もういなかったの。くすくすと笑いながら母はそう言った。
「……次の航海に出た後でね、帰ってくるのは半年先だって言われた。お母さん正直、迷った。お父さんに答えを返さないまま、今好きな人に告白しちゃって良いものかって。通信手段も満足にない時代だったしね。……結局それが気になって、お母さん告白に踏み切れないまま、半年経っちゃったの」
「そうして半年後、お父さんの船が帰ってきたって聞いて、お母さん、港まで出迎えに行った。……気がついたら、他の船乗りの奥さんと、同じことしてたんだよね。お父さんがタラップから下りてきて、きょとんとした顔でお母さんの顔を見たから、すぐ伝えたの『おかえりなさい』って」
お父さん、うれしそうににっこり笑って、ただいま、って言ってくれた。母が言った。
「その時、お母さん思ったんだ。離れるのも、悪くないかなって。……いつも近くで見ていたら、決して気がつかないようなことが、離れてみると、よく見えたりするんだなって」
母は扉の向こうで、しばらく黙りこんだ。何かを思い出したようだった。
「……帰ってくる度に、お父さんも私も、少しずつ変わってる。結婚して最初の航海の後、帰ってきたら、お父さんは6ヶ月の男の子のお父さんになってた」
母が笑っているのが、賢治には分った。
「本当に大切な関係は、離れることで薄まったりするものじゃないんじゃないかな。むしろお互いのことが心配になって、傍にいる時よりずっと近くに、相手を感じたりするものなんじゃない?……お母さんはそう思ってるよ」
シチューが冷めるから、早く来なさい。
そう言って母は扉の向こうから去っていった。
賢治は母の話を聞いたあともしばらく、あおむけにベッドの上に寝転がったまま、ぼんやりと天井を見上げていた。
眞菜にいくらでも逢える季節と、そうでない季節と、彼女のことを真剣に考えていたのはどっちだったろう。
彼はそんなことを考えていた。
やがて賢治は、むっくりとベッドから起き上がると、母の作ったシチューの香りに誘われるように、茶の間に赴いた。
健介は先に卓について、貪るようにシチューを食べていた。
賢治も炬燵に入って、母のよそってくれた皿と向かい合った。
その時、賢介が手に握りしめていた古い船のおもちゃが、彼の目にとまった。どこかで、そのおもちゃを見たことがあるような気がしていた。だが、それがいつ、どこであったのか、彼は思い出せそうになかった。
それは、随分古い思い出か、あるいは些細な思い出であったようで、なかなか具体的な像となって彼の脳に浮かんでは来なかった。それ以上、そのことを考えても仕方ががないような気がした。彼は気を取り直し、皿によそわれたものを食べようと、添えられた大柄なスプーンを手に取った。
それはちょうど、ラジオで船舶情報が配信される、直前の出来事だった。
ズボンのポケットの中で、唐突に彼の携帯電話が、呻くように振動し始めた。
彼がポケットから取り出すと、携帯の表の小さな液晶画面には、『矢崎薫』の名が表示されていた。こんな時に、どうしたんだろう。何やら得体の知れない、不安なものを感じ、彼は何故か気が急くのを不思議に思いながら、二つ折りの携帯を開いて、その電話を受けた。
「……賢治!」
案の定、と言うべきか、耳元で聞こえた薫の声は、明らかに気が動転していた。
「早く来て!……眞菜ちゃんが、倒れてる!」
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