2009年2月11日水曜日

『カタワラ』;8

“賢治?今電話しても大丈夫?”

彼女からのメールは、たったそれだけだった。
賢治はアドレスから眞菜の番号を呼び出し、電話をかけた。

「……ぉう」
なんともつかない挨拶をして賢治の電話は眞菜と繋がった。
よく見知った相手に改めて電話するときの、この気まずさは何なんだろう。
そんなことを感じていた。

「……うん」
その感覚は、向こうも同じだったのか、何に対する返事なのかもわからない答えがワンテンポ遅れて帰ってきた。
「……今、どうしてる?」相手との間合いを測るかのように、遠慮がちに眞菜が尋ねた。
「……港で海見てる」賢治は端的にそう答えた。

「夕日、見える?」
「……見えないな。やっぱり、山に隠れちゃうから」
海で夕日が見えないことは、眞菜だってよく知っているはずだった。
あえて答えの分かっている質問でもとりあえず投げかけさせてしまう、今の彼女の孤独な気持ちが賢治にも切実に伝わってきた。

「また、一人なのか?」傷口に触るように、できるだけ優しい口調を心掛けて、賢治は尋ねた。
……うん、と、頷いたついでに漏れてきたという程度の、消え入るような返事が聞こえた。
「やっぱりこの時期になると、仕事をやれるだけ終わらせてから家に帰ろうとするからかな。どっちも帰りが遅くなりがちなんだ」
家の出入りがビニールのカーテンに区切られて不便になるということは、そういうことらしかった。余計な出入りをできるだけ減らそうとすれば、どうしても、忘れ仕事を残したくなくなってしまうのだろう。

「忙しいもんな」
できるだけ、彼女が隔離されているという話題には触れないように賢治は心掛けていた。それが事実であったとしても、わかりきったことをあえて何度も言うのは、単純に残酷なだけのような気がした。
「……ねえ、賢治?」
「うん?」
新しいクラス、楽しい?眞菜はそう訊ねた。
さびしい気持ちを殺して、明るい笑顔を心掛けるときの彼女の、誰かに遠慮するような微笑みが、賢治の脳裏に浮かぶようだった。
「……楽しくなんかないよ」
ひょうきんな調子を取り繕って、彼は答えた。
「今日なんか、めんどくさい同級生に、取りつかれちゃってさ」

賢治は、今日の薫と結ばされた『契約』の話を眞菜に話した。
眞菜はところどころ笑いながら、それを楽しそうに聞いていた。
彼の話を聞いているうちに、彼女の笑い声は、少しずつ元の調子を取り戻してきた様だった。
少し元気になってくれたかな、賢治は彼女に話しながらそう感じていた。

「それは、大変だったね!」
話が一通り終わると、眞菜が言った。
「……でも、みんなと協力して、何か一つのことを目指すって、なんだか憧れるな」
「そうかな」賢治は言った。
「努力って、最終的には自分を高めるもんだろ。他人の協力できることなんて、限られてるんじゃないか?」

彼はそう思っていた。薫の一緒に勉強しようという誘いに乗れなかったのも、そういう考えがあったからだった。
準備段階では誰と協力しても、結局受験するのは自分の身ひとつなのだ。誰かが代わりに受験してくれるわけでもなかった。ならば、始めから自分で、自分を強化した方が早いではないか。
他人との協調は、目標を目指すにはあまりにロスが多いように賢治は感じていた。

「でもね」と眞菜の声が聞こえた。
「たとえ相手のためになっていないかもしれないと思っても、何かしたいと思うものなんじゃない?」
……仲間って。付け加えるように、彼女は最後にそう言った。

「おれは、あいつを仲間とは、思えないけれどなあ」賢治はうんざりしたように言った。
「……取りつく島もないね」と眞菜が笑った。「努力してる薫さんが、かわいそうだよ」
「あいつだって、自分のこと考えているだけじゃないか?」賢治が言った。「そんなにお互いのこと考えている余裕はないよ。受験生って」
「……そうなのかもしれないね」急に、少ししょげ返ったように眞菜が言った。「……私が、のんきなのかな」

眞菜自身は大学を受験する気はない、と以前から言っていた。
たとえ合格しても、高校ですら通えない身体に大学生活は無理だろうということだった。
通信制の大学を受験することも考えたというが、結局その話もあまり乗り気ではなさそうだった。大学を出たところで、それが自分にとって何になるのか眞菜には見えないらしかった。

今日はまた、ずいぶん気持ちが沈んでるな。と賢治は思った。
冬や夏に、彼女の家に遊びに行った時の元気の良さからは想像できないほど、この時期の真菜は、ふさぎ込むことが多かった。物理的に一ヵ所に閉じ込められるということは、心まで封じ込めてしまうのかもしれないと賢治は思っていた。

「そんなに、自分を悲観するなよ」元気づけようとして、賢治は言った。「ケーキだって、作れたじゃないか」
ふふ、そうだったね。と電話の向こうで眞菜が笑った。あれ、陽子さん達も食べてくれた?
「うまいうまいって、誉めてたよ。……賢介なんて、母さんのを取り返して食べてた」
本当に?真菜の声に幾分、元気が出てきた。賢治は思わず笑顔になった。

「ケーキのクリームに、イチゴのつぶしたのをほんの少し入れたのは、眞菜の工夫だったんだって?気がつかなかったよ」賢治は、彼の母が気付いた点をそのまま言った。
「あれは、思いつきでやったんだよね」
眞菜が言った。「……陽子さんのレシピを見てしたがっているだけじゃ、飽き足らなくなって」
「……その意気があれば、なんとかなるさ」少し大げさに事を言っているのは自分でも解っていた。
「眞菜ならやれる。……なんだって」

……ありがとう。電話の向こうの声は言った。そんな浮ついた誉め言葉に喜ぶ彼女ではないことは、彼にはよく解っていた。それでも、そう言ってくれた彼の意図をくみ取って、その気持ちに対して、彼女はありがとうと言ってくれたに違いなかった。

「……じゃあね」彼女が言った。
「……じゃあな」二言三言、言い足りない言葉を心の内に残したまま、彼はそう言って電話を切った。

夕日に照らされた港の景色が、急に眼前によみがえってきたような気がした。
眞菜との電話に夢中になるあまり、今までずっと、港にいたことを忘れていた。
それほど、自分は電話に集中していたということだろうか。……だとすれば、なんて気を遣わせる電話だろう。
たかが電話一つに、それだけ必死になっていた自分が、賢治はなんだかおかしかった。
立ち止まっていた自転車のペダルに再び足をかけて、恥ずかしそうに彼は一人笑った。

しょうがないか。彼は思った。眞菜とおれとは、今、この電話で繋がっているだけだもんな。

彼は止めていた自転車のペダルを踏み込んで、再び前へと進み出した。


群青色の夜空が、背後から静かに広がってきた。