2009年2月6日金曜日

『カタワラ』:3

柱の時計が6時の鐘を打った。

「賢介、ラジオ付けて」
母がそう言うのが早いか、賢介はテレビの下に置かれた小さな旧式ラジオのスイッチをひねった。ざらざらする雑音の中に、落ち着いた声の男性が淡々と話す声が聞こえてきた。
「……第三光栄丸、ルソン沖にて操業、異常なし。第五龍神丸 スマトラ沖、ワイヤー巻き取り機の故障により休業。……、」

それは遠洋漁業の船からもたらされた定期報告だった。週に数回、地元のラジオ局が船乗りの家族に向けて、報告の内容を放送していた。今ではメールも電話もあるが、それもいつも出来るわけではなかったから、こうした断片的な情報であっても、家族はそれに父の面影を見ていた。

「……ホノルルに寄港。第二新栄丸……」
「第二新栄丸!」賢介が興奮して大きな声をだした。賢治はしっ、と言ってそれを諫めた。
「……ルソン沖にて操業。異常なし」雲母のようにきらきらと光る目で賢介が母の方を振り向いた。母は穏やかな笑顔を浮かべてその表情を見つめていた。父は今日も、無事だった。言葉に出さないまでも、家族がその思いを静かに共有する瞬間だった。

「ルソン沖ってどこ?」賢介が賢治に聞いた。
「……さあ?ハワイの近くだっけ」
「フィリピン」母が言った。「黄色いバナナが一杯採れる笑顔のステキな国って、お父さん言ってた」
「ふいりぴん」賢介が言った。「いいなー。お父さんばっかり」
「お前、泳げないんだろ」賢治が冷やかした。「船乗りは無理だな」
「るせえ!」賢介が大きな声を出した。「お前だって、船酔いするくせに」
賢治は弱いところを突かれて、思わずかちんと来たが、子供相手に起こってもしょうがないと思い直し、こらえた。


母の作ったシチューは気がつけば、いつの間にか空になっていた。
満足げな笑みを浮かべて、母は子供らが食べ散らかした皿と鍋を集め、流しへ立った。
水を溜めた、プラスチックのたらいの中で、ごとごとと低い音を立てて、食器が洗われていた。水の流される音と、栓をひねるきゅっと言う高音とが、互い違いに聞こえてきた。賢治はそれを聞きながら、炬燵の中に足の先だけ入れて、目の前に広げた今朝の朝刊を読むでもなく、うとうとと、微睡んでいた。

「……賢治、コーヒー入れてよ」
洗い物を終えたらしく、母が台所から戻ってきた。

眠りかけていた賢治は、その声で我に返った。うとうととして、心なしか重くなった体をゆっくりと持ち上げ、立ち上がり、奥の小さな茶箪笥から、ひとそろいのペーパードリッパーを取り出してきた。

「……豆は、何がいい?」寝起きのくぐもった声で賢治が尋ねた。
「何でもいい。できれば、」母は少し恥ずかしそうに笑って、
「……お父さんも、飲んでいそうなやつ」
と言った。

「フィリピンの豆は、無いなあ」一著前のカフェのマスターのような顔をして賢治は言った。「もうちょっと南のインドネシアの豆なら、あるけれど」
「トアルコ・トラジャ」母は言った。「じゃ、それ」

賢治は茶箪笥の奥から豆の入った袋を一つ取り出してきた。彼の家の茶箪笥には、父親が遠洋航海で寄港した際に買い求めた様々な国のコーヒー豆が入っていた。英語でもない、知らないアルファベットのような文字が並んだ言葉で、どぎつい色の包装にくるまれてはいたが、どれも豆は至って良質だった。賢治が目的の袋をそっと開けると、ミディアム・ローストの酸のある、やや鼻の奥を突くような香りがつんとした。

賢治はその袋の中から適当量の豆を取り出すと、コーヒーミルの開いた鉢の上に、ばらばらと乗せた。

「……ねえ、母さん?」
小さなミルで豆を挽きながら、彼は新聞の折り込みを見ていた母に問いかけた。
母は広告から目を離し、彼の方を見た。

「何で、父さんと一緒になったの?」

息子の不意の質問に、母は何も答えなかった。
ただ、恥ずかしそうに微笑んだ。

答えを期待していた賢治は母の反応に、やや拍子抜けしてしまった。
そのうちに、そんな質問を急にしてしまった自分自身が、なんだか恥ずかしく思えてきて、それ以上質問する気も、無くなってしまった。彼は気まずそうに口を結んだまま、ミルだけを見つめて黙々と豆を挽いた。

じりじりと豆の潰される音が、静かな食後の居間に響いた。

つい先ほどまで、父親の買ってきたロンドンの客船の模型で遊んでいた賢介は、兄がしていたのと同じように、炬燵に半分足を突っ込んだまま、もう、寝息を立てて眠っていた。

賢治は荒く挽いた豆をドリッパーに載せ、静かに湯を注いで抽出した。ふわりと鼻先に漂ってきた香りに、その様子を静かに見守っていた母は、うっとりとした表情を浮かべた。

「……出来たよ」
小さなカップに注いだコーヒーを、母はまず鼻先に近づけて、その匂いを味わった。そして、一口啜った後、深く身体の奥から漏れ出たようなため息を一つ吐いた。

「上出来」母は言った。「これなら、すぐにお店が開けるかも」
「まだ、まだだよ」彼は言った。「おれ、ローストも自分で出来ないし」
「こういう事だけは、謙虚ね」母は笑っていた。「テスト前の勉強の時は、“絶対大丈夫”を連呼するくせに」
そう言うと、彼女は彼の淹れたコーヒーを、もう一口すすった。満足そうな笑みがこぼれた。

それは、まだ具体的な方策の伴わない、彼の小さな夢だった。
この海の見える田舎の町に、小さな喫茶店を開くという夢。父の買ってきてくれたコーヒーを彼の手で淹れ、はるばる遠くからやって来てくれた旅行客に振る舞いたいと考えていた。彼らの住む街には、幸い、北方へと延びる主要な国道もあったし、そこを行き交う人の休息所として、店は十分成り立つと彼は考えていた。


「ねえ、賢治」母が口を開いた。「眞菜ちゃんのことなんだけど……。」

賢治は眉根を寄せ、不愉快そうに溜息を吐いた。
「またその話?」賢治は言った。「他人の家の娘がそんなに心配?」

「他人って言っても、彼女はあなたの幼なじみでしょう?心配じゃないの?」
賢治はむっつりと黙ったまま、何も言わなかった。
「彼女のお母さん……、涼子さんにも、何かあったら連絡くださいって言われてるし……。彼女、私達に見えるよりずっと、体調悪いんじゃないかな」

賢治は母から目をそらしたまま、何も言わなかった。
眞菜の体調については、彼は母以上に心配していると思っていた。
「何より、これから彼女は満足に外にも出れなくなるでしょう。寂しいんじゃない?」
「……わかってるよ」賢治はぶっきらぼうにそう言うと、やおらに立ち上がって、器具を下げに流しに立った。
白磁のドリッパーは彼に洗われる度、がちゃり、がちゃりと盛大に音を立てた。母はそれを聞きながら不安げな表情を浮かべて、何やら考え込んでいた。

母はそこで、ふと、炬燵でぐっすりと眠ったままの賢介に目をやった。賢介は今日はもう、このまま眠ってしまうように思われた。彼女はゆっくりと腰を上げ、眠った彼をそっと起こすと、彼を連れて寝室に向かった。


先ほどまでのコーヒーの香りは、もう微かな残り香となって、そこに感じられるだけだった。