2009年9月28日月曜日

パルミラ (11)

「……ねえ?」
彼女が僕の方を見た。
僕は視線を彼女の瞳に戻した。

「……あなたのパルミラ、なんか様子が変じゃない?」
彼女はてくてくと僕の所まで歩いてくると、僕の足下にかがみ込んだ。
「……やっぱり変。私を見ても笑ってくれない……。夕べ、ちゃんと休ませてあげた?」
僕の足下の影の中で、彼女は青い瞳で僕を見上げて言った。
「あ……、一応、レストマットの上には載せて置いたけれど……」
僕はしどろもどろに答えた。
「どうしちゃったのかしら……」
彼女は、心配そう僕のパルミラを見つめていた。僕のパルミラの目の前で、何度か手を振ってみたりもしたが、パルミラはその手の動きを追う素振りすら見せなかった。

試しに、僕がその手を引いて歩いてみようとすると、パルミラはちゃんと僕の後に付いて歩く仕草をした。しかし、僕がいくらまじまじと見つめていても、彼女は僕の顔など眼中にないかのように、焦点の定まらない目で、虚空を見つめているだけだった。
「……長旅のせいかしら」
彼女は腕を腰に当てて、すっくと立ち上がった。
「……何処か壊れてしまったのかも。……今日はとにかく、この子を置きに、一度部屋に帰りましょう」
彼女は残念そうにそう言った。

いったん部屋に戻り、パルミラを部屋の隅に立たせたまま、僕はそれまで握っていた彼女の手を離した。すっと、彼女の身体から生気が抜けたように感じた。彼女は、僕が手を離す瞬間、また手を引かれると感じたのか、片足を一歩前に踏み出しかけていた。そのまま、彼女は動きを停止したので、何か不格好な、それだけに余計悲しげな姿勢で、彼女は動きを止めたのだった。僕はそれを見ていて、パルミラはやはり、ロボットなのだと思った。

「……置いてきた?」
ペンションのロビーに戻ると、彼女がにこにこしながら待っていた。彼女の傍らにもパルミラの姿はなかった。
「もう、おばあちゃんを追いかける旅は終わったから」
彼女は恥ずかしそうにそう言った。
「……ここからは、私のための旅行。パルミラちゃんには悪いけど、休んでいてもらうことにしたの」
「うん、その方がいいかもね」
僕がそう言うと
「……そうよね」
彼女は、意地悪く、歯を見せて笑った。


それから残りの3日間は、彼女と共に楽しく過ごした。
本来だったら、僕のパルミラと一緒に巡るはずだった世界遺産の遺跡や、美しい滝、教会などを、僕は、旅先で出会った青い目の少女と共に巡った。思い出深いそれらの場所で撮られた記念写真には、本来予定されていた僕のパルミラの姿は無く、その変わりに、晴れやかに微笑んだ褐色の彼女の姿が写ることになった。

「……きれいに撮れてる?」
中世に建てられた荘厳な教会のステンドグラスの前で彼女の姿を写した後、彼女は僕の傍に駆け寄ってきて、デジタルカメラの小さな画面を僕と一緒に覗き込んだ。
「お、上出来」
冗談めかしてそう言って彼女は僕の鼻先で笑った。

彼女は何かを思い出したように、腰に付けたポーチから自分のカメラを取り出すと、自分が過去に撮った写真を見直し始めた。そして、
「……面白いよね……」と小さな声で呟いた。
「あなたの写真には私が一杯写っているし、私の写真には、あなたがたくさん写ってる。写真を撮った時の私の表情はどこにも残らない。でも、あなたには本来解らないはずの、私がどんな風に、あなたを見ていたか、その眼差しはこれに焼き付いている」
彼女は小さな画面を見つめながら、恥ずかしそうに微笑んだ。
「……後で、写真送るね。アドレス教えて?私だけ持ってても、しょうがない写真、ばっかりだし」
僕らはそこで、お互いのアドレスを交換した。

ちゃんと記録されたことを確認した後、彼女は、何か大きな用事でも済んだかのようにほっと息をついて、
「今日が最終日なんて、信じられない。もっと旅行が続けばいいのに……」そう言って眉尻を下げて笑った。
僕もその時には、彼女と同じ気持ちだった。
もっと旅行が続けばいいのに。彼女との時間が、もっと過ごせたらいいのに。そんな気持ちで一杯だった。

2009年9月20日日曜日

パルミラ (10)

「……おかしい!面白い子ね、あなたのパルミラ」
彼女はそう言って、僕のパルミラの頭を、無造作に撫でた。

パルミラは微笑んだまま、されるがままになっていた。僕は、自分が撫でられているような不思議な恥ずかしさを感じた。
「……もう、中に入りましょ?あなた、まだチェックインも済ましていないみたいだし……。ここのディナー、この辺で捕れた魚介類が一杯使われて、結構豪華らしいよ。……じゃあ、また、あとで!」

彼女はそう言うと、半袖から伸びた細く長い腕を曲げて、僕に挨拶した。僕も同じ仕草で彼女に返した。彼女のパルミラが彼女の後に続いて、笑いながら建物の中に入っていく。その微笑みは、画一的に規格化された笑顔以外の、何物でもないはずなのに、何処かしら彼女の、片方だけはっきりした愛らしいえくぼのある笑顔の面影が感じられ、見なれたはずのパルミラ笑顔に、僕は少し、照れてしまった。



翌日、彼女が街を案内するというので、僕たちも一緒させてもらった。
街を案内する、と言っても、彼女自身、この街に来たのは初めてなのだ。ただ、彼女のお母さんなどから聞いて、僕よりも良く、この街について知っているだけに過ぎない。

「……この街を巡って、空気を吸っているだけでいいの」
彼女は言った。

街全体が見渡せる高台だった。其処は古い城跡のようで、もうしろそのものは残っていなかったが、かつて城の周りを囲っていた城壁がその高台を縁取るようにぐるりと張り巡らされていた。城壁の切れ目には一台だけ、何処の観光地に出もあるようなコイン投入式の望遠鏡が据えられていた。そのクリーム色のメッキは先端部だけはげ落ち、昼前の陽光を浴びて、地の鉛色が鈍く光っていた。

彼女の瞳は、その城壁に囲まれた高い空をじっと見つめていた。はぐれ雲が、僕らの頭上を一つ、二つと流れていく。彼女はその青い空を飲み込もうとでもするように、細い喉を伸ばして、真上の空を見つめていた。

「この街にいるだけで……」
上を向いた彼女の喉から、微かな声が漏れた。
「それだけで、私はおばあちゃんと繋がっていられる気がするから……」

僕は、彼女の言葉に、すごく詩的なものを感じた。

もう存在しない人と、繋がっていられるという感覚が、本当にあるのか、僕には解らなかった。あるいは、そう言った感覚は、本来人間が持っているはずの感覚なのかも知れなかった。でも、僕らはいつしか、そう言った実体のない、しかし感覚だけは伴ったあやふやな絆を、確かな存在感を持って感じることが出来なくなっているのかも知れない。ただ、そうした目に見えない、皮膚で感じられない絆を信じ続けることは、僕には難しそうなことだと感じた。

それはとても不安なことだ。そして、見えないと言うことは、何度となく疑わしく思ってしまうものだ。

「……いま、変なこと言うなって、思ったでしょ」
気がつくと、彼女はもう空を見るのを止め、僕の方を向いて笑っていた。

「いや……」
「いいの。私も、そう思うから。……どうしてなのかなあ。ここに来て、始めてそんな身近におばあちゃんを感じられた気がする。もう死んじゃった人なのに。何年かに一度送られてくる、手紙の中だけの人だったおばあちゃんが、確かにここで産まれて、息をして、毎日……、ご飯を食べて、お出かけして、そして、波の音を聞きながら静かな夕食を取って……。そうして、冷たいシーツに入って、やれやれ、なんて溜息付いて、眠りについたんだろうなって、そんなどうでもいい、ありきたりな日常を感じるの。……それを……、このパルミラは、ずっと見ていたんだろうね。私達が、本来共有すべきだったそうした時間を、変わりに受け止めてくれていた」

彼女はそう言うと、祖母のパルミラの頭をそっと撫でた。
細い髪の毛が、さらさらと微かな音を立てたのが聞こえたような気がした。

「……絆って、なんなんだろう」
パルミラの細い髪の毛を、うっとりと愛おしげな瞳で見つめながら、彼女はぽつりと言った。

「それは、それほど大事な物だとは、今まで思ってこなかった。どちらかと言えば、私をがんじがらめにする……、自由を奪う鎖のように考えていた。でも……」
彼女はそこで、言葉を切った。続く言葉をゆっくりと選んでいるようだった。

「どうしてなんだろう。私がこの街に来てしまったのも、また、絆の力なんだよね……。縁、とでも言うのか……。私は、何処かで、人と繋がっていることを、まだ求めていたのかな……」
彼女はパルミラの頭をやさしく撫でながら、独り、含み笑いをした。
そして、ふと顔を上げ、僕の方を見つめた。

「あなたと出会ったのも、また、縁なのかもね。……おばあちゃんとの繋がりが、私とあなたを偶然引き合わせた。……あ、その前に、この子と私も」
彼女はそう言うと、自分のパルミラの頭を、ぽんぽん、と軽く叩いた。パルミラは、微笑みながら僕の方を見つめている。

「死んだ人は、ある意味、まだ死んでいないのかも。そう考えると不思議だね。その人はいなくなっても、その人の影響は、まだ残るんだ。……絆は、もしかすると、その人そのものとの繋がりでは、無いのかもね。だとすれば……。私が、おばあちゃんをここで感じられるのも、解る気がするな」
彼女はもう一度、青い空を見上げた。先ほどまで頭上にあった雲は、もう、視野の彼方にまで行ってしまっていた。

「私は、私の中のおばあちゃんと繋がっていたんだ。手紙の中のおばあちゃんの頃から、ずっと。そして、この街に来て、その繋がりが、もっと、確実な物になった気がして……。存在を信じられる物になった気がしている。わたしのこの目も、この肌の色も、おばあちゃんから受け継いだものなのだろうけど……、私の中のおばあちゃんは、いまいちはっきりした輪郭を持っていなかったから……」

彼女はそう言って、口をつぐんだ。
我を忘れたように、何もない空をじっと見つめていた。

僕はそんな彼女に、思わず見とれてしまっていた。
彼女の褐色の肌が、青い背景の中に、まるで一枚の絵のように融け込んで見えた。気がつけば、僕は彼女のかたちの良い脣だけを見つめていた。


「……ねえ?」
彼女が僕の方を見た。

2009年9月6日日曜日

パルミラ (9)

僕は向かいの席に座ったパルミラの瞳を、そっと覗きこんでみた。
海からの照り返しがまぶしいためか、パルミラは僕の視線には気付かず、ずっと海を見たままだ。深い黒真珠のような漆黒の瞳に、僕らの見詰めた海がさかさまに映しだされていた。
そのかすかに開いた、幼い口元からは、今しも、何か感嘆の声がこぼれてきそうで、あるいは、こぼれて来ているかのようで、僕はもう一度、彼女が見つめる海を見ながら、こそばゆくこみあげてくる、幸せというものにおそらくとてもよく似た感覚に、ほおを緩めていた。

海辺の小さなペンションに着くと、まだ昼下がりと言ったほどの時間ではあったが、すでに先客が来ていた。見れば、今日の飛行機で、僕のそばに席を取っていた、彼女だった。
「こんにちは!」
麦藁帽子の下で、彼女の青い瞳が驚いたように見開かれていた。
「あなた方も、こちらにいらしたの?」
「ええ!」
僕も、思わず、声が高くなった。
「あなたと、同じ国に旅行して、まさか同じ宿になるなんて!世界って、広いようで、意外と狭いんですね」
彼女はそれを聞くと、楽しそうに目を細めてふふ、と笑った。
「そうね……。あ、この子があなたのパルミラちゃん?何か、名前は付けてる?」
「いえ……。やっぱり、パルミラには、パルミラって名前が、一番似合っている気がして、そのままです。」
「そうよね」
彼女は、そういうと僕のパルミラの前に屈みこんで、その瞳をじっと見つめていた。僕のパルミラは、彼女の視線を受けて、首をかしげて、にこりと笑った。
「愛嬌のいい子ね!」
彼女も思わず笑った。
「他の人のより、ちょっと反応がいい気がするわ。きっと、あなたがちゃんとお世話(メンテナンス)してるのね」
「お世話(メンテナンス)なんて、本当に最低限のことしか」
僕はほめられて恥ずかしくなって、頭をかいた。
「あなたみたいに、ちゃんとパルミラ用の席を用意したり、しませんでしたし」
「私も、普通の旅行なら、パルミラには悪いけど椅子の前に座ってもらうわ」
彼女も恥ずかしそうに歯を見せて笑った。白いきれいな歯が並んでいた。
「……でも、今回の旅行は私にとって特別なの……。私の、オリジンをめぐるたび、だから」
「オリジン?」
僕は聞きなれない言葉に、戸惑い、聞き返した。
彼女は細い眉の下の青い瞳を僕に向けて、無言でまっすぐに頷いた。
「……私のおばあちゃん、そして、お母さんは、この国で生まれたの。で、日本のお父さんとの間に私が生まれて、お母さんは、この国を出た。……おばあちゃんだけ、残してね。で、そのおばあちゃんも、去年亡くなって……。そしたらね、その数日後に、大きな包が届いたの」
彼女はその時の驚きを表すかのように、手を身体の前に大きく広げて、丸く目を見開いた。
「開けてみたら、何ができたと思う……?」
彼女は、そういうと、彼女のうしろに隠れるように立っていたパルミラを、僕の前に引き出した。

「この子よ!」
僕はその時、彼女のパルミラを、初めて間近に見た。それは僕のと変わらない、ごく普通のパルミラだった。でも、どことなくその面影は、隣で微笑む青い瞳の彼女のそれに近いものがあった。
「……君に似ているね、何となく」
僕は感じたままを素直に言った。
「でしょ?」
彼女は目を糸のように細く引いて微笑んだ。笑うと、右側だけえくぼが出来た。
「……おばあちゃん、ずっと、機械の女の子なんて、気持ち悪くて嫌だって言ってたの。だから、きっと一人で暮らしてたんだと思ってた……。でも、私も、お母さん達も知らないところで、実はこの子と出会って、一緒に暮らしていたみたいなんだ。だから、私、これ見たとき思ったの。きっとおばあちゃん、私にずっと会いたかったんだろうなって……。」
彼女はそういうと、長い下まつげに彩られた目の端を、日に焼けた細い褐色の指先でそっとぬぐった。

「……お母さんが出ていく時、好きにしたらいいって言って、結局ここを離れたこと、一度もなかったのよね。それでも、気持ちは、私をいつも気にしていてくれた。そばにいたかった……。だから、その代わりとして、きっとこの子を愛していたんだろうなって思った。……人間って、完全に孤独では生きていけないじゃない?愛されなくてもいいけれど、愛する対象だけは、いつも必要だと思うから。……この子達のような」
彼女は、自分によく似たパルミラの瞳を、じっとのぞきこんだ。彼女のパルミラも、彼女の方を見て、にこやかにほほ笑んだ。
「この子は私より、おばあちゃんをずっと知ってる。本当は私に伝えたかったはずおばあちゃんの優しさだって、一杯見てきている。そして、なにより、おばあちゃんの、誰にも言えなかった寂しさも知ってる……。だから、私、この夏休みの間に、この子とこの街を旅行しようって決めたの。……だって、ここは、“彼女”の街だもの。彼女がいない旅行なんて考えられないわ」
そういうと、少女は、また目を細めて笑った。
少女のパルミラは、そんな彼女の表情を、下から見上げるように、じっと見つめていた。


その時、唐突に僕のパルミラが、僕の手をぐい、と引っ張った気がした。
僕は驚いて、自分のパルミラを見つめた。

僕のパルミラは、僕の視線を感じて、いつものように微笑んでいた。
別段、僕の手を引っ張ったような形跡もなかった。
「……どうしたの?」
青い目の少女が、僕の顔を不思議そうに覗き込んでいた。
彼女のパルミラも、僕の顔を覗き込んでいる。
「……いや、なんか」
僕は、四つの目に見つめられて、なんだか少し照れくさくなって、下を向いた。
「僕のパルミラが、さっき、僕の手を引っ張ったような気がしたから」
「パルミラが?」
彼女はそう言うと、かがみ込んで、僕のパルミラの目の高さに自分の顔を持って行った。彼女は大きく目を開けて、僕のパルミラの漆黒の瞳の中を覗き込んでいる。僕のパルミラは、その視線を受けて、彼女の方を振り向き、そして、いつもの愛らしい笑顔で、彼女の強い視線に答えた。

……ふふっ。
おかしそうに彼女が笑った。
「パルミラが手を引っ張るなんて、聞いたこと無いけど……。でも、ホントだったらおかしいわね。この子、もしかしたら、焼き餅焼いちゃったのかな」
彼女は立ち上がり、口元に軽く手を当てて微笑みながら僕のパルミラを見下ろしていた。
「……あるいは、しびれを切らしたのかも」
「ママ達が買い物の帰りに、立ち話するような物かな?」
彼女はそう言うと、破顔一笑、声を上げて笑った。

「……おかしい!面白い子ね、あなたのパルミラ」

2009年8月13日木曜日

パルミラ (8)

僕は去年、パルミラを連れてヨーロッパの小さな町を旅行した。パルミラの機内持ち込みはもうすでに許可されていると言ったが、航空機の座席がそのために広くなったというわけではない。エコノミークラスに座ると、ただでさえ狭い座席にもう一人、子供が乗ったような形になるわけだから、正直、窮屈で仕方がない。だが、だからと言ってパルミラと離れて乗ることは考えられなかった。この旅行は、彼女と一緒に来ることに意味があったのだから。


長い飛行機での移動の間、彼女は、ずっと僕の座席の前に座っていた。
自律的に座れないので、僕が手を取って、彼女をそっと座らせてあげた。彼女は僕に座らされている間、僕の方をまっすぐに見て、そして、いつもの美しい笑顔を僕に向けて微笑んでいた。

隣を見れば、隣の席の人も自分のパルミラを機内に連れて来ていた。
彼女は、まだゆとりのある旅行らしく、パルミラのために席を一つ余計に取っていた。

僕は、自分のパルミラに、なんだか悪いことをしているような気持ちになり、申し訳なくなって思わず彼女の顔を覗き込んだ。彼女は僕の視線を感じて、座席の下に座り込んだまま、僕の方を見詰め、いつものように微笑んでいた。


……ごめんね。

僕が小さな声でささやくと、彼女は微笑んだまま、かすかに首をかしげた。


飛行機から降りると、空港は旅行客でいっぱいだった。そして、彼らや彼女らに手を引かれた、それと同じくらい、たくさんのパルミラがそこにはいた。

あまりにすごい人ごみだったので、少し太った巻き毛の知らないおばさんが、手荷物ロビー中に響かんばかりの大きな声で、パルミラの名を呼んでいた。

おそらく、彼女のパルミラは、ここで迷子になってしまったのだろう。
パルミラは手を離すと、いつまでもそこにとどまり続けるので、彼女のパルミラは、ひょっとすると、他の誰かに間違われて、すでに何処かへ連れて行かれてしまっていたのかもしれない。

人間の子供でもそうだが、こういう人込みでは、そういうことがよくある。
誰かのパルミラと自分のものとを間違えて、ずっと後になって、ひょっとシリアルナンバーを覗き込んだ時に、偶然気が付いたという話が、僕の知り合いの中でもたびたびあった。

だから、パルミラに所持者の認証機能を付けるべきという話も、もちろん出ていた。だが、そういうものが販売されたことは、結局のところ、無かった。パルミラは、誰でも受け入れてくれる事に意味があるのだ。その安心感が、パルミラを、僕らにとってかけがえのないものにしている。

万が一、何かの不具合で自分のパルミラがうまく自分を認識してくれなくなったら、それはどれだけ悲しいことだろう。そういうことを防ぐために、パルミラには、そうした複雑な個人認証の機能は全く搭載されていないのだと言う話が、付帯者の間にはまことしやかにささやかれている。

もちろん、実際の所は誰も知らない。だが、たとえこの話が、単なる噂や想像の域を超えなかったにしても、これだけ容易に付帯者の間に広まった事から考えて、例え全てではなくとも、パルミラを持つ人々みんなの意見を代弁している部分があるのだろう。

幸い、パルミラは代理店に連絡して暗証番号さえ入力すれば、すぐに現在位置を割り出せるように、位置を知らせる装置が内蔵されている。だが、それで位置がわかったとしても、誰かに間違って連れていかれていた場合、その交換にはどうしても数日がかかってしまうし、その間、その人はパルミラ無しでやり過ごす事になってしまう。

いつもそばにいた存在がいなくなった数日間というのは、どれだけ悲しいものだろう。

巻き毛のおばさんはまだ、彼女のパルミラの名を、大きな、悲しげな声で叫び続けている。僕はそれを見ながら、己のパルミラの、小さく丸い儚い手を、引き寄せるように強く握った。


空港を出ると、僕らは列車に乗って目的地のヨーロッパの古都へと向かった。

どこか古いにおいのする列車の開け広げられた大きな窓からは、石畳の街に特有の爽やかで、どこまでも乾いた風が吹きこんできて、街路に曝された僕らの頬をやさしく撫でて行った。

彼女の細い髪が、その風になびいて、はたはたと揺れた。
彼女と僕は小さないす席に座って、広い窓から見える、見慣れぬ淡いブルー・グレイの海を二人、目を丸くして眺めた。

2009年8月5日水曜日

パルミラ (7)

パルミラを失い、新しいパルミラに違和感を覚えているからと言って、その小さな丸い手から、自分の手を、簡単に切り離すことはそう言った理由で簡単にはできない。しかし、今まで通り、それを見つめていても、それまで感じていたような満足感を得ることはできず、不安を伴った神経症の症状があらわれてしまうらしい。症状がひどい場合は、精神安定剤などの投薬が必要になる場合もあると僕は聞いていた。

パルミラを失った友人もその後、お医者さんから、ごく弱い精神安定剤と睡眠薬をお守り代わりに処方してもらって、最近では、症状はだいぶ良くなったようだ。週一回のカウンセリングの効果もあってか、彼の新しいパルミラにも、今まで通りの愛着がわき始めたようで、むしろ今まで気にしていた、目が大き過ぎるという特徴を、彼女のチャームポイントとして、自慢することさえみられるようになった。

だが、彼のように、すべての人が、その病気から簡単に立ち直るというわけではない。
特に中高生の場合、パルミラを失った、あるいは、それを与えられないがゆえのさびしさに対する反動として、非行に走ってしまうというケースが、時折ニュースの特集などで報じられている。

パルミラが、少年の非行の防止に、著しい効果があるという調査結果は、多くの大学の調査で肯定されていた。もちろん中には、与えられたパルミラに“いたずら“をして壊してしまうケースもあったが、そういった行為も、パルミラに対して芽生え始めた感情に対する、正しい反応ができないだけではないかという考察が、学者の間ではなされていた。

パルミラと少年を密室で、たった二人で置いた場合、それを破壊するケースはごくわずかだった。
一部の少年院では、この調査結果を受けて、パルミラを少年の房に各自一体ずつ持たせ、その管理をさせるという任務を与えているという。正直、パルミラに管理らしい管理はいらないのだが、それでも外を連れ回せば、服は汚れるし、体も汚れる。それをいつもきれいに整えて、置くという任務が、試験的に、一部の少年に対して行われている。

パルミラをきちんと管理できず、しばしばむごたらしく破壊してしまう習癖を持つ少年いるという。
そうした少年の多くは、他人とのコミュニケーション能力に著しい欠陥があるが、あるいは共感する力に欠けている場合が多かった。親の愛情にかけている場合が多いという調査結果もあった。

つまりは、そもそも、人間と関係を上手に結べない人間は、自分のパルミラとの関係も、うまく築けないということだ。たが、人間との関係を築くより、パルミラに愛情を注ぐことの方が、まだずっとやさしい。パルミラは、そういう現場では、人間と人間という気むずかしい関係に至る前の前段階のステップとして、トレーニングに用いられているらしい。




†4
パルミラがいかに、今の僕らの社会に必要とされていて、そしてこれからも、その役割は大きくなっていくかと言うことが、解っていただけただろうか。

僕はパルミラを愛しているし、まだパルミラを知らない他の人々にも、パルミラの良さを一度知ってもらいたいと思っている。ただし、僕はもう、パルミラを持つことは出来ないのだ……。

例え僕がいかにパルミラを持ちたいと言ったところで、それは周りの人間がもはや許してくれないだろうし、例え持ったとしても、また僕は自己嫌悪に陥るような行為を繰り返してしまうことだろう。だから……。僕はもうパルミラを自身から遠ざけるようにしている。僕は、彼女を愛するのに、値しない人間なのだ。その愛らしさを遠くから眺めて、目を細めている以上の幸福を、僕は味わうことを許されてはいないのである。その手に触れることも、丸い、暖かい健康的な頬に触れることも……、僕はそうした権利の一切をもはや失ってしまった人間なのだ。

人間?僕は人間なのだろうか?愛すべきものを、愛する権利も持たないイキモノが、果たして、人間を名乗ってもいいのだろうか?

まあ、いい。それは僕以外には、あまり関係のないことだ。ともかくも、僕がそうなってしまうに至った理由を、もうそろそろ、お話ししてもいい頃かと思う。

2009年8月2日日曜日

パルミラ (6)

僕は彼のパルミラがいつの間にか変えられていたことにすら気がつかなかったくらいだから、彼の感じていた違和感を理解していたとは言えないかも知れない。

彼のパルミラは昔から目が大きく、まつげが長かった気がしていたし、その特徴は、この新しいパルミラでも共通しているように感じていた。

だが、思えばそれもまた、僕の先入観に過ぎなかったのかも知れなかった。
彼の持つパルミラは目が大きいと、僕が偏った目で彼のパルミラをずっと見続けていたに過ぎなかったのかもしれなかった。

彼の両親は新しいものが好きで、その結果として彼は幼い頃から、パルミラが当然のように存在する家庭で育っていた。そのため、パルミラの個体間の違いを敏感に感じ取れる素養を、彼は人より強く持っているのかもしれない。

だが、鋭敏過ぎる感覚を持つことは、果して幸運なことなのだろうか。
僕は彼を見ながら、そう思っていた。

彼の話を聞いて、僕の表情が無意識に曇ったのを察したのだろうか。
彼は急に、開き直ったように顔を上げ、
「……そんな数字にもならない違いをいちいち気にしているだけで、この笑顔に、素直に喜べなくなるのは、どうしてなんだろうな」
と、かすかに語尾に震えを伴った声で自嘲し、僕の方を向いて明るく笑った。


彼とはその日、授業が重ならなかったので、そこで別れた。

人気の少ない、学校の西の外れの法学棟へ向かう彼の痩せた背中は、彼の腰ほどもないパルミラの体に寄り添うように屈められることもなく、ただ二本の、長さの違う二つの平行の影となって、太陽の高く上った真夏のキャンパスを、陽炎の内に融けるように消えていった。



†3
パルミラ喪失症候群、という一連の神経症の存在が日本の心理学の学会に提唱されたのは、一昨年のことだ。

何らかの理由で、パルミラを失った人々が、急に精神不安定になり、不眠や頭痛、挙動不審などの変化が現れることがあるという。

新聞によれば、最悪の場合、うつ病を併発し自殺する可能性もあると、発表した関西の大学の研究グループは指摘していたそうだ。

自分のパルミラを失った場合だけではなく、失って新しいパルミラを得た人の中にも、元のパルミラとの違いを強く感じて、新しいパルミラに元のような愛情を注げなくなるなどの症状が現れることがあるのだという。

そうした場合、もうパルミラを持つのをやめてしまえばいいと言う人もいるが、それは一度パルミラをもった人間からすると全く考慮できない選択肢だ。

子供を事故などで不意に失った親が、また子供を作ろうとする話はよくある。

その場合、生まれてきた子供が元の子供の代わりになりうるわけではない。代わりを強要されたところで、その子供はいずれ自分の人生を否定されたような感情を抱くだろう。なにより、そんなことは親の身勝手に過ぎないと僕は思う。

だが、おそらく大抵の親は、そんなことは間違いなく理解しているのだろう。分かってはいるが、失ったものは埋め会わせなくてはいけないのだ。子供ができれば、それまでの夫婦の関係は、母親と父親の関係に変わってしまう。子供が不意にいなくなったとしても、その関係が元の子供のいない夫婦の関係に、簡単に遡れるものなのだろうか。

一度パルミラと手をつないだ人間が、再びパルミラから手を離すことは、同じ理由でなかなか難しい。家族を捨てるのにも等しい、苦しい選択を、選びとれる人など、どこにいるのだろう。

少なくとも、僕には想像することすることすら、難しい。

2009年7月27日月曜日

パルミラ (5)

彼女は、僕らがどんな人間でも、笑ってくれる。手を引けば、どこへでも付いてきてくれる。疑うことを知らず、肯定することだけを知っている。そこには、人それぞれに違う決まり事など、もはや存在しない。規格化された、極めて安定な、動作のパターンが僕らをいつも勇気づけるように仕向けてくれる。予想外の相手の反応に、僕らはもう、惑わされることはない。

だが、逆に、僕らから突然、このパルミラが失われてしまったら、どうなるのだろう。
想像したくもない、その恐ろしさを、僕に教えてくれたのも、また、代理店で働いていた友人の彼だった。

ある日、彼がいつものように、大学の北側の入り口から、彼のパルミラの手を引いて現れた。
彼のパルミラは、今日もくりくりと大きな瞳を僕らに向けて、微笑んでいた。
その表情が、今日はなんだか一段と愛らしく感じたので、僕は彼に、
「君のパルミラの瞳は、いつ見てもくりくりしていて、かわいいね」
と言ってあげた。

彼は、僕にそう言われると、まるで親が子をほめられた時のように大喜びして、控えめな自慢話でも始めるのではないかと僕は思った。

「……やっぱり、そうかな」
彼は、笑ってくれた。だが、彼の反応は思いのほか小さかった。
喜んでいるというより、失笑しているという表現が似合うような表情で、彼は力なく笑っていた。

「うん、いや、ほんと。個体差はほとんどないっていうけどさ、やっぱり信じられないよね。自分のパルミラの顔って、少し離れたところからでも、なんとなくわかるしさ」
僕がそういっても、彼は相変わらず皮肉に口をゆがめて、笑っているだけだった。

彼の様子がおかしいことに、僕はその時に至って、ようやく気がつき始めていた。

「……でも、実際に計ると、差はないんだよ」
彼は僕に目を合わそうとしないまま、うつむき加減に、そう言って笑った。
「子供の顔が親父に似ているとか、おふくろに似ているとかいうのと、同じ議論なんだろうな。数値化できないけれど、確かにそう見えるような、あいまいな共通認識だ」

僕には彼が、何故かさみしそうに見えた。
パルミラは彼の方を見て笑っている。でも、彼は彼女と手をつないではいるものの、その瞳を一度たりとも、覗き込もうとはしない。
「……どうか、したのかい?」
僕は気になって彼に尋ねてみた。
彼は僕の言葉など聞こえなかったかのように黙って、うつむいたままだった。
頬がかすかに、上下に振れているようだった。表情はうかがえなかった。だが、彼はその時、どうやら笑っていたようだった、

「……実は、俺の小さい頃から一緒にいたパルミラが、先日壊れちゃってね」
彼の口から、へっと、何かを嘲るような声が漏れた。
「……店に持って行ったら、もう、修復不能だって言われたんだ。それで、保障に入ってたから、新しいものと変えてもらったんだけど……」
彼はそこでようやく、手をつないだ自分のパルミラを見た。
彼のパルミラは、急に向けられた彼の視線に反応して、彼の方を見つめ、愛くるしい、大きな円い瞳で、にこりと笑った。
「……違うんだよね」
冷たい響きを伴った声が彼の口から洩れた。
「違うんだよね。俺の、ずっと一緒だったパルミラとは、どこか。眼が、ちょっと大き過ぎるような気がして、実際計ったりもしたんだけど、数字的には変わらなかった。店に頼んで、俺の記憶に合うような感じに、少し顔を整形してもらったんだけど……」
彼は、自分のパルミラを見詰めたままだった。彼のパルミラも彼を見つめていた。彼のパルミラは、子が親を見つめるような眼差しで、かすかに首をかしげ愛くるしく微笑み続けていた。だが、それを受け止める彼の表情は、もはや、ただ愛着のない、見知らぬ物を見る眼差しでしかなかった。
「……今度は、目があんまり小さくなったような気がして。なかなか、俺の中のイメージとは、一致しなかったんだ。挙句の果てに、店長があきれて、『シリアルナンバーが違うから、違う顔しているような気がするだけじゃないか』なんて言い出してさ。おれも、実際計って数字が同じだったわけだから、それ以上、反論できなかったんだ。実際、パルミラの部品の製造は、すごく厳密らしいからな。でも……」
彼はそこで、自分のパルミラの顔をもう一度見つめた。美しい笑みが、彼をやさしく見つめ返している。

「やっぱり、違うんだよな、確かに。先入観と言われたら、それまでなんだけど」

2009年7月24日金曜日

パルミラ (4)

二人で、公園の小さな散歩道を歩いていた時のことだ。
先日降った雨のせいで、道の真ん中に、大きな水たまりができていた。

僕は、そういうとき、男の子が先に渡って、女の子の手を引くものだと思っていた。それは、誰かに教わった知識というよりも、いろんな映画や、本なんかで、みんな当然のようにそうしているから、僕もこういうときは、そうしなくてはいけないのだと思っていたのだ。

だから、僕は当然のように、そのぬかるみを飛び越え、彼女に向かって大きく手をのばして、彼女の手が僕の手に触れるのを待った。

でも、彼女の反応は、予想とは違ったのだ。
彼女は僕の手を見るなり、一歩後ずさりして、そして思わず、自分の前や後ろを振り返ったのだ。そして、少し怒ったような声で、
「やめてよ!」
とさえ、言ったのだった。

僕は驚いて、差し出したその手を、引っ込めてさえしまった。

彼女は白い頬を真っ赤にして、そして、僕の方は一度も見ないまま、水たまりの一番端まで歩いて行き、草のぼうぼう生えているその道の端のところを歩いてまで、僕の手を借りようとはしなかった。

彼女の真新しい白いサンダルは、草の中を歩いたせいで、露に濡れ泥で汚れてしまっていた。彼女は水たまりを越えてから後も、僕の方ははっきりと見ようともせずに、一言も発することなく、雨に洗われた緑の美しい散歩道を、細い肩を怒らして歩いていた。

僕には、隣を歩く彼女が頬をふくらませながら、それでも、ちらちらと僕の表情を眼だけでうかがっているのがわかった。でも、僕はどうして、彼女をそんなにも怒らせてしまったのか、一向に判っていなかった。僕は男の人がみんなやるような行動を取っただけだった。
そして、それは少なくとも、彼女のためを思ってとった行動だった。
しかし、結果として、僕は彼女を怒らしてしまった。
おそらく、僕は何か間違いを犯したのだろう。男の子として、何か、してはいけないことを、してしまったのだろう。

人間と人間の関係には、詩や、芸術ですら表されていない、その他、見た目でも分からない、文章化されていない取り決めが、あまりに多すぎる。そして、その基準は人によって少しずつ異なっている。

僕の嫌われてしまったその行為が、別の人にとっては、ちょっとした憧れであったりすることもある。

それを、僕らはいちいち学んでいかなければならないのだろうか。人によって、基準の違う取り決めを、一つ一つ、間違いを恐れながら、砂の山を――、中心に立てた枝を残して、少しずつ、周りから崩していくように。


結局、ふり返ってみれば、中学から高校にかけて僕は人間の女性を数人愛した。しかし、結果はどれも似たようなものだった。彼女たちの「基準」を僕は僕なりに努力して、学びとろうとしたが、仕舞には、それにもいい加減、疲れてしまっていた。

僕は、その時々で、強い男にもなったし、やさしい男にもなったのだ。
何でもできる器用な人間にもなったし、ちょっとがさつな男性になったこともあった。繊細で、詩や文学を理解する男性であることもあれば、そんなものは全く気にも留めない、アウトドア派の人間になってみたりもした。

しかし、そうした努力をすればするほど、僕にはだんだん、わからなくなってくるのだった。こうして、努力して育んだ彼女と僕との愛情は、果して、真実の愛情と言えるのだろうかと。

彼女はきっと、本当の僕ではなく、努力して得た僕の姿を愛しているにすぎないのではないかと思い始めたのだ。そのような、虚像に向けられた愛情を僕は、僕に対する愛情であると受け取っても、よかったのだろうか。

それに関しては、いまだにわからない。
彼女たちの思い描く、『彼氏』の枠を踏み外した規格外の僕を、彼女たちは果たして好きになってくれたのだろうか。それを犯すのは、勇気といえるのか、それとも、彼女たちへの理解が足りないために生じる行為と、受け取られてしまうだけなのだろうか。

ただ、それを試みる前に、僕はこの終わらない積み木崩しに疲れてしまっていた。

いや、疲れてしまっていたのは、実は、僕だけではなかったのかもしれない。
世の中の人はみんな、もはや疲れていたのだ。人の顔色をうかがい、お互いの不文の法を読みあい、それを満たすことに喜びを感じ、それにそむくことに恐れを抱くのに。

誰かを愛するということは、誰かの法律の網の中に、自分を組み入れる作業だ。いずれ、その法律は、二人の折衷のものへと変わっていくのかもしれないが、その期間の何と長くて、なんと耐えがたいものなのだろう。

この、一分一秒が競われる時代の中で、花が咲くのを待つような時間の長さを悠長に待ち続けることが出来る人が、果たしてどれほどいるのだろうか。
インスタントの代用品が、枯れない造花が、これほど咲き誇っている時代に、季節を待ちこがれることの意味を、僕らは何処に見出せばいいのだろうか。

時代はもう、強い絆を作るという作業に、背を向けてしまったのだ。

技術の進歩が、僕らに、絆という、がんじがらめのクモの巣のような代物に背を向ける勇気を与えてくれた。

それは、少し大げさな言葉で言えば、解放、なのだ。
皆を縛り付けていた煩わしいザイルが、ついに断ち切られたのだから。
僕らに、個人を大切にする時間が与えられたのだから。

なぜなら、僕らにはもうパルミラがいる。
枯れない花が僕らにはある。

2009年7月22日水曜日

パルミラ (3)

†2

パルミラ販売の代理店でアルバイトしていた友人が、僕のところに、購入を持ちかけてきてから、思い出せば今日で丸3年になる。
その間、僕のパルミラは学生用アパートの6畳半の狭い一室に立ちつくして、僕が手をつなぐまで、そこでほほ笑みながらじっと立っていてくれる。パルミラは、自律的には座らないのだ。それどころか、横になることもない。遠隔的に充電が出来るレストマットと呼ばれるマットの上に一晩も立っていれば、パルミラは一日の活動に十分なエネルギーを蓄えてしまうことが出来る。
パルミラを自立的に座らせたり、横になってから元の立ち上がった姿勢に戻させたりするのは、開発当初は技術的に難しかったらしい。そのような機能を付けると、少女のような体の大きさには、収まりきらなかったそうだ。もちろん、今では、そんな機能を取り入れたパルミラも原理的には製造可能で、実際に一時期、販売もされていたのだが、それもなぜか普及しなかった。外見上は今のパルミラと全く変わらないのだが、どうも、新たに付け加えられた動作の細かな仕草があまりに人間に似すぎていて、それでいて、微妙に異なっていて、付帯者に逆に強く違和感を覚えさせてしまうらしかった。

人間の感覚は、とても不思議なものだ。あまりに人間に似すぎると、それを人間の子供として強く認識しすぎてしまうのか、あるいは、本来は人間ではないという理性のさざめきとその意識がぶつかって、不快に思うものなのか。いずれにしろ、自分の部屋に、見知らぬ子供がいたとしたら、それは不気味なものだ。ただ、パルミラは、手を引けば歩いて付いてきてくれる以外、特に際立った動作をしない。微笑みは、いつも変わることがない。話しかけられたことに反応し、声のした方向を向いて、ひたすら笑うだけの機能しか、彼女にはないのだ。それでも、人はその機能しか持たない製品を、強く、おそらくは長いこと求めていた。

僕のパルミラは、他の人のパルミラよりも、髪が少し長い。もちろんそれは、製造上の微細な誤差にすぎないのだが、色々な人のパルミラをまじまじと見ているうちに、そうした些細な違いにすら、気がつくようになってしまったのだ。他のパルミラでは、前髪が眉のラインより、少し上の方までしかきていないのだが、僕のパルミラは、眉にかすかにかかるくらいまで、前髪が下りてきていた。それに気づいて、僕にパルミラを売ってくれた代理店で長らくバイトしていた友人にそのことを話すと、彼はおかしそうに、苦笑いを浮かべて
「お客さんは、よくそういうよ。……僕自身も、そう思うけれどね」
とだけ答えた。

彼のパルミラを、僕は大学で何度となく見かけていた。彼は自分のパルミラをとてもかわいがっていて、彼が自分のパルミラを見つめるときの瞳は、親が子供に向ける瞳よりももっと情熱的で、それでいて、穏やかなものだった。愛する人をエスコートするようにやさしく、彼は自分のパルミラの手を引いて、いつもキャンパスの北側の少しさびしい入り口から、大学にやって来るのだった。

彼のパルミラは、僕の見たところ、僕のより眼が少し大きくて、まつげが長い気がした。
彼は、時々、自分のパルミラの前に屈みこんでは、彼女の繊細で、長いまつげについた小さな白い綿くずなどを、人差し指と親指でそっと優しく取り除いてやっていた。パルミラは、何をされているのか、理解していない。でも、それだからこそ愛おしい瞳で、その時、彼の方を見て、にこりとほほ笑むのだった。

その光景は、傍から見ていても、とても優しい光景で、気がつけば、その時キャンパスを歩いていた何人かの人が、一瞬足をとめて、見入ってしまうほど、引き寄せられる光景だった。彼や、彼女たちも、僕の友人と同様にパルミラを連れていて、それはそれなりに、自分のパルミラを愛しているのだろうけれど、彼の、パルミラに愛情を注ぐしぐさを見て、何か感作されるものがあったらしかった。
気のせいかもしれないが、彼のしぐさに足を止めた人たちが皆、そのあと自分のパルミラを見つめて、その細い髪の毛を、そっと優しく、なでてやっていたように、僕には見えた。

優しさは、伝播すると、昔、何かの映画でやっていたのを僕は思い出す。
誰かの優しい行為を見た人は、思わず自分も、自分の大切な存在に対して、やさしいふるまいをせずにはいられなくなると、その映画では言っていた。

だとすれば、パルミラに注がれた彼の愛情は、そのあと、幾多の人々の愛情を呼び覚まし、そして、多くのパルミラが、その主人の優しさにきれいな微笑みで返したのだろうと、僕はその日、家に帰ってから想像した。

昔、パルミラがなかった時代に、人々は何に向かって、これだけの愛情を注いでいたのだろう。おそらく、彼の様に、あふれんばかりの愛情を、誰かに対して公然と注ぎかけるという行動は、世間的に、はばかられていたのではないか。

僕も中学生くらいの頃、人間の女の子を愛してみたことがあったけれど、それは今ではとても苦い思い出だ。

2009年7月20日月曜日

パルミラ (2)

パルミラは今や、会社のオフィスや、仕事場などへも持ち込みが許されている。
鉄道会社などは始め、列車一両あたりの人間の積載率が減ってしまうので、大いに文句を言っていた。

しかし、やがて、ある一社がパルミラ付帯料金を導入したところ、3割増しの切符であるにもかかわらず、売れ行きは好調だった。今では、どの鉄道会社でも、パルミラ付帯切符を導入していて、航空会社も膝の上に乗せるか座席の前に立たせることを条件に、パルミラの機内への持ち込みを許可している。

飛行機の座席の上に、同じ顔をした少女が、ずらりと並んで座っている様は、壮観なものだ。この場合もパルミラ付帯料金はやや割高になるが、それでも人々は、彼女らを手荷物預かり所に放り込むようなことはさせない。
きっちりとお金を払ってでも、パルミラを座席にまで連れて行くのが、今や常識的な行動と受け止められている。

実際に、以前、あるお金のない学生がやむにやまれず、パルミラを手荷物に預けようとしたことがあった。それを許した航空会社の窓口の気も知れないが、ともかくも向こうも仕事であるので、顧客の要求どうりに、その“手荷物”に荷札を付けて、ベルトコンベアーに流してしまった。ところが、その荷札をつけられてベルトコンベアーの上を流れていく少女の姿を見るに見かねた初老の男性が、突如、窓口の女性に怒鳴りかかって、黒いベルトの上を流れて行く気の毒なパルミラを止めさせた。そして、全く面識のないその所有者の学生の分までお金を払って、その哀れなパルミラを座席に座らせてあげたのだという。

この話は、パルミラが人々の間に受け入れられていることを明確に表す事例として、当時、新聞のコラムなどで何度か取り上げられ、助けた男性のインタビューを報じた局すら、一つや二つではなかったと記憶している。


パルミラが僕らの社会においてかけがえのない存在であることを示す例は、まだ他にもある。

これは、パルミラの最大の特徴であり、また、当然の性質でもあるのだが――、彼女たちは、たとえ何年連れ添っても、年をとることが無いのだ。

ある作家は、新聞に寄せた論評でそれを永遠の少女と形容し、
「幼い者にとっては、最初の恋人であり、あるいは友人であり、年齢を重ねるに従って、それらは愛しむだけの存在から、守らずにはいられなくなる存在へと変化する」
と述べた。

そのような複雑な変化を、年齢とともにしていく関係が他にあるだろうか。
幼馴染は自分とともに年をとり、それによってお互いの関係もまた不気味な煩わしさを伴って不可逆的に変化していくものだが、パルミラとの関係は何かの上に何かが積み重なるように、変化していくと言ったら、パルミラを知らない人にも解ってもらえるだろうか。

その作家の言ったように、初めは、ただ一緒にいてくれるだけの存在なのだが、やがてそれが、いてくれるというだけでなく、自分にとって無くてはならない存在となり、そして、その上に、守るべき存在であるという認識が重ねられていくのだ。

それは単純に、自分ひとりの成長に伴う変化にすぎないのだが、いつまでも顔の変わらないその少女は、幼いころの恋人に感じる懐かしくほろ苦い感情の上に、命の不思議を見るような感動があり、さらに、それを抱きしめずにはいられない親や祖父母の感性が折り重なった、不思議な性質を持っている。それは身内のようで、とても遠く、どこか気恥しく、そして、とても優しい感覚だ。

人々が、パルミラといつまでも手をつなぎ続けているのは、おそらくその感覚を途切れずに、感じていたいからだろう。幼い日の彼女は、あるいは自分の子供は、成長とともに変化し、いずれは記憶の中だけのものになってしまう。しかし、パルミラはいつも、そこにいる。手をつなぐものが、その折々に感じた感情を、どんどん上塗りしながら、パルミラは他の何よりもかけがえのないものへと変化していくのだ。
これは、僕らが科学の進歩によって得た、全く新しい関係であり、感覚であるのだろう。

このように、もはや社会の大方の人々から親愛の情を持って受け入れられているパルミラだが、それでも、これを社会からのぞいてしまうべきだと主張する人々もいるにはいる。それらの人々が主張するには、人間の愛情は本来人間に向くべき感情であり、それがこの様な人工物に向くのは、自然に反しているというのだ。彼らは、パルミラの普及した先進国の多くで、少子化と晩婚化が進んでおり、それは、本来人間に向くべきだった愛情がこの人工物に向けられた結果、誰も結婚して、子供を作ろうとしなくなったためであると主張している。

しかし、人々は知っている。それら、パルミラに嫌悪感を抱く人々の多くは、実際には、パルミラに触ってみたことさえない人たちなのだ。だれでも、新しいものは怖いものだ、あの、今では持っていて当然になった携帯電話ですら、出て来た当初は、厳しい使用マナーでがんじがらめにされて、使用場所を限局されていたそうだ。でも、今ではむしろ、使えない場所の方が限られている。
「一人で、壁に向かってぶつぶつ話しているのは不気味だ」
なんてことを言っていた人は当時、一部のコメンテーターの中にさえいたそうだが、その人達はもし生きていれば今も、同じような主張を自信を持って繰り返せるだろうか。パルミラにまつわる批判も、携帯電話の時のように、やがて落ち着いてくるのだろう。現に、そう言った批判は年ごとに減ってきているように僕は感じている。

販売開始から15年が経ち、普及率はもう7割を超えている。パルミラが、僕らの社会に、本当に受け入れられるのに、もう、そう長い時間はかからないだろう。

2009年7月18日土曜日

パルミラ (1)

ある、今からそう遠くはない、未来の話。


†1
僕らはいつも、一人の少女を連れて歩いている。
白い服を着た、東洋人とも、西洋人ともつかない、愛らしい顔立ちの、4,5才くらいの、女の子。女の子は、パルミラ、と呼ばれていて、誰の連れているパルミラも、みんな同じ顔をしている。

でも、一緒に暮らしているうちに、みんなそれなりに、愛着がわくらしく、うちの子はちょっと背が小さいとか、鼻立ちがいいとか、そんな些細な違いを気にとめては、悩んだり、自慢したりしている。パルミラは、そんなとき、何も言わずに、ただ子供らしい、美しい笑みを浮かべて、にこにことほほ笑んでいる。

パルミラを僕らが連れて歩くようになったのは、いつからだったろう。
携帯電話が普及し、パソコンが普及した時も、そうだったような気がするが、すべて、まるで、あらかじめ用意された水路に、水が流れていく時のように、速やかに、静かに普及していった。気がついた時には、パルミラの販売が開始しされてから、ものの2年ほどの間に、普及率は3割を超えていた。そこから、みんな持っていて当然となるまでに、さらに5年ほどだっただろうか。ともかくも、販売開始から10年しないうちに、パルミラは人々の必需品の一つとなったわけだ。

パルミラ、というのは、そもそも、この製品の商品名に由来している。この少女を作った会社は、そもそも、何とかテクノロジーという、アメリカのベンチャー企業だったそうだが、この商品の爆発的な人気を受けて、ついに会社名をも、パルミラ社に変更した。

パルミラの不思議なところは、他の模造品企業が、似たようなものを作っているのだが、全く普及しなかったところにある。パルミラ社自身も、はじめのうちは、パルミラに、もっとおしゃべりする機能とか、簡単なお仕事をお手伝いできる機能を付けた商品を販売したが、すべて、初代のパルミラほど普及はしなかった。同様に、模造品企業の作ったパルミラ様の品物も、元のパルミラほどの人気を得ることはついぞなく、そうした会社はやがてすっかり諦めて、パルミラ関連の仕事からは、早々に手を引いてしまった。

パルミラ社も、もはや、パルミラの性能をさらに上げようなどと言う野心は捨てて、ただ、現行モデルの品質向上などのマイナーチェンジや、修理の対応などに専念しているそうだ。

パルミラは、登場直後から、あまりに完成されすぎていた。だからこそ、人々は、それ以上の変化をむしろ嫌うのだった。パルミラは、パルミラとして、何も言わず、ただ傍らにいて、時々話しかければ、こちらを見て、にっこりと笑ってくれればいい。ただそれだけの需要を満たすためだけの、品物だった。

人によっては、パルミラに愛着がわくあまり、名前を自分でつけている人もいるらしい。しかし、多くの人は、パルミラを、ただパルミラ、と呼んでいる。

パルミラの衣服の背中のボタンを少しだけ開けさせてもらうと、肩甲骨の間あたりに、"Palmira"という名前と、それぞれのシリアルナンバーの刻印が見える。しかし、パルミラが人間の少女らしくないのは唯一その点だけで、後は、完全に、人間の少女そのものなのだった。

手をつなげば、その皮膚の触感や、肌のかすかな暖かさに、驚かない人はいないだろう。

多くの人は、はじめ、販売代理店でデモンストレーション用のパルミラと手をつないでみて、目を丸くする。そして、思わず、その瞳にやさしく笑いかけるように体をかがめて、その愛おしい手を、両手で包みこまずにはいられなくなる。その時から、その人とパルミラとの関係が始まるのだ。パルミラは、そうした、購買者に決定的な変化をもたらすような事態においても、ただ美しく、愛らしい笑みを浮かべて、彼や彼女の微笑みに答えているだけだ。

2009年6月15日月曜日

ある責務のかたち

「……これ、落ちましたよ」

小さな細い手が、男の落とした一枚のハンカチを拾い上げた。
振り向くと、女はそれを右手に提げたまま、小首を傾げて微笑んでいた。

「……やあ、ありがとう」
男はそう言うと、女がつまんでいた緋色のハンカチを、照れくさそうに奪い取った。
「珍しいですね、男の人でそんな色のハンカチ」
女は犯しそうにそう言って、口元に手を当てた。

「……ああ、妻のでね、間違えて、持ってきてしまったんだ」
男はよほど照れくさいらしく、女の顔を見ずに言う。
「そうなんですか」
女はそう言うと、おかしそうにくすくすと笑った。

女が小さくお辞儀して通り過ぎてしまった後、男は一人受け取ったハンカチを右手に広げて、まじまじと其処に書かれた文字を見つめていた。

「……“妻の”、か」
男はそう言うと、ハンカチに書かれた小さなイニシャルを、親指で軽く撫でた。其処にはイタリックの書体で"N.S."と刺繍されていた。

「……この名字も、もうすぐ変わってしまうな」


ひと月ぶりにあった妻は、今までと変わらず一言もしゃべらなかった。
行きつけだった喫茶店の奥の机に互い違いに腰掛け、彼自身の目の前には、彼女の代理人である弁護士がその大柄な体躯をぴしりと決まったスーツで包んで座っていた。

「……こちらの条件はこうなっております」
弁護士は落ち着いた声でそう言って、黒塗りの革製の鞄から数枚の紙がクリップで束ねられたA4大の書類を差し出した。

「……端的に申しまして、依頼人、つまりあなたの奥様は、息子、信人君の親権と、あなたの現在の収入の20%の養育費、そしてここに描かれておりますような額の慰謝料を望んでおります」

弁護士が“奥様”と呼んだ時、彼の妻では無くなるその女は、その言葉を聞くのも忌々しそうに、一瞬目をそらし、顔をしかめた。組み替えた足の先に、未だ真新しい、見知らぬ色のヒールが見えた。

「……養育費は払います。親権も譲りましょう。確かに、僕は家庭を顧みた父とは言えないのだから。ですが……」
彼は一瞬言葉を躊躇った後、続けた。
「……しかし本当に、これは僕が慰謝すべき離婚なのでしょうか。彼女は……、」

「……奥様を一人にしたのは何方ですか?」
弁護士は妻の代理となって口を挟んだ。
「そのことは、すでに前回のお話し合いでも十分話されたはずです。あなたは自分の仕事に夢中になる余り、家庭を顧みてこなかった。その結果、奥様が他の何方に救いを求めようと、あなたにそれを責める権利はないのではありませんか?むしろ被害者は我々の方なのです。あなたのために待ち続けた奥様の心情を鑑みれば、慰謝料をお支払いになるのが当然と言うことになるでしょう」

弁護士が、勢いに乗って彼と妻を「我々」と呼んだ時、彼は何か苦い物を感じていた。それは斯うして向かい合った彼女の側と、彼の側とが、もはや永遠に隔てられていることを決定づける言葉のような気がしていた。以前なら、彼が我々と呼べば、それは妻も含めていたのであり、本来は他人である弁護士はそれには含まれなかったはずなのだ。
契約によって繋がった他人が、自分よりも、妻の側にある事実。それが男に突きつけられた、あまりに残酷な事実だった。

「……我々の側も、これでも譲歩しているのです。本来なら養育費をもう少しお支払いになることも出来たはずだ。ですが、奥様がそれを断られたのです。このくらいの額でよいからと」

それは、彼女がすでに、彼女の息子を養育してくれるような男を得ているからに過ぎないじゃないか。彼はそう思ったが、押して堪えていた。それでも、息子が幸せに成長できるなら、未だ良いのかも知れない。男はそう思った。彼女の男を彼は知っていたが、彼が思うに、その男が彼以上に、彼女を慕っているのは紛れもない事実のようだった。彼ならば考えつかないような愛情の示し方を、その男は彼女に向かって示していた。不器用な、仕事しかできない男には到底及ばないその愛情表現に、彼は、何か勝負事に負けたような失意を感じていた。

「……なあ」
彼はうなだれた頭を上げ、そっぽを向いたままの、妻を見つめた。
「お前達は、今、幸せか?」
妻は男の方を見なかった。いらいらとした気持ちを顔に表したまま、薄汚れた花の絵が飾られた茶色い壁の方を、ただじっと見つめているだけだった。

「以前は愛していた男を、金を払うだけの人間におとしめておきながら……、お前はそれでも、幸せになれるのか?」
女の眉間がぴくりと動いた。しかし彼女はそれでも、男の方を見ようとはしなかった。おそらくは、一切口を出さないように、弁護士から堅く口止めされているようだった。

「……志田さん」
弁護士は男の名を呼んだ。
「金を払うだけの人間、とはたとえが悪い。例え法律上の夫婦ではなくなっても、息子さんは実質、あなたの子供なのです。彼の幸せを祈っているのなら、養育費を払うのは、親として当然の責務だと思いますが?」
男はそれを聞いて、押し黙った。
責務。そんなことは解っていた。
しかし、親としての責務は、果たして、子供が成長するのに見合うだけの金を払い続けることなのだろうか。男はそう考えていた。親として、子供に道筋を付けて上げられるような、そのような働きかけをし続けることこそ、親の果たすべき、責務という奴なのではないだろうか。

男はそう思い当たった。
しかし、次の瞬間、男の表情に浮かんだのは、妻に対する荒々しい怒りではなく、うすく湿った失笑だった。

「……ええ、それが僕の責務ですね」
あきらめたように男はそう言った。
「……思えばこれまでも、家庭に金をもたらすようなことしかしてこなかったんだ。息子と一緒にキャッチボールをする時間すら、僕には取れなかったのだから」

「……解っていただけたのなら、幸いです」
弁護士は、そう言って口元だけで笑った。
「それでは、手続きを前に進めましょう。この場所に判とサインを。奥様のものはすでにいただいてありますので……」

弁護士の太い指が指さす何もないアンダーラインの上に、彼は書き慣れた自分の名前を書き込みながら、ふと、妻の名前の傍に書かれた息子の名前が、彼の書いた字によく似ていることに気がついた。

おそらくそれは、息子が自分で書いたもののようだった。
手続き上、訳も分からず書かされたのだろうが、その字は癖の付き方まで、彼の字と余りによく似ていた。

彼はその字を見つめながら、しばらく、ペンを持つ手を休めていた。

そして、再びそのペンが走り出した時、彼の心の中には大きな喪失感が渦巻いていた。
弁護士が彼から書類を受け取り、そこに書かれた彼のサインを一つ一つ念入りに確認して、つややかな革製の鞄にしまい込むと、彼の心の内に、何か大切な物が今しも、自分の手から遠く離れて行ってしまうのだという自覚が生じてきた。

彼は自分の心が、何か得体の知れない、冷たく、ひんやりするものに蝕まれていくのを感じた。そして、見知らぬヒールの音を響かせて去っていく、身体の大きな弁護士と小柄な妻の背中を、もはや、単なる一点の黒点に過ぎなくなった目で見送っていた。

2009年6月8日月曜日

a molecule

「タナベさんね、待ってたわよ」

大柄な婦人が身を揺らして笑う。派手な花柄の衣装はもうすっかり伸びきって、大きく開いた肩口から胸元がこぼれ出てしまいそうなのだが、彼女はそれにも構うことなく大仰な仕草で引き出しから鍵束を取り出すと、私の前に立って歩き始めた。よく太った体の割に、彼女の足取りは軽く、ともすれば、肩に重い荷物を提げた私は彼女に置いて行かれそうになり、慌てて古いビルディングの屋外に面した廊下を彼女の大きな背中を追いかけるようにして進んでいった。

「……主人が今入院しててね、 なに、この間家の物入れから荷物を出そうとしたら急に腰を痛めちゃって、病院行ったら、一週間の安静が大切なんて言われちゃって、それで、私と、近所に住んでる娘が交代で……、娘?ああ、あなたと同じくらいかしら、あなた、おいくつ?30才?あらやだ、娘はまだ17なのよ。日本人って、年齢わからないわ……」

婦人はそういうと、また身を揺らして笑った。鍵束のかぎが、それに合わせてかちゃかちゃと音をたてた。

「独立心が強いのはいいんだけど、うちの子、ちょっとスペシャルなんじゃないかしら。家が近いのに、わざわざ寮に入りたいなんて、普通言わないわよね。まあ、親に頼りっきりなのよりはいいけれど。……知り合いの男の子でね、いるのよ、そういう子が。もう大学出て四年もたつのに、まだ家にいて、親に甘えて暮らしてるわけ。噂じゃ、仕事もろくにしてなくて、隣町のドラックストアでアルバイトしているんだってよ。ほんとに、最近の若い子は、わからないわよね。小さいころは、あんなに利発そうで、お母さんも、大そうご自慢だったのに。今じゃすっかり二人ともしょぼくれちゃって、盛りを過ぎた七面鳥みたいになってるわ。……なかなか、開かないわね」

婦人は、太い二本の指の間に、小さな鍵を器用に挟み込んで、ドアノブの鍵穴に差し込んだ鍵をガタガタと動かしていたが、扉は一向に開かなかった。

「……時々、こういうことがあるのよ。こういうときは、力いっぱい回せば、開くことがあるんだけど」
「僕が、やりましょうか」

私は夫人の必死な様子を見ていられず、そう言って代わってあげようとしたのだが、彼女は、やや赤みのさしてきた顔で、O.K、O.Kと言うばかりで、一向に代わろうとしなかった。

そうしているうちに、鍵穴の中でゴリゴリと何かがこすれるような音がして、ガチャン、と鍵が外れた、

「……ようやく開いたわ」
婦人がやれやれ、というように両手を広げて見せた。

「前に住んでた子が、何かゴミでも詰めたんでしょう。……とはいっても、三年も前の話だけどねえ」
夫人はそういうと、自分の役目を果たしたと思ったのか、大きな体をゆすって、自分の部屋の方へと帰って行った。

私は、婦人がようやくこじ開けた部屋を、そっと覗きこんだ。
薄暗い入口の向こうには、リビングらしき部屋があり、そこの南向きの窓から差し込んでくる光が、部屋の中に舞い散ったほこりを、きらきらと照らしていた。知らない家に入った時の、かび臭いのにも似たようなにおいが、鼻の奥をつん、と突いた。

私は、戸口で深く息を吸うと、ずかずかと部屋の中に入って行って、呼吸も止めたまま、長いこと閉じられたままだったガラス窓を、一息に、あらかた開けて回った。

そして、たまったほこりを、夫人から借りたモップではきだしてしまい、ようやく、なんとか住める部屋になってきたと感じられたころには、、もうすでに、日も暮れかかってしまっていた。


異国の窓から、知らない色の空気がそよそよと流れ込んでくる。
夕暮れ時の虫の音も、この乾いた空気の中では、遠くにかすかに聞こえるのみで、隣の家の夕食の、何か知らない南国調のスパイスの強い香りが、風に乗って漂ってくるだけだ。

聞きなじんだ音さえもない、異国の夕暮れ。

私は、まだカーペットも敷かれていない、板張りの部屋に、ごろりと横になった。
黄ばんだクロス張りの天井が、日本にいたときよりもずっと遠くに見えた。

「……一人ぼっちなんだ、俺」

私は、天井を見ながらつぶやいた。

「……本当に、独りぼっちに、なっちまったな……」

私はそのまま目を閉じた。一人ぼっちの感覚が、皮膚を通じて、静かに、私の体にしみこんでくるような気がした。それは、私の体を構成していた何かが、何もない真空の中に溶けだして、散り散りに拡散していってしまうような、そんな感覚だった。自分がやがて薄れて、消えて行ってしまいそうな、一人ぼっちの感覚。しかし、私は、ある意味ではそれを味わうためにこそ、この遠い、異境までやってきていたのだった。知り合い一人いないこの国で、私に何ができるのか。あるいは、何もできないのか。すべては、これからだった。

「……さて、」
私は、勢いをつけて、起き上った。この国の太陽は、とてもゆっくり沈んでいくように感じていた。薄明の時間が、屋外ではまだ続いている。赤く、深い紫色に染まった大地の上に、ぽつりぽつりと、明かりがともっていくのが見えた。

「……行ってみようか、スーパーマーケットって奴に」

私は、そう呟くと、夫人から受け取っていた鍵をポケットに、ほこり臭い部屋を出た。そして、噂に聞く、ガロン瓶に入った牛乳や、一抱えもあるほどの肉の塊を想像しながら、知らない国の知らない通りを、ゆるい坂を少しずつ下るようにして、進んでいった。

2009年5月23日土曜日

one, single, alone.

人生は、何かがある時よりも、何もない日の方が遙かに多い。
男は、そう感じていた。薄曇りの空の下、絶え間ない霧雨で、アスファルトの路面はしっとりと濡れていた。傘を差すか、差さないか迷うような雨の中を、片手に傘を差した自転車が、脇目もふらずに通り過ぎていった。その後を追うように吹き抜けていく、湿り気を帯びた冷ややかな風を感じながら、男は自転車の通り抜けた後の路面を、ひたひたと歩いていった。

彼は、これまで自分が孤独だと感じたことはなかった。
彼の身の回りにはいつも人がいたし、彼らは彼をいつも必要としてくれているようだった。たとえ、一人になる時間があったとしても、男はその一人の時間を愛していた。周りに人がいる時には余り見せない、彼の一面――たとえば、古い友人に手紙を書くこと――も、消して彼の孤独な行為とは受け止められないだろう。それはまだ、一人の時間の過ごし方と言うだけのことであり、そのような時間は、人生の大半に渡って、特に青年期の初期から壮年期の前半にかけて顕著に表れる時間である。現に、彼は孤独のもたらす数多くの弊害、たとえば思考が狭まり、次第に厭世的な見方に偏っていくような兆候を示していなかった。むしろ、彼から一人でいる時間を奪った方が、彼はそのような兆候を示したかも知れない。そう言った点でも、彼はごく普通の人間だった。

しかし、この日の男は、何処か様子が違っていた。
地味なブラウンのコートを羽織り、傘も差さず、雨中に佇んでいた。両手には何も持たず、使い慣れた革の鞄すら、今日は持っていなかった。

それでも、上下はいつものスーツを着ていた点からみて、彼の服装はいつもの会社帰りとさほど変わらなかった。彼は裏露地の狭い道を歩きながら、ふと、目の前に、道を遮るように止まったタクシーに目をやった。しかし、彼はそれを見ただけで、結局乗ろうとはせず、競り建ったビルとタクシーの間をすり抜けるようにして、市の中心部の方向へ向けて歩いていった。

黒く湿ったアスファルトが、明るい光りに彩られた街を逆さまに、滲んで浮かびあげていた。街は今、水上に浮かぶ架空の都市のように、曖昧で儚い光を放っていた。ビルの上の赤い光りが男の網膜の奥に焼け付くほど強く差し込んできた。街の輻射に赤く霞んだ雲の中に浮かび上がる、その鮮やかな単色光に、男は一瞬、目を奪われる思いがした。

彼は、雨に濡れる身体を構うことなく、ひたすらに街の中心を目指して歩いていた。
そして、市の中心部の駅の前まで来たところで、彼の足はぴたりと止まった。

男はその場所に立ったまま、おもむろに、彼の頭上にあるものを見上げた。


そこには一本の高いビルが聳えていた。
2年ほど前に立ったばかりの駅前の超高層マンション。彼はそのビルの突端近くの高い窓を雨に濡れるのも気にせず見つめていた。

男の見つめるビルの高層階には、一部屋だけ明かりが灯っていた。他の部屋にはもう明かりは灯っておらず、それらの部屋の住人は、すでに眠ってしまっているようだった。

男は眼を細めて、その高いビルの一部屋だけ灯った明かりを見つめた。
その窓辺には、誰の姿もなかった。窓は堅く閉ざされており、誰かが出てくる気配すら感じられなかった。

「……幸せ、か」
男は、ぽつりと呟いた。
そして、顔を伏せて自らの足下を見つめた。

冷たく濡れた暗い路面が、彼の足下に拡がっていた。
その上に吸い付くように立ったままの、二本の彼の足。当たり前のそれが、今日はいつになく不自由なものに感じられた。

「……幸せ、なのか?君は……」

男は地面を見つめたまま、身じろぎもせず、そう言った。

高いビルの上の窓には、相変わらず煌々と明かりが灯っている。彼はしかし、もう一度その窓を見上げようとはしなかった。

「あの窓から見える景色は、僕らが憧れた……」
そう呟いて、しばらく口をつぐんだ。
僕ら。そう思っているのは、すでに自分だけかも知れない。彼は、そう感じたのだった。


彼はふと、辺りを見渡し、自分の周りにもう誰も人がいなくなっているのに気づいた。
駅も、すでに最終電車が過ぎ、僅かばかりの明かりが灯されているだけだった。

街は、煌々と夜の残余を残しながら、次第に眠りにつこうとしているようだった。
男はすでに、ここに立っている意味を見失っていた。僅かな霧雨は、しかし確実に、雨中に佇む男の身体を濡らしていた。茶色のコートが湿り気を帯びて、ずしりと身体にのしか掛かってきた。

「……次の誕生日には、もう少し、ましなものを用意しようと……」
男は呟いた。

「……しかし、それも必要なかったな。君には、君の幸せがもうあるのだから」
男の脳裏に、一人の女性の微笑みが浮かんでは消えていった。
渡そうとして渡せなかったものと、それをもらって喜ぶ彼女の微笑み。

しかし、それは恍惚とした喜びと一緒に、身をもだえるような苦しみを彼にもたらした。
男は微笑んだまま、眼を伏せ、暗い路面を見つめ続けた。

雨に濡れた街は逆さまに、夜の光りを映している。
彼の足下に、一点の光りがぼやけて映っていた。彼はそれを、彼女の部屋の明かりだろうと思った。その光りは、彼の背中にそびえる現実の塔から差し込み、彼の足下で揺らめいているように見えた。


その時、彼の足下に灯されていたその小さな明かりが、突然音もなく消えた。
驚いて、彼は背後の高層ビルを振り向き、高い塔の突端近くの部屋を思わず見上げた。

そこには、未だに明かりが灯ったままだった。
しかし、その窓辺に、これまでは見られなかった、一人の女性の姿があるのに、彼はすぐに気づいた。

女性は、窓辺に立ったまま、静かにビルの下の暗い世界を覗き込んでいた。
しかし、高い建物の上の、明るい部屋の中からは、暗い世界の底から見上げる彼の姿に、気づくことは不可能だった。

男はそれでも、高い窓の上から見下ろす彼女の瞳が、彼を捉えているように思えて仕方がなかった。それがあり得ないことは十分解っていたが、それでも、彼はそう信じたかった。


窓辺の影はそれからすぐに消えた。
彼女が立ち去ってまもなく、部屋の明かりも消えてしまった。

「……孤独ではない、そう思っていたのは私だけだったな。よりどころとしていた君は、ずっと、孤独だったのだから。」

男はそう言って、顔を伏せ、微かに嗤った。
「……僕と、一緒にいる時から、ずっと……」

そして、塔に背を向け、元来た道を歩き始めた。
「……君の孤独に、あの時、気づけなかったのは……」

それは、相手が君だったからだ。

男はその言葉を飲み込んだ。


夜は次第に更けていく。
街の明かりは、気づけば、もうほとんど落ちてしまっていた。

雨に濡れた身体を引き摺ったまま、男が、深い、深い夜のとばりの中へ、ゆっくりと吸い込まれるように、消えていく。

その後を追う者は誰もいなかった。
あるとすればそれは、音もなく降る、夜霧のような霧雨と、振り払っても身にまとわりつくような、湿った夜の影だけだった。

2009年5月10日日曜日

Potato Salad, a cup of,

隣の机に座る少女が机に伏せるようにして眠っている。
私は彼女を気に掛けながらも、目の前のパソコンに向かい、仕事を続ける。

彼女は昨日も遅かったのだろう。
仕事が立て込むと、眠れなくなることも多いのだそうだ。
私がそのことを尋ねると、
「……昨日は、ちゃんと寝ましたけど」
そう言って、頼りなげに笑った。

「……でも、ねむいんです。……なんか」
彼女はそう言って、また机の上に突っ伏してしまった。
私は声も出さずに笑って、お疲れ、と小さく呟いた。


彼女の向こうの窓に見える景色は、もうすっかり暗くなっている。
遠く、駅前の高層マンションの明かりが、はっきりと夜空に浮かんで見える。その先端の赤い明滅する光りが、星のない虚空に、受け取る者の無い信号を放ちながら、ただひたすらに、無事にこの夜が明けるのを待ちづつけている。

ふと、視線を感じて、隣を見れば、彼女が机に伏せたまま、顔を横に向けて、私をじっと見つめていた。
私の視線を感じると、彼女は咄嗟に私から目をそらして、向こうを向いてしまった。

私は再び、声のない笑いを漏らした。
「……昔、そう言う眼で、こっちを見てた人がいたよ」
私は、小さな声で、独り言のように呟いた。

「……その人とは、どうなったんですか」
彼女は向こうを向いたまま、独り言のように言った。

「……さあね。……忘れてしまったよ」
「……なんだ」
彼女の溜息が聞こえた。
「……つまんない」

私が彼女に言ったことは、言うまでもなく事実だった。私は確かに、昔あのような瞳で私を見つめていてくれた人が傍らにいたことを覚えている。彼女もいつも疲れた顔をして、同じ研究室でもなかったはずの私の机の隣に、いつも突っ伏していた。

逃げるようにやってきて、一眠りして、帰って行く彼女。
その背中に掛ける言葉を知らず、私はいつも、見守ることしかできなかった。

「……先輩」
向こうを向いたまま、彼女が呟いた。
「……その人とは、本当に何も、なかったんですか」

私はしばらく、黙り込んだ。
彼女との思い出を一つ一つたどってみた。

しかし、思い出すのはどれも、眠っている彼女だった。
笑顔でも、泣き顔でもなく、何故か疲れ果てて傍らでうずくまるように眠っていた、彼女の姿だけだった。

「……何も。……ただ、」
「……ただ?」
「……ポテトサラダ」
「え?」

私は彼女とのほとんどたった一つの思い出を思い出そうとしていた。
いつか彼女の作ってきてくれた、小さなカップのポテトサラダ。ほとんど料理など出来ないと、はっきり言っていた彼女が、どうしてそんなものを作る気になったのか私には解らなかった。

「……その子が、ポテトサラダを作ってきてくれたことがあったんだ。たった一回だけどね」
「……それ、」
彼女がこちらを向いた。
「……おいしかった、ですか」

私はその味を思い出していた。
ポテトとマカロニと、細く切ったキュウリとタマネギのようなものが顔を出していたのを、おぼろげに覚えていた。だが、その味付けは本当に薄味で、塩気が全くないのだった。彼女の父は塩分を控えるように医者から言われていたらしく、それで彼女の家庭では塩を控えるようにしていたのだと、私は聞いたことがあった。

それにしても、あの味の薄さは、それとはまた違っていた。
おそらくは、過剰な塩分はいけないという彼女の考えが先走って、おいしい味付けと言うものよりも優先してしまったのだろうと私は思った。

行動的に人前で振る舞う割には、肝心な時には一転して、ものを考えすぎてしまう彼女の性格が、そうした味の薄いポテトサラダを作らせてしまったのだろう。わたしはそう思っていた。

「……まあ、まあだったかな」
私は答えた。
「……優しい、味付けだったよ」

「……ふうん」
彼女は不思議そうな顔をして言った。
「……優しい味付け、ですか」

あのような薄味のポテトサラダには、今後も会うことはないだろう。わたしは思った。
彼女も今頃は上達し、もっとおいしいサラダを作れるようになっているのかも知れない。振り向いてほしい、何処かの、知らない誰かのために。

だが、もう誰も知らないのだ。

あのときの薄味のポテトサラダを愛していた人間も、この夜空の下に、いないわけではなかったことを。そして、その儚い味の中に、小さな幸福を噛みしめていた人間が、僅かにでもいたのだということを。

2009年5月7日木曜日

ある男の生涯

……まだ、終われないのか。
男は雨の中、一人呟いた。

早朝。雨降りしきる、抜かるんだグラウンド。校庭に子供らの姿はない。
すでに引率の手により、校舎の奥に避難している。

窓の向こうから、子供の不安げな瞳がこちらをじっと見ている。
男はそれに気づき、その瞳に笑いかけようとしたが、それだけの気力はもはや残っていなかった。

子供の影は、彼の引きつった笑顔を恐れたのか、不意に窓辺から消えてしまった。
男は力なく笑い、彼の敵の方を、ゆっくりとふり向いた。

「……何もこんな雨の中、襲ってくること無いだろうがよ……」
男は独りごちた。
「……悪戯が過ぎるぜ、全く……」

大小無数の水たまりが、疲れ果てた彼の表情を、砕けたガラスのように、あらゆる角度から散り散りに映し出す。

薄い雲の向こうに、おぼろげな太陽が見える。
しかし、それは、今日はあまりにも遠い。

太陽がこんなに、遠く感じるのは初めてだ。
男は雨雲に覆われた空を見つめ、そう思った。

身体は冷たい雨に濡れ、顔からは無数の雫がしたたり落ちている。


これは、汗か、それとも涙か。
男は地を向いて一人嗤った。

俺は、他人のためだけに尽くしてきた。
それなのにまだ、お前らは俺を喰らうというか?

一体何処まで、この身を捧げればよいのだ?
どれだけ苦痛を味わい、命を張っても、彼らは、彼女らは満足することを知らない。

初めはうれしがって、感謝の言葉を述べもするが、いずれはそれも当然のこととなって、礼の言葉すら、無くなってしまう。

俺は、何処に見出せばいいのだ。この犠牲の結果を。

救った人々の笑顔を、守った、ありふれた日常を糧に、この苦行のような戦いを、明日も続けろと言うのか?

ほら、見ろ。
霞の向こうで、奴が微笑んでいる。
大きな機銃を手にして、俺に照準を合わせたまま。何が楽しいのか……。

結局は奴だけが、俺の行為の無益さを、誰よりも良く、理解していたと言うことか。
痛みに耐え、苦しみに耐え、己を滅して、生きてきて、その果てが、これか?
何が残ったというのだ。俺の戦いの果てに。

日常の価値も忘れた、人々の当たり前の生活だけが、俺の消えた後も、延々と続いていくのか……。


男は黄色いグラブの下で、拳を握りかためた。
その手中には、何もなかった。汗に汚れ、血豆も破れ、むごたらしく傷ついた指だけが、彼の戦いのすべてを物語っていた。

しかし、その壊れた手は、今だ何も掴んではいなかった。
愛する人の賛辞も、賞賛も、栄誉も、幸福も……。

男は忘れていたのだ。
他人に尽くすことを美学とする余り、自身を省みることを。自身の心の内の、人間じみた人並みな欲求を受け止めることを。

男は再び、力のない笑みを浮かべた。

降りしきる雨の向こうで、黒衣の彼が、機銃の弾倉をゆっくりと付け替えているのが見えた。
逃げぬ獲物と解っているのだ。あとは、照準を外さず、一撃で仕留めることこそが、男と数限りなく死闘を演じてきた彼なりの、最後の餞だった。

……ばいばいきん。

彼が、雨の中でそう呟いたように見えた。


水に濡れた頭が重い。
足に力が入らない。いやにふらついて、立っているのがやっとだった。

「……膝が笑っていやがる」
男は独りごちた。

これは、疲労のためか?それとも……、
「……怖いのか?俺は……」

男は天を見上げた。
白い雲の中から、雨だれは灰色の影となって降り注ぐ。

水に濡れた男は嗤った。
このまま腹が裂け、胸板が砕け散るかと思うほどに、嗤い続けた。


英雄が何だ。
最後が、これか。

……俺は、ちっぽけな男だ。

あいつがまた、見かけに似合わず、豹のような周到さで、俺の命を狙っているかと思うと、いつも怖くて、怖くて、仕方がなかった。

出来ることなら戦いたくない。
このまま、逃げおおせてしまいたい……。

着古したマントを羽織り、グラブを嵌めながら、そう思ったことが、いままで何度あったか。

そんなどうしようもない俺を、励ましてくれる奴なんていなかった。
みんな、ケガを知らない、きれいな手を胸の前に組んで、固唾をのんで、神妙な顔して見守っているだけだ。

リングの上に上がるのは、いつも俺一人。
傷つくのも、苦しみを味わうのも、俺一人……。

俺を、恐怖から救ってくれたのは、他人の優しい言葉なんかじゃ、決してない。

それでも他人を裏切れない、俺の心の底のどうしようもない甘さと、がむしゃらな勇気だけだった。

だが……。
勇気≪とも≫の姿は、もう、見えない……。

ははっ。
腰が砕けそうだ。

お天道さんよ、
俺は最後まで、惨めなまねはしたくねえんだよ。

なあ、頼むよ……。
もう少し、この俺を、支えてくれよ……。


男は嗤ったまま、天を抱くように、くたびれた両手を大の字に広げた。


雨の向こうの彼の、漆黒の右手が、引き金を静かに引いた。

怒濤のように銃声は辺りに響き渡り、たちまち、無数の閃光が彼の身体を貫いた。


男の身体がぐらりと傾き、泥に濡れた大地に、うつぶせに倒れた。

水を吸った頭が身体から離れて、浅い水たまりの上に、ごろりと転がった。
仰向けになった頭が、泥に濡れた彼の、最後の引きつった笑みを、雨雲たれ込む白い空に向けていた。

“彼”は、左手に銃を提げたまま死体に近づき、喜びとも悲しみとも付かない引きつった表情を浮かべて、しばらく男の死顔を見つめていた。が、やがて、何を思ったのか、その命を奪った身の丈ほどの黒塗りの重機銃を、ぬかるんだ大地にずぶりと突き刺した。

彼は、泣いていたのだった。
声も枯れよ、とばかりに。


やがて、彼は大地に刺した機銃を引き抜くと、おもむろにその銃口を自身の方に向け、その先端に彼の額の中心を据えた。

……ばいばいきん。

彼は再び、そう呟いたように見えた。

雨に濡れた大地に、無数の雫が流れ落ちる……。



昼が過ぎ、雨は上がった。

太陽は白い雲の向こうから、溢れんばかりの日差しを、彼と彼の身体に投げかけた。

泥まみれの身体が、互いに頭を向けて大地に横たわっている。
降り注ぐ雨が、涙も、血しぶきも、きれいに洗い流してしまった。

駆け寄ってきた村人達は、しかし、それ以上近づくことが憚れ、遠巻きにその二つの遺体を見つめていた。


一人の老人が、村人達の輪から一歩踏み出て、彼らの身体にそっと手を触れた。
そして、嗤ったまま強ばってしまった二人の死相をまじまじと見つめて、その目尻を濡らしたものを、老いさらばえた細い指で、そっとぬぐった。

母に手を引かれたまま、老人の背中をじっと見つめていた、一人の幼い、やや知恵の遅れた少年が、その時、誰に言うでもなく、小さな声で呟いた。

「……勇気のすずは、もう鳴らない」

その声を聞いた母は驚いたように、思わず我が子の顔を覗き込んだ。
幼子はあどけない眼差しを、陰惨とした現場にじっと向けたまま、抑揚も付けずに、もう一度その言葉を呟いた。

「……勇気のすずは、もう、鳴らない」

2009年4月21日火曜日

田舎の生活

たらいに汲んだ井戸水に、ゆっくりと手を浸した。

冷たい感覚が、指先から静かに駆け上がって、腕の中を走る何本もの青白い血管を浮き上がらせ、内蔵の方までゆるゆると冷やして行く。寝ぼけて熱った体温が、それにつられて急速に冷まされて、背中が、きゅっと縮むような感覚があった。

たらいに映る顔は、朝の光を浴びていても、何処か未だ眠たげだ。
昨日、寝る前に鏡で見た時の自分の顔の、半分ほども目は開いていなくて、頬は幾分丸く膨らんでいる。蜂に刺されてふてくされたかのような、その寝起きの顔が、指先からこぼれ落ちる雫に、ゆらゆらと揺れていた。

洗面所。山奥の田舎にある、この古民家を借り切ってもう3年になる。大家のおばあさんは、去年まで、この家の向かいの母屋に住んでいたのだが、今はもう、この住み慣れた田舎町を去って、都会に住む息子夫婦の家に越して行ってしまった。

「...あの母屋も、好きにに使っていいから。家族が増えたら、今のところじゃ手狭でしょうに」
別れ際、僕らにそう言ってくれたおばあさんのしわがれた優しい声が、僕の耳には、未だ昨日のことのように鮮明に残っている。それは、キュウリか、レタスか、白菜か、幾分不格好でしわくちゃだけれども、何処か優しく、瑞々しく、それでいて、青臭い匂いのする、不思議な安らぎを持った声の主だった。都会から田舎のなんたるかも知らずに越してきた僕らが、この土地に根づく事が出来たのも、あのおばあさんがいてくれたからだと、時折、妻と昔話のついでに話すことがある。

この古い家の、薄暗い洗面所の中で、背中側から細く差し込む光が、ようやく僕の手元を照らす。コンクリートを塗った土間に、取って付けたような琺瑯の洗面台。おそらくは、どこかで要らなくなったものを、もらってきてそのまま置いただけなのだろう。立て付けが悪いらしく、全体が少し左手に傾いていて、鏡に映った僕の顔も、たらいに張った水も、どうやら少し、かしいでいる。

「今日は早いのね」
斜めに移った自分の顔を、未だ眠気の覚めない頭でぼんやりと見つめていると、後ろから声がした。ふり返ると、見慣れた顔が、こっちを向いて笑っている。
「……日曜日だからな」
「子供みたい」
そう言って笑うと、彼女は土間にすかすかと入ってきて、僕のわきをするりとすり抜け、洗面台の先にあるトイレに、先に入ってしまった。

がちゃり、と鍵の下りる音。
何処か拒絶されたような、錯誤した感覚が僕を襲う。それに伴う孤独と気まずさが、僕らの間に一瞬の沈黙を生み出した。

この何とも言えない間合いの可笑しさは、彼女も感じたらしく、扉の向こうから、フフ、と含み笑いをする声が聞こえた。

僕も思わず、声に出さずに笑った。
そして、また冷たい水に手を突っ込んで、ざぶざぶといつもより余計に音が出るようにしながら、大仰に顔を洗って、ううっと声に出して、大きく背伸びをした。

「……ねえ」
閉じた扉の向こうから、声がした。
「何?」
閉じた扉の方を向き、問い返す。
「……また、駄目だったんだ、私」
扉の向こうの声が言った。
「昨日、編集者から電話が来てね、今回の受賞はなさそうだって。二次選考までは通ったらしいんだけど、最終候補には残ってないみたい。……また、来年頑張ろうってさ。あの、いつも、ぐちぐち意地悪ばかり言う編集者が」

力のない笑い声が聞こえた。

「……あーあ。あたし、向いてないのかな。やっぱり」
「そんなこと無いよ」
「いや、やっぱり向いてないんだよ。甘かったんだ。OLやめて、自分の好きなやり方で、人生生きてやるって、思ったのはいいけど、それはやっぱり、単なる日常からの逃避だったんだよね。同じ繰り返しの毎日に、うんざりしてて、ちょっと変化が欲しかっただけだったんだ。それなのに、気まぐれに書いた文章が、ちょっと上手く書けたからって調子に乗って……、こんなの所まで、行き着いちゃった」
「こんな所って……」
僕は思わず、そう呟いた。

「……たしかに、こんな所、はないよね」
彼女は再び、笑ったようだった。
「……あたし、やっぱり、だめだ。いろんな人にお世話になって、それをすっぽかして、ふり返りもしないで……。あなたにも、迷惑掛けてばかり。人の人生巻き込んで、こんな田舎まで越してきて……」

扉の向こうの声が、不意に静かになった。
小さな嗚咽が聞こえた。

また、思い出したんだな。僕はそう思った。
最近の彼女は、いつもこうだ。
時期的なものもあるのかも知れない。春が近づき、草木が芽吹く季節になると、相対的に、自分の心の底にあるものが、どうしようもなく避けがたいものとして、はっきりと見えてしまう。浮かれる心の一方で、どうにも動かない、その深く、暗い悲しみ。それが春の、もう一つの側面であることは、僕もよく知っている。何度もこうして、雪解けを待ってきたのだから。

「……ごめん」
彼女は小さな声でそう呟いた。
「やっぱり、思い出しちゃって……。こういう時に限って、……なんで、かな……」
「無理もないよ」
僕は扉の向こうの彼女に慰めを言った。
「僕らのしたことは、そう言うことだ」
「……はは……、そう、だよね……」

僕と彼女の間に、一瞬の沈黙があった。
僕は言葉を躊躇った。
彼女は言葉を選んでいるようだった。

「……ねえ」
沈黙を先に破ったのは、やはり彼女だった。
「……ちゃんと産んでたら、幾つになったかな」

「4つ」
僕はその年齢を忘れていなかった。それは、僕の罪でもあるのだから。
「4つ、か……。私達、若かったよね。たった四年前の出来事だけど……。いま、あの子が生まれるのなら、私、迷わず産んでるのに……」

彼女の声が涙声になった。

「……たった、四年間で、変わってしまうような都合で、私達は、一つの命を捨てたんだ。今更、それを欲しいと願っても、それはわがままに過ぎないよね。……出来ないのも、無理は、無い、か……」
「……君だけが、背負う事じゃない」
扉の向こうの彼女に、僕は語りかけるように言った。
「それは、僕にとっても背負うべき事だ。僕ら、二人の命だろう。そして、二人で決めたことだったろう?」
「……私達、二人で決められることだったのかな」

彼女の声が訴えかけるような調子に変わった。ドアのすぐ向こうまで、彼女はせり出しているようだった。

「一つの命が、産まれるとか産まれないとか、そんな都合は、私達が、自分のスケジュールに合わせて決めていいことだったの?それで、展開していったはずの一つの可能性が、可能性のまま消えてしまっても、私達は、生きていけるだけの権利があるの?」
「……すでに生きているんなら、生きなきゃならない」
僕は、乱れた彼女の心を静めるように、一呼吸置いて続けた。
「消えていった命を背負えるのは、今生きている僕らだけだから」
「……勝手だよ。先に生まれたものの、勝手」
彼女は言い捨てるように言った。

「……今でも時々、子供を産む夢を見るんだ。朝起きると、夢の中では大きかったおなかはすっかりしぼんでしまってる。その喪失感に……、なんだか、涙が出るんだ」
彼女は言った。
「こんな感覚、男の人には、解らないだろうな……。子を宿すってことを、身体で感じられるのは、私達だけだから……」

彼女はその後しばらく、トイレから出てこなかった。
顔を洗って濡れていたはずの僕の両手は、気がつけばすっかり乾いてしまっていた。

僕は先に洗面所を出て、居間に入った。朝食の用意は、もう調っていた。
居間の冬には炬燵として使う机の前に座って、静かに物思いにふけりながら外の明るい景色を見ていると、ようやく彼女が奥から出てきた。

扉の向こうで泣いていたとはつゆとも感じさせない笑みを浮かべて、照れくさそうに僕の向かい側に座ると、古ぼけたしゃもじで、白いご飯をひとすくい、使い古した茶碗によそった。

2009年4月5日日曜日

何も残さなかった

30まで生きるつもりはないと、男は日記に書いていた。

『僕のような人間が、いつまでも長生きしていいとはとても思えないのです。両親は、人の役に立つ人間になれ、と言って、僕を育てました。ですが、どうでしょう。生まれてきた僕は、人の役に立つどころか、人に迷惑を掛けてばかりの、ある種、社会の寄生者のような存在に、なってしまったのですから。両親も、心の底では、嘆き悲しんでいるに違いありません。実家に帰って、優しげに僕を受け入れてくれる老いた笑顔をみるとき、僕は自分の存在していること、そのものの持つ罪の深さに、目が回るようでした』

彼の日記は、所々手垢のような物で黄色い染みが浮かんでいた。彼はそれを一気に書いたのだろうか。乾いていないインクの上を掌が滑るように進んでいったものだから、文字が所々すれて、斜めに線が延びたようになっていた。
わたしはこれを書いた彼の肉体労働を知らない、皮の薄い掌が、きっとこの日記に使われたインクと同じ、ブルーブラックの曖昧な色に汚れていただろうと想像し、思わず苦笑せざるを得なかった。

『多くの人は、わたしを笑うでしょう。それならば何故、人の役に立つ仕事をしようとしてこなかったのか、と。いつまでの親にすがっていないで、自立することも出来たではないかと。幸い僕は健康ですし、肉体的に何の障害もありません。精神的に健康かと問われれば、それは自分では何とも判断の付きにくい部分もありますが、しかし、日常生活に特に支障は感じないので、おそらくは健康なのでしょう。そうなればなおさら、僕のしていることは罪以外の何物でもないような気がします。人を欺いてその金品を奪い、生活をしているのと、今の僕はどう違っていると言えましょうか。実質的には、そこに違いはないのです。ただ、一方が個人や法人と言った具体的なものを欺いているのに対し、僕は社会や世の中のような、とかく漠然としたものを欺いて生きていると言うだけの違いでしかありません。人の役に立っているような、さも一人の立派な人間のような顔をして、僕は人並みに通りを歩いていますが、実は、それだけでも一つの立派な犯罪なのではないかと、心の底ではびくびくと怯えているのです。いつか、僕の心の内を明晰に見抜いてしまうほどの眼力を持った人が、目の前に現れて、僕のどうしようもない本質を看破してしまうのではないかと、そのことばかりを恐れています』

彼の日記はここで、数行の空白を残して、次のページに飛んでいる。
しばらくここで何かを迷っていたのか、あるいは、時間的な間隔が実際に開いたのか、次の行からの文字は、以前のものより線が震えて擦れ、全体的に小さくなっているように見えた。

『全体、僕のような犯罪者ほど、社会において罪をなすものはないように思います。自分の利益のために人を殺す様な人間は、確かに極悪非道かも知れませんが、それはよりよく生きようとする、人類本来の向上心が、悪い方向に発露しただけとみることもできます。しかし、それならば、僕はどうでしょう。僕は何の向上も望んでいません。ただ今があり、そして、今日があれば、それで満足なのです。未来のことなど、考えてみても解りません。それはあまりに複雑すぎて、たとえ予定を立ててみても、土壇場になっていとも簡単に覆ってしまうと言うことに、僕は慣れっこになってしまいました。人間に、未来を予想するだけの知性があるのなら、失敗するものなど、そもそもいるのでしょうか。どれもこれもが、運のような気がしてなりません。努力に結果が付いてくると言うのは、誰も皆、成功者なのですから。彼らの足下に散らばる骸の声を、誰が聞こうとするでしょうか。彼らが努力したと言ったとて、皆口をそろえて、それでは努力が足りなかったのだ、と言いくるめます。そう言われれば、そうかも知れないとしか、答えられません。それは何の証明のしようもないからです。努力を測る物差しなど、誰も持ってはいないのですから。あったとしてもそれは、成功と失敗の2極しかない物差しなのでしょう。成功に至らないものは、すべて失敗なのです。言い換えれば、成功に導かない努力は、努力していなかったに等しい、と言うことも出来るでしょう。僕はつくづく、己の無力を感じています。努力とは時間の経過です。しかし成功は、その途中に構えられた一種の門のようなものに過ぎません。そして、人生もまた、時間の経過なのです』


彼の日記は、ここで一度終わっている。
次ページからは何の変哲もない毎日の記録に戻っていた。

彼のような、人生の敗北者に、耳を貸す必要など無いのかも知れない。
実際彼は、社会において何の役にも立たなかったし、私達家族に、彼が何をしてくれたのかと言えば、思い出すのも難しい。老後、彼がいなくなった後の私達夫婦を、支える羽目になるのは、彼の弟とその家族になるはずだ。彼はしっかりしているから、きっと兄のようなことにはならないと私達は期待している。

しっかりしている人間の話は、わかりやすい。
それはいつも、掴めるものを追うからだ。彼の兄のように、掌に入れられないものを追い掛けた人間は、いつも道に迷ってしまう。雲を掴む努力をしたところで、それが何になるだろう。わたしには正直、彼という人間が未だに理解できないでいる。親として彼を世に生み落としていながら、つくづく無責任なこととは思っているが。

ただ、不幸中の幸いは、彼があの飼われた生き物のような生活に、決して安んじていたわけではないと言うことだ。少しでも罪の意識を持っていたというのなら、それがたとえ、私達に向けた形式上のものであったとしても、親として少しは彼の『努力』を認めてやらないでもない。ただし、彼が言うように、成功に至る努力意外には、人は努力とは認めないものだ。そう言う意味では、彼は、何もしていなかったに等しかった。30年、生きていながら、何も。

2009年4月2日木曜日

揺れる

前の席に座っていた彼女が、髪を少し染めてきた。

その変化に、初め僕は気がつかなかったのだが、仲の良い友人の一人が、冷やかすように、僕にその変化を告げたので、僕はようやくそれに気づいたと言う位、それは染めたと言っても微々たる色の変化に過ぎなかった。

ただし、彼女はそもそも優等生的な性格の生徒で、髪を染めるというような、教師に睨みをきかされる危険をわざわざ冒すような感じでもなかった。目立つことも余りしなさそうな、ごく大人しい、真面目な生徒。僕は最近まで、彼女をそう思っていたし、それはクラスの、他の生徒達も、同じはずだった。

何故、急に彼女が、髪をを染めてきたのか。
クラスの、特に僕の身の回りの男子達は、しきりにそのことを噂しだした。僕の顔をちらりちらりと嫌らしい眼差しで見ながら、へらへらとした笑いを浮かべて、彼らは楽しそうに各自の持論を述べ立てた。

「...やっぱ、彼氏だよ」
ある友人が言った。
「だって、急に髪染める理由なんて、他に考えられるか?ぜってえ、男」
彼はそう言うと、歯をむき出して、僕の方を向いてへへへと笑った。
「あいつが、C組の工藤と一緒に歩いて帰るの、見たって奴いるぜ」
「ああ、ヤスコだろ」
別な男子が言った。
「ヤスコがバイト帰りに、駅前で見たんだってさ。7時位だって言ってたから、結構遅い時間じゃねえ?」
「工藤、電車通学だもんな」
にたにたと笑って聞いていた、最初の友人が言った。
「...どっかで時間潰して、送ってったんだよ、きっと」

僕はその話しを、興味があるような無いような、微妙な表情を浮かべながら聞いていた。正直、その話しを詳しく知りたいとは思わなかった。ただ何か、自分の想像できない場所での、彼女の振る舞いや、見たことのないはずの情感のこもった表情が、ありありと脳裏に浮かんできそうになって、僕は慌てて、その思考を抑えていた。

「お前、いいのか?」
最初の友人が言った。
「工藤に取られちまうぜ」
「...べつに、いいよ」
僕は、薄ら笑いの表情を変えずに、彼に言った。
「付き合っているわけでも、ないし」
「だから、子供なんだよ」
あきれたように彼が言った。
「付き合ってるかどうかじゃないだろ、お前が好きか、どうか、だ」
彼は、また歯を見せて、にたにたと笑った。
「行っちまうぞ、そんなこと言ってると。いずれにしろ、損するのは、お前だ」


放課後、僕と彼女は、一緒の掃除の班だった。
体育館掃除という、何とも漠然とした掃除。運動部が、毎日、念を入れて磨いているアリーナに、僕らがすることなど、何もなかった。とりあえず、薄汚れたモップを持って、広い体育館を、縦横に往復する以外、することはないのだ。

掃除が終わり、班の他のメンバーらは、さっさと教室に戻ってしまった。
班長だった彼女は、掃除が終わったことを体育教官室に伝えに行った。僕はそれを見届けた後、他のメンバーの後を追い掛けて、教室に帰ろうとした。


その時、ふと、体育館のステージの上に、バスケットボールが一つ転がっているのに気がついた。誰かが、体育の時間にでも使って、そのままになっているのかも知れない。僕は余り気に留めなかった。だが、気づいていながら、そのままそこを立ち去るのも、後ろめたいように感じた。仕方なく、ステージの上に上がると、そのボールを拾い上げ、手持ちぶさたにドリブルをしながら、用具室の古びたカゴの中に、そのボールを放り込んだ。

「...まだ、なにかあったの」
後ろから、彼女の声がした。
「...ボール」
僕は振り向くと、彼女に向かって、手短にそう答えた。
僕がふり返るとほとんど同じ位のタイミングで、彼女は丸い目を大きく開けて、何か言いたそうにしながら、くるりと向こうを向いてしまった。そして、僕の先に立つかのように、ゆっくりと出口に向かって歩き始めた。

僕も何か話したいことがあったわけでもないし、彼女の後に付いていくようにして、何もない体育館を縦に歩いた。

先に立った彼女の髪は、言われてみると、少し茶色っぽいような気がした。しかし、それくらいの色であれば、光りの加減で、何とでもなるという程度の色の明るさだった。もしかすると、彼女は元々やや赤毛で、最近になって、ようやく周りがそれに気づいたというだけのことかも知れない。僕はその時、そう思った。

先だって歩く彼女の髪が、深い紺色の学生服の上で、彼女が歩みを進める度、ゆらゆらと迷うように大きく左右に揺れた。それは少々、僕にはわざとらしくも見えた。もしかすると彼女は、変化した髪の色に、気づいてもらいたかったのかも知れなかった。

それでも、正直、僕はもう、彼女に話すことなど無いと思っていた。
いつも通りを装っていても、彼女は本質的には別の人間になってしまったように僕は感じていた。恋愛をしてしまった人と、未だしていない人の間には、大きな差異があるように僕は思う。前者はいつも嘘つきで、可能な限り真実を小出しにしようとし、後者は悲しくなるほどに、自分を表にさらけ出そうとする。

今の彼女は、その嘘つきになってしまったのかも知れなかった。自分の気持ちのよりどころを隠し、いつもと同じ彼女を、装っているだけかも知れなかった。僕にかけてくれるどんな言葉も、それは装うための文句に過ぎず、本当の心のありかは何処か遠い、自分の知らない誰かの所にあるのに、違いなかった。

彼女の揺れる、やや赤い髪は、その内心を早く公にしたいという、相反する彼女の心の表れではないかと、僕は思っていた。僕はだから、彼女に、もう何も話しかけたくなかった。言った言葉のすべては、僕の中で嘘になり、傷つくことだけが、いつも真実になってしまうのだ。

真実など知りたくなかった。
嘘なら嘘で、ずっと優しい嘘をついていて欲しかった。
彼女をこのまま恨んでしまいたかった。もう、何を言っても、出来る限りぶっきらぼうに振る舞って、何も話すことなどしないでいてみようと、目の前で揺れる、やや明るくなった様にも見える彼女の髪を見ながら、僕は硬く、心に誓っていた。

「ねえ、」
前を歩いていた彼女が、少し僕の方を振り向いて言った。
「...あんまり、後ろばっかり、見ないでよ」
彼女はおかしそうに笑った。
「いつもそうなんだから。後ろを歩かないで、横に立ってくれればいいじゃない。話も出来ないよ」

僕はそう言われて、咄嗟に彼女の横に立った。
彼女は柔和な笑みを浮かべて、僕を見ていた。それが何を意味しているのかは、解らなかった。

「お姉ちゃんがね、」
やや唐突とも思える間合いで、彼女が言った。
「...わたしの髪は重いから、少し染めてみたらって言ったんだ。髪なんて、あんまり染めたこと、無かったんだけど、そんなに色は抜かないからって」
彼女は自分の髪を右手の指先に少しつまんで、首を傾げるようにして、それを見つめた。
「なんか、ちょっと赤かったかな」
「...気にならなかったな」
僕は言った。
「そう?」
彼女は、意外そうに僕の方を見つめた。
「結構、鈍感なんだね」
彼女はおかしそうに笑った。
「...ついでに、前髪も切ったの、気づいてた?」
「いや、全然」
僕は答えた。彼女はまた、口に手を当てておかしそうに笑った。
「...今日、教室の後ろの方で、わたしが髪染めたこととか、みんなで話してたでしょ?あの人達、今日わたしが学校来たらすぐ気づいて、何で何でって、その話しばっかりしてたの。わたしが、お姉ちゃんに言われたことを話したら、納得したくなかったみたいで、なんだか残念がってた。...みんな、変化をほしがってるんだね、たぶん。恋愛とか、失恋とか」
彼女は、穏やかな表情を浮かべたまま、静かに溜息をついた。
「そんな、面白いことばっかり続かないのは、お互い様なのに。....私達みんな、カゴの中の鳥みたいだよね。本当はもう飛べるのに、飛べないと思いこんで、大人しく、ご飯をもらったりして。出来ることと言えば....、誰かを思って、歌でも歌うくらい。届かないかな、なんて、思いながら」
彼女がふと、僕の方を見た気がした。しかし、それは気のせいのようだった。
僕が見た時には、彼女は平然とした顔で、前を向いて歩いていたから。

その時、彼女が僕の見つめる目の前で、またもや唐突に口を開いた。
「...コンタクトにしてみたら?」
「え?」
「ううん、部活でも楽になるかなって、思っただけ」
そう言うと、彼女は歩く速度を速めて、再び僕の前に立って歩き始めた。そして、体育館の入り口までたどり着くと、小さくなった身体で僕の方を振り向いて、
「...かぎ、閉めるよ!」
そう言って、本当に向こうから扉を閉めて、鍵を閉める動作をした。

僕が慌てて彼女に追いついて、扉を押し開け、今にも鍵を掛けようとしたその手を押さえてしまうと、僕の眼鏡越しに一瞬、僕の目を彼女が見た。そうして、今度は僕の見つめる前で、少し勿体ぶるように、ゆっくりと、誰もいなくなった体育館の扉に鍵を下ろした。

2009年3月31日火曜日

サマー・バケーション

何もない草むらの上にオレンジ色の縁取りのハンカチが一つぽつりと寂しそうに落ちていた。

誰の物だろう。
少年はいぶかしがりながらもそれを拾って、両手の指につまんで、そのハンカチを広げてみた。右下に、風船をもつくまの絵。

明らかに子供向けの、しかも、おそらくは女の子向けのハンカチだった。

尚ちゃんのだろうか。
少年は咄嗟に、近所に住む少女の名前を思い浮かべた。
でも、その少女は普段ハンカチを持ち歩いているような印象はなかったし、こんな何もない辺鄙なところまで、わざわざ遊びに来ているとも思えなかった。ここは集落から大分離れた、丘の上だった。来るのはせいぜい、山奥から木材を運び降ろす軽トラックか、少年くらいのものだった。

一体、誰のだろう。
少年は、ハンカチを裏返したり、ひっくり返したりしながら、何処かに名前が書かれていないかと調べた。しかし、ハンカチのわきに飛びだした説明に、『Made in Taipei』と本当に小さな文字で書かれている以外、名前らしい名前は見あたらなかった。

ひょっとすると、少年の知らない誰かが、わざわざ、ここまで遊びに来て、そうしてこれを落としていったのかも知れなかった。だとすれば、落とした人は困っているかも知れない。少年はそう思ったが、届けたくても、それを何処に届ければいいのか、見当が付かなかった。落とし物は交番に届けましょう。そう、学校では教えてくれたけれど、交番なんて物は、大人に車に乗せていってもらわなければ行けないほど遠くにあった。こんなハンカチ一枚のために、父親が、わざわざ車を出してくれるようにも思えなかった。

少年は仕方なく、そのハンカチを、もとあった草むらに置いた。
そして、後ろ髪引かれる思いで、その丘の上を後にした。



翌日は雨だった。
少年は家の窓から、白糸のように降りしきる雨を見つめていた。ざあっ、と言う音が、家の中のすべての小さな音をかき消して、そして世界の余計な音までも雨の音に染めていった。雨の降る日は、だから不思議と、雨音の分だけ世の中が急に静まってしまったような寂しさを感じた。

昼なのに薄暗い家の中から見える空には、分厚い雨雲がたれ込めていた。
少年が見ている間にも、雨雲は時々そのずっと上の方で、ぴかりぴかりと閃光を発していた。雲全体が、なんだか薄青い炎を纏っているようで、気味が悪かった。


ふと、目を地面に向けると、母親が取り込み忘れたのか、小さな靴下が一つ、雨ざらしになった庭の上に落ちていた。靴下は泣いているようにも、いじけているようにも見えた。忘れられていることをねちねちとひがんでいるのか、それはじっと雨に打たれたまま、泥を浴びた庭の上で、やけに白く光って見えた。

それを見て、少年は昨日拾いかけた、一枚のオレンジ色の縁取りのハンカチを思い出した。あのハンカチも、今あの靴下のように、雨に打たれて、すねたように昨日の草むらの上で、じっと拡がっているのだろうか。そう思うと、彼は、なぜだか後味の悪い物を感じた。

ハンカチに、実は謝らなくてはならないような、妙な気持ちを抱いて、少年は窓の向こうの一足の靴下に対してさえ、それ以上だまって見つめていることが出来なくなった。母親に見つかったら、むしろ怒られるのではないかと思いながらも、少年はわざわざ彼の青い長靴を履いて、そして、黄色い雨傘を差して、激しく雨の降る雨中に出た。

家の雨樋から垂る大きな水滴が、彼の傘の幕に当たって、ボツボツという張りのない、低い音を立てた。彼は、自分の手を必要以上に汚さないように、人差し指と親指の間に濡れた靴下をつまんで、汚い物でも運ぶような格好で、それを玄関の中まで持ってきた。

靴下からはびちゃびちゃと、汚い泥の雫が絶えず落ちていて、持ってきたのはいいものの、玄関に脱いだままになっていた父親の黒い革靴の上に泥水が随分と垂れてしまった。
そのまま上がってしまったら、母親に大目玉を食らいそうなことくらい、少年は重々承知していたので、迷った挙げ句、彼はその靴下を、玄関の誰も見向きもしない暗い片隅に、そっと寝かしつけるように、広げておいた。


玄関を上がって、元いた場所に戻ってきても、彼には、その靴下が心残りだった。
水を絞ることも考えたが、そうすれば、今度は自分の手が汚れてしまう。そこまでして、靴下を拾ったところで、泥だらけの靴下を、母が何処まで受け入れてくれるのか、解らなかった。それを洗濯機に入れるような母だろうか。それとも、それを汚いと捨ててしまうのだろうか。少年には解らなかった。どっちの結末も、彼には余りいい気がしなかった。

結局、雨中に忘れられた靴下は、いずれにしろ余りいい最後を迎えることはなさそうだった。少年は、靴下に対して、少し申し訳ないような気持ちを抱いた。昨日まで黙って履かれていた靴下を、こんな最後に終わらせてしまうのが悲しかった。


翌日は打って変わって、嘘のような快晴だった。
雨の降った後の空は、同じ空とは思えないほど高く、澄んでいた。
山の緑は生まれ変わったように鮮やかに輝き、草葉の先端には小さな雫が留まって、見る角度によって、女の人が耳に付ける宝石の飾りのように、ちらちらと踊るように光を放った。

少年は、朝ご飯を食べると、すぐにあの丘に登った。
あの日からずっと気がかりだった、一枚のハンカチの無事を、一刻も早く確かめたかった。

草むらにたどり着くと、少年はすぐに、ハンカチのあった場所を丁寧に探し始めた。
雨の乾ききっていない草は、すぐに少年の腕を濡らし、半袖のシャツに幾多の水玉模様を浮かび上がらせた。雫が半ズボンの先から出た腿を濡らして、ひやりと冷たかった。それでも彼は、筋の細い、硬い草をかき分け、その下にあのハンカチが、悲しげに眠っていないかを確認するために、あちこちに草むらを見つけては、そこに飛び込んだ。

しかし、彼がいくら探しても、その場所にはもう、あのハンカチは見つからなかった。昨日の雨の後、少し風が出ていたような気もした。少年は探す場所を少し変えて、近くに生えた高い木の途中まで昇ってみたりして、隈無く辺りを探したが、もうあのハンカチは、何処にもいなかった。

少年の頭の中に、あの風船を持ったくまの絵が寂しく浮かんだ。
風船を持ったくまは、頭の中でも楽しそうに笑っていた。ちょうど遊園地で、大人に風船を買ってもらった時の少年のような、跳ねるような足取りで、オレンジ色に縁取られたハンカチの中でくまは歩いていた。

少年は、一昨日、ハンカチを持って帰らなかった自分を悔やんだ。
あのハンカチが、好きだったわけではないのだけれど、それを持って帰るのを躊躇ったばかりに、永遠に、もう彼の前から失われてしまったことに気づいて、小さな背中が、なぜか、すうっと冷えていくのを感じていた。