2009年2月14日土曜日

『カタワラ』: 12

「……ひっさしぶりい。薫」
薫が少し遅れて席に着くと、瀬希はカウンターに向かって、水、もう一つお願いします、と叫んだ。
背の高い男性が、彼女らの座るテーブルの傍までやって来て、薫の新しいコップを用意し、慣れた手つきでコップに水をつぎ足した。薫はアイスコーヒーを注文した。

「あつかったでしょう」
向かいに座った瀬希は、すっかりうなだれていた。
「家、エアコン壊れてて、いられないんだよね……。全く、もう9月だって言うのに、この残暑は、何?」
彼女は肩の大きく出た服を着て、下も短いパンツをはいていたが、小柄な彼女が着ると、まるで少年のようだった。とび色の瞳をぐりぐりと動かして久しぶりに会った薫を見つめていた。

「薫、本当に久しぶりだよね、……3年になってクラス代わってから、ほとんど会ってないでしょう?前は、飽きる位会ってたのに」屈託のない笑顔を浮かべて瀬希は言った。
「……ホントに」薫も笑った。
「でも、しばらく会ってなかったから、瀬希の顔見るとなんだかほっとするよ」
「へへ」瀬希はうれしそうだった。「……あたしって癒し系だから」
卓の上のオレンジジュースの氷が、からりと鳴った。

「……薫、もしかして、なんか疲れてない?」
瀬希は机に顎を載せたまま心配そうな顔で薫を見つめた。「……どうかしたのの?」

「……べつに」薫は言った。「……まあ、受験生だからね。お互い様じゃない?」そう言って笑いかけた。
「……だね」瀬希が言った。「私も毎日、もううんざりだ」
結露してすっかりびしょ濡れになったグラスを掴んで、瀬希はストローからオレンジジュースを飲んだ。

「勉強、してる?」瀬希が尋ねた。「結構しんどくない?モチベーション保つのって」
「……まあね」薫が答えた。
「誰か、一緒に勉強してくれるといいんだけど。誰も美術系なんて受けないだろうしな……。」
「実技試験があるんだっけ。それもまた、大変だよね」薫が言った。
「センター受けるのは一緒なんだけどね」瀬希が言った。「……受験生はみんな自分勝手になりがちだから、私のことなんか構ってくれない」めそめそと泣くような素振りを見せた。
「楽しいだろうにね、瀬希がいたら……」薫が慰めると彼女は、
「……そう言う、薫も一緒になかなか勉強してくれないくせに」恨めしそうに薫を見た。
「……ごめん」薫が言った。

瀬希はうなだれた様子の薫を、子供じみた大きな瞳をまん丸に広げて、珍しそうに見つめていた。
「……やっぱり、どうかしたの、薫。……元気ないよ」

薫は何も言わなかった。
これじゃあたしも、賢治と同じだな。心の内でそう思った。

「……まあ、いいや。乙女にひみつは憑き物だもんね」
瀬希は思い出したように、隣に置いたスヌーピーの鞄から、一冊のアルバムを取り出した。

「はい、これだよ。うちの中学のアルバム」
薫はそれを受け取ると、早速ページを開いた。
瀬希は立ち上がって、反対側からそれを眺めた。

幾分緊張した様子の生徒の写真が並んでいた。しかし、その数は決して多くはなかった。たった2クラスしかないんだ。薫は驚いていた。全部併せても、40人ちょっと……。

「少ないでしょう、うちの中学」瀬希が言った。
「今、もっと少ないんだ。一学年1クラスしかないんだよ……。ほおら、これ、あたし!」
瀬希が指さしたところには、制服を着た瀬希の姿があった。

「……今と、あんまりかわらないね」薫が苦笑した。
「ええ!そんなこと無いよ、随分純朴で、素朴な感じじゃない?」瀬希は怒って身体を起こした。
「……そうだね……、変わらず、“かわいい”って事だよ」薫は苦し紛れにそう言った。
「……言われ飽きたな“かわいい”は」瀬希が言った。
「一回でも良いから、“キレイ”って言われたい……」

薫は瀬希の言葉に構うことなく、生徒の顔の並んだページをめくった。
そして、その隅の名前に目がとまった。
「……これ、賢治?」
構ってもらえなかった瀬希は、一人でふてくされていたが、薫の驚いた様子に、首を伸ばしてアルバムをのぞき込んだ。
「そう。賢治も、この頃、かわいかったな……。今はもっとヒゲヒゲしてるけど」
薫は何も言わず、未だあどけなさの残る賢治の写真を見つめていた。

「そう言えば、薫と賢治って、同じクラスだよね」瀬希が言った。「どう?奴」
「……どうって?」薫が顔を上げた。
「惚れた?」いたずらっ子そのものの目で、瀬希が言った。
「……なわけ、無いじゃない」薫は表情も変えず否定した。「ただ、知ってる名前があったから……」
「ふーん」疑うような目で瀬希が言った。「……夜中に、急にアルバム見たいって電話してくる位だから、てっきり、賢治のことでも、詳しく知りたくなったのかと思ったよ」
そうして、彼女はくたびれたように頬杖を突いた。

薫は再び熱に浮かされたように、手元に広げられたアルバムをのぞき込み始めた。

瀬希はそれを退屈そうに見つめていた。そして、やがてそれにも飽きてしまったのか、一言、
「大人って、難しいね……」、
と呟いて、明るい日差しの照りつける、窓の外の何もない往来を、光の消えた琥珀のような瞳でぼんやりと見遣った。


アルバムを見つめる薫の耳には、もうその声すら、入ってはいないようだった。

……賢治と同じクラスの女子は、全部で、やっぱり11人いる。
彼女は思った。アルバムをぱらぱらとめくっていて、彼女は妙な事実に気がつきかけていた。

手渡されたアルバムの後半には、行事ごとに、クラスの集合写真が延々と続いていた。
しかし、その中には、どれも女子が一人だけ、常に足りなかったのだ。

「……あのさ、瀬希」
「ん?」ストローを咥えたまま、瀬希が返事した。
「一人、登校拒否だったの?」

「……?うちで?登校拒否?それは、無いよ。だって、和気あいあいだったもん」
「でもさ、賢治のクラスの女子、いつも一人少ないじゃない?」

窓の外に降り注いでいた強い太陽の光が、はぐれ雲に遮られたのか、一瞬翳った。
いつもは高校生らしくもない、子供のように無邪気な瀬希の表情に、年齢に相応の複雑な悲しみを伴った、影のようなものがしめやかに差したのを、その時、薫は確かに認めた。

「……マナマナ、だね」
「マナマナ?」
瀬希は薫の持っていたアルバムのページを始めの生徒の個人写真のページに戻した。そして、一人の少女を指さした。
「この子が、マナマナ」

彼女の指さした少女の写真は、他とは明らかに違っていた。
卒業を控えた時期の周りの写真に比べ、その表情は不自然なほど幼かった。

なにより、他の生徒の写真がみんな冬服だったのに、彼女だけは、何故か衣替え前の夏服を着ていたのだ。
「どうしてこの子だけ、半袖なの」薫は尋ねた。
「だって、マナマナ、倒れて入院してたから。ちょうど写真取る時、いなかったんだよね。……それ、たぶん、なんか別の時に撮ったやつを、使い回したんじゃないかな」

「この子……、身体弱かったの?」
薫が瀬希に尋ねると、瀬希はとりついた何かを振り払うように首を振った。
「まあね。……小学校に入る前に、東京から、ぜんそくの療養のために来たって聞いてる。都会の粉塵が、どうも身体に合わなかったらしくて……。この子のことに関しては、賢治が一番詳しいよ」
「……どうして?」薫はもう察しがついていた。しかし、確認せずにはいられなかった。
「……だって、仲良かったもん」瀬希が言った。
「……ホントの、幼なじみって、ああいう二人を言うんだろうね」

……やっぱり。
薫は思った。あの日、賢治と別れてから、薫はずっと彼の様子がおかしいことについて考えていた。彼女なんていない、と彼は言っていた。だが、そんなことがあるだろうか。薫にはどうしても、信じられなかった。

彼が彼女と出会う前、中学時代、あるいはもっと前に、誰か付き合っていたひとがいたのではないか。彼女はそう考えた。そしてもしかすると、彼はその人のことを、まだ心の中で強く思っているのかも知れない。彼女の直感は、彼女にそう告げていた。

賢治と小学校からずっと同じだった瀬希なら、きっと事情を知っているに違いない。
そう思うと居ても立っても居られず、昨日の、もう時間は深夜であったのだが、去年までクラスメイトであった瀬希に、咄嗟に電話を掛けてしまったのだった。


「……ありがとう。……これ、ちょっと借りるね」
薫はアルバムを閉じると、瀬希の返事を待つまでもなく、自分の鞄に入れた。
「……薫」瀬希が言った。
「何?」
「……マナマナのことなら……、そっとしておいて上げて」
瀬希は不安そうに言った。
「……なんだか、嫌な予感がする。眞菜は、今、きっと幸せなんだ。でも、その幸せも、賢治が遠くの大学に行っちゃえば、終わってしまうかも知れない……」

薫は、にこりと笑った。
「……解ってるよ、瀬希」
アルバムを入れた鞄を手にとって、椅子から静かに立ち上がった。

「……でも、それは私にとっても、同じ事なんだ」