2009年2月14日土曜日

『カタワラ』:11

……それから、眞菜は彼の前に姿を見せなくなった。

メールしても、返事が返ってこなかった。
電話をしようとも考えたが、もしも受け取ってくれなかったらと思うと、怖くて出来なかった。

賢治は、かろうじて繋がっていた眞菜との一本の細い絆が、ぷっつりと、あまりにあっけなく途切れてしまったのを感じていた。もう何をしても、彼女には届かないという絶望感が、底冷えの夜のように、静かに、彼の体温を奪っていくような気がしていた。


そうして梅雨は明け、季節は夏になった。

「……ねえ、賢治」
薫は心配そうに彼を見つめていた。
邪魔になるからと最近短くした髪を、無意識に掻き上げ、片耳を見せた。

「……ん?」
「どうしたの?」
薫は何も言わず賢治のペンの先を指し示した。
キャップが付いたまま賢治はペンを動かしていた。

「……考え事?」薫は心底心配しているようだった。
「なんか賢治……。時々そうなるよね。大抵、月曜日に。……休日に何かあるの?」

「……なんでもないよ」賢治は笑顔を取り繕って見せたが、薫の表情は晴れなかった。
「なんか心配事があるんなら、私にも相談してよ。……賢治が勉強はかどらないと、私もはかどらないんだから」
「……ごめん」
賢治は素直に頭を下げた。
考えてみれば、彼女が言うように、彼の様子がおかしくなるのはいつも月曜日だった。
それは、眞菜から連絡があるのではないかと期待して、週末を迎え、そしてなんの音沙汰もないままに週末が開けてしまうからに他ならなかった。今週も、何もなかった。そう言う虚脱感を感じながら、ここ数ヶ月の彼の一週間は始まるのだった。

突然、薫は開いていた参考書をばたん、と閉じた。
「……もういい。……今日は、何処か気分転換に行かない?」
「気分転換?」
「そう。賢治がそんな調子じゃ、私まで憂鬱になっちゃうし」
薫は言った。「……責任、取ってもらわないと」

賢治は何とも答えなかった。
薫と学校以外で出歩いたことは今まで無かったし、眞菜との関係がこじれてしまった今、誰かと一緒にいるところを知り合いに見られでもしたら面倒になると思った。
「……それは、勘弁してくれないかな」
恐る恐る賢治は言った。
「……どうして?」薫は不思議そうに尋ねた。
「どうせ、勉強に集中できないんでしょう?」

賢治はそれ以上何も言わなかった。
薫は黙ったまま、賢治の様子をじっと見つめていた。
しかし、いつまで経っても、彼が、彼女の期待した答えを言わないと解ると、やがて、抑えた声で
「……もしかして、賢治、彼女いるの?」
と、彼女の感じていた疑問の本質を突いた。

「……いねえよ」
賢治があまり真面目な顔で否定したので、彼女は思わずぷっと吹き出しそうになって、
「……いるんだ」と、疑うような目でそう言った。
「ねえ、どんな子?この学校の子?」
身を乗り出して彼女は尋ねてきたが、賢治はもう何も言おうとしなかった。

「……つまんない」
言葉とは裏腹に、薫の表情は明るかった。
「……あからさまに口に出して言えないような関係なら、別に良いじゃない。たまには外、行こうよ」

薫は賢治の右の二の腕に手をかけ、立ち上がらせると、そのまま彼のロッカーの前まで連れて行った。
賢治は為す術もなく、薫に促されるままに帰り支度をし、結局、二人連れだって下校した。


高校のある丘を下って少し川沿いを進むと、一軒のクレープ屋があった。
クレープ屋と言っても本業は釣具屋で、その店の一角の釣り客用の食事スペースでクレープのテイクアウトも出来るというだけの店だったが、高校の近くと言うこともあり、学校帰りの生徒がよく立ち寄る店だった。

賢治はそこに着くと咄嗟に、数人見かけた同じ高校の制服を着た生徒を見渡したが、その中に、彼らのことを知っている者はいないようだった。

薫はそこでイチゴの味のクレープを買った。
賢治はクレープの味など、別にどうでも良かったが、とりあえず無難なプレーンを買った。そして、二人は、つかず離れずの微妙な距離を保ちながら、川縁の大きな橋を自転車を押して渡っていった。

まだ溶けきっていない生クリームが、口に含むとアイスシェイクのようにじゃりじゃりと下に触った。クレープ生地はさっきまで凍らせていたのか、冷えすぎていて、硬かった。

橋を渡りきると、二人は、橋のすぐ傍にあった海浜公園の、手入れのあまりされていない、古い木製のベンチに腰掛けた。公園は町の公民館が管理していて、その一角は陸上のトラックになっていた。夏になり、昼間が長くなったこともあって、下校時間はもうとっくに過ぎていたが、太陽はまだ高い位置にあった。

熱せられたトラックがその向こうに見える海を陽炎の中に浮かべていた。


「……でさ、賢治は結局、彼女はいないの?」
ベンチに両脚をぴんと伸ばした姿勢で座って、薫はまだ、その話題を気にしていた。

「……しつこいぞ。……もういい加減にしろよ」
賢治は不機嫌そうに言った。
「……良いじゃない。興味あるんだから」
薫は怒ったように言った。「そうやって聞かれている内が、華だよ」
「ちっとも、うれしくねえ」賢治は言った。
「……彼女なんて、いないんだよ。本当に」

「……まさか、今まで誰とも付き合ったこと無いの?」薫は驚いたように言った。
「……珍しいね、今時。小学生だって、好きな子くらい、いるじゃない?」

賢治は何も言わなかった。暑さでクレープの生地は少しずつ柔らかくなっていた。
開きすぎた花の花弁のように、その縁はだらしなく垂れ下がっていた。

「……また、そうやって、黙っちゃうんだから」
薫が口をとがらせた。「……ずるいよ、賢治は」
手に持ったイチゴ味のクレープの残った端を、大きく開けた口の中にわざとらしく放り込んだ。

「……賢治がその手なら、私にも手段がある」薫は独り言のように言った。
「……何だよ」気になった賢治が彼女の方を向きもせず尋ねた。
「教えない」薫は向こうを向いたまま不敵に笑っていた。「……絶対、はっきりさせてやるんだから」


海浜公園の向かいは徹さんと涼子さんの勤める病院だった。賢治は、彼らにばったり出くわすのではないかと気が気でなかった。

眞菜はどうしているだろうか。
徹さん夫妻のことをを考えていると、自然に考えは彼女の事に飛んだ。

あれから、全然連絡がない。

こんな事は、初めてだった。
一体、彼女ははどうしてしまったのだろう。

彼は先行きの見えない不安を感じていた。


それまで、眞菜の心の内は手に取るように解ると、彼は感じていた。

病気になってからの眞菜の心情には、たしかに彼のの想像を超える部分があった。しかし、彼女の性格の本質的な部分を彼はしっかり理解していると自信を持っていた。それは身体に染みついている、と言っても良いほど確かな感覚だった。自分が何を言えば、彼女は喜び、何を言えば、嫌がるかを彼はほとんど本能的に感じ取ることが出来た。

彼女はある意味で、彼の一部だった。
それは同時に、彼が彼女の一部でもあることを意味していた。彼が落ち込むような出来事なのであれば、当然のように、彼女も同じ理由で落ち込んでいるはずだった。

眞菜も、仲直りする機会を見失っているのかな。
彼はそう思った。

そろそろ、電話、したほうがいいかもな。
残ったクレープを口に入れながら、賢治はそんなことを考えていた。


その時である。
それはまさに不意をつかれた感覚だった。

彼の右腕を、何者かが、ひしと掴んだ。


見れば、薫の白く長い指が、賢治の二の腕をしっかりと捉えていた。
夏の暑さのせいで、彼女の手はしっとりと湿っていた。

突然のことに、賢治は驚いた。
薫は身じろぎもせず、賢治より少し低い位置から見上げるようにして、彼の表情をじっと伺っていた。彼女の顔は、驚くほど近い位置にあった。指に込められた力は、少しずつ強くなっているようだった。

「……なんだよ」
薫が彼を見つめたまま何も言い出さないので、賢治はしびれを切らした。

彼女の口元が、何かを話そうとしているかのように薄く開いた。
しかし、そこから言葉は漏れては来なかった。

ただ言葉を待つように、その口元は僅かに開いたまま、少しずつ彼に近づいてくるように思えた。

何を……。
賢治がそう言おうと口を開いた刹那、目の前は真っ暗になった。

脣と脣が触れあう感覚がした。
メンソールか何かの涼やかな感覚と、先ほど食べたクレープの乳脂に混じった微かなイチゴの香りが、呆然とする彼の口元を通り過ぎた。


二人の身体は、気がつけば、もう離れていた。
薫はすでに半歩離れた位置に立って、驚きに目を丸くしてベンチに転がった賢治を見下ろしていた。

「……遠くに行っちゃ、駄目だからね」薫は独り言のようにそう言った。「……傍にいてくれなきゃ、困るんだから」

薫は、公園の入り口に止めた自分の自転車にまたがると、賢治の方は振り向きもせず走り去り、そして、その姿はあっという間に見えなくなった。


後に残された賢治は、混乱した頭で、その背中を見送ることしかできなかった。