始めそれは、老人の思い過ごしかと思われた。
彼はその亡き妻にうり二つな女を目の前にしても、まだ己の目が信じられずにいた。
女を客間に通し、かつては妻が使っていて、今は来客用に取ってある布団を与えると、老人は自室に戻って、タンスの奥から、古いアルバムを取り出してきた。
それは、彼と、妻が結婚した時に記念として撮った写真だった。
セピア色の画面の向こうで、若き日の老人と、彼の妻が、幾分緊張した面持ちでこちらを見つめていた。なれない装束を着せられた妻は写真越しにもぎこちなさが見えて、老人は当時の慌ただしさを思い出し、思わず微笑んだ。
その妻の表情はちょうど、先ほど彼の前で不安げに嘆願した女の表情に、やはりよく似ていた。彼の妻の方が、幾分丸い印象は受けたものの、それ以外は全くそっくりだった。
「こういう事もあるものか」
老人は独りごちた。
「涼子が帰ってきたかのようだ」
古いアルバムを、元の場所に大切に仕舞うと、老人の足は自然と、女の眠っている客間の方へ向かった。
特に、目的があったわけではないが、この奇跡のような光景を前にして、彼は居ても立ってもいられなくなっていたのだった。何となく、その奇跡に寄り添っていたい気持ちが、彼の中に働いたのである。そんなことは実際無理だとしても、彼はたとえ一寸でも彼女のそばにいたかった。
老人が客間のそばまで来ると、閉じられた襖の間から、僅かな明かりが漏れているのが見えた。女はまだ、眠っていないようだった。
「もしもし」
老人は襖の向こうへと声を掛けた。
「はい」
はっきりした返事が聞こえた。考えてみれば、今時分は普段の老人にとっては寝る時間だが、彼女位の年齢の人にとってはまだまだ起きていてもおかしくない時間だった。
老人が静かに襖を開けると、女は案の定、まだ着替えもせず、古い布団の上に座っていた。
「眠れませんか」老人がそう言うと、女は
「ええ...。」とだけ言って、困ったように笑って見せた。
「こんな夜更けに、どういう事情があったのか...。無理を言うわけではないのですが、もしよかったら聞かせていただけませんか。私ごときが、なんの話し相手になるか知れませんけれども。」
女はその老人の申し出が意外だったらしく、目を大きく見開いた。黒い瞳が鮮やかに濡れていた。
「ええ...。」女はしかし、何かを躊躇うかのようにその目を伏せた。
「それは...。」
女の様子に、何かよほど言いがたいものがあるのだと悟った老人は
「いえ、いいのです。...何か理由がおありでしょう。今日はとにかく、ごゆっくりお休みなさい。」とだけ言って、その場を立ち去ろうとした。
「!、 あの....。」立ち去ろうとした老人を、女が呼び止めた。「あの...。」
「どうしました?」老人は振り向いて、女の表情をのぞき込んだ。その目には、今にも零れんばかりに涙が溜まっていた。
女の、その涙の溜まった目は、老人の瞳を避けるようにしばらく何もない畳の上に向けられていたが、やがて、意を決したように老人に向けられた。
「しばらく、ここに置いていただけないでしょうか。」
その申し出が意外だったので、老人は驚いて思わず目を丸くした。
女はそんな老人に構ってもいられない様子で、
「理由は...。必ず話します。お願いです、2,3日でもいいんです。もう少しだけ、もう少しだけ...。」女はそう言うと、無意識にか、頭を布団にすり寄せるほどに下げて老人に懇願した。
「いや...。まず、頭をお上げください。」
老人は彼女の肩を支えるようにして、頭を上げさせた。
女の顔はもう、涙ですっかり濡れていた。まぶたと鼻の頭が、子供の泣いた後のように、すっかり赤くなっていた。
「2,3日と言わず....。あなたの気が済むまでいらっしゃったらよろしい。理由など、特に言う必要もない」
それを聞くと、女の瞳から、また涙が溢れた。そして泣きながら、何度も、ありがとうございます、ありがとうございますと、繰り返した。
部屋を出て襖を閉めると、老人はその足で仏間へ向かった。
そこには彼の妻の遺影が、梁の上に掲げられていた。姪の結婚式に出た時の、久しぶりに着飾った晴れやかな表情だった。彼女から彼に向けられる、静かな眼差しを老人は意識しながら、妻の遺影の前に頭を垂れ、これを信じていいのか?と妻に問いかけた。
女がここにしばらく泊まっていきたいと言い出した時、思わず浮ついてしまった自分の気持ちに老人は少なからず罪悪感を覚えていた。忘れていたはずのそうした感情が、まだ時分の奥底に確かに残っていたことに、老人は少なからず驚いていた。
「私が、世の中を避けてこんな田舎へ越してきたのは、もしかするとこういう気持ちを避けるためだったのかも知れない。」
暗闇の中で老人は一人呟いた。
「お前を失って、ただでさえ、流されそうな心を...。」
老人はそこまで言って口をつぐんだ。無言の内に、彼は亡き妻と会話しているようだった。
彼はしばらくそうして、暗がりの中で黙ってじっとしていたが、やがて、伏せていた顔を上げると、彼にほほえみかける妻の遺影に向かって
「いっそのこと気持ちの奥底まで、枯れ果ててしまえれば楽なのに...。」
ふと、そんなことを言って、一人、笑った。
遺影の妻は変わらぬ表情で、静かに男を見つめていた。
2008年9月3日水曜日
無題
2008年9月1日月曜日
無題
ある晩のことだった。
季節はすでに秋で、7時にもなると辺りは暗くなった。老人にとって、特に遅くまで起きている理由もなく、その日も早くに寝るつもりだった。老人は自分一人の寝床を整え、そうして眠気が訪れるまで、布団の中で静かに横になっていた。
その辺りは、都市に近い海辺がみんなそうであるように、夜遅くになると暴走族がひっきりなしに通り過ぎた。当然警察もそれを警戒して、網を張っているので、毎晩彼の家の前の道路では、激しいカーチェイスが行われていた。老人にとっては、轟音を立ててバイクを乗り回す若者も、それを大声上げて追いかけ回す警察も、どちらも眠りを邪魔する騒音の主には違いなかった。故に、老人が早くに寝床に着くのは、そうした夜の喧噪が始まる前に寝入ってしまうためでもあった。
それは、柱時計の鐘が8つを打った時だった。
どんどんと、玄関の戸を叩く音がした。ちょうど寝入りばなだったので、始めは夢かと思っていたが、いつまで経っても、戸を叩く音は鳴りやまなかった。何事かといぶかしがりながらも、老人はゆっくりと立ち上がり、玄関の方へと歩いていった。
老人の動きが、あまりに遅かったので、扉を叩いていた主は、どうやらすでにあきらめていたようだった。老人が玄関へたどり着く頃には、もう扉を叩く音はすっかり止んでいた。それでも老人は念のため、鍵を外すと、戸をがらりと開けた。
そこには、薄暗い玄関の明かりに照らされて、不安げな女の顔があった。
老人は、その顔を見て一瞬はっとしたように目を開いたが、それは女には気がつかなかった。
「すいません、」女は不安げな表情のまま、老人に言った。肩まで伸びた髪は所々乱れていた。
「お宅の前で車が動かなくなってしまって...。この辺りに、ガソリンスタンドか何か、ありませんでしょうか。」女の声は押し殺したような小さな声だったので、老人には上手く聞き取れなかった。ただ、その女の様子から、随分困っているようには察せられたので、
「こんな夜分遅くに...。まあ、とにかく、中へお上がりなさい」
女にはとんちんかんな回答と思われるだろうと思いながらも、老人は彼女をとりあえず中へ招き入れた。女は、老人の目の前に現れた時からすでに、理由は分からなかったが、しきりに辺りを気にしていた。老人にはそれがずっと引っかかっていた。
「でも、車が...。」
女は、後ろを振り向いた。明かりの消えた車が、国道の真ん中で、老人の家の出口を塞ぐように止まっていた。
「車...。」老人はそれを見て、ようやく状況を察したらしく、
「あそこに置いておくと、夜中に騒がしい連中が来て、悪戯されることがあるから、私の家の庭に、とりあえず入れなさい。」そう言って、足下にあった草履を突っかけて、彼女に先立って歩き出した。女はどうして良いのかすっかり困っているらしく、その後ろから何も言わずにおずおずとした様子で付いてきた。老人が運転席のドアを開け、サイドブレーキを外して、ハンドルを取ると、女はようやく後ろからそれを押し始めた。車は、幸い軽自動車だったので、二人の非力な人間の力でも、それほど労無く動かすことが出来た。
車をすっかり庭の中に入れてしまっても、女の顔から不安げな表情は消えなかった。
「お電話、お借りしても良いですか。」
女は、老人の瞳をのぞき込むように言った。
「携帯をおいてきてしまったもので..。」
「ああ、どうぞ、どうぞ。」老人はそう言って、女を内に上げ、電話の前まで案内して、自分は居間に入っていた。
「...。」
電話を前にして、女は受話器は取ったものの、一向に何処かへ掛ける様子はなかった、じっと、受話器の無くなった電話機を見つめるようにしながら、女は何かを思い詰めているように見えた。
ややしばらくして、女は結局、どこへも電話した様子のないまま、受話器を置いた。
そして、老人の前に座り込むと、
「すいません、今日一晩だけ...、今日一晩だけ、泊めていただけないでしょうか」と言って頭を下げた。
「...ええ、それは構いませんが...」老人は女の何か必死な様子に、頷かないわけには行かなかった。
「ありがとうございます」
女がそう言って、一度顔を上げて老人を真正面から見た。その表情を見て、老人は再び、何かが胸の中に激しく渦を巻くのを感じた。この女を放って置いてはいけない。彼の奥底にそのような理由のない、熱い意志のようなものがわき上がるのに、彼自身驚いていた。
女は、年は30も後半だろうか。確かに美しい女ではあったが、どこにでもいる程度の美しさであることは、老人は十分認識していた。彼の年を経た精神は、もはやそのようなものに、闇雲に感情を乱されるほど素直ではなかった。むしろ、頭の一方で冷静にその場を見つめる余裕すら、彼にはあった。だからこそ、自分の心理の一方に、そうした理由のない感情がわき上がってきても、彼はそれはそれで受け入れながら、そんな様子はおくびにも出さずに、目の前の女を観察することが出来た。
それでも、老人は少なからず動揺はしていた。
その女は、若き日の、彼の妻の姿に、あまりにも似ていたからである。
2008年8月30日土曜日
無題
東京から神奈川に入り、海の見える海岸線沿いの道をずっと南下していった先に、小さな一軒家があった。
「早々庵」
その家の入り口には、古い木材に、筆字でそう書かれた表札がかかっていた。
その家に住む老人は、齢67に過ぎなかったが、頭はほとんどはげ上がり、見た目にはもっと年取って見えた。
先年妻が亡くなったため、彼は一人だった。それでも、家の庭に小さな畑を構え、そこでピーマンや白菜など日常使う野菜を育てては、自らの食事に供するという生活をしていた。幸い病気もなく、街に通うのも、数時間に一本走るバスに乗って、週1,2度出れば十分という生活をしていた。
早々庵、と言う名前は、彼の妻がまだ元気だった頃、せっかちな彼をよくからかっていたことに由来している。しかし、若い頃はせっかちだった老人も、今ではすっかり大人しくなった。
「お前ののんきさが、移ったのかな」
老人は姿のない妻に、時々、そう語りかける。
妻が亡くなり、家族は彼と、一匹の猫だけになった。
子供は結局授からなかった。妻は、それを気に病んで、死ぬ間際まで、度々それを口にした。
夫はそれを聞く度、
「そればかりは、運命みたいなものだ」
と言って妻を慰めてはいたが、何かしら後味の悪いものが残った。
彼も子供が欲しかったのは山々だったからだ。
結婚する前、子供は何人欲しい、などと喜色ばって二人で話していた頃を思い出す度に、夫は溜息をついた。
しかし、その妻もなくなった今では、その夫は、これはこれで、良い人生だったと思っていた。二人の間に、子供という存在がなかった分、彼らは何時までも、夫婦でいられた。他の同僚達が、何時しか夫婦から、父母へと移り変わっていったのとは対照的に、彼らは彼らを大切にして時間を過ごすことが出来た。それだけ、彼らの間には濃密な時間が流れていたし、おそらくは、子供のいた夫婦よりも、その絆は強かったのではないかと、老人は思っていた。
一匹の猫は、その時間を、特に後半の数年間を見てきた猫だった。
子供がいなかったので、夫妻は猫を数匹飼っていた。始めは、近所の数匹の野良猫に、妻がえさを与え始めたのがきっかけで、それから人なつこい赤い虎模様の一匹が、すっかり飼い猫のようになついてしまったのだった。飼ってみると、その猫は雌だったようで、ある日、縁側の下に捨てられた段ボールのなかで、かわいらしい子猫を数匹産んだ。その子猫のうちのほとんどは猫同士の力関係に破れたのか、家を去ってしまったが、一匹の斑の猫だけが家に残った。長い夫婦生活のなかで、猫は何度も子供を産み、そして世代が代わっていった。
今いる猫は、始めに飼った猫の、7代目か8代目くらいに当たっていた。心なしか、その頃の猫の面影が、ここにいたって再び蘇ったような気がするほど、その猫の毛並みはかつての猫に似ていた。名前は、初代の猫にあやかって妻が「とら」と名付けた。8歳の雌の猫だった。
老人は晴れた日には、縁側から道路越しに静かな海を見ながら、とらの頭を撫でているのが好きだった。とらも、もう長いことそうされてきたためか、老人の細い足の上で、大人しく丸くなっていた。
神奈川沖を通る船は昔老人が見た時よりも大きく代わっていた。
かつては小型の釣り船や、漁船が行き来していた頃もあったが、今では大きなレーダーを積んだモーターボートのような船が縦横無尽に駆け回ることが多くなった。遙か沖の方では、大型フェリーかあるいはタンカーや貨物船の様な巨大な船が、海に浮かぶ要塞のようにじっとして、そしてじりじりと前進しているのが見えた。
有機的に打ち寄せる波間に、そうした無機的な構造物が、浮かび上がっている様を見るのはなんだか不思議な光景だった。
それでも、老人は総じて海が好きだったし、それはかつての妻も同じだった。この家はそもそも、彼と彼女が老後に住まうために購入した家だったからだ。その妻は、この家にまもなく越すという段になって死んだ。
老人は計画を一年延期し、ここに住まうことを半ばあきらめた時期もあったが、結局ここに引っ越して来た。
妻の亡くなった家に何時までもいるのはつらかったし、彼女も夢見ていた生活であったから、老人は彼女の魂と暮らすつもりで、この家を彼の最後の住居にすると決めた。
越してきてすぐに、声を掛けてきたのは隣の家の夫人だった。
長川、と言うその家は代々その土地で漁師をしており、彼の夫もまた漁師だった。ゴム長に防水のカッパ姿で現れた長川の夫人は、老人が一人暮らしであることを知ると、幾分不安そうにしていたが、「何かあったらいつでも声を掛けてください」と気さくに受け入れてくれた。
田舎住まいの経験に乏しかった老人としては、そのような隣人の好意というものにほとんど触れずに過ごしてきたので、たったこれだけの心配りにも、大いに感激したものだった。
長川の夫妻は、実際本当に老人を気に掛けていた様子で、時々彼を食事に招いてくれた。
彼らには中学生になる男の子と、今年小学校を出る女の子がおり、家は常に騒々しかった。中学の男の子の方は、思春期と言うこともあって、見知らぬ老人にうち解けるのに随分時間がかかったが、この夫妻の子供だけあって元来素直らしく、半年もすると老人にぼそりぼそりとではあるが口をきくようになった。
女の子の方は早いもので、あっという間に老人と親しくなり、退屈な時は彼女の側から老人の家に遊びに来るほどだった。
長川の家で出される料理はどれも取れたての魚介で、一人暮らしでそういうものをなかなか食べる機会のない老人には大変ありがたかった。お礼に彼の方でも、季節事に、家で取れた野菜を持って邪魔することにしていた。
素人の作った、形の悪いものも多かったが、長川の夫人は喜んで、それをその日の夕食に早速使ってくれた。老人にとってそれは自分の努力の報われる、何とも言えず楽しいひとときだった。
2008年8月28日木曜日
サテライト
これは裏切りに当たるのだろうか。
なめらかな女の肌の上で、男は自問自答していた。
時は深夜。週末の捨て鉢のような喧噪が静まり、人々がふと、何か埋めがたい物寂しさを覚える頃。
男もまた、一人、あふれ出してくる孤独に耐えかね、同じような気色に囚われた様子の女と供に、他人の歴史に汚れた寝床の上で、夜を明かそうとしていた。
そのホテルに入ったのは、男にとって初めてのことだったが、彼が特にそのような素振りも見せなかったため、女は終始、男がよく、ここを利用するものだと思っていたようだった。
慣れた手つきで入り口の手続きを済ます男に、女はやや皮肉の混じった一瞥を向けた。
「何?」
男がその眼差しに気付き、問いただしても、女は特に返事せず、微かな笑みを浮かべたまま、不信げな瞳を向ける男を見つめ返していた。
男はその表情に、何か空寒いものを感じたが、特にそれ以上問うこともせず、先に立って、割り当てられた部屋に入った。
女も、何も言わず後に続いて入った。
男は、この女をよく知らなかった。
顔見知り。あえて言えばその程度の仲だった。彼がこの街に越してきてもう1年近く経つが、男は自分でも笑ってしまうほど、他の女との関係を持たなかった。
男の中には一人の女の面影が常にあった。
その女とは、結局、結ばれはしなかった。もう別れて、何年も経っていた。だが、どれほど時間が経っても、遠い土地に引っ越してきていても、その影はいっこうに消える気配がなかった。
男はもう、自分は十分に恋をしたと感じていた。
その、男をとらえて放さなかったかつての女のために、彼は身を焦がれるような思いを何度も経験した。思えば、青かったと男は今は考えていた。単に、女というものを、知らなかっただけなのだと。
しかし、なぜか男はその後、それ以上誰かに恋をする気には、なれなかった。
何度か試みたことはあったが、あの頃のように、自らを捧げるような気持ちには、いつまで経っても、なれなかった。
プロセスが似通っている。
男はそれが原因だと思っていた。
どの恋愛も、かつての恋愛を思い出すのに足りるほど、似ている。
それが男に、かつての女と、目の前の女を、容易に比較させ、色あせたものにしてしまう何よりの理由だと、彼は感じていた。
「どうしたの?」
体の下で、女が不思議そうに男を見上げていた。
「...何でもないよ」
男は静かに、女の体を撫でた。
「...変なの」
女はそういって、息を漏らした。
二人の間に、それ以上の会話はなかった。
なぜ、今頃になって、たいして好意を抱いていたわけでもないこの女を、ここへ連れ込むことになったのか、男は自分で、説明がつかなかった。
自分に関心を抱いてくれた女は他にもいたはずで、彼はそれを、これまで、ことごとく無視してきたはずだったのに、今夜はなぜか、この女をこうして受け入れてしまった。それが彼には解せなかった。
男はまじまじと、女の体を見た。
それは、かつての女とは、似ても似つかなかった。
貧相で、生臭いものに男には感じられた。
男は、かつての女の裸身を実際に見たわけではなかった。
それは彼なりの、空想に過ぎなかった。そしてその空想は、長い時間のうちに美化されてしまい、最終的には彼女の顔のような、それまで幾度となく見てきたはずのものでさえも、実物の彼女よりも、ずっと美しくなってしまっていた。
そうなるともはや、誰を本当に愛しているのか分からなかった。
しかし、男はそれを自分自身で知りながら、ずっと黙認していた。
どうせ叶わない恋ならば、それは現実でも、空想でも、同じ事だった。
むしろ空想の方が、彼の望みに従っている分だけ、ストレスが少なかった。
実際に恋愛している時に、どれだけ現実の女を、俺は見てきたのだろう。
そう思うとおかしかった。
実際には、自分の空想を、多分に現実の彼女に重ねていなかったか。
結局、俺は空想に始まって、空想の内に終わったのだ。男は思った。
彼女を題材にして、一人で夢を見ていたに過ぎなかったんだ。
目の前にいる、生身の女からは、男はあまり魅力を感じなかった。
普段のすました表情からは想像しえない、しかめしい表情や鬼女のような声に、男の心はむしろ滑稽さを見た。
ただ、生理的に男は女を求めていた。
二人の間に展開されているのは、ただそれだけの行為だった。
俺は二人の人間を裏切った。
行為が終盤に至った頃、男は思った。
この後に続く恍惚と快楽は、その代償になりうるのだろうか。
そもそもこの行為は、何かの約束か?
そんなことを考えている内に、あえなく女が音を上げた。
あいつも、今頃誰かの下で...。
そんなことを考えながら、男は、その行為を締めくくった。
2008年7月21日月曜日
metamorphosis
さなぎは窮屈だよね。
それまでは自由に、好きな葉っぱに昇っておいしい緑の葉っぱを食べていた芋虫が、さなぎになってしまうともう1センチも動けずに、狭い土壁に囲まれた個室の中で、身動き取れないで眠ったようになっている。私、あれに似たもの見たことあるんだ。昔近くの美術館でエジプト展をやっていた時に、エジプトの偉い王様のミイラが、固い木か何かで出来た入れ物にすっぽり収まってたの。そのミイラの入れ物にも、きれいな絵が描いてあって、王様の似顔絵がしっかり描いてあるんだ。まるで、これはこの王様の入れ物ですって言ってる見たいに。さなぎもよく見ると、そんな感じじゃない?よく見ると成虫に似た形はしているけれど、ちっとも動けない。固い殻をかぶった入れ物。あの中では、内蔵がどろどろに溶けてるんだってさ。古い自分を壊して、全く新しい自分になるんだ。自分が壊れるってどんな気分かな。新しくできた自分は、本当に「自分」なのかな。虫に聞かないとわかんないんだろうけど、無駄と分かってて時々考えちゃうよね。自分が造り変わるって、どんな気分だろう。気持ち悪いんだろうな、相当。初めて生理が来た時みたいに、なんだか自分が自分でなくなっていくのはやっぱり怖いよね。自分の意志とは無関係に、大人に引きずり込まれていくあの怖さ。きっと昆虫も、あれをずっと味わっているんだよ。暗い、湿った土の中にいて。
自分が作り替えられると、自分の考えも変わるのかな。でも、それを感じる自分も変わっているんだから、けっきょく変わったことには気がつかないのかもね。私も気がつかないうちに、たぶん去年の私とは変わってる。弟から見たら、私は変わってしまったんだろうな。大嫌いなお父さんやお母さんみたいに、私は弟からは見えているんだろうな。弟の目はいつも子供みたいだから。男の子ってどうしてああなんだろう。どうして何時までも子供みたいな目をしていられるんだろう。同級生の男子を見てもそう。何であんなにはしゃげるの?まるで小学生。ただ体が大きくなっただけの。でも、あの人達もいずれ、お父さんみたいになるんだ。それは何時なんだろう。早く来なければいいな。弟がお父さんみたいなことを言い出したら、悲しいだろうな。私は理解者を一人失った気持ちになるんだろうな。家の中に、ますます居づらくなってしまいそう。
だってお父さんったら、いつも勉強しろってうるさいんだもん。私は勉強してるんだよ?私が勉強しているところを見もしないくせに、勉強しろ、勉強しろって。じゃあ私は、どこまでがんばればいいの?お父さんが勉強したなって認めてくれるのは、いつ?
私も、始めはがんばったんだ。だから、お母さんやお父さんが行けっていった難しい中学にも、入ったし。結構大変だったんだよ。難しい中学に入れば、もう口うるさく言われることもないと思ったんだ。でも、けっきょく何も変わらなかった。むしろ、優秀な子達と比べられて、ますます窮屈になっただけだった。こんな調子じゃ、大学に入っても同じ事言われるんだろうな。会社に入っても、もっと上を目指せ、同級生の何々さんはもうお前より給料もらっているんだぞって。どこまで行ったら許してくれる?私が、ほっと出来る時は、何時?
結婚してしまえばいいのかな。女の子だから、と言うことで。そうすれば、そういう上ばっかり見せられる生活からは抜け出られる。でも、お父さんはそれでも言うんだ、今はそんな時代じゃないぞって。女だから、男だからと言う考えはもう古い。結婚して、出産しても、また会社に帰ってくる人はたくさんいる。お前もだから見習えって。お母さんの時代がうらやましいな。ああやってママできる時代が。子供を抱えて、会社で働いて、そして上ばかり見せられて。女は不利じゃない?どうして女なんかに生まれてきたんだろう。
私、正直もう、疲れてきたんだ。実際、テストの成績も最近伸びてないし。こないだなんかは、一つ落としちゃった。お父さん達には言ってない。言うとどうなるか、想像できるでしょ。考えただけでもうんざりだよ。だから私は風邪を引いたことにして、その日の追試は受けないでお家に帰ったんだ。先生は私の姿が見えないから、わざわざ家まで電話してきた。ちょうど弟が取ったから、風邪を引いててでられないって言ってもらったんだ。かわいい弟だよね。私の言うことを、真っ直ぐきれいな目で信じてくれた。あんな風に信じてくれる人に私は何人逢えただろう。
お父さんは早く帰ってきて、私が風邪だと弟から聞いて、寝かしつけようとしたけど、私はもう大分よくなったって言ったんだ。実際熱もなかったし、あんまり重病人っぽくするのもかえって変でしょ。嘘を吐くのが上手くなったのかな、私。お父さんはすんなり信じてくれた。考えてみれば、私はずっと嘘ばかり吐いていたからね。もう心の中は、子供の頃の私とは全然似ても似つかない私になっているのに、お父さんとお母さんの前では、子供の頃の私を演じてる。そのほうが、二人を失望させずに済むから。私小さい頃はいい子だったんだ。お父さんとお母さんの自慢の娘。でも、あるとき、私はそんないい子な自分を無くしてしまったことに気づいた。今まではしっくりいっていた感じがなくなったんだ。自分の思いどうりにやろうとすると、それまでの私とは違った方向に行ってしまいそうになる。今までは思いどうりに行動しても、褒められることしかなかったのに。何かしていて思うんだ、あ、これ絶対に怒られるって。でも、それをやっちゃう。で、怒られる。お前がこんな子だとは思わなかった。小さい時はこんな事無かったのにって言われるんだ。
小さい頃の自分と比べられるって不幸だよ。そんな自分は、もうこの世に存在していないんだから。親はそんな幻のあたしに、私を何時までも縛り付けておこうとする。生まれたての無垢なわたしに。そんなの無理だよ。でも、私はできるだけ、それを演じてきたんだ。小さいころ好きだった食べ物は、今嫌いになりかけていても喜んでおかわりした。そうしないと、お母さんが悲しむと思ったから。お父さんは心底嫌いになっていたけど、好きだって言い続けた。小さい頃はお父さん子だったんだってさ。お父さんと結婚したいとか言ってたんだってよ。今じゃ、全く理解できないんだけど。
とにかく、週末だったし、お父さんが買い出しに出てカレーを作ると言い出したから、私もついて行ったんだ。だって、お父さん大好きな私だからね。行くか?って言われたら、うん、行きたいって、喜んで言わなくちゃいけないでしょ?正直に嫌いなら嫌いと、言えたらよかったんだ。でも、そうしたら、家の中がぎくしゃくするのは目に見えていたし、弟や、お母さんが必要以上に悲しむだろうと思ったから、それはしたくなかった。お母さんたら、お父さんのことが、なんだかんだ言って大好きなんだもの。弟もそう。あの二人...、特に弟を悲しませることは、私には出来ないんだ。
お父さんと二人でカレーを作って、そしてお母さんを待って、一緒にご飯を食べた。お父さんが借りてきたDVDを見て、一緒に笑った。正直私とは少し趣味が違った。でも、私は喜んで見た。弟は随分のめり込んでいたみたいで、目をまん丸にして見ていた。私はあの子がうらやましかった。本気で、お父さんと趣味が一致しているんだから。何の気を遣う必要もないんだから。昔は私もそうだったんだよ。でも、今の私は、もう、あの頃の私では、ないんだ。演技の中にしか、両親の知る私は、いない。二人ともそれは気がつかないみたいだけれど。
ただ、弟は気がついていたんじゃないかな。私はあの子にだけは嘘を吐かなかったから。正直、最近弟と話す機会が減り始めたと感じていたんだ。前みたいに、どこ行くのも一緒、では無くなってきた。弟も、少しずつ変わり始めていたんだね。でもあの子は素直だから、私みたいにそれを隠したりしなかった。それがますます、私にはうらやましかった。ああやって、自分をさらけ出せれば、私みたいになることもないんだろうね。
その晩私は夢を見たんだ....。お父さんが、家族みんなを殺してしまう夢を。理由は分からない。追試のことが、いよいよ、ばれたのかも知れない。弟は泣いていた。お母さんも泣いていた。お父さんだけが、真顔だった。怒っているようにも見えた。手に包丁を持って、家族みんなを刺して歩いていたんだ。始めに弟を刺した。それから、お母さんを刺して、私の方に向かってきたんだ。顔色は青かった。お父さんの怖い顔で目の前がいっぱいになって目が覚めた。私は怖かったんだ。体が汗でぐっしょりだった。手がわなわな震えていた。膝もかくかくしていて、立ち上がるのにも苦労した位だった。でも、私は、夢から覚めても恐怖は残っていたんだ。逃げられない。なぜだかそんな気がしていた。
逃げたいのに、逃げられないんだ。私はまだ震えていた。怖くて、怖くて仕方がなかった。だから、台所に行ったんだ、そして、何かお父さんを殺せるものを....。
そう、そのとき、殺そうと思ったんだ。
そうしないと“私”が、殺されてしまうと思ったから。
2008年7月17日木曜日
シンボリック
君が美術館に行きたいというので、僕は対して興味もないのに、君が行きたいというその近代美術館とやらへ、ひょこひょことついて行った。
君はどこで学んだのか、絵画や、芸術に並々ならぬ興味を見せて、時折熱っぽく語ることがあるが、僕は君が実際に油絵だとか、水彩画だとか、スケッチですら、実際に絵筆を取って描いている姿を、これまでとんと見たことがない。
音楽鑑賞を趣味と公言するひとのほとんどが、実際には楽器を扱えなかったりするように、君もまた、受け手側の観衆の一人に過ぎないのかも知れない。長い髪を伸ばして、なんだか文系の女の子のようにその日の君は落ち着き払っていたけれど、数日前までは真夏の渚で、波しぶきを上げながらはしゃいでいたのだ。あの日の君の名残は、本当は肩口の水着のひもの当たっていた辺りにくっきりと残っていたのだけれど、その日の君は文系の女の子で、きっちりとダークグレーの衣服を身に纏って、ちょっと膝上位のスカートまではいていた。僕とのはしたない、ひとときの夏の思い出は、硬い衣装の下にしっかりと隠されてしまっていた。
波打ち際ではじけた君の姿など、そこに居合わせた、上品な紳士淑女の皆様方には、きっと知るよしもなかっただろう。彼らはきっと、ちょっと地黒の女の子程度にしか、その日の君を見てはいなかった。UVカットローションのSPFを間違えて低いものを買ってしまった君の勘違いなんて、彼らは想像だにしなかった。
君が見たいと言いだしたそれは、戦前にパリに行ったある日本人画家の展覧会だったっけ。その人は白の使い方の上手なひとで、女性の肌を透き通るようなパールホワイトで表現したことで有名なそうなのだ。けれど、それは僕があくまで、その日、実際に展覧会に行った時に仕入れた情報で、なんの予備知識もなく言ったわけだから、居並ぶ名画も、ただ女の人の裸だけがたくさん並んでいる程度にしか、僕には印象を残さなかった。
必然的に僕が見ていたのは、古い額縁の中の絵を真っ正面から真面目に見ている君の横顔と、立ち姿だった。でも、それは君も、その日はしっかりと意識していたのだろう?そうでもなかったら、あんなにまじまじと、絵なんて見るもんだろうか。目をいつもより大きく開けて、ほのかな微笑をたたえ、胸を張ってまっすぐに立った君は、テレビカメラの前に立つ女優のようで、自然体を『繕って』いるようにしか僕には見えなかった。
絵の中のパールホワイトの裸婦像が、ベッドの上で、何をしているのか、ぐったりと力なげに横たわっている絵を見ながら、君は美術館の落とされた照明の中、鼻と瞳の陰影をくっきりと際だたせていた。
まあ、その日の君は文系の少女だったのだ。そのくらいのことはするだろう。読みもしないドストエフスキーの本を抱えて、街を歩いてみる眼鏡の男のように、今日の君は文系の少女なのだ。裸婦像の前で、目をしばたかせることもなく。その価値を知るもののように、静かに見入っていた。
「いい絵だね。」君は言った。その裸婦像の前で。
芸術家の書いた裸婦像だから、その輪郭はおぼろげで、表情は簡素化されていて、なぜかみんな太り気味に見えた。パンフレットには『官能的』と表されていたけれど、どの辺に官能を見出せばいいのか、僕には全く分からなかった。
「そうだね。」僕は言った。
今日の僕は文系の君の彼なのだ。コーラよりも、ストレートの紅茶が似合う顔をしていなければいけない。スポーツドリンクなんて、汗臭い話は無しだ。
「なんだか表情が物憂げで。」
「そうだね。」
君はあっさりと同意した。そしてまじまじと、その絵を見返した。
僕の口から出任せを、こうも簡単に受け入れてくれたのは、この芸術を解しない僕へのせめてもの慰めか。それとも、君も、実際なんだか分かっていないから、知ったかぶってみただけだったのかも知れない。いずれにしろ、僕らのしていることは茶番だ。おかしな茶番を1200円の入場料を払ってしている、おかしな男女の二人連れ。
こんな二人の時間の過ごし方は、
楽しいに決まってる。
「ほら、見て。」君はその絵の脇の小さな説明の書かれたパネルを指さした。
「...この女性は、この画家の後に妻になった。だって。」そうして、何を思ったのか脣の辺りにそっと手を添えてかすかに笑った。
「言われてみるとどことなく、画家の愛情を感じるかな。」僕はまた、心にもないことを言った。「表現が軟らかくて。」
「そうだね。」彼女はまた、僕の言葉を受け入れた。穏やかな白熱灯の明かりの中で、君の影が揺れた。「...優しさって、絵に現れるものなんだね。」
君はそう言うと、静かに僕の手を取って、先に歩き始めた。僕はようやく先に進めるのでほっとしていた。行けども行けども続く、白い裸婦像よりも、幾つもの影を従えて暗がりを歩く君の後ろ姿の方が、僕には印象的だった。握った手の肉の感じや、皮膚の感覚までは、彼女の言うように、優しさまでを描いてしまうような、優れた画家でも、描くことは出来ないだろう。
握られた手の中にしか、その感覚はない。表現して、他人と分かち合うまでもなく。そしてそれは今、僕の手の内にある。文系の君も、渚の君も、僕の手の中では同じようにしか感じられない。
そんなのは極めて些細な違いだ。夜の眠るまでの、極めて、些細な。
美術館を出て、外に出ると、太陽はすでに傾き、辺りはトワイライトのうす紫色に染まっていた。君はまた、新たな色彩演出を得て、涼しい夕暮れの風の吹く中で静かに笑った。
2008年7月12日土曜日
失われた指
久しぶりにあった彼女は、何もかもが変わってしまっていた。
以前には見られた、はじけるような快活さは身を潜め、沈鬱で、どこか世を捨てたような諦めに似た空気を背負った彼女がそこにいた。
「幻滅したでしょう。」
男に出会った時、開口一番、彼女はそう言った。
「だから、会いたくなかったのよ。」
そう言うと女は皮肉に笑った。彼の知っている彼女なら、決して見せなかった笑顔だった。彼は驚きの内に、しばらく言葉を失っていたが、ようやく絞り出すように、
「そんなことはないよ...、」と的外れなことを言うのがやっとだった。
女はそれを聞いても何も言わなかった。彼と目も会わそうとせず、斜め前方の何もない薄緑色の床のタイルを、ただじっと眺めているだけだった。
彼女が、不慮の交通事故に巻き込まれたと言う話を、彼は数ヶ月前に知った。しかし、彼はその時海外にいて仕事の都合上すぐに帰国するのは難しい状況だった。彼女とは3年前、国を出る前に一度関係を清算していたつもりだったし、彼の知らないところで、幸せな生活を営んでいるのだろうと、勝手に考えていた。事故の一報の後、彼女が依然として結婚もせず、これと言った恋愛もせずにいたことを知って、彼はまずおどろいた。
ようやく彼女の見舞いに訪れる事が出来たのは、事故が起こってから1ヶ月以上が過ぎた後だった。
「アンバランスなものね。」車いすの彼女は言った。
「これじゃ、畑のカカシにも劣るわ。」彼女の顔からは化粧気がすっかり無くなっていた。
彼女は、利き腕と、右足を失っていた。交差点に無理矢理突っ込んできた車と側面から衝突し、彼女の車は運転席を中心に大破していた。事故の写真を見せてもらった時、彼は彼女が一命を取り留めたことすら、奇跡と思えたほどだった。それでも、彼女は事故後2週間は生死の境をさまよったと聞いていた。久しぶりに見た彼女の顔には、何か死相にも似た暗い影がまだ、はっきりと見て取れた。
髪はぼさぼさと乱れ、たった3年の間に10も余計に年を取ったようだった。
「もう、用は済んだでしょう。」彼女は言った。「帰って。あなたを見ていると、私の気持ちがざわつくの。」
「そんな...。」彼は何事か言おうとしたが、適切な言葉が見つからなかった。「せっかく助かった命じゃないか...、どうしてそんな諦めた目をして....。」
「助かった命?」
はっ、と彼女はせせら笑った。
「これが?死んだも同然じゃない。」彼女は膝から下の無くなった自分の右足をこれ見よがしに持ち上げた。「....私は死んだのよ。あなたの知ってる女は死んだの。」
「君は生きている。」男は諭すように言った。「まだそうして、息をして、声を上げて...、」
「あなたの知ってる女はこの程度の女だったの?」彼女は目を見開いて彼をにらみつけた。
「こんな欠損だらけの女だった?そもそも?あなたはかつての私をそんな風に見ていたの?」
「そう言う意味じゃ...。」男は予想外の反応を見せた女にたじろいでいた。「今の君でも十分に素敵じゃないか...。」
「十分に?」女の語気は荒くなった。
「なにそれ?必要は満たしているって事?」女は車いすから立ち上がると、松葉杖をつきながら、男の胸ぐらに迫った。
「私はあなたの道具じゃないわ。『十分に』なんて評価を受けるような代物じゃない。」
「そう言う意味じゃ...。」女がことごとく男の予想を裏切り続けるので、男はすっかりおじけづいていた。
「じゃあどういう意味?あなたにとって十分でも、私にとってはちっとも十分じゃない。欠けているところ、だらけなのよ、この体は。」彼女は残された右腕の付け根を振り回した。怒りの余り、無くなってしまった右腕で思わず彼の頬を打った様だった。女は自らの咄嗟の行為に気がつくと、自身を嘲笑うように笑った。
「ほら見なさい。」女は言った。「私は、何も出来ない女よ。欠損だらけの不良品。もう死んだのよ。」
女の残された片膝が力を失ってがくりと折れた。たちまち落下しようとした胴体を、男が腕を伸ばして支えた。ずしりとした体の重みが、男の腕にかかった。手放された松葉杖が、がらん、と音を立てて、床に転がった。
「...殺して。」女は言った。
「こんな体じゃ、自分一人で死ぬことも満足に出来ない...。いっそのこと、殺してよ。」
女は左手で、男の胸ぐらを掴んだ。女の目は真剣だった。涙の浮かんだ大きな瞳が、彼の頼りのない目をのぞき込んでいた。
「そんなこと...。」
「...出来ないって言うの?」女は掴んだ襟元を力一杯揺すった。
「出来るでしょう?あたしを愛していたなら?あの女は死んだのよ?ここにいる私は、その面影を崩す、ただの滅びかけの残骸に過ぎないわ!」
女は男の腕の中で激しく暴れた。男は女をなだめようと、それを必死に抱きすくめるのに精一杯だった。しばらくそうした状況が続いた後、やがて暴れ疲れたのか、女が大人しくなった。男はその体を、そっと車いすに戻した。女は始終、そっぽを向いたままだった。暇があれば、男の瞳をのぞき込んで微笑んでいた、かつての女の面影を男はふと思い出して、底抜けに悲しい気持ちになった。
「...いつでも良いわ。」女は言った。
「いつでも良いから、ここに来て。私を殺しに。」
「...分かった。」男は言った。「そう遠くないうちに、また来るよ。」
帰りがけ、病室の出口で、男に手招きするものが居た。女の母親だった。
母親もまた、この3年の歳月の内にすっかり老け込んでしまっていた。髪型はきちんと整えられていたが、数本の毛がほつれて、あらぬ方向へ突き出していた。娘と並ぶと、仲のよい姉妹のようにすら見えた以前の若々しい面影は、彼女からもすでに失われていた。
「ありがとう。」彼女は言った。「これを...。」
彼女はそう言うと、小さな銀色の指輪を差し出した。
「これは...。」
「あなたが、昔、娘に贈ったものです。」母親は言った。「返すようにと、娘が。」
母親の掌の上に、小さな飾り気のない、銀の指輪は静かに光っていた。彼はそれをはめていた、彼女の、今は失われた愛おしい右手の姿を、その母親の手の中にありありと見た。
「もう、はめる指もないから、と言うことでした...。これは吹き飛ばされた娘の腕から拾い上げたもので...、恐縮なのですが...。」そう言うと母親は、指輪を捧げた腕だけは彼に指し出したまま、俯いて泣き始めた。彼は嗚咽する母親に、そっと手をさしのべた。そして、彼女の差し出していた指輪を、再び彼女の元に返した。
「いただけません。」彼は言った。「一度あげたものですから。」
「でも...。」母親は言った。「受け取ってください..。娘も過去を清算したいのだと思います。新たな人間として、生きようとしているのではないでしょうか。」
彼はその言葉を聞くと、一瞬言葉に詰まったようだった。
しかし、母親の差し出す指輪をしばらく見つめた後、
「彼女に伝えて下さい。...君の指は、すべて失われた訳じゃない、と。」
と言い残すと、現在の自分の連絡先の書かれた小さなメモを残して、足早に病院を出て行った。
女は病室の明るい窓から、男が病院を背に去っていく様子を、冷たい目で見送っていた。
その目はどこか怒っているようでもあり、悲しんでいるかのようでもあり、いずれの感情も深く内に湛えた、押さえられた瞳だった。
私の失った物はなんだったのだろう。
女は男の背中がもう見えなくなってからも、じっと窓の外を見つめたまま、考え込んでいた。
ベランダの縁に止まって鳴いていた二羽の鳩が、何かに怯えたようにあわてて窓辺から飛び立った。
2008年7月9日水曜日
二人の酔いどれ
「体を意識しない恋愛は恋愛ではないのさ。」
Tは言った。長く片思いと失恋を繰り返していた私に。
「そうなのか?」私は彼の言説には懐疑的だった。「君は純愛というものを否定するのか?」
「そもそも、どこにそんなものが存在する?」彼は声を張り上げた。早い時間から飲み始めたためか、彼は少し酔っていた。飲み始めた時はビールだったが、今彼の前にあるのは冷えた芋焼酎だった。私は先ほどから冷や酒を飲んでいた。彼は、そんな水みたいな、癖の足りない酒は飲まないと言って、私の酒には見向きもしなかった。
「清純派女優の何人が実際に清純だと言うんだ?そんなのまやかしだ。」彼は卑屈に笑った。「君もとっとと夢から覚めることだな。」
「君に言われたくはないね。」私は手元の猪口をあおった。「大体、君は私にそれだけのことを言うだけの権利があるのか?」
「君よりはあるさ。」彼は一向に尊大な態度を改めない。「少なくともまだ、純情を捨てきれない君よりはね。」
「君には彼女が居たっけか。」私は言った。彼に言われ続けるのがいい加減、しゃくに障り始めた。
「現状は、たいした問題じゃない。」彼は鼻先で私の言葉を笑った。「ようは経験だ。」
「経験、経験と、それがそんなに偉いものかね。」私はこれまで私に対して使われた経験という言葉すべてを憎んでいた。「昨日女と別れた男が、次の日には別な女と寝ている...。そりゃ、経験豊富だわな。」
「生来、雄とはそう言うものだ。」彼は言った。「そのためにこそ彼の精細胞は永年分裂を続けている。」
「ここまで進化しておいて、精細胞の理屈に従うこともあるまいに。」私は笑った。「理性の足りないことの裏返しだよ。」
「理性を保った君は、けっきょく恋に破れたんじゃないか?」彼はしてやったり、という風に笑った。「理性を保った合理的な君は幸せだったか。」
「少なくとも、自分に従った部分に於いては満足しているよ。」私は虚勢を張った。「誰かのように、節操のない振る舞いはせずに済んだからね。」
「それは、女に困らない男の言う台詞だな。」彼は言った。「君のような男が言うことではない。」
「はいはい。」私はあきれた素振りを見せた。「浮気性がたたって、知り合いの女すべてから距離を置かれる君には敵わないよ。」
「大体女どもは、」彼が手を挙げると、近くを通りかかったウェイトレスが駆け寄ってきた。彼はおかわりを注文した。「大体女どもは、自分の浮気性を棚に上げて、男の浮気を責める。これは大いなる不条理だ。」
「浮気性と、浮気は違うと思うけどな。」私は彼を冷やかした。
「第一、恋愛などと言う感情は永続するものか?」彼の声は一段と高まった。「あれはあくまで刹那的な...、少なくとも、太陽が昇るまでの命しかない感情なのではないか?夜に恋していた女を、朝に恋しているとは限らない。そうは思わないか?」
「思わないね。」私は言った。「経験の少ない身分で恐縮だが。」
「まあ、君ならそう言うだろうな。」彼は笑った。歯並びのよい歯が見えた。「だから逃げられるんだよ....、あ、逃げられたわけでもなかったか。君の一方的な勘違いに過ぎなかったんだっけな。」彼は肩を小刻みに震わして笑った。「まったく、今時の中学生もおどろく失態だ。」
「今の時代には不足した純真さ。」私は開き直った。「中学生も是非見習うべきだね。」
「絶滅危惧の天然記念物として。」彼が言った。「性教育の時間にでもな。」
ウェイトレスが、銀の盆に酒を持ってきた。澄み切った色の焼酎だった。二人の酔いどれの目にその銀盆の彼女は美しく見えた。
「ここの大学の人?」彼は聞いた。「学部はどこ?」
「人文です。」彼女はおくびれることなく答えた。
「Xを、知ってる?」彼は言った。「僕の友人なんだけど。」
「X...。」彼女は目を浮つかせ、何人かの顔を思い浮かべているようだった。
「君、何年生?」彼は待ちきれなかったのか、問いを重ねた。
「2年です。」
それを聞くと、彼は微かに笑った。そして、「ありがとう、じゃあ分からなくても当然だ。」
そう言って、手を振った。彼女は何かすっきりしない表情で、空の盆を抱えて立ち去った。
「人文に知り合いが居たのか。」私は彼女の立ち去った後、彼に聞いた。「意外だな。」
彼はふん、と笑った。「馬鹿だな、お前、嘘に決まってるだろう?」彼は言った。「人文に知り合いなんか、いないよ。」
彼は、ウェイトレスが持ってきたばかりの冷えた酒をあおった。
「用は話の種だ。嘘だろうと、真実だろうとな。俺は彼女の年を聞きたかっただけだ。」
「年下は好みじゃないのか。」私は笑うほか無かった。「汚い男だな。」
「どうとでも言え。」彼は全く気にしなかった。「潔癖なまま、何も得られず生きるのは趣味じゃない。」
「汚い生き方は趣味じゃない。」私も言った。「どこまでも合わないな、俺たち。」
ふん、と彼がまた鼻で笑った。そして、もう一度片腕をあげて、近くを通りかかった別のウェイトレスを呼び止めた。
「こいつ、今日失恋したんだ。」彼は私を指さしていった。「猪口を二つと、何か一番辛い日本酒を2合。」
「日本酒は飲まないんじゃなかったのか?」私は彼に尋ねた。
「いいんだよ。」彼は笑った。「今日はお前の記念日だ。」
彼はそう言うと、グラスの焼酎を一気に飲み干し、ウェイトレスの銀盆に帰した。
2008年7月6日日曜日
スターリー・スカイ
離島の夜空は晴れ渡っていた。
バーベキュー大会の時に見えた厳かな夕日はすでに水平線の向こうへと沈んでしまっており、辺りは静寂と、暗闇だけが支配していた。
施設周辺は港町になっているため、昼間はそれなりに賑わいがあった。観光客目当てのサザエの壺焼きを売るおばさん達が、狭い通路の両脇で威勢の良い声を上げていて、どこからか焼きトウモロコシのにおいも漂ってくる、そんな場所だった。
冬は分厚い雪雲に閉ざされ自殺志願者が絶えないと噂されるこの島だったが、夏は打って変わって、本土の毎日がまるで一続きの悪夢だった気がするほどに、陽気で開放的な空が視界の果てまで拡がっているのだった。
そのような島の夜空である。見渡す限りの星空だった。
これほどの星が存在していることすら、私は知らなかった。あるいは、広い土地に来て、自分の目が少しよくなったのではないかとすら思った。しかし、いくら何でも、ここに来て数日でこれほどの星に気づく位目がよくなるとも考えられなかった。おそらくは六等星だとか、暗い星の代名詞のように数えられるそんな星までも、今日は私の瞳の中に、控えめに光を投げかけてくれているようだった。
私は施設の屋上に寝ころんで空を見上げていた。幼い頃、獅子座流星群を見るために、道路に段ボールを引いて寝ころんで同じように夜空を見上げたことがあった。その時は、一時間に数個ほどの流れ星を容易に発見することが出来た。ともすれば自分が、偉大な星空に落ちていって仕舞いそうになる倒錯した感覚を味わいながら、幼い私は飽きもせず数時間もそうして星を見上げていた。
そのような思い出も、施設の屋上で寝ころぶ私の脳裏には確かに去来していた。見つめている物は星だったが、それはその時目に映った星では、必ずしも無かったのかも知れない。いつ見ても大きく変化しない星空は、私に時間の経過を忘れさせるのに十分だった。現在が過去になり、過去を現在形で語るように、星を見上げる私の脳裏は時間を自由に行き来していた。
「どうしたの?」
ふいに声がして私は顔を上げた。見れば一人女が立っていた。女は何かおかしいのか、微笑みを湛えた顔で私の顔をのぞき込んでいた。
「...いや。」
私はそう答えるだけだった。
星を見ていた。そう答えるのも余りきざな気がした。
「寒くない?」
女は肩をすくめ言った。昼間に来ていたT-シャツの上に薄いカーディガンを羽織っただけの格好で、確かにその格好では夜の空気はつらそうだった。
「中に入ってたら?」私は彼女に言った。「まだ宴会は続いて居るんだろう。」
その日は、3日続いた大学の臨海実習の最終日だった。昼間海に出て取った魚介を器用な学生数名が調理し、振る舞っていた。私はその会に最初の1時間ほど参加していたが、やがて疲れてしまい、喧噪を離れてこの施設の屋上に上がってきていたのだった。
ここは私だけが知る場所のはずだった。
ここへ来た初日の夜に、施設内を歩き回っていて偶然見つけた屋上への出口。私はそれを、まだ誰にも教えていなかったから、その日の夜は一人で、この偉大な夜空と向き合った。別れの日を前にして、私はどうもこの夜空が恋しくてならなかった。それで、またこの場所に戻ってきていた。
「よくわかったな。」私は正直に言った。「結構わかりにくい場所にあるだろ。」
「そうかな。」女は言った。「何となく分かったよ。」
そう言うと彼女は私の寝ころぶ隣に座った。肩から提げたカーディガンの裾が私の腕に柔らかく触れた。何かの弱い香水のにおいがした。
「わあ!確かにすごい星!」女は言った。「これを見に来てたんだね!」
私は何も言わず、彼女の見上げる空を見上げた。星は暗闇の中で私達を取り囲んでいるようだった。
「みんなも呼んでこようかな。」女は言った。
「...いいよ。まだ宴会してるんだろう。」私はそれを止めた。「星を見るって気分でもないんじゃないかな。」
「...そうだね。」女は応じた。「あんまり人がいても、ね。」
彼女はそう言うと、後ろ手をついて夜空を見上げた。そうして僅かに口元を開けたまま静かに星空を見つめ続けた。
「...ねえ。」行く分かの沈黙の後、女は言った。「あの子とはどうなったの?」
あの子、というのは、同じ学年の同じ学科に所属する別の学生のことだった。私と彼女は当時、付き合っているという噂がささやかれていた。
「...知らないよ。」私は言った。「実際に付き合っているわけでもないし。興味もない。」
それは部分的には嘘だった。私自身はその時、その噂を決して嫌な気持ちで受け止めていたわけでもなかったから。私は人を愛する方法を知らない人間だった。「やさしさ」とは何か、と言う問いに、中学時代から悩み続け、すっかり疲れ果てているような人間だった。
「...そうか。」女はすんなりと私の嘘を受け入れた。微かに苦い気持ちが私の心の内を走った。「彼女、今回は来なかったね。いろいろ言われるのが面倒になったのかな。」
「かもな。」私は言った。実際私も面倒に感じることはあった。事実ではないことを言われ続けるのも、なんだか後ろめたかった。
くしゅん。
女が小さくくしゃみした。
「さっさと中に入ったら?」私は彼女に言った。「明日また、しばらく船に乗るんだから」
「そうだね。」彼女は言った。「でも船からじゃ、この星空は見えないから。」
彼女はそう言うと、私の隣にごろりと寝ころんだ。彼女の腕が微かに私の掌に触れた。
「わあ、空に落ちそう。」彼女が歓声を上げた。「あの光っている奴は、何?」
「...知らない。」私は答えた。星の名前など、実際知らなかった。
「知らないで見てたの?」彼女は私の方を見て笑った。「なにやってんだか。」
「星の名前なんて知らなくたって」私は言った。「きれいだと思えればそれで良いだろ。」
「でも、星の名前をたくさん知っている方が、なんかかっこよくない?」彼女は言った。「そう言うところは欠けてるな。」
「きざったらしい。」私は言った。「名前なんてみんな後付だ。そもそも世界には一つの名前もなかったのに。」
彼女は笑った。「負け惜しみ。」
ふう。言葉を失って、私は溜息を吐いた。彼女に勝てそうにもなかった。
「...でも、一理あるかな。」彼女は再び星空を見た。「私達が生まれた時も、けんかして泣いた夜も」彼女は言った。「うれしくて笑った日も、悲しい別れのあった日も、」
「星は同じように空にあって、同じようにまわっていたんだね。...そうして何時か、私達が、この世界とサヨナラする時だって、」彼女は少し間をおいて言った。
「星は同じように世界の空をまわってる。生まれた時と、ほとんど変わらない配置で。」
彼女は笑った。「後から出てきたのに、元々ある物に名前を付けちゃうなんて...、人って自分勝手な生き物だよね。...ていうか。」彼女はがばと跳ね起きた。
「何言ってるんだろ、わたし。」彼女はそう言って私にほほえみかけると、両手で私の手を取って体を起こした。
「さあ、立って。」
「何?」私は嫌々立ち上がった。彼女に握りしめられた腕の辺りが微かにひりひりした。
「今日は火星の再接近日!」
それは数日前から世間を賑わせていたニュースだった。火星が、数十年に一度の大接近をする年に、その年は当たっていた。
「こんな星空を独り占めする気?みんなを呼びに行こう。」彼女はそう言うと、私の手を引いて屋上の出口へ導いた。
空には満天の星。そのどれが火星であるのか、私は知らなかった。だが、友人の誰かが、どの星が火星であるのか、正確に知っているとも思えなかった。我々は各々の火星を見上げ、そしてその地球への接近を心から祝うのだろう。
それもまた、私達らしいと思った。
2008年7月4日金曜日
One for Helen
少年にとって18回目の誕生日を祝ってくれたのは、幼げな顔の少女だった。
「高校生最後の誕生日だね。」彼女は言った。
「私達にとっては始まりだけど。」そう言って彼女は目を細めて笑った。
少年も併せて笑ったが、その裏で、彼は付き合いの不思議を考えていた。数ヶ月前まで、誰が、彼女と一緒に誕生日を祝うなどと考えていただろう。彼女は彼にとって、無数にいる友人の一人に過ぎなかった。それが今や特別な存在になり、彼にほほえみかけている。彼は彼女の微笑みを見ながら、何やら空恐ろしいものを感じた。今こうして目の前にある幸せも、あるいは同じように急速な時間の内に失われてしまうような気がした。水のように形のない、彼と彼女の幸福。
「どうしたの?」差し出されたプレゼントに、おどろいた反応を見せない彼に、彼女は不思議そうな目をして問いかけた。
「...ああ、なんでもないよ。ありがとう。」少年は大人しい笑顔を浮かべた。
「どういたしまして。いつもお世話になっています。」少女は口先だけ改まったが、顔つきは親しげに笑ったままだった。
「中身は何?」少年は差し出された緑色の柄の小包を掌に載せて言った。
「開けてみて。」少女がそう言うので、少年は包みを開けた。
中には小さな犬のマスコットが付いた、携帯ストラップが入っていた。
「あんまりバイトも出来ないから、こんなので精一杯なんだけど、」彼女が言った。
「でも、ほら。」
少女が差し出した、彼女の携帯には同じマスコットの色違いのストラップが取り付けられていた。
「おそろいを買ったんだ。...何かいつも身近にあるものを、プレゼントしたくてさ。」そう言うと少女は少し恥ずかしそうに俯いた。
「...ありがとう。」少年は微笑んだ。「大切にするよ。」そう言うと彼は早速それを包みからだし、自分の携帯に取り付けた。はにかんでいた少女もそれを注意深く見守っていた。
「..ほら。」少年が少女の前に自らの携帯を差し出すと、少女も自分の携帯をもう一度見せた。
そして、また、さきほどのように、目を細めて笑うのだった。
そこは位夕暮れの公園だったので、少女は少年の手元まではよく見えていなかった。少年の手の中には、それまで付けられていたストラップが、むしり取られるようにして握られていた。
少年は、そのストラップを嘗て送ってくれたいつかの少女に、申し訳ないと思いながらも、それをむしり取ったのだった。
少女はそれに気づいていたかも知れなかった。むしろ気づいていたからこそ、似たような犬のストラップを送ったのかも知れなかった。
少年は彼女がそこまで自分を試すようなことをしたがっているとは信じたくなかったが、それでもそう考えざるを得なかった。彼女は嘗て彼の付き合った少女の、同じクラスの同級生だったからだ。二人は性格も正反対で、仲も余りよくなかった。
しかし少年はそのいずれをも好きになってしまった。
始め付き合った少女は今の彼女よりもずっと積極的で、むしろ彼の方が彼女からアプローチされたほどだった。彼はそれまで恋というものを余り知らなかったし、せっかくなので恋愛した。
付き合ってみると、恋愛はとても面白いものだった。彼女と居るのはとても楽しく、話が尽きても時間は十分に埋められた。彼がそれまで感じていた、話し尽きて沈黙することの恐怖は、恋人同士の場合には存在しなかった。逆に、沈黙は二人の間に関係の充足をもたらしてくれるということを、彼は恋をして初めて知った。
彼は彼女ともっと一緒にいたいと思い始めたが、しかしその恋は長くは続かなかった。メールのやりとりにつきまとう、小さな誤解が発端となり、彼と彼女の恋はあっけなく潰えてしまった。彼女に送るはずのメールが、別の女子生徒に送られてしまったのである。運の悪いことに、その女子生徒は彼の幼なじみだったため、誤解はより大きくなった。彼が弁解すればするほど、彼女の中で疑惑は大きく膨らんだ。そして、取り返しの付かない言葉まで言ってしまって、彼女はへたりとその場に座り込むと、
「...もう疲れた。」と言い残し、彼の前から去った。
その終わり方は、あまりに唐突だったためか、
彼の中でなかなか、彼女との恋愛に終止符は打たれなかった。彼の携帯の待ち受け画面は彼女が、近くの公園で見かけた犬と戯れている写真だったが、彼がそれを変更したのは、彼女と別れて数ヶ月も経った後だった。
実際それまで、彼の部屋には彼女からもらった手紙が目に付く範囲に置かれていたし、一緒に行ったゲームセンターの景品のカエルの人形が、にっこり笑って彼のベッドサイドに座っていた。
彼女と別れると、身の回りのものを急速に整理する人がいると言うが、彼はなかなかそのような感覚になれなかった。元々物に無頓着なこともあるのかも知れないが、それでも、物を見れば思い出すのは彼女であることに違いはなかった。
実に意外なところにまで、彼女の影響が及んでいることを知って、彼が驚きを感じたことも、一度や二度ではなかった。それでも彼は、気がついたところから、徐々に彼女の思い出を整理し始めた。そしてその年の冬が終わり、春になる頃には彼は彼女と廊下で擦れ違っても、何とか普通に挨拶できる程度には関係を作り直した。
その矢先である。彼が、今の彼女と付き合うようになったのは。
彼女のことは彼は以前から知っていた。1年の頃は同じクラスだったし、外見がかわいいと、ちょっと評判の子でもあった。彼も彼女のことは気にはなっていたが、ただ、それだけのことだった。そう言うこと付き合うと言うことが、自分のように平凡な人間にはあり得ないと決めつけていることもあったし、なにより、彼の最初の彼女が、あからさまにその少女を嫌っていたからである。
彼女に言わせれば、少女は「かわいい子」を気取ってるそうなのだ。
そう言うみんなからかわいがられようとする態度は、彼女の神経を逆なでするようだった。
「怒って脣を突き出すような高校生、どこが良いの?」彼女は時々彼に言った。
「男子の感覚って分からない。」
その言葉は決して、彼に向けられた物でないことは彼にも分かっていたが、彼は自分も怒られているような気がしてならなかった。案の定、彼もその後こうして、その少女を本格的に好きになり、つきあい始めるまでになってしまった。
人間関係は、つくづく不思議な物だと彼は思う。どうして、性格も正反対で、お互い仲の悪い二人の人間に、彼はいずれも恋することが出来たのか、自分の心の内をのぞき込もうとしてみても、答えはなかった。
今の彼女とつきあい始めてから、せっかく立ち直りかけた元の彼女との関係は見事に砕けた。彼女はもう、彼と廊下で擦れ違っても、笑顔一つ浮かべてはくれなかった。
「...あの子って、愛想悪いよね。」今の彼女はよく言う。「廊下であっても、なかなか挨拶してくれないでしょ。...よくないよね、ああいうのって。」
彼はそう言われても、ああそうだねと、肯定する気にもなれず、困ったように笑うだけだった。
そう言う無愛想な少女を愛したのも、また彼だったから。
今の彼女は時々、彼の前の彼女から言われたという、いろいろな皮肉や冗談半分の苦言を彼の前に披露することもあったが、彼は本気で以前の彼女を憎む気にはなれなかった。彼女をそうさせている一端は自分にもあると感じていたから、彼はその責任の一部は自分にあると考えていた。
「ねえ、どうしてあの子を好きになったの?」今の彼女は、元の彼女に皮肉を言われた言う時は決まってそう聞いた。
「さあ、なんでかな?もう俺にも分からなくなったよ。あんな奴のこと。」彼はそう言って空虚に笑った。大きな罪悪感が心の内で渦巻いていた。「あなたが振って正解だったよ。」彼女は言った。「あの子とずっと居たら、きっと幸せにはなれないよ。」彼女は、彼の方が彼女を振ったのだと信じ切っていた。彼は何も言わず笑うほか無かった。
「あの子があなたとうまくいくはずないんだから....。」
「そのストラップ気に入ってくれた?」彼はその声にはっとした。
「...ああ、ありがとう。」努めて穏やかに彼は笑った。気づかれないように手の中の古いストラップをポケットに仕舞った。
「よかった。」彼女はありきたりな笑みを見せた。彼は心の中で失笑した。
「これからも、仲良くいようね。」彼女は彼にそう言った。
そして、決して力強いとは言えない彼の肩にその身を預けた。
彼は、彼女の暖かさを感じながら、この恋はもう長く続かないと感じていた。
いずれ来るべき時が来て、彼のもとから、この水物のような幸せは奪い去られてしまうような気がしてしょうがなかった。
彼は彼女を強く抱いた。そして激しく脣を奪った。そう言う乱暴な手段に及んだのは彼にとって初めてのことだった。しかし、後先の知れた関係の末路に、気兼ねする理由もなかった。
煌々と照らす月明かりの下、見ている者はいなかった。
彼が彼女と別れたのは、その日から数日後の、ある晴れた朝のことだった。
幼なじみへ送るメールを、何も知らない彼女のアドレスに送信した。
彼の携帯にはその時のメールはもう無い。
物に頓着しない彼だったが、その時のメールから、彼女にもらった物もすべて、その日の内にみんな処分してしまっていた。
2008年6月28日土曜日
お姉さんになる日
「ねえ、先生。」
放課後、教室に残って先日の課題の添削をしていた私のもとへ、クラスの女子児童の一人がやってきた。
「なんだい?」
私は答案から目を外し、少女の顔を見ていった。少女はまん丸い目を更に円くして言った。
「お母さんが妊娠したの。」
私はどきりとした。少女の口から妊娠という言葉が飛び出すとは予測していなかった。
「ほんとかい。」努めて冷静に私は言った。「じゃあ、お姉さんになるんだね。」
「お姉さん?私が?」少女の円い瞳が喜々と輝いた。「私、お姉さんって呼ばれるの?」
「そうだよ。」私は微笑んで答えた。「もっと、お姉さんらしくしないと、赤ちゃんに笑われるぞ。」
「お姉さん、お姉さん。」少女はうれしそうに何度も繰り返した。
「お姉さんなんだ、ちいさい私が。」
「小さくても、お姉さんはお姉さんさ。」私は笑った。
「そうだよね。」少女は言った。「赤ちゃんは私よりきっと小さいもの。」
少女はその場で意味もなく、くるくると回った。うれしさが彼女をそうさせるようだった。
「先生は、赤ちゃん見たことある?」
「そりゃあるよ。」
「小さいよねえ。」少女は両の手を、赤ちゃんくらいの大きさに開いた。「おててなんかも、こんなに小さい」彼女の指をすぼめるようにして表した。「私見たことあるんだ、ケン君が家に来た時。」
「ケン君?」
「ケン君。お母さんのお兄さんの子供。」
「それはいとこって言うんだよ。」
「そう、いとこ。」少女は真面目な顔で言った。「ケン君とっても小さいの。」そう言うとまた両手でケン君の大きさを表した。「もうすぐケン君みたいな赤ちゃんが生まれるんだもんね。...先生、名前はどうしよう。」
「それは、お父さんお母さんが考えてくれるさ。」私は笑った。「君が心配しなくても、良いことだよ。」
少女は真っ直ぐに私を見ていった。「でも、家、お父さんいないよ。」不思議そうに首をかしげた。「じゃあ、お母さんが考えるのかな。」
私ははっとした。
少女の家庭は母子家庭だった。父親は存在しなかったのだ。
私は言葉を失った。
「先生、先生。」少女は不思議そうな顔で私を見ている。
「どうしたの先生。」
「ああ...、なんでもないよ。」私は努めて微笑んだ。「お母さん、うれしそうだった?」
少女は頷いた。
「うん。笑ってた。...でも。」
「でも?」私は聞き返した。
「でも、お母さん私に聞いたんだ。妹か、弟ほしくない?って。」
「なんて答えたの?」
「もちろんほしいって。」少女は自身の胸の内を表すように、体をきゅっと縮めた。「いもうとがいいなって。男の子って、すぐに散らかすでしょ。私、ご飯作って上げるんだ、サヤちゃんに。」
「サヤちゃん?それって、妹の名前?」
「そう。お名前。」少女はにかりと歯を見せて笑った。「私のサヤちゃん。」
「なんだ、もう勝手に決めてるんじゃないか。」私も笑った。
えへへ。少女は少し恥ずかしそうに身をくねらせた。
「おかあさん、結婚するの?」
私は努めて柔和な表情で彼女に問いかけた。
少女はきょとんとしていた。
「何で?」
「なら、いいんだ。」私は苦笑いした。「なんでもないんだよ。」
「変な先生。」少女は首をかしげた。「先生、お母さんと結婚したいんでしょ。」
「ち、違うよ!」私は今考えると不自然なほど慌てて否定した。
「だって、じゃあ何でお母さんが結婚するかどうかなんて聞くの?」少女が意地悪そうに笑った。「好きなんだ。ミワちゃんが、たっくんと結婚する時も、そうだったもん。」
私は苦笑した。
「先生は、お母さんが、もっと幸せになったらいいなと、思っただけだよ。」私はそう弁解した。
「ふーん。」少女は不思議そうに言った。「お父さんになくても、幸せだけどな。わたし。」そう言って首をかしげていた。
少女はしばらく話した後、生まれたら私にサヤちゃんを見せてくれる約束をして、手を振って帰って行った。
私は少女が帰ってからも、なかなか仕事に手が着かなかった。
そうしているうちに、上級生の担任をしている2つ上の彼女が来たので、その話しをすると、彼女は笑っていた。
「保護者の家庭の事情を詮索しなくても良いじゃない。」
「でも、担任としては、子供の家庭の様子くらい把握してないと...。」
「言わなくても、向こうからやってくるわ。」彼女はあきれていた。「知らせる必要のあることなら。」
私は返す言葉がなかったので、そのまま黙っていた。
彼女も私の脇に突っ立って、しばらく黙っていたが、やがて、
「サヤちゃんって、名前もいいかもね。」そう言って、教室を出て行った。
私は答案の丸付けを再開しようと赤ペンを持ったが、彼女の置いていった言葉の真意にそこでようやく気がついて、廊下の向こうに小さくみえる後ろ姿を慌てて追いかけた。
2008年6月26日木曜日
吠える犬
「俺、鹿児島に両親がいるんだ。」男は言った。
両軍の衝突から3日続いた戦闘は、彼の表情から少年じみたふくよかな頬をすっかり奪い去っていた。落ちくぼんだ眼下の奥から、緊張と恐怖の渦巻いた目が、ぎらぎらと光っていた。
「それでも戦わなくちゃ行けないのかな」
「まだ迷っているのか。」年上の男があきれたように言った。
「君は志願して、この隊に入ったはずじゃないか。それでもまだ...。」
「確かに、志願はしたさ。」若い男は声を荒げた。
「でもそれは、名目上だ。実際には...。」
「周りが、一斉に志願したから。」
部屋の奥で聞いていた、細身の女性兵士がぼそりと呟いた。黒い大きなライフル銃を丁寧に磨いている。
「あなたらしいわね。何時までも子供なんだから。」男の方を見もせずに女は言った。
「...お前はどうなんだよ。」子供と言われた若い兵士は不平そうに問い返した。
「あたし?あたしは...。」女性兵士はふと、微笑んだ。
「どこでもよかったわ。この子と一緒にいられれば。」そう言って、ライフル銃の銃身に軽く口付けた。
「気が狂ってる。」若い兵士はいぶかしがるように女を見た。
「お互い様。」女性兵士はまだうっとりと、黒い銃身を見つめていた。
「じゃあお前は、」二人のやりとりを黙って聞いていた、年上の兵士が口を開いた。
「その銃とさえいられれば、敵方にでも付いた、と言うことか。」
女はその言葉に、きょとんとして、男の方を見た。黒い大きな瞳だった。
「ええ。もちろん。」女は質問されたことすら意外と言った様子だった。
「考えられない。もう、この子と離ればなれになるなんて。向こうの軍じゃ、正規兵しか、こんな立派なスナイピング銃、使わせてくれないでしょう?流れ者は何時までも流れ者扱いよ。能力があってもなくても。」そう言うと、愛おしげに銃身を撫でた。
「だからこっちの軍に入ったの。」
「恐ろしい。こいつには政治の欠片もないのか。」若い男がうんざりした様子で言った。
「イデオロギーだの正義だの、正当性だの大儀だの、この女には一切関係ない。」
「はは、くだらない。」女は軽くあしらった。「だから何時までも坊やなのよ。」
「なにを!」若い兵士は立ち上がった。挑みかかろうとする彼を止めたのは年上の兵士だった。
「まあ、待て。」彼は言った。「勝てる相手じゃない。」
「こんな女ごときに!」若い兵士は言った。「俺が負けるとでも言うのか。」
「ばか!」年上の兵士は、叱責した。
「あの女の銃をよく見ろ。」
女は依然として何食わぬ顔で銃身を磨いていたが、その銃の安全装置はすでに外されていた。
「この距離からなら、あいつは確実にお前の脳天を打ち抜くぞ。」
「クソ!」若い兵士は、足下の椅子を蹴り倒した。部屋に大きな音が鳴り響いて、奥の方で壊れた通信機械を直していた老兵が思わず顔を上げた。
「静かにせんかいガキが。」老兵は大声で言った。「気が散って修理どころでないわい。」
「直りそうかい?じいさん。」年上の兵士は老兵に語りかけた。
「は?」老兵は問い返した。彼は耳が少し遠いようだった。
「直りそうかい?」兵士は大きな声で聞き直した。
「わからん。」老兵は首を振った。「何せ老眼で、細かいところまでは見えんからな。」
「役立たず。」若い兵士が、すねたように小声で言った。
「だまらっしゃい!こわっぱ。」老兵は大声で怒鳴った。
「まあ、じいさんも、あんなガキの言葉に一々腹立てなくても。」
「じじいでも、ガキでも、悔しいものは悔しいわい。」老兵は顔を真っ赤にしていた。薄くなった頭の皮膚まで、茹で上がったかのように赤くなっていた。
「わしはこう見えてかつては第92連隊で、くろがねの泰蔵と...。」
「また、昔の話しか。」若い兵士は皮肉に笑った。「昔のことしか語るべき事がないんだろうな。」
「お前はいい加減黙ってろ。」年上の兵士は低い声で叱った。「これ以上、隊の和を乱すと、それなりの罰を受けることになるぞ。」
そのとき、それまで無関心のように振る舞っていた女兵士が、安全装置を外したライフルを真っ直ぐに若い兵士の頭部に向けた。そして片目を照準に当てたまま、美しい歯を見せてにこりと笑った。
「ばん。」
そう言って女兵士は引き金を引いたのだが、それは銃の轟音にかき消されて誰の耳にも届くことはなかった。轟音が微かな響きを残して、部屋の中から消えていくと、あとには床に転がった若い兵士が残された。
「撃ったのか。」年上の兵士は女の方を見た。女はもう一度にこりと笑った。彼女は美しかったが些か色が白すぎた。青白いほどの笑顔だった。
撃たれた若い兵は、床に転がったまま動かない。目が天井の一点を見つめて凝り固まっていた。
老兵と、年上の兵が彼のもとに駆け寄ったが、女はそれに見向きもしなかった。
「おい!」「しっかりしろ!」
体を揺すっても彼は動かなかった。
「貴様!」年上の兵は女の方を見て怒鳴った。
「見方を撃つこと無いだろう!そもそもなぜ、安全装置を無断で外している?」
「かわいそう。」女は言った。「大好きな子の首を、首輪で縛っちゃうなんて。」女はそう言うと銃身をその身に抱いた。「噛みついてもくれない犬には、何の魅力もないわ...。あなたも、そう思わない?」
「たわけ!」老兵は言った。「まだ生きておるわい。」
若い兵士は天井を見上げたまま、硬直していた。恐怖のためか、体が小刻みに震えていた。彼は失禁したようだった。
「馬鹿め。」老兵は言った。
彼女の弾丸は、若い兵士の耳元をかすめ、板張りの壁に穴を開けていた。おそらくはこの兵士の耳には、銃弾の空気を切り裂く音が、しっかりと刻み込まれたことだろう。
「意気地無し。」女は笑った。
そして銃を大切そうに、革のケースにしまった。
2008年6月21日土曜日
すいかのたね
ぺぺはすいかのたねをうえました。
とおいとおい日本から、アフリカまで、船に乗ってやって来た、丸くて大きなすいかは、ぺぺたち小さなギャング団によってぬすみだされてしまい、すっかり食べられてしまいました。ぺぺははじめこのかみなりのようなくだものを見て、ばくだんではないかと思いました。おそるおそる近づいてみて、ちょんちょんと指でつついて、それでも何とも言いませんでしたので、ぺぺは勇気を振り絞って、それを近くにあった石でたたき割ったのです。
さくり、という音がして、石の下から赤いしるが飛び出してきました。
ぺぺはおどろいてとびのきました。動物の血か何かだと思ったのです。
「これは、肉だぞ。」ぺぺの仲間のカカは言いました。「赤い血が流れたんだから。」
もう一人の仲間のワワはくんくんと、その割れたすいかの匂いを嗅ぎました。
「ちがう、これは血のにおいじゃない。」ワワは自信を持って言いました。
「なんだろう、これ。」ぺぺは言いました。「肉じゃないけど、血が出てる。」
「血じゃ無いったら。」ワワが怒ったように言いました。
「食べられるのかな」カカが言いました。「おいら、腹が減ってるんだ。」
「食べてみようよ。」ワワが言いました。「いいにおいだよ。」
「食べるの?」ぺぺが言いました。「僕はちょっと怖いな。」
「いくじなし。」カカが言いました。
「いくじなし。」ワワも言いました。
「いくじなしなんかじゃない。」ぺぺが怒ったように言いました。
ぺぺは意気地無しなんかじゃないことを、ワワとカカに見せるために、そのすいかの赤いところを手で掬って、口に放り込みました。
「...あまい。」ぺぺが言いました。「なつめやしみたい。」
「そんなにあまいのか」カカが言いました。「肉なのに。」
「肉じゃないよきっと」ワワが言いました。「これは血じゃないもの。」
ワワとカカはぺぺの言葉を聞いて、われ先にとすいかを食べ始めました。ぺぺも混じって三人があんまり勢いよく食べたものですから、すいかはあっという間になくなってしまいました。
「ああ、おいしかった。」カカが言いました。
「もっと食べたかった。」ワワが言いました。
「ほんとにおいしかった」ぺぺが言いました。
ぺぺはすいかを食べているあいだ、お母さんのことを考えていました。すいかがあんまりおいしかったので、お母さんにも食べさせて上げたくなったのです。
ぺぺのお母さんは昼間は町に出て、ものごいをしていました。
ふつうの身なりでは誰もなかなかお金をくれないので、ものごいをする人の中には、わざわざ足の悪い人の動きをまねして、お金をもらう人もいました。中にはもっとすごい人もいて、わざわざ本当に足を折ってしまう人もいるようでした。ぺぺのお母さんは、体が一番だいじと、ぺぺにいつも言っているような人でしたので、そんなことはしませんでした。道路でしんごうを待っている車の間を縫うように歩いて、お金をくださいと、言って歩くのでした。
ぺぺはすいかを食べている内に、これがワワの言うように肉ではなくて、植物の実のようなものだと感じたので、その中にあった、黒いたねのようなものをいくつか拾っておきました。それからぺぺは近くの街路樹の下に、そのたねを埋めました。その街路樹はとても大きなもので、毎日管理人がその根本に、水を撒いていくのを、ぺぺはしっていました。管理人が水を撒けば、このたねにも水がかかるはずでした。ぺぺはこのたねが芽を出して、早く大きくなるように、おまじないをしてから、駆け足でお家に帰りました。
お家に帰ると、お母さんは先に帰っていて、夕食の用意をしていました。
「今日は余り稼げなかったよ。」と、お母さんは言いました。
「お金のありそうな人は、いっぱいいたのにねえ。」
お母さんの作っていたのは、ぺぺの大好きなマメのスープでした。平たくて丸くて大きな豆が、すりつぶされたのとすりつぶされていないのが一緒に入った、とっても栄養のあるスープなのでした。
ぺぺの家には、隣に住むタタおじさんも来ていました。おじさんもマメのスープを食べに来たようでした。おじさんはとてもけちで、人のものはもらうのに、自分のものを人にあげることはありませんでした。
「今日の豆は、わしがもらってきたものだぞ。」タタおじさんは言いました。
「だからわしがもらうのじゃ。」
でも、ぺぺはしっていました。おじさんの持ってきた豆というのは、近くで外国人が、お金のない人たちのために配っている豆だったのです。ぺぺたちの豆も同じでした。だから、けっきょく同じ豆だったのです。
お母さんはそれをしっているはずなのに、何も言いませんでした。お母さんはいつもそうでした。タタおじさんはひどい人なのに、余り文句を言いませんでした。タタおじさんが来る日は、お母さんの様子がいつもと違う気が、ぺぺはしていましたがそれがどう違うのか、ぺぺには分かりませんでした。
「はい。豆のスープだよ。」お母さんは大きな鍋のスープをおじさんに渡しました。「これで良いね。」
「ああ、」おじさんはにこにこ笑ってそれを受け取りました。そして、うれしそうに帰って行きました。ぺぺたちのもとに残ったのは、お母さんがこっそり取り分けておいた、ほんの少しのスープだけでした。
ぺぺとお母さんはそれを分け合って食べました。お母さんはぺぺより体が大きいのに、ほとんど全部をぺぺにくれました。ぺぺはいくらかお母さんに返そうとしましたが、お母さんはもう食べたからと言って、みんなぺぺに食べさせてしまいました。
「ぺぺ。」お母さんが言いました。「ぺぺはお父さんがどんな人か、知りたいと思ったことはないかい?」
「ないよ。」ぺぺは言いました。「僕のお父さんはペルペルポンだもの。」ぺぺは胸を張って答えました。
ペルペルポンというのは、ぺぺたちの一族の英雄で、神様でもありました。昔、この土地にまだ土人間がたくさん住み着いていた頃、ペルペルポンが海から上がってきて、土人間を海の神様からもらったやりで、みんな打ち倒してしまったのでした。ペルペルポンがやりを空に掲げると、たちまち雨が降ってきて、土人間はみんな溶けてしまいました。そして、雨の降ったところにはオアシスが出来て、それがぺぺたちの住んでいる町の始まりになったのでした。
だから、毎年雨期の始まりにペルペルポンのお祭りがありました。男の子は4歳になると、小さな槍を手に持って、空に突き上げて、みんなでペルペルポンのうたを歌うのでした。女の子はこのときだけ、特別なきれいな服を着て、それにあわせて踊りました。ぺぺたち、お父さんのいない子供は、みんなペルペルポンの子供でした。カカも、ワワも、そうでした。
「ペルペルポンねえ...。」お母さんは困ったように笑いました。
ぺぺの頭の中はそれどころではありませんでした。今日うえてきた、すいかのたねのことでいっぱいでした。豆のスープを食べていても、ぺぺはどうしても、すいかのことを考えてしまって、気がつくと自然に、顔がほころんでしまいました。
ぺぺが豆のスープを食べながら、あんまりにこにこしているものですから、お母さんは不思議がって、「どうしてそんなに、にこにこしてるんだい。」と聞きました。
ぺぺは笑って、「ないしょ。」と答えました。そしてまたにこにこしていました。
お母さんはそれを見て「変な子だねえ。」と言って笑っていました。すいかが大きくなるまで、ぺぺはお母さんには教えたくなかったのです。大きな甘いすいかを突然持ってきて、お母さんをびっくりさせて、喜ばせてあげたいと思ったのでした。
ぺぺはそれを考えると、ますます顔がほころんでしまうのでした。
その日の夜、ぺぺは夢を見ました。
もちろん、すいかの夢でした。
ぺぺの夢の中で、すいかは大きな木になり、
これまで見たことのない、真っ青な花を付けました。
ぺぺたちはそれを見ながら、うれしくて木の周りを何度も何度も踊りました。
青はペルペルポンの色でした。
ぺぺはそれからすいかのことを、『ペルペルポンの実』と呼ぶことに決めました。
でもそれを、ぺぺはまだ、お母さんには教えていません。
おいしいすいかの実がなったら、お母さんにこのことを一緒に教えて上げようと、ぺぺは思っているのでした。
老人と電車
抱き上げてみると少女の体は思ったよりずっと重かった。
老人はその重みに、自らの子を抱き上げた時のことを思い出した。妻の初めての出産は難産だった。当時は分娩室にはいることは許されず、老人は夜通し、待合室で、うろうろと落ち着かなかった。何度も外に出ては星を見上げ、月を見上げて、妻と、そして生まれてくる新たな命の無事を祈った。柔らかな産着に包まれて初めての娘が真っ赤な顔をして彼の前に現れた時、老人はどれほど泣いたことだろう。ストレッチャーに載せられて、妻が運ばれていく時、何度、ありがとうという言葉を口にしたか、今ではもう、覚えていない。
半日歩き続けた少女はすっかりくたびれてしまったようだった。
渠の肩にもたれるようにして、ぐっすりと眠ってしまっている。老人の耳元で、安らかな寝息が聞こえていた。
「この子を早く家に送り届けて上げないと。」
老人は独りごちた。
老人が、この少女と出会ったのは、老人がいつも利用する駅のホームでのことだった。
少女は自動改札の前で手間取り、辺りをきょろきょろ見回していた。
「どうしたんだい。」老人が尋ねると少女は、
「おばあちゃんちに、いくの。」と答えた。
どうやら少女は、一人で祖母の家に行くところのようだった。親もまた、子供に冒険をさせたものだ。老人は尊敬を通り越してあきれた。老人の目に少女は確かにしっかりしたこの様に見受けられたが、一人旅に出すにはあまりに幼い年齢に見えた。
「お母さんと来なかったのかい。」老人は尋ねた。
「お母さん、いない。」少女は答えた。
少女には元々、お母さんがいないのだろうか。老人は思った。今の家庭事情を考えれば、そんな家庭があってもおかしくないと感じていた。父子家庭なのだろうか。
「お母さんは、元々いないのかい」老人は念のためもう一度聞いてみた。
少女は首をかしげたまま、老人をきょとんとしてみていた。老人の質問が理解できないようだった。
「まあ、いい。」老人は仕方なく笑った。
「おばあちゃんちは近いのかい?」
「宮城県東郡陸前町字菅原1-10-5 ごとう、とめこ」少女ははきはきと答えた。
「ごとう、とめこ...。」老人はその名に聞き覚えはなかった。そのような住所も、この辺りには存在しなかった。
「ここの近くじゃないなあ。」老人は困ったように言った。
「間違えていないよね。」
「宮城県東郡陸前町字菅原1-10-5 ごとう、とめこ」少女はもう一度言った。
「...お父さんが言ったもん。」
「お父さんが、か。」誰が言おうと、存在しない地名は存在しないのであった。
どうやらこの子は完全に迷子のようだった。警察に引き渡すか、それとも自分でこの子を家に送り届けるか、そのどちらかしかなさそうだった。
老人はその日、特に何もすることがないので、近くの競馬場にでも行くつもりだった。元々、それほどギャンブルをする方ではない。しかし彼には、これと言って趣味がなかった。仕事を引退し、地元のこの田舎町に帰ってきてはいたものの、特にすることがあるわけでもなく、日がな一日、新聞を読んだり、縁側に出たり、その程度のことしかできなかった。娘も、そのあとに生まれた息子もとっくに独立しており、妻は先年先だった。
「じゃあ、おじいさんがついて行って上げよう。」老人は言った。久しぶりに小さい子を相手にしてみたかった。孫は娘夫婦にいたが、彼女は二年に一度も帰ってきていない。孫が生まれた時に年賀状に写真を貼って送ってきたきりだった。
「おばあちゃん地に行くのは難しいから、お家に戻ろうか。...さあ、お家はどっち?」
「海老原駅」少女は言った。ここから、一時間ほど電車で走ったところにある駅だった。
「よし。」老人は少女の頭を不器用に撫でた。「じゃあ、冒険に出発だ。」
少女はきょとんとした顔で、老人を見上げた。
海老原に出るには下りの列車に乗る必要があった。
ホームの時刻表で時間を確認しているうちに、海老原方面の列車が入ってきた。老人と少女はすぐに列車に飛び乗った。
列車の中で少女は、小さな財布をずっといじっていた。
子供に人気のマスコットキャラクターの絵柄の入った小さな小銭入れだった。
「お財布かい?」老人は尋ねた。
少女はそのお財布がお気に入りなのだろう。それを見せつけるようにぐいと老人の前に尽きだした。
「おお、かわいいねえ。」老人は笑顔で応じた。
少女はそれを手元で再びいじり始めた。そのうちそれにも飽きたのか、ふと顔を上げ、椅子に逆さまに座って、窓の向こうの景色を見つめた。そこは工業地帯であった。白と赤に塗り分けられた煙突が、数本、彼女の前を通り過ぎた。
「電電工業」少女は目の前に並ぶ建物の一つを指さした。老人は後ろの窓をふり返った。
「お父さんあそこにいるの。」少女はガラス玉のような大きな黒い瞳で、じっと電電工業の立ち並ぶ工場群を見つめていた。
「お父さん、何屋さんなの?」老人は尋ねた。
「さらりいまん。」少女は答えた。退屈を紛らわすためなのか、座席の上でぴょんぴょんと跳びはねたが、余り楽しそうではなかった。
「サラリーマンか...。」老人はその言葉に、思わず一人苦笑を浮かべた。そう呼ばれた頃の自分を懐かしんでいるようだった。
あの頃は、よく電車に乗った。老人は思った。
だが、俺はどのくらい、町の景色を見ていただろう。
20年住んだあの都会の町並みの、どの程度を俺は知っているだろう。
少女は電電工業の建物を見送ってしまうといよいよ退屈になったようだった。
しばらく椅子に座って足をばたつかせていたが、やがて、うとうとと眠り始めた。
老人は少女が反対側に倒れてしまわないように、腕を回して、自らの体の方へ抱き寄せた。
少女の体は大人しく、老人の体にもたれた。
老人は母親が子守歌を歌うときそうするように、少女の小さな肩を、はたはたと拍子をとるように打ち始めた。それは遠い物語だった。老人の母の、老人がまだ、老人ではなく、今彼のそばにいる少女のような、一人の子供だった時代の、母の残してくれた、体に刻まれた、拍子だった。
老人はその拍子で、体の思い出すままに、少女の肩を打ち続けた。
そのリズムに少女は気持ちがよくなったのか、より深い眠りに落ちたようだった。
老人は思わず、穏やかな微笑みを浮かべた。
2008年6月19日木曜日
雨の校舎
昨日から降り続いた雨が、今日もまた校舎の窓を濡らした。幾多の水玉模様で、きれいに磨かれた窓は濡れていた。くらい空の下で、蛍光灯に照らされた教室の中だけが妙に明るい。先生は黒板を見つめたまま、何やらぶつぶつ言っている。
少女はうんざりしていた。梅雨という季節は彼女を憂鬱にさせた。何時になっても、雨、雨、雨。夏が遠く、待ち遠しい。
しかも、少女をうんざりさせる物がもう一つあった。父だ。
彼女は傘を壊していた。来る途中、学校近くの電信柱とブロック塀の間に挟まれて、傘の骨はすっかり曲がってしまった。雨は相変わらず降り続いている。家に帰るには、父を呼ぶしかなさそうだった。
またあの緑色の車で来るのかな。
彼女は思った。思い出すだけで溜息が出た。
父は地元の小さな会社に勤めていた。車は、会社から貸し与えられている物だった。緑の古くさい型のライトバン。運転席と助手席のドアには、目立つ白抜きの文字で『山下工務店』と大きくプリントしてあった。
どうしてうちは、もっとちゃんとした車を持ってないんだろう。
少女は思った。
別に、ポルシェとか、ベンツとまでは言わないから、普通の車がないんだろう。
少女が思い描く『普通の車』には、少なくとも山下工務店という文字はプリントされていなかった。シルバー、あるいは青や赤とといった色をしていて、後ろはベニヤ板の敷かれた広々とした貨物室ではなく、ちゃんとしたリアシートが入っているような車だった。
それぐらいのお金もないんだろうか、家って。少女は危惧した。
あたし、高校行けないんじゃないだろうか。
それはそれで良いような気がした。目前に迫った高校入試は彼女を悩ませる一番の代物だった。家にお金がないという理由で、高校受験をせずに済むのなら、それに越したことはなかった。私はただ、残念、哀れ、と言う顔をして、あくせくと勉強するみんなを眺めているだけでいい。
それはどんなに気楽だろう。彼女は思った。そうなればいいのに。
「...瀬戸内、...おい。」
隣のコウイチが話しかけてきた。何?と言う顔で彼女が振り向くと、コウイチは黙って前の方を指さしている。少女がその指さす方を見ると、そこにさっきまでいた先生の姿がなかった。
「...自習だってよ。何でだろうな、急に。他のクラスの先生方も、みんな出て行った。」
コウイチが不思議そうに言った。教室に取り残された生徒はみんな、一様にコウイチと同じような表情をしていた。何人かの生徒が、教室を出て、廊下に半身を乗りだして、外の様子をうかがっていた。
「どうしたんだ。」生徒の一人が隣のクラスの生徒に話しかけた。
「わかんねえ」その生徒が答えた。
自習と言ってもすることがなかったから、教室は事実上の無法地帯になった。みんなそれぞれにしたいことをしていた。トランプを始める者があり、誰かをからかい始める者もあり、隣の教室から乱入してくる者もいた。受験を控えているだけあって、大半の生徒は大人しく机に向かっていたが、それでも気持ちは上の空のようだった。みんなしきりに、面白そうな声を上げているグループを気にして、きょろきょろしていた。
少女は、そのようなグループに参加する気分にもなれず、かといって勉強など、毛頭する気になれなかったから、頬杖をついてぼんやりと雨の降る校庭を見ていた。長雨で校庭はすっかり沼地のようになっており、所々に深い水たまりが出来ていた。誰かがおもしろ半分に歩いたのか、しばらく誰も出ていないはずなのに、一列の足跡が付いていた。その足跡は校庭の真ん中まで行って、そこから同じ道を通って引き返していた。
「何見てんだ。」コウイチが再び話しかけてきた。
「...足跡。」彼女は答えた。
「足跡?」コウイチはおもしろがって、身を乗り出してきた。彼女に覆い被さるように校庭を眺めた。「お、ほんとだ、誰か出たんだな、この雨の中。」コウイチは言った。「でも途中で引き返したんだ。意外と根性無いやつだな。」
「...コウイチ、臭いよ。」少女は言った。
浩一は思わず身を引いた。
「お、わりい。」恥ずかしそうに笑った。「ちゃんと部室でシャワーを浴びたんだけどな。」
「その後、なんかスプレーでもしなかった?」少女は言った。「その匂いが臭いの。」
「...お前、こういう匂い嫌いなのか。」コウイチは自分の着ているシャツをつまんで匂いを嗅いだ。「別に普通の匂いだと思うけど。」
「普通だとは思うけど。」彼女は言った。「でも私は、そう言う人工的な匂いは全部嫌い。...なんかトイレの芳香剤の匂いみたい。」
「まあ、言われてみれば。」コウイチは言った。「トイレの物ほど匂いは強くない気がするけど。」
彼女は、依然として雨の降る校庭を見ていた。思えば、嫌いな物ばかりが増えてくるような気がした。お父さんも嫌いになり、雨も嫌いになり、勉強も嫌いになり、コウイチの体に付いた匂いも嫌いだった。いずれ私は、世の中の物みんな嫌いになってしまうのかも知れないと、彼女はぼんやり考えた。世界はどんどん狭くなる。彼女は思った。
「お前、どんな匂いなら好きなんだ。」コウイチが言った。
「...考えたこと無い。匂いの種類なんて。」彼女は答えた。
「変な女だな。」浩一が言った。「女子ってみんな、香水みたいな物に興味あるのかと思ってた。」
「人それぞれじゃない?」彼女は言った。「女子って、ひとまとめにしないで。」
「その言い方も嫌い、なのか。」コウイチは言った。「...お前、好きな物って何か無いのか?」
「べつにいいでしょう、私の好きな物なんて!」彼女は強い口調で言った。「...うざいよ。ほっといて。」
コウイチはそう言われると口をつぐんだ。しかし、悲しげな目で、少女の方を見ていた。
「何?」いらついた口調で少女は言った。「何じろじろみてんの?」
コウイチは俯いた。「お前、楽しいか。」
「何が?」少女はコウイチをにらみつけた。
「...生きてるのがさ。」コウイチは彼女の方を見ずに言った。
「お前みたいな性格だと、なんか、世の中みんな嫌いになって、そのうち自分も嫌いにならないか。」コウイチは何かに困ったように頭を掻いた。「そんなの楽しくないだろ。」
「何で、楽しい必要があるの?」少女が言った。「私の人生でしょう。つまらなくっても、それは、私の物だよ。コウイチに言われる筋合いなんか、ない。」
「...まあ、そうなんだけどよ。」コウイチは言った。「まあ、そうなんだけど...。」
コウイチはそれ以上何も言わなかった。彼女は苛立った気持ちのまま相変わらず雨の降る校庭を見ていた。世の中ってなんて面倒なんだろう。少女は思った。
人間が一人で生きて行けたら、気持ちはどんなに楽だろうか。
少女は山奥で自給自足する自らを思い描いた。畑があり、田があり、せせらぎがあり、広い大地と空があった。いくらか鶏も飼っており、ヤギが大きな声で鳴いていた。そこはとても気持ちの休まる土地ではあった。気に障る物は何もなかった。人間関係の煩わしさもそこには存在しないようだった。
こんな所に住めたらいいだろうな。彼女は空想しながら思った。面倒な物は何もない。
ただ、会話だけが足りなかった。
会話がなかったから、笑いもなかった。流す涙もなかったし、心を揺さぶる感動もなかった。
想像の中の彼女は、いつも穏やかな微笑みを浮かべてはいた。しかし、それ以上の感情は生じなかった。
ヤギに笑ってもしょうがないか。
少女は一人笑った。
「...お前、気持ち悪いな。」コウイチが言った。「何、一人でにやにやしてんだよ。」
「何であんたに教える必要があるの」少女は言った。「どんな顔しようと、私の勝手でしょう。」
「ああほんとに勝手だ。」コウイチはそっぽを向いた。
「お前みたいな勝手な奴、どうにでもなれ。」
「...怒ったの?」少女はコウイチの顔をのぞき込んだ。「怒ったの、コウイチ?」
コウイチは答えなかった。むっつりとふくれたまま、黙って前を見ていた。
「コウイチ?」少女は再び尋ねた。反応はなかった。「ねえ、コウイチ?」コウイチの前に身を乗り出した。前を見るコウイチの目を真っ直ぐにのぞき込んだ。コウイチの顔は真っ赤だった。小刻みに震えていた。彼は笑いをこらえているのだった。
突然コウイチが吹き出した。
「コウイチ?、コウイチ?」コウイチは少女の口まねを始めた。
「コウイチ?コウイチ?」
「うるさい!」少女は手元にあった消しゴムをコウイチに投げつけた。コウイチはそれでも身をよじらせて笑っていた。
「コウイチ?、コウイチ?」コウイチは尚も口まねを繰り返した。
「うるさいったら!」少女も顔を赤くしてコウイチの二の腕を二度三度となく叩いた。
コウイチはそれでも笑うことを止めない。
大きな声でげらげらと笑っている。
少女は顔を真っ赤にして、唇を突きだしていた。
自分自身の世界を見る目が、このときを境に少しずつ変わり始めたことを、
後に少女は知ることになる。
2008年6月18日水曜日
再会
女と再会したのは十数年ぶりだった。
男は女の横顔を見ながら、長い時の経過を思っていた。男の目に、女はひときわ美しく映った。男の知る女に見られた、少女の面影はすでになくなっていたが、以前までは目立たなかった女性らしい容姿と物腰が今の女には見受けられた。女は左手をアイスコーヒーの冷えたグラスに伸ばした。その薬指には銀の指輪が光っていた。
「久しぶりね。」女は言った。「...何年ぶりかしら、こうして二人過ごすのは。」
「さあ。」男は言った。
「おそらく、十年は過ぎてるね。」
ふっ、と女は笑った。「余り言わないでよ。歳を感じるから。」
「そんなことはないさ。」男は言った。「...君があんまり変わらないから、こっちは驚いていたくらいだよ。」
女は口元に手を添えて笑った。
「あなたこそ、変わらないわね。」女は言った。「いつも顔だけは真面目なんだから。...それが嘘か本当かは、相変わらず分からないけど。」
「僕はいつも、本気のつもりだが。」男は言った。
「あなたの本気は、あんまり本気すぎるのよ。正直すぎるのも嘘になるわ。」女は言った。
「よく分からない。」男は言った。「君の言うことは。」
「分からなくてもいい。」女は意地悪そうな笑みを浮かべた。「それも、あなたらしくて素敵よ。」
昼下がりのカフェには、彼らの他にも幾人かの客が思い思いの方法で余暇を過ごしていた。
新聞を広げて読んでいる者もあり、恋人と楽しげに談笑する者もあり、一人黙々とノートに何かを書き付けている者もいた。各々のテーブルは一つ一つが小さな世界のようで、その間を行き来する背の高い初老のウェイター以外、その世界に立ち入る者はいなかった。
彼と彼女はその中でまったくの偶然に出会った。彼女は電話をしていた。電話の向こうの相手と親しげに話すその声に、男は聞き覚えがあるものを感じて、そちらを振り向いたところ、女と目があった。女は口の動きで、ちょっと待って、と彼に伝えた。
彼は微笑んでそれに応じた。
「相変わらず、小説を書いているの?」女は尋ねた。
「ああ。」男は答えた。「僕にはこれしかないからね。」
「素敵ね。」女は言った。「一つのことに一生を捧げるなんて。」
「君はどうなんだい。」男は尋ねた。「作詩はものになったかい?」
「全然」女は答えた。「...詩を作るのは止めたわ。」
「なぜ。...あんなに良いセンスしてたのに。」男は驚いたように身を反らせた。
「まったく...。」女はあきれたように言った。「あの頃は褒めもしなかったくせに。」
「そうだったか。」男は笑った。「心の内で僕は君の才能を賞賛してたよ。」
「...嘘つき。」女は言った。「あなたが正直者なのか、ただの嘘つきなのか...、だから信じ切れなくなるのよ。」ふくれた面で小さく呟くように言った。「あなたの言葉なんて...、信じなくて正解だったわ。」
「それは残念だった。」男は言った。「僕の言葉は、届かないままか。」
女はその言葉に、ちらと男の表情をのぞき込んだが、男が特に表情を変えていないことを認めると、すぐにまた視線をそらした。
男は苦笑した。
「君は、変わらないな。」
「おかげさまで。」女は言った。「小じわも旦那も、なかったことにすれば、ですけど。」
「それでも君は変わらないさ。」男は言った。「...確かに、あの頃のままとは言わないが。」
女はその言葉に沈黙した。男も黙り込んだ。じっと何かを思い返しているようだった。
「...ねえ。」女が口を開いた。「ねえ...、あの頃..、あなたは私と、本当に結婚しても良いと思ってくれてた?」
「それは、僕が聞きたいくらいさ。」男は言った。「君の方こそ、どうなんだい?」
「それは...。」女は躊躇った。「それは...。」
男は笑った。「答えなくてもいい。...過ぎた話なんだから。」
「好きだったわ。私は。」女は言った。「あなたのことを。」
じゃあ、なぜ...。男の脳裏に、思わずこの疑問が浮かんだが、こらえて口に出さなかった。
その質問を口にするには、二人はまだ若かった。年齢的にやり直しがきくだけ、この話題に深く踏み込むのは危険だった。
「真っ直ぐすぎたのよ。」女は言った。「あなたの言葉は。」
それ以上何も言わなかった。
風が沿道に立つ銀杏の葉を揺らした。木漏れ日が、彼らの上で瞬いた。
二人の間に置かれた白い小さな丸テーブルの上には、すでに空になったアイスコーヒーのグラスが薄い紙製のコースターを敷かれた上に載っていた。氷に冷やされて、二つのグラスは結露していた。
お下げしましょうか。
いつの間にかテーブルの脇に立っていたウェイターが、彼らの顔をのぞき込んだ。
「ええ、お願いします。」男は言った。
「真っ直ぐすぎたのか。」ウェイターがグラスを持って立ち去った後、男が言った。「それは、勲章だな。俺にとっては。」
「傷を負ったのが、勲章なの?」女は言った。「...男の人って馬鹿ね。」
「要領よく生きるより、不器用に死にたい。」男が戯けた調子で言った。「...誰かの言葉だ。」
女は笑った。
「あなたの言葉でしょ。...あなたが、小説の主人公に言わせた言葉。」
「そうだったな。」男は笑った。その小説は彼がまだ大分若かった頃に書いたもので、彼の作品の中でも、批評家から酷評されたものだった。それでも、彼は満足していた。その作品は、彼の人生観をやむにやまれず書き綴ったものだったから。他人に通じるかどうかは、そもそも度外視していた。
「青かったな。」男は言った。「誰にも通じない言葉を、平気で書き捨てていた。」
「そうね。」女は言った。「でも、近くにいた人間には、十分通じたわ。」
女はテーブルの上に置いていた革の財布をハンドバッグに仕舞った。
「じゃあ、また会いましょう。」女は言った。
「いつになるかな。」男は言った。
「さあ。」女は笑った。「忘れた頃かな。...私とあなたが、恋人だった過去なんて。」
女はそう言うと、紅い鰐革のハンドバッグを手に取って、大通りをすたすたと歩いて行った。
その後ろ姿を、男はもの悲しい目で何時までも見送っていた。
2008年6月17日火曜日
ハツカネズミと人間
男はネズミの脳を取り出そうとしていた。同僚の多くはすでに夏休みを取っていたため、研究室には男一人しかいなかった。
雲一つない青空が窓から見えていた。もう、お盆だもんな。男は窓の外に陽光を浴びて眩しくきらめく、隣棟の白壁を見つめながら思った。ネズミは麻酔を掛けられ、解剖台の上にうつぶせに手足を固定されて、観念したように大人しくしていた。鼻先が小さくひくついている。その様子は、男の胸中にも些かの同情を呼び起こしたが、解剖する前に、どうしてもそのネズミの息の根を止める必要があった。男は解剖台の引き出しから注射筒を取り出した。そしてそれに致死量の薬剤を詰めた。
恨むなよ。男は心の中でそうネズミに語りかけながら、注射筒に針を接続した。針先がネズミの腹の位置に近づくと、男の中で躊躇する心は急速に膨らんできた。いつもこうだった。この一針を注射する時の抵抗感は男の針先を小刻みに震わせた。抵抗感が限界まで膨らみ、血圧が上がるような感覚があって、やがてそれを突き抜ける頃には、針はネズミの腹内に達しているはずだった。
しかしその日の男は違った。いつまでも針を刺すことが出来なかった。針は小刻みに震えたまま宙に留まっていた。しばらくそうした状況が続いたあと、男は、やがてぷつりと糸が切れたように、針を持った手を下ろした。大きな溜息が出た。「やっぱり向いてないのかな。」男は一人呟いた。
男は父親だった。三歳になったばかりの男の子がいた。たどたどしいながらも親と会話ができるようになり、笑ったり泣いたり、感情表現もずいぶん豊かになった。先日は、どこで捕まえたのか、小さな芋虫を捕まえてきて、彼の書斎の机の上にはい、と言って置いていった。彼の妻はその後ろに立って息子の小さな背中を支えていたが、そのような悪さを仕組んだのは他ならぬ彼女であることは明らかだった。
彼は芋虫が嫌いだった。幼い頃、近所の悪戯好きな少女に、首筋に虫を投げ込まれて以来、彼は徹底して虫が嫌いだった。そんな彼が気づいてみれば、あのときの少女のような、悪戯好きの女性を妻にしてしまっていた。しかも、妻は息子まで、彼女と同じ悪戯好きの人間に育て上げようとしているらしかった。裏の小さな畑で泥遊びや砂遊びをするのは日常茶飯事で、ミミズをたくさん捕まえて一つの箱に閉じこめ、彼の机の引き出しの中に入れていたこともあった。庭に出ていたら、突然二階から布団が落ちてきたこともあった。息子がネクタイを締めて、七三分けにされて、すっかり中年サラリーマンみたいになって、彼の部屋に入ってきたこともある。町外れの古い町営の借家で、彼女は毎日そうした悪戯を考えながらにやにやしていた。
その妻に昨日言われた。
「あなたの仕事って、やっぱり面白い?」
休日の昼下がり、退屈しのぎに一緒にテレビを見ていた時だった。彼女は息子のために、実家から送られてきたトウモロコシを芯から剥いていた。
「ああ...、楽しいさ。好きで選んだ仕事だもの。」男はそう答えた。食べ終わったトウモロコシの芯を寝転がったまま皿に戻した。
「前から思ってたけど、今はどんなお仕事をしているの。」妻は身を乗り出して聞いてきた。
男はその質問を意外に感じた。「何だい、今頃...、どうしたんだ、今まで聞いた事なんて無かったくせに。」
妻は笑った。「結局私には分からないんだろうけど...、でも知っておきたいのよ。分からないなりに、夫のしていることくらい。わたくしの夫様が、昼間のほとんどを費やしている仕事ですもの。」そう言って、また笑った。「それに...、」
「それに?」彼は尋ねた。
「最近、思うの。あの子を見ていると。新しい命ってすごいんだなあって。生まれた時はあんなに頼りなかった小さな命が、今ではああやって、自分の手足をぶんぶん振り回している。」
妻がそう言って見た先には、口の周りにアイスクリームをいっぱい付けた息子がいた。自分で口の周りを拭こうと思ったのか、箱の中のティッシュペーパーを上手に引き出そうと、ティッシュの箱と格闘していた。彼は何時しか目的を忘れたらしく、ティッシュを箱から出すことに熱中していた。おかげで周りは、引き出されたティッシュペーパーが白い雪のように舞っていた。
彼は妻の方を見て、丸顔でニカニカと笑った。妻も笑って答えた。
「あなたの仕事も、生き物を扱う仕事でしょう?」妻は言った。「だったらきっと、私が感じる命の不思議や、神秘的な出来事に、あなたは毎日たくさん触れているんだろうなって思って。」
「まあ、それは...、」
「それもいい仕事よね。」妻は言った。「役に立つ立たないは別としても、誰もが気がつかないものと、大切に向き合えるから。」そう言って彼女はティッシュをまき散らして誇らしげにしている息子に駆け寄った。そして、積もったティッシュで真夏に雪合戦を始めた。息子はきゃっきゃと声を上げて逃げまどっていた。
男には言えなかった。
自分の仕事はネズミの脳を取り出す仕事であることを。
命の神秘だとか、不思議だとか、そんな物を考える以前に仕事に忙殺されていることを。
彼は自分の仕事の意義を、ちょうどその時、見失っていた。唯ひたすらネズミの脳を採り続けるだけの人間になっていた。
研究室の片隅の窓辺に立ち、男はタバコを吸っている。解剖台にくくりつけられていたネズミは飼育箱に再び戻されていた。命拾いしてほっとしたのか、小さな前足を器用に使って毛繕いをしていた。
彼はプロだった。その自負もあった。必要とあれば、無論ネズミも殺すことも厭わなかった。実際、これまでにも相当数のネズミをさばいてきた。しかし、飼育箱から解剖台に移すためにしっぽを掴まれたネズミが、恐怖の余り失禁して、硬直する姿を見るにつけ、彼は心を締め付けられるような思いがした。普段は大人しい実験用のネズミたちも、その時は決まって大きな声で鳴いた。
(俺の研究は、この小さな命を奪うに値する研究なのだろうか。)男はネズミを殺す度、そのような疑念を抱かざるを得なかった。この研究で、脳の機能の一端は分かるかも知れない。でも、大勢の人の命が特に救われるわけでもない。俺は結局、研究者として自分が生きていくために、このネズミたちを殺しているに過ぎないんじゃないか?
彼はこの疑念を、もうずっと繰り返し考えていたが、その答えはなかなか出なかった。妻の顔を思い出した。悪戯をする時の息子の顔を思い出した。(俺が科学を志したのは...、)男は思った。(そもそも、ああいう悪戯心が発端だったんじゃないのか?)
男は首筋に青虫を投げ入れた少女に連れられて、野山を駆けめぐった日々を思い返していた。少女の手はいつも泥だらけだった。そして、あちこち擦り切れていた。
あの頃は自分の手も、同じような手だった気がした。
男は、改めて自分の手を見つめた。白魚のようにきれいな指が並んでいた。多くのネズミを手に掛けながらも、その手は傷一つ負っていなかった。男は自らの手を見つめながら苦笑した。そして灰皿で吸っていたタバコをもみ消した。
2008年6月16日月曜日
捨て子の話
つい、先日の話だ。早朝、まだ薄明かりの時間だった。私は、いつものようにバイト先の店の前を掃除していた。辺りに人通りはなく、車もほとんど通らなかった。ふと、向かいの建物の角に立つ人影に気がついた。そこは個人病院だったが、開業までには、まだ時間があるはずだった。それは女のようだった。しきりに辺りを気にしていた。女はやがて、病院の入り口の前に手に持っていた荷物を下ろすと、振り返りもせず、その場を立ち去ろうとした。
「ちょっと待って!」私は店の前から、大きな声で呼び止めた。影はびくりとして、その場に立ち止まった。慌てて駆け寄ると、女が置いていこうとしたものは案の定、小さな赤児だった。二重にバスタオルのようなものを巻かれて、すやすやと眠っていた。女は怯えた様子で私の方を振り返った。まだ相当に若い女だった。おそらくは10代前後ではないかと思われた。
「君の子かい。」私は尋ねた。「どうするんだ、こんなとこに…」
「お願いします」私の言葉を遮るように、女は言った。「その子を育ててやってください。」
「ちょっと待ちなさい。」私は言った。女の幼さに苛立っていた。「産んでおいて、こんな所に捨てて、どうするつもりだ。」
「捨てるつもりはなかったんです。」女は言った。「でも、難しくって、結局...」
「結局捨てるのか。」私はあきれて言った。
私の語気が無意識に荒くなっていたためか、女はすっかり怯えてしまっていた。半べそを掻いていた。私は呼び止めたことを後悔し始めていた。この様な娘の取り扱いにはあまり詳しくなかった。出来るなら早くこの場をうっちゃって自分の持ち場に戻りたかったが、今更この状況を放って置くわけにも行かなかった。私がすっかり困り果てていると、ちょうどそのとき、病院の婦長が出勤してきた。
「どうしたの?」婦長は私の顔を見るなり言った。
そして今にも泣き出しそうな少女と、私の抱えた赤児を見て状況を察したらしく、少女を促して「まあ、入りましょう」と言った。女は大人しくそれに従った。私は赤児を抱えて、彼女らの後について行った。
それから20分ほど、少女は休むことなく泣き続けた。私は彼女の話をじっとして聞いていられなくて、応接室の中をうろうろしていた。17歳で、親の気がつかないところで妊娠し、ネットを見ながら自力で何とか出産まではしたようだった。でも、その後の扱いにほとほと疲れ果て、捨てることにしたのだという。
「赤ちゃんって」少女は言った。「こんなに泣くものだとは知らなくて。」
婦長は少女の手を握って、背中をさすりながらそれを聞いていたが、相槌を打つ程度で、特に諭すようなこともしなかった。少女は涙に咽せ、その話は後半ほとんど聞き取れなかったが、それでも婦長は辛抱強く黙ってそれを聞いていた。そして、やがて話があらかた出尽くして、少女の気持ちが落ち着いてくると
「じゃあ、またいらっしゃい。」と言って、彼女を送り出した。
その手には、身ぎれいに整えられた赤児と、婦長の連絡先などが書かれたメモが握られていた。少女は両まぶたをすっかり腫らしていた。それでも婦長と私に涙声でお礼を言って、来た道を帰って行った。
「あの子、大丈夫ですかね。」私は尋ねた。10代の母というものが信用できなかった。
「何度も泣くでしょうね。」婦長は言った。「でも、泣かずに親になった人なんて、きっといないわ。」婦長はそう言って私の肩をとんとんと叩いて、にこりと笑った。そして忙しそうに病院の奥へと消えていった。私は婦長の言った言葉の意味を計りかね、しばらくそこに突っ立っていたが、仕事を放り出していたことに気付き、慌てて持ち場に戻った。
2008年6月15日日曜日
家族
「あんたあたしを、アル中だと思ってなめてんだろ。」
女は言った。時間はまだ、夜の八時にしかならないが、彼女はすでに相当酔っていた。キッチンの床には空けられたワインの瓶が2本転がっている。小学4年生の娘がその空き瓶を片付けようとしていた。その表情には、また始まるんだ、という大きな不安が張り付いていた。
「なめてなんかいないさ。」男は努めて冷静に言った。「ただ、君を思ってのことだ。」
「あたしを、『思って』!?」女は突如高い声で笑い出した。その背後に、不安げにこちらを見る娘の姿があった。男は娘に向かって、上に上がっていなさい、と手で合図した。女はそれに気がつき後ろを振り向いた。
「美和子。」名前を呼ばれた娘は一瞬びくりと震えたように見えた。しかし、逃げ出すわけにも行かず、わなわなと震えたまま、母親の顔を見つめていた。女は娘の方に片腕を伸ばした。しかし相当に距離があるため、その手は半分も届かなかった。それでも女は身体を伸ばして、娘を抱き取ろうとしているようだった。
「もう上に上がっていなさい。」男は言った。「美和子、美和子。」女は娘を求めた。娘は理性を失った母親にすっかり怯えてしまって、そこから動くことが出来ない。不安な顔で、父親を見た。「美和子、美和子...、そんな顔しないで。美和子も、お母さんが、好きだよねえ。」女は猫のように優しい声で娘に呼びかけた。
「嫌い。」
娘は怯えながら言った。
「嫌い?」ふと、女の動きが止まった。そしてまた、甲高い声で笑い始めた。その笑い声に部屋の壁が共鳴してきんきんという金属的な音が聞こえた。「嫌い?嫌いだったの。」女は言った。「嫌いだったの、美和ちゃん。嫌いだったの?」
「そうね、お母さんアル中だもんね。またお酒、飲んじゃったもんね。」女の声が急に勢いをなくした。「お母さんも嫌いよ。美和ちゃんなんて。お母さんを嫌いって言う、美和ちゃんなんて。」女は底に座り込んだまま、俯いてぼそぼそと言った。「お酒なんて嫌い。お母さんを不幸にするもの。」女はそう言うと、まだ手元に残っていたワインを瓶からぐいとあおった。「お父さん、離婚するの?」娘が父親の顔を見ていった。「お父さんとお母さん、離婚するの?」
「離婚?離婚?そうよ、離婚するのよ。」女が言った。「お父さんとお母さんは離婚するの。また楽しい女の子に戻るの。」
彼女は若い頃重度のアルコール依存症だった。それでも、結婚し娘が生まれてしばらくするまでは酒を断っていた。周りはすっかり直ったと安心していた。しかし、娘が大きくなり、しだいに手がかからなくなって、彼女一人の時間が増えるにつれて、彼女は少しずつまた酒に手を出すようになっていた。男が買ってきていた数本のワインを勝手に開けて飲んでいたこともあった。男はその兆候が現れだしてから、また家には酒を置かないようにしていたが、彼女は自分で買ってきて飲んでしまうようだった。
「お母さん達は、離婚するの、こんなお家を出て行くの。」女の声は歌うようだった。
なかなか飲酒を止めない女に、男は、今度飲んだら、離婚すると言っていた。女はそれから、3ヶ月は辛抱した。しかし、彼が会社から帰ろうとすると、先に帰っていた娘から電話があった。震える声で娘は言った。「お父さん...お母さんが、また飲んでるの...。」男は急いで家に帰り、リビングの扉を開けると、この様に泥酔した妻がいた、
「おっかあさんたちはね、好きだったのよ。」女は言った。「でもね、すきだったのはどっかいったの。だから離婚しちゃうの。バイバイしちゃうの」女は突然泣き始めた。小さな声で何か言っているようだったが、その声は聞き取れなかった。娘は心配そうな顔で母親を見つめていた。娘はこれまで真っ直ぐに育った。この子の将来のためにも、離婚した方が良いかもしれない。男はそう考えていた。
「お父さん」娘は父親の顔を見て、言った。「お母さんと離婚しないで。」娘は不安げな顔で切実に訴えた。
「お母さんのことを嫌いなんだろう。」男は言った。妻の耳にはいるのを承知しながら。「じゃあ、離婚した方が良いじゃないか。」
「かわいそう。」娘は言った。「お母さん、かわいそう。」娘はそう言うと、うなだれた母の背中を支えた。母親はそれを認識できていないようだった。「あたし達が、一人ぼっちにしたのよ。知らない町で、友達も上手く作れないのに。」娘は、泣き続ける母親の背中をさすった。「これで、離婚しちゃったら、お母さんもっとひとりぼっちになっちゃう。」娘はそう言って、母親の顔をのぞき込んでいた。泣いている妹を心配する姉のような仕草だった。特に教えていなくても、彼女はすでに思いやることを覚えたようだった。
男はその様子を見ながら、しばらくリビングの入り口に突っ立っていた。そして、まだ帰宅したままの格好であることに気がつくと、慌ただしく書斎に戻り服を着替えた。着替えて、再びリビングに戻ると、娘と母親がいなかった。どこに行ったかと、男が家の中をうろうろしていると、二階から、娘だけが下りてきた。
「お母さんは?」男は尋ねた。
「もう寝た。」娘は微笑んだ。
男は娘の小さな身体を抱きしめた。娘は父親に抱かれながら、泣いているようだった。ずっと我慢していたものが、一気にわき上がってきた様だった。
男は娘の一つに結われた頭を撫でながら、この子とこの家庭の将来について、考えていた。その娘の髪の結い方は、彼女の母が教えたものだった。
2008年5月30日金曜日
'Round Midnight
真夜中の車中。車の中に男と女。
車は疾走する。
誰もいない高速道路。アスファルトの上を滑る様に走る銀のセダン。
車中には絶え間なく低音のベース音。
オレンジ色のナトリウムランプに照らされた、助手席の女が運転手の男に話しかけた。
「ねえ、私達、これからどうするの?」
男は答えなかった。
唯、その先に続く道が、ほとんどRの無い緩い曲線を描いていることを知ると、静かにギヤをシフトした。エンジン音が一段と軽やかに上昇する。
「ねえったら。」
女はもう一度、男に語りかけるが、男は依然として答えない。
男は黙り込み、前を見たままだ。自分の行く先に続く、何もない道をひたすらに見つめている。高速に乗ったばかりの頃は何台か見かけた対向車も、ここしばらくは一向に姿を現さない。彼と彼女の前にはオレンジ色に照らされた道が、暗闇にぼんやりと浮かび上がり、遙か視界の彼方まで伸びているだけだった。それは良好なようで、目印もない悪路。ともすれば、自分たちの居場所すら、見失ってしまいそうになるほどの。
女は問いかけるのを止めた。ふてくされたように助手席にもたれかかった。
「...勝手にすればいいわ。」
女はそう、投げやりに誰に向かってでもなく呟いた。
二人は共通の友人の結婚式に招待され、出席した帰りだった。
彼女らはもう付き合って3年になるが、男の側から二人の今後についての示唆を受けたことは、これまで一度もなかった。
彼女は彼と一緒になっても良いと付き合い始めてからずっと思っていた。しかし、彼は一向に彼女に自分の気持ちを明らかにしなかった。
私とは、一緒になる気はないのだろうか。
彼女は最近、そう思い始めていた。
遊びなら、遊びでもいい。
それでも、それならそうと、説明はして欲しい。
彼女の思いは、月日を重ねれば重ねるほど、切実だった。
しかし、その思いは何時になっても彼には届いた様子はなかった。
彼は依然として、そのことについては口をつぐんでいた。
友人の晴れやかな結婚式の後、二人で食事した、小さなレストランのテーブルでも、この静かな車中でも、彼はその話を持ち出してはくれなかった。
車だけが黙々と真夜中の高速道路を北上している。
大きな言葉の欠落を抱えたまま、エンジンだけが雄弁に、この重苦しい沈黙の中、独りよがりな語りを続ける。
街路灯のオレンジ色の光が入る度に、女の黒い瞳に涙が光った。しかし、前ばかりを見つめる男は、それを気遣う様子もない。
女は、サイドウィンドウ越しに流れる街路灯の列を見ている。風景は残像となって、瞳の中に何列もの光の帯を描き、そして、月もない闇にうっすらと消えていく。
「あなたは、いつもそう。」
女はその姿勢のままで呟く。サイドウィンドウに映る半透明の男の影に向かって。
「私のことを、本当にかまってくれたことなんて、今まであった?...いつもそうやって、自分勝手で、都合が悪くなると、黙り込んで...。」
男は何も答えない。半透明に流れる風景を写したまま。
カーステレオは低音を響かせている。遠い昔、交通事故で死んだ天才的ベーシストのはじく弦の音。
「そうやって黙っていれば、そのうち、私の気持ちが収まると思っているんでしょう...。分かってるんだから...。」
男はそれでも答えない。
女の見つめる影の中の男は不敵に微笑んでいるようでもあり、無表情のようでもあったが、いずれにしろ鮮明な像を結ばなかった。後ろの風景を写しながらガラスの中の男は彼女の方ではなく、前の何もない道を見つめ続ける。
女はそれきり、何も言わなくなった。
沈黙のまま、時は流れた。
何時しか曲は切り替わり、トランペットが静かな立ち上がりの曲を演奏し始めた。始めは夜に溶けるように、そしてやがて嘆くように、金管の響きは音色を変えていく。
「...トイレに行きたい。」
女はぽつりと言った。
深夜のパーキングエリアは、まるで忘れられた城のように、赤々とランプに照らされているばかりで、人影はほとんど無かった。広い駐車場の隅で、疲れ果てたトラックが数台寄り集まって眠り続けるばかりで、昼間はあったであろう街の特産品の売り場も、すっかり影を潜めていた。安紙に書かれた昼間の露天のメニューが時折吹く湿った夜風に揺れる。
彼女がトイレから出てくると、彼は先に戻ったらしく自動販売機の前で缶コーヒーを飲んでいた。左手には暗闇の中にたばこの先端の光りが赤く灯っているのが見える。
彼は自分の車の方を向いていたが、それを見ているようではなかった。
そのずっと先の、視界を左右に横切る高速道路の先の高い山々を見ているようだった。
山々はそこへ沈もうとしている月に照らされて、ほのかにその頂を暗闇に浮かび上がらせていた。
彼女は時折深く息着くようにたばこの煙を吐き出す彼に、何か話しかけづらいものを感じて、自分がトイレの前にいるのも忘れて、しばらくそこで彼を見ていた。
そうして、再び吹き始めた夜風の冷たさに、ふと正気に返り、つかつかと彼の前に進み出ると、少し振り向くようにして、
「行くよ。」
と言った。
彼は表情も変えず、たばこを近くの灰皿でもみ消すと、缶コーヒーをあおるように飲み干して、彼女に続いて運転席に戻った。
彼が運転席に座ると、
彼女は彼の腿の辺りに先ほどのタバコの灰のようなものが微かに付いているのが気になった。
暗い中でそれは、白く...、あるいは月光を浴びて銀色に光っているのだった。
彼女は咄嗟に、彼の腿を払った。
銀の雫が、はらはらと落ちた。
彼はその時、一瞬彼女の瞳を確かに見た。
そしてその行為の意味を理解すると、何も言わずに車のキーを回し、高速道路へ戻った。
車に戻っても二人の間に会話は依然としてなかった。
彼女はまた同じようにウィンドウに映る彼の横顔越しに流れゆく暗い風景を見つめていた。
ありがとうって、言えなかったな、あたし。
彼女は考えていた。
昔だったら...、会って最初の頃だったら、ああいう時、待ってもらったから、
ありがとうの一言くらい、反射的に言ったはずなのに。
彼女は、ぶっきらぼうに『いくよ』としか言えなかった自分に後悔していた。
慣れてくると、どうして、この言葉をひとこと言うのに、
こんなにも難しさを感じてしまうんだろう。
彼女の方の窓からは月は見えなかった。
月明かりは常に、彼女の見つめる方向の後ろ側から差し込み、車外の風景を照らした。
屋根のある車の中だけが、ほとんど暗闇になり、計器類を照らす僅かな光り以外、はっきりとした輪郭を持たなかった。
暗闇を運んでいる、一台の車は北に向けて疾走する。
たぶん、期待しているからかな。
彼が私に何かをしてくれる分、
私が彼に、何かをしているって。
彼女は一人考えていた。
男がが何も言ってくれなかったから、彼女は考え続ける以外になかったのだ。
でも...、これで二人の関係が終わるとしたら、
言わなきゃ無いのかな、『ありがとう』って。
突然、暗がりの中で、吹き出したように女が笑った。
ありがとうって、別れの言葉だったんだ。
そして、それで何かが吹っ切れたように、女は前を向いた。男と同じ風景をフロントガラス越しに見つめるために。その顔には微かな笑みすら浮かんでいるようだった。
彼は、私が灰を払ってあげた時、
『ありがとう』って、言わなかった。
彼女はその事実だけが、まだ二人の先に続きがあることの...、
少なくとも彼がまだ、別れを考えていないことの現れであるように思った。
それだけにすがるのも、ばかばかしいけど。
女は口元を抑えて、もう一度微かに笑った。
しかしその表情は夜の闇に取り込まれるように、また、すぐに曇った。
でも...、こんな不確かなものじゃなく...。
黒く濡れた瞳が、男の横顔を覗いた。
その瞳はどこか切実なものを秘め、声にならない声を含んでいた。しかし、自分の弱い部分を見透かされたくなかったので、その瞳を男に覗き返されることは避けたかった。男が視線を僅かにでも彼女の方に動かすと、すぐに視線をフロントに戻してしまった。
男は彼女のその視線を気にしているようだった。何も言わなかったが、無関心な振りをして、彼女の視線を追いかけているようだった。
女はそれに気づいていたが、それでも、あえて視線をそらし続けた。自分に対して何の説明もなく、黙り込んだままの男の意のままにさせたくない気持ちと、視線を合わせたい欲求の中で、揺れ続けた。
「...なんだよ。」
たまりかねたように男は言った。
不意に女が笑った。
「...気持ちわりいな。」
女はそれ以上、戯れるのを止めた。
男もそれ以上何かを口にすることはなかった。
彼女が逃げるのを止めたことに安心したのか、あるいはその小さな戯れ事が急に終わってしまったことに興ざめしてしまったのか、先ほどのような潜むような熱心さは、すっかり失せてしまった。
女はそれでも、言葉にならないながらも、彼がまだ、彼女を気にする素振りを見せたことには満足していた。溜息を吐くようにゆっくりと深い息をした後、椅子にもたれるように深く腰掛けて、女は再びフロントグラスに目を戻した。
道はどこまでも続いている。
ずいぶん家に近づいたようでもあり、更に遠ざかってしまったようでもあった。
この道で合っているのだろうか。
女は、ふと、そんなことを考え始めた。
来る時に通った道のようでもあったが、夜になったためか、元とは違う道を走っているような感覚を彼女は感じていた。
もしかすると、彼は道を間違っているのかも知れない。
でもそれを私に言いそびれて、走り続けているだけなのかも知れない。
彼女が危惧するようにそれは、得てして正しい道を外れているかも知れなかった。男は何も言わなかったので、確かめる術も無かった。二人はどこへ向かおうとしているのか分からなかった。そして、今どこにいるのかさえ、曖昧だった。
それでも彼女は、もはやそんなことは気にしなくなっている自分に気づいた。
夜は、どこまでも続けばいい。
彼女は思った。
人生のどこに、ゴールがあると言うんだろう。
それは、結局どこまでも走り続ける事じゃないんだろうか。
ありがとうを忘れた、二人のまま。
女は一人助手席でそんなことを考えながら、男と同じ加速度の中に身を委ねた。
トランペットが夜に叫んでいる。
エンジンはそれに呼応するように、更に回転数を上げた。
どこへ連れて行くのかな。
女は運転席の彼の横顔を気づかれないように、ちらりと見て、
そして、何かおかしくて、くすくすと笑った。
夜の闇は一層深くなる。
対向車は、まだ来ない。
2008年5月19日月曜日
Defect of originality
「ふふ...。ぼくは....、ぼくは爆弾...なんだ。」
少年は一人つぶやく。ある地方都市、人通りも激しい駅前の中央交差点を前にして。
目の前には大型の電気店、その脇には同様に集客力のある大型書店。信号が赤から青にめまぐるしく変わる度に、人と、車が交互にその交差点を埋め尽くした。
そんな、人混みの中に一人、紛れていた少年。
もうじき夏だというのに、長いコートを着て、髪の毛はしばらく切っていないのか伸び放題。元々パーマ気のある髪は、すっかりぼさぼさになってしまっていた。
コートの下は裸だった。分厚いコートの生地が歩く度に直接に肌をこすれ、少年は常時、こそばゆいような感覚を味わっていた。
目は、前を見すえている。そして、口元だけが笑っている。
「僕は...。僕は爆弾、だぞ.....」
へへ。少年は笑った。
こいつらは知らない。僕が爆弾だって事が。見ろ、あそこの女。世界で一番、おまえが見られているかのように、スカートをまくり上げて、太い尻を半分出して、長い付けまつげを振り回してやがる。もし、此処で、僕が爆弾だって知ったら、どうなるのかなあ。
へへへ。少年は再び笑った。
彼の脳裏には、その怖い物を知らないようにすら見えるきつい目つきの女子高生が、恐れおののいて逃げまどい、そして彼に哀願するように泣き叫ぶ様子が見えていた。
そうさ、僕に、乞うほか無いんだ。どんな、美人も、不細工も、此処にいる、男も、女もぜえんぶ...。
少年の口の端から唾液が出て、その灰色のコートの端に付いたのに、少年は気づく様子はなかった。唯、ひたひたと、道の真ん中を目指して、歩いていく。
月曜日の昼下がり。お昼休みもそろそろ終わる時間となり、人々は昼食を食べていた店を出て、仕事の待つ会社に戻るため、路上にどっと繰り出していた。
一様に陰鬱な雰囲気と、蘇り始めた緊張感に、都市のその一角は包まれていた。人々の目は真っ直ぐにオフィスの自分のデスクの上のいくつか積み重なった書類の山を見すえていた。見つめる方向が、たとえ同じであっても、彼らの見ている物は相互に異なっていた。
少年はその視点の交差する、中心点に向けて歩いているのだった。
グラウンド・ゼロ。
いつかの事件にまねて、彼はその地点をそう呼んでいた。
あの瞬間、全ての、交差する視点が、
あの一点に集中したんだ。
少年はそんなことを考えていた。
見ているようでお互いを見てもいない、この街に、僕は新たな視点の集結点を見出すんだ。
そしてそこに僕がいる。
少年は再び笑った。
少年はその瞬間を想像しては、何度も恍惚を味わった。長い間自分の求めていた物が、今、まさに手の届くような距離にまで近づこうとしている。自らの脚がもどかしい。しかし、そこに早く至ってしまうのも、また、つまらない。
彼の脚は、その二つの相反する思惑に縛られたかのように、すり足ぎみに、じわりじわりと距離を縮めた。
街頭の人通りは一層混雑を増した。地下鉄が着いたのか、駅からどっと人が塊のように出てきた。横断歩道前に立ち並ぶ人の列。いや、群。いろいろな臭いが入り交じり、音も激しく鳴り響いてはいるものの、会話は驚くほど少ない。孤立した群像。
少年もその中にいた。
すでに、彼は目的とする交差点の中央まで、あと少しの距離。
「あと、少しだ....。」
少年がにやりと笑んだ。その時、彼が何のことを考えていたのか、もう知る術はない。
彼が嘗て交際し(彼はそう信じていたが、それは彼の思い過ごしであったようだ)そして、裏切った数人の女性が、この付近で働いていた。彼はその復讐が間近に迫っていることを、喜んでいたのかも知れない。
あるいは、こんな事も関係しているのかも知れない。
彼は、幼い頃から、目立ったところがない少年だった。幼い頃の彼を知るという誰に聞いても、小さい頃はいい子だった、と言う決まり切った言葉しか返ってこない。それは言い換えれば、これと言った印象がなかったと言うことの、裏返しである。
その短い人生で、彼は何度となく、自分が社会から無視されているという感覚を味わってきたのだろう。その多くが、やはり同様に思い過ごしであったことは、事実だが。
実際、彼には、彼のことを考えてくれている友人が数人いた。しかし、少年の側が、その友人達のことを、どの程度考えていたかは疑問が残る。
こうなると、孤独はどちらが作り出したのか、分からない。
いずれにしろ、彼は、人の流れの交差するその点の上に立ち、
右手に起爆装置のスイッチを握ったまま、天を仰いだ。
信号は青。人々は、こちらから、向こうから、彼の前を大勢行き過ぎた。
彼は、その時、天に向けて何事か叫んだ。が、それを正確に聞いた人はいない。
都市に暮らす人々はすでに、こういう輩には慣れていた。
そして、そこから身を守るのは、無関心であることを人々は長い都会暮らしの中で学んでいた。
普通と言う殻に閉じこもった人間と、閉じこめられた人間とが、交差していた。
青信号によって生まれた一時的な雑踏。
だが、それも、これまでだ。
彼は思った。
これを押せば、全てが変わる。
彼は“普通”を破壊しようとしている。
長らく、封じ込めた....。
それを思うと、身体がぞくぞくと震えた。
未知の感動に、彼の恍惚は一気に高まり、そして溢れた。
何かが、どくどくと彼の中から垂れてきて、
内ももをひやりと濡らした....。
彼は微笑んだまま、
右手の中のスイッチを押した。
かちり。
乾いた小さな音を、彼は聞いた気がした。
***
葬祭場は、黒と白とに彩られていた。
好きでもなかった、多くの菊の花に囲まれて、彼の笑った写真が見える。
その笑いはどこか引きつったようで、おそらくは笑えと言われて笑ったんだろうなと見る者に想像させるほど、不自然な笑みだった。
高く掲げられた段の前で、一人泣いている女性がいる。おそらくは彼の母だろうか。
父親の姿は、ここからは見えない。
参列者は数十人。決して多くはない。
しかし、彼の生前感じていたであろう孤独を考えれば、この人数は、むしろ多いと言っていいかも知れない。壇上の彼は相変わらず不自然に笑っている。
「全く、ご不幸なことでありました。」
誰かが、彼の母に弔いの言葉を投げかけた。
「いいえ...。」
母親は言葉に詰まった。
「交通事故、だそうで。あんな人通りの多いところでも、本当に、無責任な運転をする奴が....。」
「ええ...。ほんとに、不幸なことでありまして...。」
母親は答える言葉を持たない。
「ところで...。息子さんは、一体何をなさろうとしていたのでしょう?からだに...。無数の電気コードが巻かれていたとか....。」
遺留品に...。トイレットペーパーの、芯が....?
まあ...。
入り口付近に集まった夫人達の、ひそひそとした会話が聞こえる。
それは確かに、祭壇の前の母と男にも届いたが、母はそれを、努めて聞かないようにしているようだった。その様子を見て、慰問の男も、それ以上、彼女の息子の目的について聞こうとはしなかった。
慰問の男は彼の祭壇に手を合わせると、棺桶の小窓を開けて、その亡骸をのぞき込んだ。
「しかし、奇跡的にとでも言いましょうか、事故でご不幸に会われたにしては安らかな笑顔だ。まるで、こういっては何ですが...、幸せそうな....。さぞ、ご多幸な人生だったので、しょうな....。」
小窓の中の彼は、恍惚に浸った表情で眠っている。
男が、思わず幸せそうだ、と言ったのも無理はなかった。
誰の目にも、写真中の生前の彼より、それは確かに幸せそうに映った。
母親はその彼の亡骸をじっと見つめている。
そして、最後に彼のこうした笑顔を見た日のことを思い出そうと努めたが、それはいずれも、古ぼけた、あまりに幼い日の面影に過ぎなかった。
母は一人、涙に顔を伏せた。
男はそんな母を慰めるように言葉を掛けた。そして、祭壇の彼の遺影に再び目を遣った。
遺影の中に微笑む、引きつった笑顔の彼と、不意に目があった気がした。
男は人知れず、ぶるり、と身震いした。
2008年5月16日金曜日
Kid
少女の手を握った時、男はその小さな指先に、人間の感覚を覚えた。
ああ、俺は、ずいぶん長いこと、この感覚を忘れていた。
男は思った。
最後に触れた手は誰の手だったか。
今のように、必要に迫られて触れた幼い少女の手だったか、それとも、単に、コンビニの店員がおつりを渡す時、多すぎる小銭を落とさないように、そっと添えてくれた左手だったかも知れない。
いずれにしろ、俺は、この人の手の感覚という物を、もうずいぶんと長いこと感じていなかったようだ。
男は少女の小さな手を握りながら、そう感じていた。
思えば、彼は孤独な男だった。
数年前に、付き合った女性と別れたきり、彼は恋愛という物に愛想を尽かした。
それまで抱いていたその希望的な側面を正視できなくなり、その背後につきまとう利害関係と、別れ際の醜さから、彼は恋愛という塊が成長を始めるそばから、それをたたきつぶすように無関心を装い続けて生きてきた。
彼は、人と人が、精神的にある一定以上の距離に近づくことにすら、恐怖を感じていた。
ある一定の距離に近づいた時、人はそれまで見せなかった異なる一面を、彼に見せつけるかのように思われた。生真面目だと思っていた人の、面倒くさがりの側面。寡黙だと思っていた人の饒舌な笑顔。優しさの中の利己的な思惑。全てが、彼を幻滅させた。
人は、距離によって色が変わる。
彼はそう思っていた。
近づけば近づくほど、醜い細部が見えるような気がして、彼は何時しか、人という物に、出来るだけ近づかないようにしている自分に気づいた。いつも一定の距離を開け、そして遠くから人々を眺めた。たとえ話しかけられても、自らの内をさらけ出すことはせず、一歩引いて、その話しにさも関心があるような振りをしていた。
俺は一生、孤独なのかも知れない。
彼はある時からそう考え始めた。
誰にも頼らず、誰にも必要とされないまま、俺は世界の平行線上を生き続けるのだろう。
歴史に残る軸を中心とするなら、それとは一生混じり合うことはないと思っていた。世界のどんな流れも、人生の一般則も、彼に直接関係があるとは思えなかった。
幾つになったら家庭を持ち、子を産み育てる。そんなセオリーですら、彼には無縁だった。
唯、彼だけがいて、彼だけが死ぬ。
それだけのことだと、覚悟、していた。
だからこそ彼は、人に気兼ねなく、自分の好きなスタイルで生きようと決めていた。
週末には歓楽街に出入りし、その場限りの快楽を貪ることもあった。
しかし、将来に対し何を残すこともない彼には、そう言う一時限りの喜びこそ全てであった。
見たこともない未来のために今を捧げるより、今の瞬間を生きることこそが彼の生き方だと信じていた。
しかし、今、彼の連れている、この小さな少女は明らかに彼の力を必要としていた。
少女は涙ぐんだ目で、辺りの、原色もけばけばしい、ネオンを見つめている。
彼はそのいたいけな瞳から、出来るだけこの毒を帯びた陳列物を引き離そうと、その手を強く引いて歩いた。無数の裸婦像が、男を品定めするような女の瞳が、あるいは着飾った男の肖像が、彼と彼女を凝視していた。彼らはその中を、どこか目的地でもあるかのようにせかせかと歩いた。
この場所は彼にとって喜びを得るための場所のはずだった。
しかし、彼が少女の手を握っている今は、息苦しいほどに場違いに感じられた。
「お母さん...。」
少女は時折、思い出したかのようにつぶやく。
立ち並ぶ原色に縁取られた写真の中に、母の面影を見出したようだった。
「違うよ」
男は冷たくも取れるほどさめた声で、その子の言葉を断ち切った。
これが現実であるとは、現実であっても見せたくはなかった。
お母さんは、もっとちゃんとした格好をして、ちゃんとして、君を迎えてくれる。
迎えたがっている。
そう信じたかった。
彼が少女に会ったのは、とある性風俗店の狭い入り組んだ入り口から、外の通りへ出た時だった。
彼はいつもそう言う時、それまでのまやかしの幸福感から、現実の重苦しさと平凡な空気の中にたたき落とされる気持ちがした。全ては用意された夢なのだという、自分の行為の無益な結末を自嘲するような寒々とした心持ちがして、彼の高揚はいつも一気にさめてしまった。
少女はその店の入り口の電飾の派手にきらめく看板をじっと見つめていた。
どこにでもいそうな普通の、年はおそらく小学校の1,2年生だろうか。小さな少女が、目を大きく見開いて、看板に書かれた卑猥な漢字交じりの文言を必死に読もうとしていた。
「どうかしたの」
彼はその不釣り合いな光景にあっけにとられたままに、その少女に声をかけた。
「お母さんがいないの」
少女は言った。
「あたしを置いて、いなくなったの」
彼女の目は、何かを訴えかけるような物でもなければ、哀願することもない目だった。
しかし、その真っ直ぐに彼を見た丸い目は、現実を理解できないながらも必死に考えようとする、少女の駆けめぐるような思考がありありと浮かんでくるほどに切実だった。
「おかあさんが...。」
彼は今し方、自らの一部を差し込んだ、年かさの女をふと思い浮かべた。
そして、この場所と、この子の置かれた状況から、彼の脳裏にはこの子の出生と母に関する、ある一つの仮説が浮かんだ。しかし、それを認めるには、彼にはあまりに情報が少なすぎた。
「お母さん、もし、ひとりになったら、“ありす”って言うところのおじさんに頼りなさいって言ったの」
アリス。その名前には彼も覚えがあった。
この近所にある、バーの名前である。入ったことはなかったが、その前を何度か通りかかったことはあった。この様な歓楽街の中で、そこは比較的静かな場所で、大げさな飲酒に疲れた人々が救いを求めて立ち寄るような枯れた一角だった。
「そうかい」
男は言った。
「おじさんで良かったら、そのお店、知っているけど、連れて行ってあげようか」
男はそう言って、そう言ったことに、すぐに後悔した。
知らないおじさんについて行っていけないと言うことは、どこの親でもまず子に教えることではないか。何より、どうして自分がそんな面倒なことに首を突っ込もうとしているのか分からなかった。余計なことをしてしまった。男は言ってしまってから、そう思った。
少女は案の定、男の顔を見極めるかのようにじっと見ていた。
が、すぐに、その大きな丸い頭をこくりと縦に振った。そして、彼の左手に、その何も知らない小さな右手を預けた。
彼はこうも簡単に、見ず知らずの男に己を託してしまう少女の無知に悲しくなった。出会ったのが俺で良かったという、的外れな自尊心と、どういう教育をしているんだという、知らない親への怒りが同時にこみ上げてきた。
知らない人間に、己を預けてしまう、少女の無知な勇気。こういう場合に特有な、戦慄を帯びた使命感に、男は目が覚める思いがした。とにかく、俺がやらねばならない。男はそう感じた。
浅黒い男の左手に繋がれた、丸い小さな手。
男は、自らの汚らわしさを、急に感じる思いがした。
先ほどの行為の蒸れた匂いが、あるいは体液の香りが、まだ自分の周りに漂っている気がして、少女に対して、申し訳ないような気持ちになった。
何よりこの手はさっきまで....。
男はそこまで考えて、回想するのを止めた。
目的とする、“アリス”は、すぐ見つかった。
5階建ての古いビルの2階の奥に、その店はあった。
見かけ倒しの重厚な扉を開くと、そこはカウンターとテーブル一つしかない、小さなバーだった。カウンターの奥のひな壇に並んだボトルが、一斉に彼の方を見たような気がした。
「いらっしゃい」
髭の生えたマスターは、初老、と形容した方がいいような男に見えた。
髭の中に白いものが見えた。
マスターはグラスを丁寧に拭きながら、確かに、彼の連れた少女を見た。
「あの...。」
威厳のあるマスターに気圧される思いもしたが、男は左手の中の少女に勇気づけられるように言った。
「この子の母親を捜しているんですが...。」
「この子の?母親?」
マスターはグラスを拭く手を止め、額に皺を寄せて、彼を見た。そして少女をいぶかしがるように見た。
「君、名前は?」
「えんどうひかり」
少女は、はきはきと答えた。
「遠藤...。」
マスターは少し考え込むように宙を見上げたが、やがて彼女に視線を戻し、その顔をまじまじと見た。そして、それで何かの合点がいったかのように、頷いて、
「わかったよ。少し、此処で待っていなさい。お母さんはもうじき来るから。」
と言った。
そして男の方を見て、
「お客さんも、申し訳ないが一緒にいてやってくれませんか。この子のために。」
そう言うのだった。
男は、正直、もう自分の役割は済んだと思っていたので、このマスターの言葉は期待していなかった。少女と別れるのは少し寂しかったが、面倒とはそろそろお別れしたかった。
少女を見ると、彼の腰ほどの位置から、真っ直ぐに彼の瞳を見上げていた。
そして、彼の中指を、しっかりと掴んで話そうとしなかった。
自らの身体をぴったりと、彼の脚に沿わせるようにして立っていた。
「わかりましたよ」
男は観念したように、そう言った。
カウンターの一番奥まった位置に腰掛けた。
背の高い椅子には少女を持ち上げて座らせた。
マスターは彼女のために、グラス一杯のオレンジジュースを出した。
そして、彼の所には、柑橘系の香りのするカクテルを出した。
その小さな一杯を少しずつ舐めながら、男と少女は母の帰ってくるのを待った。
始め、店にいた客は彼らだけだったが、時間が経つにつれて、
店には数組の男女が来るようになった。
あら、かわいい。
女達は決まってそう言った。
男達は怪訝そうな顔をしていた。
こんな所に子供を連れてくるなんて。
大方、そう思っているのだろう。男には予想が付いた。普段なら自分が、向こうの立場なのだから。
だれだい、あの子。
一人で来た客の中にはそうマスターに尋ねる者もいた。
おそらくは常連なのだろう。木製ステッキを壁に預け、古い酒を飲んでいた、老紳士風の男だった。マスターが老紳士になにやら耳打ちすると、紳士は、ほう、と感嘆の声を漏らした。しかし、それきり、彼女を一瞥したまま何も言わなくなった。
更に時間が経つと、その老紳士も帰ってしまい、店には彼らの他、誰もいなくなった。
マスターは店の表に出て、表札を『Closed』に換えた。
少女はすでに眠っていた。椅子には背もたれがなかったため、こくりこくりと首をゆらし始めた少女を彼は抱き取って、自分の膝の上に座らせていた。子供の重みと、その暖かさに、子を抱いたことのない彼であったが、なぜか優しい笑みが漏れるのを感じた。あるいは、子供に対する優しさは、全ての人間の奥底にあらかじめ、すり込まれているのかも知れない。男はそんなことを考えながら、すやすやと寝息を立てる少女を支えていた。
女が現れたのはそれから更に数時間ほどした頃だった。すでに夜は明け始めていた。
がらがらとドアのベルが鳴り、駆け込んできた女には、男が予想していたほどの派手さはなかった。むしろ着ている物は質素に感じる程だった。しかし、彼に近づくと、女からは、強い香水の匂いがした。
「ありがとうございます」
慌てて駆けつけたのか、女の息は上がっていた。いつの間にかマスターが、連絡を入れていたのかも知れない。女は、母と言うには、まだ若い年頃のような気がした。男はすっかり眠ってしまった少女を、女に預けた。女は慣れた手つきで、その子を抱き上げた。
「本当にありがとうございます、このお礼は何と言ったらいいか...。」
「いいえ、いいんです」
男は言った。
「私も、滅多にない経験をさせてもらいました」
「お邪魔だったでしょう」
女は言った。美しい眉間にしわを寄せた。
「いいえ、この子はずっといい子でしたよ。」
男は言った。
「ずっと、お母さんのことを待っていました。」
女はそれを聞くと、先ほど男が、抱きかかえていた少女に対して浮かべたのと同じような笑みを浮かべた。そして、
「そうですか...。」
とだけ言って。抱き上げた我が子の背を優しく撫でた。
彼女はその後、二言三言話して、店を出た。
もう二度と、会うこともないんだろうな。彼はそう思った。
彼女の出て行った扉から、明け始めた朝の光が差し込んできた。
「もうこんな時間ですけど」
マスターが言った。
「よろしかったら、もう一杯、どうですか」
ええ、と言って、彼は受けた。名前も知らない、柑橘系のカクテルだった。
さわやかな酸味は、先ほどまで彼女の飲んでいたものと同じ、
オレンジジュースが使われているからかも知れない。
マスターは自分のグラスにも少しばかり、何かの酒を青いボトルから注いだ。
そして宝石色のマドラーで、静かにそれをかき混ぜた。
気がつくと彼もまた、あの母親と同じ笑みをうっすらと浮かべている。
この人は今、誰のことを想っているのだろう。
男は思った。
あの子だろうか。
それとも、彼しか知り得ない、誰かのエピソード。
いずれにしろそれは、幸せな思い出の一つではないかと男には想像できた。
あえてそれを聞く気にはなれなかった。
個人的な幸せは言葉にしても、大して面白く無くなってしまうことは、
痛いほど知っているつもりだったから。
男は先ほどまで彼の膝の上にあった、幼子の暖かさと重さを思い返しながら、
喉に下りていくシトラスイエローの冷たい感覚に酔いしれていた。
ドアの外では、朝を告げる雀の歯切れ良い鳴き声が、
アスファルトの裏通りに響いているのが聞こえる。
2008年5月11日日曜日
In the bowl (5)
僕と君の食卓はいつも、この小さなテーブルの上。
ブラウンの長方形に区切られた
閉鎖的な低い平テーブル。
その空間に並べられた僕らの料理。
生きようとする僕らの浅黒い意思の表れ。
人に絶望したことはあっても自らの命までは捨てきれない人間の。
しかし、僕らの皿にのせられた食事は、
いつもそんな動物的な要求を感じさせないほど優しい色をして
澄ましている。
生血に口を濡らし、肝臓をすする肉食獣と
毒の入った草を平気で毟り喰らう草食獣の間にあって、
僕らの食事はどうして、こんなにも優しいのだろう。
一杯のシチュー。
底の深い、白磁の皿に。鶏肉と、サヤエンドウと、
ちょっと大きめのにんじんとジャガイモ。
僕の切った野菜は、いつもなぜか大きくて、
小さくすれば、切りすぎると言われ、
大きければ大きいと言われ、
一度も、このシチューを褒められたことはない。
もちろん、それは以前の話だが。
今の彼女は、どんな僕の料理も、批評することはない。
ただ、おいしければ笑って、
おいしくなくとも、笑って、
食べてくれる。
それはうれしいことだけれど、
少し申し訳ない気もしている。
優しさは時に、僕らに苦い後味を残す事もある。
特に、純粋すぎる優しさは、甘くないことが多い気がする。
僕は彼女と一緒にいて、時々、その味を感じている。
それは決して、嫌なわけではないのだけれど。
シチューの傍らに
君の作った、ポテトサラダが一鉢。
僕がシチューに使ったジャガイモの余りを手に取ったので、
何を作るのかと思ったら、
案の定、このサラダを作った。
白い皿に並ぶ、二つの白い料理。
僕らを照らす白色灯。青白い冷光。
静かな食卓。
それはいつものこと。
低めにかけたラジオから、
静かな、控えめのメロディが切々と流れている。
静かな食卓に流れるメロディーは、
食事をさしおいて、食卓の空気を決めてしまうと僕は感じている。
上品な曲であれば、それは上品になり、
やかましければ、食べている気がしなくなる。
今、僕らの間に流れてくるこのメロディは、
明らかに、先ほどから、僕の注意をそいでいた。
僕らの食事には、この曲は、
あまりにしんみりしすぎているように感じた。
本来なら、僕は穏やかなトーク・ショーが聞きたい。
何をさしおいても、落ち着いた人の声が一番、食事の場には似合う気がする。
どんないいレストランでも、必ず人の声はするから。
むしろ、人の声を求めて、誰かと一緒に食事をすることがある位だから、
食事と話し声は常に対になる組み合わせなんだと思う。
でも、今の彼女に人の声は、
沈黙以上の苦痛をもたらすだろうとは感じている。
特にその声が周到に練られたものであればあるほど、
彼女の耳鳴りは次第にこめかみを締め付けるような苦痛を伴って
彼女に苦悶の表情を浮かばせてしまう。
だから僕は、ラジオの番組を切り替える代わりに、
僕の空いた左手で、
君の右手を掴むようにしている。
それは、言葉のない僕らの間をつなぐ。
食べるという作業につきまとう孤独を
少しでも癒してくれる、僕らなりの工夫。
利き腕を封じられた不自由な状態で、それでも
その手を払いもせず、左手でシチューを口に運ぶ君。
ぎこちないことには、僕の右手も同じ。
シチューを口に運ぶ度、ぴりぴりとしびれるこの右腕は、何を思っているのか。
口先で微かに震えるその先端の、乳濁したスープのどよめきを、
僕は時々見つめている。
不器用に進行する僕らの食卓。
この手を離すことで生じる、
向かい合っていると言うだけの孤立感が、
僕らには、なんだか、恐ろしい。
そんな恐ろしさの中で食事する位なら、
お互いの繋がっている感覚を保持したまま、
不便な食事を続けたほうが、まだ僕らの気持ちは救われる思いがした。
君と繋がれた左手が、
左手の面積以上の安心感を僕に与えてくれている。
左手から伝わってくる君の体温と皮膚の呼吸が
僕らの沈黙を和らげる。それによって確認する、君の確固とした存在。
これが、幻、ではないことの保証。
今の僕らに必要なのは、お互いに共有できる感覚。
たとえば、この皮膚感覚のように、僕らに残された感覚で、
僕らは僕らが未だ繋がっているという安心感を必要としている。
君は僕の手の下から、一度右手を抜き出すと、
僕の左手の上に、その右手を置き直した。
そして時折、思い出したように、
僕の手をさすりながら、食事を続けた。
言葉にならない不安に
君はいつも怯えている。
本来なら、一言、何か泣き言を発してしまえば、
それはそれで終わってしまうのだが
君はあの日から言葉を捨てている。
いずれにしろ、今の気持ちを素直に表す言葉など、
君には選べないのかも知れない。
あふれ出す言葉全てを吐き出すには、
あまりに細く、弱すぎる、その、喉。
全てを言い尽くす前に、それは灼けて潰れてしまう。
後には、言い尽くせなかったいくつもの思念が、
その胸にわだかまることだろう。
君はそれならばいっそ、黙り込んでいることを選んだのか。
君のしなやかな細い手は、僕の左手の上を、さっきから、
行ったり来たりしている。
その微かな感覚は、君の心の中で渦巻く不安を
象徴しているようにも見えた。
細い腕にかかる、押しつぶされそうな君の思いを
僕は確かに見た気がした。
僕は静かに腰を上げた。
食卓を回り込むように位置を変え、
そして、彼女の隣に座った。
窓を向いて座る彼女に並んで、僕も窓向きに座る。
カウンターに腰掛けた、いつかの二人のように。
あれは何時のことだったろう。
始めて、二人で会った日、だっただろうか。
取り残されて、右腕を失って間もない僕と、
両耳を失った君が、
傷口からの出血も十分に止まっていない状態で、
ぱっくりと開いた赤黒い傷口の深さに自分でも驚きながら、
まやかしのようにアルコールを飲んでいた夜。
それを思い出す。あれはもう、ずいぶん遠い日のことのように感じる。
あの時も今も、身体の側面に、
いつも感じている感覚は、彼女。
もたれかかるでもなく、
頼らないでもなく、彼女の重力が
僕の体の横で微かにふらついているのを、僕は感じている。
それはあのときと同じ。
君はあのときも、僕に頼るとも、頼らないともしなかった。
あやふやな軌道を巡る小さな彗星のように
常に大きな惑星の重力に翻弄されていた君。
僕がこんな窮屈を強いても、
君は何も言わなかった。
低いテーブルの間に、四本の脚を織り込んで、
僕らは二人折り重なるように、上手に体をずらしながら、
滑稽な食事は続いた。
思いの外冷たい彼女の肌。
温かいシチューもまだ、その肌には届いていない。
お互い顔をを合わせるわけでもなく。
窓の向こう。見えないいくつもの星。
地上に残る窓の明り
駅前の高層タワーのライトアップ、
そしてその頂上の衝突防止用の赤い明滅灯。
誰もいない空に、高層タワービルディングは
寂しげに空を見上げる。
月はない。
ここから見えるいくつもの窓の向こうに、
僕らと違った生活が、幾つもあるのだろうか。
あの窓の向こうには幸せが、
この窓の向こうには不幸が、
あちらには家族の肖像、
こちらには孤独の幻影。
いくつもの異なる生活が同じように照らし出す、
窓の明かり。無表情な星。
遠すぎる星の大きさは、僕らには分からない。
でもその中に、こうして並んで
シチューを食べているこの二人のように
失った部分を余った部分で埋め合わせながら、
かろうじてお互いを繋いでいるような、
不器用な恋が、他にもいくつか、あるのだろうか。
僕はそんなことを考えている。
彼女のシチュー皿から時折、かちゃかちゃと音が聞こえる。
僕の皿からも。
飲み込んだシチューのスープが僕らの喉の奥に
温かく流れ込み続ける。
ラジオからは相変わらず、場違いなメロディー。
傍らに感じられる彼女の重みが次第に大きくなってくる。
柔らかな肢体の中の硬質な悲しみ。
あふれ出しそうで、居場所を失った言葉。
行き場のない、その言葉の内圧に
彼女は破裂しそうになっている。
食事をしようと僕らが動く度、
机の上で、コップに入った水が微かに揺れる。
コップの水は揺れながら
それでも零れることは無く、
僕らの目の前で左右に危なげな均衡を保っている。
彼女がちょっと僕の方を見た。
流れるのは場違いなメロディー。
砕けたジャガイモ。なおざりにされたスプーン。
白い液体の上に浮かぶ色彩のオブジェクトは不安げに僕らを見上げる。
コップの水は更に左右に振幅を強めていく....。
ベランダ越しの遠い寂しげな高層ビルディング。
赤い明滅灯。誰もいない空。一様に無表情な幾つもの恋愛の形。
彼女は、隣に座った僕の胸に、その顔を埋めた。
小刻みに震えている、その小さな心臓。
両の手はしがみつくように、
僕のシャツの胸元を掴んでいる。シャツに刻まれる深い皺。
君に向けて流れ出すその陰影。
その爪の先が、奥まで突き刺さるような
痛みを胸に走らせる。
僕のシャツに冷たい感覚がしみ通ってきて
そこからゆっくりと広がっていくのを感じた。
僕は左手で彼女を支えている。
彼女の中から、この何か冷たいものが、
早くみんな出て行ってしまえばいいのにと、僕は思っている。
彼女はまだ震えている。
スプーンはシチュー皿の中で、先端を高く跳ね上げて転がっている。
コップの縁から静かに零れ落ちようとしている、一滴の雫。
それに映るのは逆さまの僕らの肖像。
濡れたグラスの表面を滑るように落ちて、やがてコップの縁を濡らし、
そして見えなくなった。
ごめんなさい。
彼女は言った。
僕の胸に顔を埋めたまま、
その声は僕の胸膜を直接震わせ、
そして心臓を握りしめた。
彼女の重みが僕の胸に全てかかってきているような気がする。
小さな身体にはあまりに重い彼女の
その身体に背負わされた記憶。
赤黒い魂の傷口。
僕は気が遠くなるような感覚を覚えて、思わず宙を見上げた。
人が見せるこうした、
動物的な、
あまりに動物的な仕草が、
人の感情を動かすことがあるのは、なぜなのだろう。
考えてみればくだらない、いくつもの物事。
でもそれは、同時に僕らにとって、あるいは生きることにも直結する、
切実な問題だったりもする。
サラダボールに入れられたままの、
彼女のサラダが目に入る。
そうだった。
君がポテトサラダを作るのは、何日ぶりだっただろう。
近頃はめっきり作る回数が減ってきていたのに、
久しぶりに君はこのサラダを作った。
君の作るポテトサラダにはいつも、
マカロニや、グリーンピースに混じって、
缶詰のミカンが入っている。
白いポテトサラダの中に、ポテトに埋もれるようにしながら
まぶされたミカンの果汁の詰まった水滴のような欠片が、
オレンジ色にちりばめられている。
僕は君と出会うまで、
ポテトサラダに缶詰のミカンが入ることを知らなかった。
...僕はうすうす気づいている。
君がポテトサラダを作るのは、
彼を思い出した時。
缶詰のみかんの入ったポテトサラダは
おそらく、彼の味なのだろう。
以前はこのサラダを、君は本当に良く作っていた。
だから僕は、これが、君と彼との思い出の味なのだと何となく
察していた。
今日君がこれを作り始めた時、
僕は彼のことを考えているのだと思った。
でも、僕にもそれを責める気はない。
僕の今日のシチューだって、
彼女との思い出がないわけではないのだから。
それを思い出さずに作っていたかと言えば、それは大いに疑問だ。
心のどこかで、彼女のことを思い出していた。
そうに違いないのではないかとさえ、思えてくる。
僕は、泣いている君を起こし、涙を拭いた。
そして静かに抱きしめてあげる。
人は、人と生きていると
どうしてこんなにいろいろなことが、
不自由になるのだろう。
もっと子供のように、
全てをありのままに、見つめて、
おもしろいか、おもしろくないか
そのたった二つの価値観で、生きていけたなら、
僕も君も、もっと
このポテトサラダと、シチューの味は
シンプルだと気づいただろうに。
君の掴んだ、僕の胸のあたりは、今もちくちくと痛んでいる。
拭き取った君の涙が、僕の指先で揺れる。
僕は君の顔を、正面で見すえた。
君は涙に濡れた瞳で、僕の目を真っ直ぐに見つめている。
泣いた後の乱れた呼吸が、僕の頬を吹き抜けていく。
嗚咽に揺さぶられる身体。上気した頬の色。
先ほどまでシチューを食べていた君の脣には、
うっすらと脂が浮かんでいる。
そんな表情のまま、君があまりに、真っ直ぐに僕を見るから、
僕は思わず、はにかんでしまった。
キスをしてもいいかとは思ったけれど、
その前に。
その脣を拭いて、
そして、
君の作った
ポテトサラダを。
柑橘系のその香りは
僕らの気持ちを少しでも
前に向かせてくれるだろうから。
先ほどまでびりびりとしびれていた右腕は、
微かに力を取り戻したようにも思える。
僕はその右手で、そっと、彼女の濡れた頬を撫でた。
ポテトサラダは食べないの?
僕がそう聞くと、
彼女は一瞬きょとんとして、
そして笑った。
泣き腫れたまぶたを時折
右手でこすりながら、
君はかつての思い出をその小さな手で装う。
2008年5月9日金曜日
Some, so formulaic (4)
太陽が落ちてから、
世界が本当に夜に浸るまでの、
短い薄明に、彼らは匂いの籠もった巣を這い出し、
おもむろに街に行き交う人々の中に混じる。
光源を無くした世界は、それでも太陽光の間接照明を受けて
薄明かりの中に微睡んでいる。
その時間には、影が消え、かといって、十分な明かりがあるわけでもなく、
深みを増す群青色の空の下、
夜にも昼にも属さない刹那の時間の中で万物が狼狽える。
それは彼らも同じ。
むしろこの混乱する時間にこそ彼らは、
何食わぬ顔をして、街のありふれた一員になることができる。
しかし、今、彼らのいるこの
巨大なアーティファクトの中では、
そんな薄暗がりなど、ほとんど意味をなさないのは事実だ。
現に彼女は暗くなり始めた世界の中でも、なおも明るく輝く、
店頭の楽天的な希望に満ちたショーウィンドウの先の未来を
次々と物色しながら、
灯から灯へ渡り歩く
夜の虫のように、
光を求めてうろついている。
その目は憧れる少女の瞳ではなく
儚むようなうつろな瞳。
届かないものを知ってしまった者の、
あきらめに似た。
店頭の希望に満ちたオブジェをいくつもいくつも眺めた後で、
その下に控えめに飾られた立て札の中の数字を
ちらりと見ずにはいられない
悲しい習性の虫。
希望を希望で終わらせているうちは、まだそれは美しい夢なのに
その数字は、彼らに、具体的事実でもって
その夢の入り口を指し示す。
光ばかりを追うこともないだろうに。
どうして人は、光を求めるのだろう。
光を、むしろ畏怖する彼らでさえ、
こうして夜の灯を渡り歩く。
彼は、彷徨う彼女の手を、付き従う一個の付随体として、
握りしめている。
この掌からこちらは彼、の領域。
この掌から向こうは彼女、の領域。
しかしもう長いこと、そうして繋いでいたので、
彼女の領域が次第に彼の方まで伸びてきて、
同時に彼の領域が彼女の方まで伸びて、
そのオーバーラップした領域から
彼女の生理的反応までもが
伝わってくるような奇妙な感覚に、彼は陥っていた。
手を繋ぎ続けた相手は、あるいは、もうすでに、
自分の体の一部になってしまうのかも知れない。
とすれば、失った物が感じる痛みが
時折、幻肢痛のように私の心を痛めるのも、
それは無理のないことなのかも知れない。
彼はそう思っている。
忘れたはずのささやきが耳元で聞こえる。
彼は思わず目を塞ぐ。
今の感覚を取り戻す。
取り返せない過去の幻のような曖昧なものなどではなく。
右手に触れるのは、彼女の冷たい左手。
嘗てそこには誰かとの約束があったが、
今ではそれも見あたらない。
彼に塗りつぶされた
凛として冷たい彼女の左手。
しかし、どうして、繋ぐのはいつも右手なのか。
それは彼には、今もって分からない。
彼の右手は、すでに、
彼女の一部と同化してしまっている。
これを失うことは...。
あるいは右腕を失うのに等しいのかも知れない。
彼らが身を寄せ合って生きている、
この、何時来ても知らない街のような顔をして迎える、
洗練された人工都市の片隅に、時折吹くのは、冷たいビル風。
人の間を抜けてきたその乾いた風が彼らを徐々に干上がらせていく。
水が、飲みたい。
彼は思う。
しかし、見渡してみても、
喉を潤す泉すら、この街は欠いている。
あらゆる所にはびこる、リスク・ファクターが、
彼らから泉を奪い、安全性の名の下に、
ペットボトル詰めの水を並べさせる。
塞がれた泉はそれでも、この乾いた街の底を
耐えることなく流れているのに、
人はその暗流に見向きもせず、
遠いアルプスの恵まれた土地の泉に口を潤す。
いつか泉はあふれ出す。
あるいは、地面を沈める。
彼は自分が、その時を心の底で待っているようにも感じている。
平常から路線を外れつつある彼らは、
もはや適度の混乱の中でしか、安心して生きられない。
平静の世界は常に無関心のようで、
言いしれぬ興味に満ちた眼差しを彼らに向けて、
そうして舐め回すようにじろじろ見ているような錯覚に、
彼らはいつも苛まれている。
常に付き纏う、その感覚。
それは幸せになるために、選んだ選択だったはずなのに、
結果としてみれば、それを心から満喫する気持ちは起きず、
ただ、街の目を避けて、
彼らの生きるのはいつしか、
こうして夜になった。
彼は、目を恐れている。
いつも目が、その周りにはあって、
あり得ない角度から、視線を送り込んでくるのを感じる。
ある時は正面。
ある時は頭上から。足下から、背中から。
しかし、どうにもやりきれないのが、
その目は、彼の心の中からも、
彼を覗いていると言うことだ。
こればかりは、どこに隠れても、どこに潜んでも逃れられない。
街は、目立とうとするものには冷笑と無視を与えるが、
目立ちたくないと祈るものには、残酷なほどの興味を向ける。
彼は...、
いや、ひょっとすると彼女も、そうした
ほとんど錯覚と言っていいほどの
自意識の嵐に
頭を抱え、
目をつむり
太陽を避け、
しかし、だからといって、
二人離れてしまうことも出来ず (なぜだ?、と彼は自問している)、
むしろ、二人の間に風の吹く
谷間を少しでも埋めようと、
常にどこか繋がっていることを必要としている。
彼には、もうおそらくは会うことのない、友人の声が聞こえる。
では、なぜそうまでしてこの道を選んだのだ、と。
それは...、
彼には答えられない。
あの頃の彼には、確かな結論があった。
しかし、少なくとも
それは今の彼の中では揺らいでしまっており、
結論と言うのが恥ずかしいほどに、根拠のない
妄信と言ってもいいものに変わってしまっている。
それは、それを信じていなければ、今の彼の生き方に、
なんの筋道も見いだせない気がして、その深く暗い泥の中に
埋もれてしまいそうな恐怖を感じるから、
その川に浮かぶ浮き草のような結論に
しがみつかずにはいられない、と言うだけのことだ。
結論という、言葉の形を取らせているのは、
それは常に説明できる形にしないと怖いからだ。
彼は何より、自分自身に対する説明を
常に必要としている。
本当なら、もっと、
素直に生きたい。
彼は思う。
愛すべき人を、何のはばかり無く
愛し、供に笑うことが、
今の彼には何と尊いことに思えるか。
彼女は...、
あんな事のあった後だというのに、彼には、元気を失ってはいないように思える。
あるいは元気にしている振りをしているだけなのかも知れない。
彼女は日に日に痩せてきた。
明らかに分かる。
まだそれほど老け込む年でもないはずなのに、
腕の血管がはっきりと浮き上がっているのに彼は気づいている。
その笑顔を裏打ちするものが、彼女自身も目を背けてしまうほどの
暗い闇であることが、彼の目にははっきりと見えている。
彼女がどんなに笑おうにも、
はしゃごうにも
高い声を上げても
彼は、余計惨めな気持ちになるだけだった。
多くの犠牲を払って得た、彼女との時間を
少しでも満ち足りたものにしようと、
彼らは何度もお互いを確かめ合い、
距離を縮め、
呼吸を縮め、
凍える心臓を摺り合わせるように、
毎夜眠った。
ねえ。
彼女は言う。
真っ暗な、闇に紛れて。
皮膚と温度だけになった存在で。
私たち、今、
幸せかしら。
彼は、すぐには答えられない。
暗い、暗い闇の中。
定かに見えるはずもない彼の瞳を、のぞき込むように見つめている彼女。
それを正面から捉えることが、彼には出来ない。
彼女の目の光だけが、闇に浮かんで見える。
その瞳は至って切実だ。
冗談や、はぐらかしなど通ぜぬ、差し迫った目。
彼女は息を止めている。
息を止めて、答えを待っている。
答える勇気は彼にはない。
彼の舌は乾き始めている。
しかし、意を決して、彼は自虐に満ちた言葉で答える。
「幸せさ。」
彼は思い出している。
昔の私には、もっと言葉があった。
しかし、
今の私に使える言葉は、何と少なくなってしまったことか。
嘘を吐くことすら、造作もないほどの語彙があったはずなのに、
今となっては、こんな見え透いた
言葉を一つ吐くのにも不自由している。
私は君達とともに、
自分自身の言葉も、失ってしまったようだ。
彼はそれ以上の言葉を吐くのが億劫になり、
彼の答えに満足できずに、顔をのぞき込み続ける彼女の脣を、
半ば強引に奪った。
彼女はそれでも、その奪われた脣の奥で、何かを言おうとしているらしかったが
彼の舌は絶え間なく、その言葉を封じた。
やがて、彼女も察したように
静かに、それに従った。
彼は気づき始めている、彼らに用意された言葉はもう無いのだと。
言葉の多くは、理性の産物だ。
理性を裏切り、情に従った彼に
それを弁解する、言葉など
もう、あるはずはないと、
彼は諦めて仕舞った。
先ほどまでのアルコールの香りが、
まだぷんと香っている。
酔っているんだ。
彼はその事実に
勇気づけられるように、
彼女の上に覆い被さる。
彼はそうして、二人が一つの対である感覚を得ようと
彼女に求め続けるのだが、
近づけば近づくほど、
彼らの間に立ちふさがる
皮膚の分厚い壁を
意識せざるを得なかった。
その皮膚を突き破る糸口を探して、
彼の指は、彼女の本来薄いはずの皮膚の上を
いつまでも、虚しく滑った。
彼は思う。
最初の夜より、
彼女は今、確実に遠くなった。
それは、彼らの切実な祈りに反して
流れ去る、二つの流氷のように
次第に大きくクレバスを広げながら
不運にも、異なる海流に乗って離れていこうとしている。
近づこうと、彼らはお互い手を伸ばし続けている。
しかし、いずれは、それにも疲れてしまう日が来るのだろう。
その時、どちらが先に、その伸ばした手を下ろすのか。
彼はその審判が下される日を恐れている。
もし私と出会わなければ、彼女も、君ともっと幸せに暮らせていたかも知れない。
彼は時々考える。彼の、もう会うことのない友人のことを思っている。
でも、考えようによっては、この選択をしたのは彼女でもあるのだから、
我々は同罪者として、同じ法廷に立つべきなのだ。
陪審員として、君達の裁く法廷に。
皮肉な笑みを浮かべながら、
私は自己弁護するだろうな。
彼はそう思うとすでに、皮肉な笑みを浮かべているのに気がつかない。
もはや、空論に過ぎなくなった
私の言葉で。
その時、私に、いくつの言葉が味方してくれるか、
それは定かではないが。
強がりを言うようだが、始めて彼女にあった時、
すぐに恋に落ちたわけではない。
その時私には、
私の女がいたわけだったし、
彼女とはそれなりに、うまくいっていたから。
しかし、
その後、偶然に彼女に再会し、
少しばかり、話をしているうちに
私たちは旧知の知り合いのような馴れ馴れしさを
得てしまったのだ。
彼女の体を知ることには、
不思議と、何の抵抗もなかった。
知り合いの君の、彼女と言うだけなのに
どうしてこうも、気ままなまねが出来たものだろう。
今となっては不思議だ。
魔がさした、そう言ってしまえば、そうかも知れない。
彼女はそれほど魅力的に当時の私の目に映った。
多少痩せてしまったとはいえ、それは今でも、色あせてはいない。
しかし、その一瞬のはずだった出来事が
私達にとって、今の逃れられない日常になってしまっている
この残酷な現実。
おそらくは彼女も、同じ思いだろう。
私達は一時のスリリングな戯れ事を終え、離れた後も...、
離れられなくなった。
そうして...。
私は、いつの間にか、言葉を捨てていた。
彼は懐から一箱のたばこを取り出し、
うつむき加減に、そのうちの一本に火を付けた。
紫煙の向こうに彼の表情が翳る。
今の自分たちに起きている現象を
説明しきれない言葉など、
もはや無意味だと、彼は悟ったのだ。
しかし、罪悪感に苛まれた日には
彼はそれでも言葉にすがろうとした。
この呵責を丸めて表現してくれる、
矮小化してくれる、
言葉の魔力に
彼は再び頭を垂れて懺悔しようとするが、
それは、言葉に、やはり、ならないのだ。
思い通りに行かない交接のようなやるせなさが、
彼の中にわだかまって、
彼はいつもそのような時には、自嘲気味な笑みを浮かべた。
私は言葉を探している。
理性を裏切った私に、
それでも手をさしのべてくれる、
慈愛に満ちた...、悪魔の、呪文を。
たばこの先が、いっそう赤く光る。
煙が、ゆるゆると彼の口からあふれ出していく。
彼女は、まだ見つめている。
ショーウィンドウの向こう側。
ウェディングドレス。
ハネムーン。
リング。
ダイヤモンドは永遠。
空虚な響き。
しかし人は、刹那を生きる。
私であれ、君であれ、
あのときの永遠は、今、どこに行った?
ショーウィンドウの向こう側。
普通の恋人達にとっては当たり前の、
行き着く先にある品々が、
彼らの流される先にある未来には存在するかどうかも、疑わしい事を
おそらく彼女は、彼以上に承知している。
ショーウィンドウのなかで、
マネキンは微笑んでいる。
樹脂の瞳を空に向けて、
口元も涼やかに、
白鑞の腕は腰元。
夢を見続けていれば、
いつかは人も、こうなってしまうのだろうか。
彼女は思っている。
樹脂の動かぬ瞳は
ショーウィンドウの外の、くたびれた二人には目もくれず、
作られた当初に設定された方角を見つめ続ける。
その見つめる先では、一筋の飛行機雲が、
長々と、細い二列の平行線を残して、
やがて、いつもより遠い色をした空に吸い込まれて消えていく。
2008年5月8日木曜日
Crescent drown in glass (3)
僕と君が失った物が、本当に
右腕と、両耳だけであるかは、
考えてみると、疑わしくも思えてくる。
僕らはそれ以上に、何か大切なものを、永久に、
失ってしまったような気がするのだが、
それが何であるかを具体的に見出すことはできずに、
ただ、身体的なこの欠失感を、
あたかも、僕らの、あの時失った物であるかのように
錯覚しているだけなのかも知れない。
少なくとも、僕には利き腕を通して、
君を感じることは今もって出来ていないし、
君が、僕の話に、注意深く耳を傾けてくれることは
期待できない。
何かを失った物同士が、どうして、
吹き溜まる落ち葉のように、街の片隅に
身を寄せ合って暮らしているのか
僕にはまだ、確かな答えは見いだせていない。
君は、冷たいフローリングの床にひたと座り込み、
ベランダ越しに月を見ている。
魂を失った抜け殻のように、月を見上げるその姿は
この世界という呪縛から、自らを抜け駆けさせる術を、
空を巡る月に求めているかのようにすら見える。
僕はこういう時、いつか君に、僕一人、置いて行かれるのではないかという
恐怖を感じる。
君の中に、僕がどれほど認識されているのか、
僕にはまだ、はかり切れていない部分がある。
君にとって、僕が無二だという確証は
未だに僕は得られていないように感じている。
おそらくはどれほど求めても、それは永遠に得られない
幻のような理想なのかも知れないが、
それでも僕は、君との関係を信じるにたる
何かを求めずにはいられずにいる。
世界から、言葉を失った君は、
おそらくは此処に生きているという実感の半分ほどを失ったに等しいのだろう。
小さな頃から、耳が聞こえないならともかくとして、
君は自分の耳を、そこから入ってくる言葉を
もはや信じようとしなくなっている。
言葉を信じない君に
僕は、何を持って、僕を伝えればいいのだろう。
僕の右手は依然しびれに似た感覚を持ったまま
君に優しく触れることも叶わない。
ともすれば、それは粗暴になりそうで、
ともすれば、虚しく空を切るだけに終わりそうで、
いずれにしろ、僕は君に、優しく触れる事すら叶わずにいる。
どう触れようにも、僕の頭には
過去の傷口から、浸みるような痛みが、
右腕で君を触れる度に蘇ってきて、
そうしてそれは、いつまでも、僕の中にうずいている。
君もそれは同じなのだろう。
僕のささやく言葉を聞く度に、
君は青ざめた顔をして、
そしてやがて、我慢ができなくなったように、
そっと僕の口に、君の人差し指を当てる。
言葉がむしろ僕らの気持ちを虐げてしまうとでも言うように、
君は言葉を遠ざけようとする。
僕は夜になり、
失った感覚以上に、光まで失う時間になると、
君を見失う恐怖が、よりいっそうに強くなるのを感じる。
こうして、ぼんやりと月を見上げている君は
僕からすでに、遠くへ行ってしまった存在のようにも思える。
開け放たれた窓から、
湿った夜風が吹き込んできた。
窓のカーテンが内向きに揺れる。
君はまだ、月を見ている。
手には両手で抱えるようにして
小さなグラス。
食事の終わった後の、一杯の水。
すでにそこに注がれた時の温度を離れ、
君の掌の冷たさに染まっている。
口を付けて、半分ほどにまで減った水は
頭上の弦月の光を受けて、
かつての海原を思い起こしたかのように、
前後にさざめく。
その一向に落ち着かない水面に、月の光と、
君の面影が揺れている。
遠くで、誰かが歌っている。
と、思うとそれは、君の歌だった。
君は、小さな声で歌っている。
僕も知らない歌を。
それは幼い日の、思い出の歌なのか。
それとも...。
いずれにしろ、まだ彼女に、今より素直な聴力のあった時代、
それは彼女の脳裏に刻まれた、今となってはかけがえのない音の記憶。
君は小さな声で歌っている。
かすれて消えてしまいそうな小さな声で。
ともすれば夜の闇に紛れてしまう、
その微かな歌声は、それでも
僕の耳に静かに流れて来る。
君は、何に向けて、歌っているのか。
この空の月か。
傷つくことを知らなかった、かつての君か。
それとも、この歌を教えてくれた、また別の誰か。
おそらくは君自身にも、君の歌は届いていない。
それは君から発せられ、誰にも届かず消えていくため息。
暗くなり始めた蛍光灯の下で
君はまだ冷たい床に座り込んだまま、
月を見上げ歌っている。
小さな肩が、震えているようにも見える。
恐ろしいほど小さな背中に
酷いほどの暗い夜が背負わされているのを感じる。
君はつぶれそうになっている。
その二本の脚で、明日も、立ち上がることができるのだろうか。
それすら、今の僕には疑わしい。
いつか、君はその脚までも、
夜の重さに砕いてしまうのではないだろうか。
夜の光が、君の頬を照らす。
君はいつしか歌うことを止めた。
しかし、依然として、月の返事を待つかのように、
彼女はじっと瞳を夜空に向けている。
グラスの中に、小さな波紋が立った。
同心円状に立つ波紋は
その中心に落ちた雫の
疑うべくもない一列の名残。
波紋はやがて重なり合い、
幾重にも連なって、
そうしてコップの縁へ
吸い込まれるように消えていく。
君は身じろぎもせず、月を見上げている。
収まる気配のない波紋の列は、
君と月の横顔を絶えず乱し続けた。
君の嗚咽が聞こえる。
それすら、夜の闇には
あまりに弱く儚いものだ。
月は気づかない。
僕らが、月に泣いていることすら。
この暗い闇の中で、何を、見ればいいのか。
彼自身は、あんなにも明るく、輝いているのだから。
僕は、月を見上げる彼女から、
そのグラスをそっと奪うと、
残った水を静かに飲み干した。
口の中を潤すのは
冷え切った彼女の温度。
もはや、凍えているとしか、
形容のしようがないほどの
その冷たい感覚で、僕の喉が濡れていく。
先ほどまで月を見上げていた色の未だ褪せていない彼女に
彼女の温度に濡れた舌で、できる限りの僕を、伝えた。
失った右腕はしびれて、うずくような痛みを
僕の神経に訴え続けた。
君の聴覚を襲う耳鳴りが
僕の耳にも
遠く届いてくるような、気がした。
傍らに打ち捨てられたグラスは
更に冴え冴えと輝き始めた弦月の冷光を浴びて、
青白い光に砕けている。
2008年5月6日火曜日
Phantom calling (2)
その喫茶店は、小高い丘の始まるちょうど手前に広がった、
林立するポプラの木の向こうに、隠れるように建っていた。
一見すると作業後屋のようで、
しかし別な面から見るとしっかりと土塀も塗ってあり、
木製の表札が慎ましやかに、その屋根の下を飾っている。
近づくとコーヒーの香りが様々に僕らの脳裏を刺激し、
幻想と恍惚とが入り交じったその、魔力のような匂いの中で、
僕らは体を無くした二つの霊魂のように寄る辺なく、
吸い寄せられるように入り口をまたいだ。
立ち寄った時間のためなのか、
人影はまばらで、
そうした喫茶店が常にそうであるように
店内も、テラスも、
適度な無関心と沈黙とに満ちていた。
足踏みするようなピアノ曲が、静かに流れている。
鍵と鍵の間に時々聞こえる、内に篭もる様なウッドベースの低いリズム。
大きな窓から突き刺さる、十分な太陽光線。
薄い黄色を帯びた窓のガラスのおかげで、それからは憑き物の、
棘のように鋭く網膜と精神を焦がす、青色系の光が失われ、
穏やかな丸みを帯びた暖色のささやきが踊っている。
翳るようなテンポを刻むのは、おそらくは穂先のような
スティックを操るドラムス。
年輪の見える大樹の輪切りのテーブル。
切り口に厚く塗られたニスはなめらかに磨き上げられ、
窓硝子から差し込んでくる光を
鈍く反射している。
室内に満ちる、木の香り。
呼吸。
ベージュ色をした空気が、長らく息つくことを忘れていた僕らを、
当然のような顔をして、迎えてくれた。
いらっしゃいませ。
まだ若いマスターの、
落ち着ききらない声。
だが、彼の横顔には、日に焼けた農家の青年のような
空と大地とを相手に生きる人間特有の古木を感じさせる風格が、
すでに現れ始めている。
僕らはその屋内を通り、涼やかな高原の風の吹くテラスに出て、
外の空気を吸いながら、
ポプラの梢の揺れる音を聞いた。
そこは、家と同じ木材を四方に組み合わせて作られた、テラスだった。
来る時に見た並木のちょうど影になり、
梢に遮られた光が、
僕らの机の上で楽しげに揺れた。
人語を遠ざける君にも、
あるいは人語を遠ざけているからこそ、
こうした自然のささやきには敏感であるのか、
君は見るからに色めきだった瞳のまま、
何もなくなってしまった空に吹く
一陣の風を見遣った。
そうしてふと、我に返ったように僕を見て、
その先ほどの輝きのさめやらぬ眼差しを
惜しげもなく僕に送った。
口角を横に引き延ばし、
口元だけが、ほとばしるように笑みを浮かべていた。
その少女のような、縛られることなく、愉悦する表情の上を
ポプラ並木を吹き抜ける風は、もう一度、からかうように滑っていった。
その喫茶店のメニューには
店長のこだわりだという、様々な名前も知らない国の、コーヒーが並んでいて、
僕らのもとに水を持って生きた店員は、その膨大な羅列を提示しながら、
どれになさいますかと、聞いた。
この様な喫茶店に来ておいて、
それは滑稽にすら思われるほど、矛盾することではあるのだが、
僕も、君も、
コーヒーという飲み物には、実は正直疲れていた。
それは、恋愛という現場の、実に様々なところに現れ、
その都度、涙も、一人芝居も、見てきたはずなのに、
いつも知らない顔をして
白いカップに収まっている。
ポーカーフェイスの悪党のように、その香りは官能的なのに、
いつもその熱を忘れさせるほど涼しげに、僕らの前に現れる。
そうしてそれは口に含む度、
ぬか喜びと一人芝居と、
涙の複雑な味を僕らに鮮やかに想起させる。
僕らはもう、コーヒーをコーヒーとしては味わえなくなってしまっている。
それは純粋に味わうには、あまりに、知りすぎた味なのだ。
だから、コーヒーを出す店にいながら、
僕らはその事実を避けていた。
でも、この店には、コーヒーの他にはアクリルのコップに入った水位しか、
出す物がなさそうだった。
僕らはそれで、折衷案として、
できるだけ、僕らの知らない国のコーヒーを頼んだ。
中南米のありふれた名前のコーヒーでは
僕らは正直怖かったのだ。
やがて銀の盆にのせられ、
いそいそと僕らの前に、
そのコーヒーは運ばれてきた。
東アジアの
コーヒーの飲み方をおそらく覚えたばかりの国の
旧植民地のコーヒー。
それはコーヒー栽培の後進国でありながら、
育ってしまえば同じ植物のようで、
幾分かの香りと味の違いはある物の、
やはり暗い褐色のポーカーフェイスの飲み物には相違なかった。
苦いコーヒーを飲みながら、
時々、舌を洗うように飲み込む
アクリルグラスに水を一口。
さほど冷たくはない、しかし、体温を適度に下げる
15℃の感覚。
その温度の精妙さに、僕が思わず微かに独り微笑むと、
同じように微笑む君に目が合って、
僕らは小さな机にコーヒーを挟んで、
二人、声を立てずに、笑った。
高原には、何もなかった。
収穫の季節でも、種まきの季節でもないこの初夏の一時期には、
そこは人影もなければ、
土を耕すトラクターの音もない。
風の潤す沈黙が広大に広がっている。
夏のこの一時期、
高原の主役は、この一陣の風なのだ。
彼らだけが、
この大地の起伏に沿って低く広がった緑の中で、いつも絶え間なく動き、
ジャガイモのつぼみを揺らし、
そばの花に陰るような笑顔をもたらす。
そして、温度から温度へと、彼らは熱を運ぶ。
僕らの上を吹きすぎた風が、そのまま
小高い丘を吹き上げて、
広いそば畑を揺らしていく様子を
僕らは木陰のテラスにいながらありありと
見て取ることができた。
自分たちと、世界との間に、なんの垣根も存在しないことを
風は嘲笑うように、
何度も、何度も、そうした悪戯のような行為を、僕らに見せてくれるのだった。
ついつい、二人の閉鎖的な世界にこもりがちの、
恋愛という視野狭窄に陥り、
それから立ち直る術を模索し切れていないまま、
新たな恋愛に戸惑っていた僕らにとって、
この風の無邪気としか言いようのない悪戯は
僕らに世界の広さを思い出させてくれるのに十分すぎるほどの微笑みを作った。
いつしか、一杯のコーヒーも底をつき、
そうして、しばらくの時間が、また重ねられて過ぎていった。
こうしている僕らの間に、いつも不思議なほど、言葉はない。
それは、言うまでもなく、
上っ面だけの見え透いた言葉に
全てが言い表されてしまうむなしさを
味わい尽くした、君であったから。
表現すると言うことは、
表現できなかった、他の多くの思い出を
全て捨て去る作業であるという
その悲しさに、
僕らはもう、絶えきれずにいたから。
僕らはもう、時々発作的に浮かんでくる、
二人の間の微笑み以外に、
必要とする交流を、
持てずにいる。
吹き抜ける風は、
その不自由に縛られた僕らの上を、
何不自由なく駆け抜けていく。
温度から、温度へと、
彼は単純な、
しかし、深遠な法則に従って
ありのままに、熱を伝える。
一杯のコーヒーと風の悪戯と
高原の気候と、そうして、音もなく降り積もる
ひとときの時間の中で、
風に揺れる抜け殻のような僕らはそれでも充足した何かを感じている。
それはあるいは、二人顔を見せつけ合って、
語り合うより雄弁に
二人の距離を確実に、近づけてくれているように想っている。
長い沈黙の中で、
それぞれの中に篭もり始めた行方を知らない小さな熱は
時々吹き抜ける小さな風を
僕らの間に必要とした。
それが、二言三言の、小さな言葉になり
そして、ため息になり、
時折、零れ出るような微笑みに変わる。
そうして、乾き始めたコーヒーカップを見ながら、
僕らは二人の何か大きなものが欠落した時間を静かに満たしていく。
耳鳴りも手のしびれも、依然として僕らの深い所に
巣くってはいたが、
失った物をぎこちなく補いながら
それでも残った方の手で、
残された感覚で、
僕らは僕らの時間を刻むのだ、
僕は左手で彼女の手を取った。
そして彼女が振り向くのを待って、一言、
もう、行こうか、
と言った。
君は、僕の目を見ると、
僕の左手に空いた方の手をのせて、包み込むようにしながら
微かに笑って、
小さく、頷いた。
2008年5月4日日曜日
Phantom pain (1)
君は、いつも僕の右手と、
君の左手を、繋ごうとした。
でも、どうして、いつも右手だったんだ?
君が、あんまり、僕の右手にばかり、
君の思い出を残すものだから、
君と別れたあの日から、
僕の右腕は、永遠に、
僕から失われてしまった。
今、僕は、彼女と並んで、電車を待っている。
地方鉄道の列車は、
客を乗せることを放棄したように、
思い出したようにしか、僕らの前を通り過ぎない。
その、時折通り過ぎる、
そして僕らには目もくれず、全速力で通り過ぎる
いくつもの、快速列車と、特急列車を見送りながら、
僕と彼女は初夏の日差しの中、
駅に張り出した庇の薄暗い影で、
未だ来ない、各駅停車を待つ。
この土地に画に描いたような田園風景を
期待していた君は、
その意外に商業的で、
何台もの観光バスが行き来する“ファーム”の入り口に、
辟易していた様子だった。
そして、そうした現実的な人足の羅列に背を向けて、
誰もいない方へ、いない方へと、
二人並んで、田園を横切る、舗装された広い農道の片側を
とろとろと歩いた。
幸い、僕らの目指す、
その一軒の喫茶店は、そうした、駅近くの商業的ファーム群から
さらに離れた場所にあった。
目的地周辺の、人影もまばらな静かな佇まいに、
僕らは今まで胸を縛り付けていた何かが、
僅かにゆるんだように感じて、ほっと安堵した。
あたりには唯、見渡す限り、そばの白い花だけが揺れている。
もし、死後の世界という物があるとしたら、
きっとこういう世界だろうと、僕は内心思わずにはいられなかった。
その彼岸の国のような静かな大地を、僕と彼女は手を繋いだまま
歩き続けた。
低すぎる人口密度は、人を不安に感じさせる物らしい。
都会の高密度な生活を嫌っていながらも、
その中で毎日を送ってきた僕らにとって、
この、見渡す限りの視界にほとんど人影の見られない世界は
僕らを次第に、そうした不安に陥れた。
君は寂しくなると決まって、
僕の右腕に、手を伸ばす。
そして僅かな力で、僕の右掌に、それを密着させる。
小さなひんやりとした、その左手。
でも、その感覚は、実際には
僕の心に、もはやなんの感情も、
蘇らせてはくれない。
僕の右腕はすでに失われているのだ。
以前付き合った彼女と、突如として、別れた、
あの日から。
今、君が、いくら、その形の良い手を
僕の掌にすりあわせたとしても、
また、僕がどれだけ、この右腕で君を求めたとしても、
その感覚は、僅かなしびれに似た感覚を僕にもたらすだけで、
本来それに伴うはずの、精神の高揚と安心感すら、
僕には一切、わき上がっては来ないのだ。
君はそれを知っているはずだ。
しかし、君はそれでも、僕の右腕に、手を繋ぎ続ける。
それが、一つのリハビリであるかのように。
あるいは....、
それはあるいは、以前の彼女、に対する、
ささやかな挑戦、なのか?
いずれにしろ、僕の希望とは裏腹に、
僕の右腕は、まだ、君の手の感触に対する素直な感動を
僕に伝えては呉れない。
ただ、しびれに似た冷たさだけが、僕の感覚神経を逆なでしている。
左手に繋げば、まだ、もう少しは僕に、
切実にそれは訴えてはくれるだろうに、
君にいくら言っても、それを聞き入れてはくれない。
その理由を僕は、知らないわけではない。
僕が右腕を失ったのと同じように、
君は、二つの耳を失っていたから。
そんな君に、もとより僕の言葉など、
届くはずがないのだ。
以前付き合った彼は、
とても話のうまい、男だった。
口先だけでなく、実際にも品行が良く、
その時々に漏らす一言一言の言葉の中に
君はまだ見ぬ人生の一端を、
一つの視点を見出して、
その小さな啓蒙の一つ一つに
何も知らない、幼い君は酔いしれた。
なんて、賢い人なのだろう。
年上の彼への憧れと、恋の狭間に、垣根を作ることを知らなかった君は
その憧れを、恋と思いこむ日々を重ねた結果、
それはいつしか、本当に、恋に変わっていた。
彼との時間の密度が増し、
その言葉を、もっと間近に聞くようになって、
君はますます、その一言一言に酔いしれた。
見る世界が変わり、
考えが変わり、
陽気な君に落ち着きが加わり、
笑顔の中に、微かな悲哀が混じった。
君は明らかに、子供から、一人の大人の女性へと
彼の言葉を浴びながら、脱皮しようとしていた。
僕が始めて君と出会ったのはその頃だった。
彼が紹介してくれた君は、
すでに彼の言葉の渦にしっかと飲み込まれていた。
おそらくはその時が、君が僕の以前の彼女と出会った最初だったはずだ。
君はどういう感想を抱いただろう。
それを聞こうにも、君には僕の声は聞こえないのだから、
きっとそれは、不可能なことなのだろうけど。
君が別れたのは、それからさほど日にちの経過しない、
ある日のことだったと記憶している。
品行方正を是とし、そこから生み出される言葉を君に浴びせかけていた彼の
突然の脱走。
相手の女性は、僕の“知り合い”だった。
だから、僕はよく知っている。
それは、僕の失われた右腕の最後の感覚として、
今も、夜ごとに蘇る、幻肢痛でもある。
ともかくも、
僕は、右腕を失い、
君は耳を失ったまま、取り残された。
彼の甘く、深い言葉を浴びすぎ、
心酔したあげく、それに混じった毒素にやられた君は、
もはや、誰の言葉も、
聞き入れることはなくなった。
ただ、うつろな笑顔で、
僕の話にも、空回りのような相づちを打っているだけだ。
そうして、時折ぼんやりと外を見ては、
何もない空間の中に
何かを見つけていた。
君の目は、やられていないはずだった。
だから、おそらくあれは、ぼんやりと何かを見ていたと言うよりは
時々聴覚を乱す耳鳴りに、
君なりの対処法で答えていただけなのかも知れない。
何かの、ほんの小さな助詞の一句にでも、
君は彼からすり込まれた、
長く、甘い警句を思い出し、
その幻聴のもたらすしびれに
君も立ち向かっていたに違いない。
僕の言葉など、君に届くはずもなかった。
ありふれた大衆品のような僕の言葉とは違い、
彼の言葉は研ぎ澄まされていた。
そんな洗練された言葉を、毎日のように浴び続けた君には
粗悪な僕の言葉などに、反応する神経は、もはや残っていないのだろう。
純度の高い言葉は
まるで麻薬のように、僕らの神経を冒す。
君の時折見せるあのおぼろげな笑顔は、
その禁断症状に疲れた
あきらめの表情なのだろうか。
言葉が氾濫する時代の中で、
明らかに君は疲れていた。
その疲れた精神を休ませるのは
誰もいない、人語のない、
遠く、広い、田園のはずだった。